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加藤周一『日本文学史序説』(3)

二.加藤周一の問い

 1951年から55年までフランス政府の半給費留学生として渡仏していた加藤は、帰国後まもなく「日本文化の雑種性」(1955)という文章を発表する。有名な加藤周一の「雑種文化論」を、ここで仮に同論文にはじまり「雑種的日本文化の希望」(1955)や「近代日本文化史的位置」(1957)といった50年代における加藤周一の日本文化に対する言説として定義すれば、その問題意識とは「キリスト教圏の外で、西ヨーロッパの文化がそれと全く異質の文化に出会ったら、どういうことがおこるか」[i]という問いに尽きる。重要なのは、加藤周一のこうした問いが戦後デモクラシーに対する問いかけとして存在するという点である。少し長くなるが、加藤の問題意識がよく現れているので、「雑種文化論」における加藤の主張を適宜抜粋しながら見てみよう。加藤は次のように述べている。

 

今仮に人間の自由・平等の自覚と社会的な人間解放の過程を併せて広くヒューマニズムということばでよぶとすれば、嘗ては西洋のキリスト教世界におこったヒューマニズムがアジアの非キリスト教世界におこるとき、どういう形をとって、どこまで発展するかということに要約される。また別の面から見れば、西洋では個人主義、殊に内面的な倫理観の伝統に支えられて成立したヒューマニズムが、そのような伝統のつよくないところでは、どういう形をとるか、どういう点で西洋の解決した問題を解決せず、解決しなかった問題を解決するかということにもなるだろう。(中略)もし非キリスト教的世界でのヒューマニズムの発展が主として社会的な面でアジア諸国全体の問題であるとすれば、そのヒューマニズムが文化の面、殊に思想・文学・藝術の面でどういう形をとり得るかという見透しをたてることは、日本の問題である。(傍線引用者)[ii]

 

日本の近代化・民主主義化を、西洋の手本から離れて、われわれ自身の道の上に追求するための条件は、日本の現実そのもののなかに与えられている。(中略)日本とは、日本の大衆の他にはないものだろう。過去は、たとえ日本の過去であるにしてもわれわれ自身の世界ではない。われわれは、われわれ自身ののなかにある大衆的な意識を拡大する必要があり、それを洗練し、それに表現を与えうる必要がある。それが日本の全体へ向かってわれわれの世界を広げるということになるだろう。(中略)手がかりは大衆であり、われわれの意識を大衆的な広がりのなかで育てることが、唯一の道だろうというのが私の考えである。[iii]

 

しかしその大衆は、おそらく『万葉集』の時代から一貫して発展してきた精神的構造によって支えられているのであり、まさにその意味で日本の大衆なのである。大衆のなかにある持続的なものとは、その精神的構造に他ならない。どういう民主主義ができるか、またそれがどこまで発展するかということは、長い見透しとしてそのことにかかわってくるだろう。歴史的にみれば、西洋での民主主義は、個人主義を前提として成りたったものである。また周知のようにその個人主義の歴史的背景は、人格的で同時に超越的な一神教である。人間が平等であるという考え方は、自明の事実に基づくものではない。(中略)神との関係において、人間は平等であるという以外に、平等の根拠がない、という議論には説得力がある。もし民主主義があらゆる人間に法律上の平等を与え、更にできれば経済上の平等を与えることを目的としているとすれば、西洋の民主主義の歴史にとって、神の観念が決定的に重要であったという理由は、容易に想像されるキリスト教の生み出した個人の価値は、キリスト教を離れても生きつづける。聖母子像にはじまった肖像画は、教会の壁を離れたときに、一般市民の肖像画として生きつづけた。個人主義は今日大部分の西洋人の意識のなかで、直接神にむすびついたものではない。しかしそのことから、キリスト教と全く無関係に個人主義または民主主義の問題を論じることができるという結論は出てこない。(中略)日本の大衆の意識の構造を決定した歴史的な要因は、明らかに超越的一神教とは全くちがうものであった。(中略)仏教自身が、少なくともキリスト教イスラム教におけるほど明白な超越的宗教ではなく、またたとえそうであったとしても、それがそのままの形で受け入れられたのは、少数の知識階級によってであり、大衆によってではなかった。(中略)価値の意識は常に日常生活の直接の経験から生みだされたのであり、本来感覚的な美的価値でさえも容易に生活を離れようとはしなかったのである。(中略)そしておそらくそのことと、たとえば個人の自由が絶対化されず、容易に家族的意識のなかに解消されるということとの間には、密接な関係がある。日常生活の経験が二人の個人の平等の根拠になりえないだろうことは、前にいったが、それは必ずしも昔の話ではなく、今の話である。(中略)個人の尊厳と平等の原則の上に考えられる社会制度は、このような歴史的背景と精神的構造を前提とするとき、どのように発展するか。今までのどころ、地上のどこにもそういう発展はなかった。それが日本の、また恐らく中国の最大の問題である。また、当時者にとってのみならず、人間の歴史にとっても巨大な実験であり、現在その実験を組織的に行うことができるのが、ただ日本と中国だけだということになろう。(中略)私は民主主義がキリスト教世界の外が成りたつかどうかを問題とするつもりはない。それは成りたつであろう。しかしどう成りたつかが問題である。確かなことは、おそらく西洋と同じ形では成りたたないだろうということだ。(中略)寛容と不寛容との区別のない一種の経験主義を通じて、「より高い生活程度」ではなく、「より幸福な生活」を実現する道があるかもしれない。ほんとうの目的は生活程度ではなく、生活である。たとえ西洋の社会がそれを忘れているとしても、日本の大衆はそれを本能的に知っているのである。そこにはキリスト教個人主義のつくらなかった一種の文化、決して断絶してはいないわれわれの伝統、日本にとっての創造の希望がある[iv]

