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バイトをして大学に行くお金を貯めながら時間を見つけて少しづつ本を読もう。

戦後啓蒙と丸山眞男(5)

前述したように、丸山の研究生活は徳川時代の研究から始まった。そしてここまでは、その思索のなかで丸山がどのように近代を見つけようと試みたのかを確認した。そしてこれからみていく戦後の思索の特徴は、その〈江戸〉が丸山思想史のストーリーのなかに位置づけられるようになったことにある。こうしたストーリー構成は、今までに示した丸山の問題意識の具体化にほかならなかった。そして、丸山の戦後の思索は「近代化の非一義性」(開国という問題意識)と「普遍者」の命題(宗教的倫理への注目)の交錯点において展開する。これを例えるならば、丸山思想史という舞台において、「近代化の非一義性」は演出家であり、「普遍者」は主役である。ここでは、丸山の問題意識がどのように具体化されるのかという点を、この「主役」がどのように活躍するのかという観点から考察したいと思う。それは丸山思想史の成立であり、そして、その舞台には「原型」(民主主義を真に支える倫理的主体を悉く飲み込んでいく日本的なもの)という魔物が潜んでいた。主役がこの魔物と如何に戦うか。これがこれから覗く物語の筋書きである。

日本の思想とは何か

戦後の丸山の思索は「近代日本の末路」の意味づけ(解釈)から始まった。[i]そこに「無責任の体系」という明治以来の近代化に内在する問題を読み取りつつ[ii]、なぜかくも堕落したのか、と問いながら[iii]丸山は思索を進めていく。しかし、明治以来の近代化に内在していた問題と明治維新の評価[iv]とはどのような関係なのだろうか。それは丸山の〈明治〉への評価のあり方に関わってくる問題であるが、戦後の思索のなかで、この〈明治〉も、そして戦前の研究対象であった〈江戸〉も丸山思想史という舞台のストーリーのなかに位置づけられることになるのだから、ここでは焦らずに、丸山のかかる明治評価への疑問も、その物語を通して考えることにしたい。まず問うべきは、そうした物語が如何に生まれるか、そしてそれが物語の性格をどのように規定するのかという問題である。そこでまずは、「日本の思想」(一九五七)[v]に注目することから始めたい。

終戦から十年余りの歳月を経て[vi]書かれたこの論文は、それまでの丸山の問題意識の整理であり、またそれと同時に六〇年代以降の思索への橋渡しとなる作品である。[vii]簡単にその内容を示せば、この論文では大きく分けて三つのことが論じられている。それは①日本には西欧のキリスト教に相当するような宗教的規範意識(普遍者の内面化)がないこと。[viii]②上記のような日本において、その代わりに国体(似非普遍者=特殊日本的なものとしての天皇制)が創設されたこと。[ix]③上記の①、②を踏まえたうえで、そういう日本における思想状況にはどのような特徴があるかという話[x]、この三点である。

このように「日本の思想」(一九五七)は、問題の整理とその思索の方向性を定めたという点では確かに一つの画期であるが、仮に丸山の思想を前期と後期に分けるとすれば、この論文はその橋渡しに過ぎない。その点、戦後の丸山の思索を決定づけたのは「開国」という問題意識に端を発する「近代化」への問いであった。[xi]どういうことか。

戦後の丸山の思索の特徴は、「近代化の非一義性」(思想史における「開国」の問題)という認識の下で「普遍者」の命題(規範意識足り得る宗教倫理の有無)を考えることにある。この二つの命題の交錯点において丸山の思想は展開し、その具体的な時期は六〇年代であるということは、すでに述べた。「普遍者」の命題については前に触れたので、ここで問題となるのは「近代化の非一義性」という視座についてであろう。この「近代化の非一義性」という考え方については、箱根会議を中心に六〇年代の近代化論を取り上げるときに改めて述べるが、ここで丸山の思想におけるその意味を簡潔に述べると、丸山の思想における「近代化の非一義性」とは、「開国」というイメージに発する丸山の問題意識が「文化接触」への問いとして深化した結果生まれた従来とは異なる丸山の歴史観のことにほかならない。