 

長くなったが、加藤の主張を要約すれば、日本の文化的特徴を「雑種文化」と指摘したうえで、そうした文化のなかでデモクラシーというものを成立させようとすれば、キリスト教的倫理を媒介としない形での個人主義のあり方を模索するしかないということ。そしてそのヒントが日本の〈大衆〉にあるということ、この二点である。[v]加藤のこうした主張の背景には、前述した加藤自身の〈大衆〉の発見をめぐる「経験」という問題意識の他に、戦争中に孤立した知識人に対する問題意識があった。そうした問題を論じたのが「戦争と知識人」(1959)である。加藤は次のように言う。

 

日本の知識人において実生活と思想とは、はなれていたそこで思想は、危機的な場合には、実生活の側からの要求に屈服した。その実生活とは、直接には、小集団の内側での束縛、間接には、一切の価値に超越し、科学的な分析の対象であることをやめた国家・日本の精神的束縛を内容とするものであった。一言でいえば、実生活とはなれた思想は、実生活に対し超越的な価値概念も、真理概念も、つくりだすにいたらなかった。それこそ知識人の戦争協力という事実の内側の構造であったということになる。[vi]

 

ここにおいて加藤のデモクラシー論は、あるアポリアを抱えることになる。それは〈大衆〉と〈知識人〉をめぐるジレンマとも言える問題であるが、一方で〈大衆〉の重要性について論じながら、またもう一方では、そうした〈大衆〉の生きる土着世界に屈服した〈知識人〉の問題を告発せざるを得ないという、この問題意識の二律背反をどう考えるか。こうした問題の二律背反性は、「江戸時代に歌麿木版画をつくって、明治時代に漱石や鴎外を生んだ日本文化は、同時に南京虐殺の背景としての日本文化と同じです。もし、鴎外・漱石の文化に関心があれば、その関係はどうなっているのか。文化の核心にどういう問題があるだろう。日本文化の中心は何だろうという問題が生じます」[vii]という加藤自身の日本文化に対する問いでもあった。[viii]

こうした一見矛盾する問題を加藤自身はどのように考えたのか。それを解く鍵が加藤周一における〈藝術〉という概念であり、ここにおいてようやく、その日本文化論とデモクラシー論が一つの像を結ぶ。

 

[i]加藤周一著作集』⑦、27頁。

[ii]加藤周一著作集』⑦、35‐36頁。

[iii]加藤周一著作集』⑦、68‐69頁。

[iv]加藤周一著作集』⑦、72‐75頁。

 

[v] さらに言えば、ここには「雑種文化論」が書かれた五〇年代以降の高度成長が日本社会をどのように変えていったのか。その思想史的意味は何か、という問題が隠れている。戦後のデモクラシー論を考えるとき、この問題は「戦後啓蒙」の思想史的位置づけをめぐる論点となるが、高度成長と「大衆社会」の成立の思想史的検討の問題は、また別の課題である。

 

[vi]加藤周一著作集』⑦、329頁。

[vii] 加藤周一『「日本文学史序説」補講』(ちくま学芸文庫、2012年)28頁。

 

[viii] 例えば、海老坂武は、雑種文化論について次のような疑問を述べている。「もしも文化 が伝統の継承のうちにしか花咲かぬとするなら、そしてもしも文化をあくまでも擁護しようというなら、その伝統の母胎である民族の精神構造をそれが何であれ―それがが〈内なる天皇〉に通じているのしても―否定することは難しくなる。それだけではない。日本的精神構造なるものを中心的に担い、維持してきているのは大衆(民衆)である。だとするなら、前者を克服しようとすれば、ある局面において大衆、ないしは〈大衆的なもの〉に対して否定的にむかいあう覚悟が必要となるだろう。しかし、前にも指摘したように、知識人と大衆との意識の断絶をいかにして埋めるかというのが当時の氏の重要な課題であった。だとすれば、此岸的精神構造の粉砕などという台詞は気軽には吐けなくなってくる」(「雑種文化論をめぐって」『戦後思想の模索』みすず書房、1981年、147頁。)