要するに、戦前の「近代」探しとは、そのアプローチの方法が根本的に異なるのである。戦前のアプローチは、丸山の言葉でいうと「タテ」の見方であり、西欧における前近代世界の〈崩壊〉→近代世界の〈成立〉という図式をそのまま日本にあてはめようとする試みであった。しかし、先に示したように、こうした「近代」探しは、西欧において〈崩壊〉→〈成立〉というベクトルを媒介する〈神〉(=公概念に向き合う私概念を根底から担保する宗教的倫理の存在)という問題を、具体的に日本においてどのように考えるのかという点で、そもそも論理的に破綻していた。そしてこの破綻は、〈崩壊〉と〈成立〉を同一視しつつ徳川時代という前近代世界を考えていたことによって隠蔽されていたわけである。

これに対して、敗戦直後の一連のファシズム論などの結果論を経て、「日本の思想」(一九五七)では、〈普遍者〉(=私概念を根底から担保しうる規範意識)なき日本の近代化の方法論が語られるに至る。そこに「開国」という視座が加わることは従来の内発的な近代意識の勃興というタテの見方から「文化接触」というヨコの見方が提示されたことを意味する。すると、「普遍者なき日本」という命題が論理の破綻ではなく、新たな問題提起として浮上することになる。そして、ここにいよいよ丸山思想史という舞台に欠かせない「近代化」論という名の演出家が登場する。これが「近代化の非一義性」という命題の正体である。

「普遍者(公に対峙する私概念〈=デモクラシーを支える主体性〉を担保する宗教的倫理)は外からやってくる。日本(加藤のいう土着世界)はこれに如何に対応するのか」。この問題意識によって丸山思想史という舞台の幕が上がる。それは、近代化の非一義性という認識(「開国」という思想的視座=演出家)の下で、この舞台の主役たる「普遍者」がどのような活躍をみせるのかという、日本思想に丸山の理想の実現の可能性を探す試みであった。[xii]

箱根会議

もう少し考えてみたいことがある。ここで注目したいのは演出家についてである。我々はこの演出家についてあらかじめ多少の知識を得ることで、よりこの舞台の特徴を理解できると思う。その演出家の名を近代化論という。

日本において近代化論が脚光を浴びたのは、一九六〇年代のことだった。その呼び水となったのは一九六〇年に行われた箱根会議である。[xiii]ここでは、まずこの箱根会議について取り上げてみたい。丸山も、この国際会議の出席者の一人である。その会議の様子を覗きつつ、六〇年代の近代化論のなかで丸山を考えることによって、丸山の近代化論の特徴が浮かび上がってくるのではないか、これがこの会議を覗く意図である。[xiv]

当時の新聞をみると、毎日新聞朝日新聞などの学芸欄にこの会議の名前をみつけることができる。日本や欧米の研究者によって行われた「日本の近代化」をめぐる国際会議について、その会議から一週間余り経った日の記事は、出席者である遠山茂樹ロナルド・ドーアエドウィン・ライシャワーへの取材を通じて、その会議の様子を伝えている。[xv] 

これらをみると、どうやらこの会議においては「近代化」について議論をするとき、その解釈やアプローチをめぐって、特に日本と欧米の研究者の間に溝があったらしいことが窺える。会議の内容に入る前に、こうした近代化論をめぐる図式を少し整理しておくと、箱根会議及びその後の近代化論をめぐっては、大きく分けて、アメリカを中心とする欧米の日本研究者の「近代化」論[xvi]と、これに反発するマルクス主義[xvii]、さらにそれぞれの立場(問題意識)から肯定的・否定的な態度をとる非マルクス主義者といった図式を確認することができる。[xviii]

では実際には、箱根会議においてどのような議論がなされたのか。以下、上記のような六〇年代の近代化論をめぐる図式を念頭に置きつつ、会議の議事録を通してその様子を覗ってみたい。[xix]

まず会議は、その冒頭、ホールが提出した近代化に関する九つの基準に関しての議論から始まった。[xx]これについて、丸山は「規準があまりにsociological。もっと個人のvalue systemを考えるべき」だと主張している。[xxi]その後、議論が大きく動いたのは、「近代化の型の範疇」についてのLevyの提案においてであった。Levyは自身の考えるカテゴリーを示した上で、あらゆる近代化の事例はその四つのカテゴリーに当てはまると指摘する。[xxii] 

そして、午後の討論も終盤に差し掛かった頃、丸山は「近代の自己意識化の過程」という問題を提起している。それは「近代をなぜ問題にするか」という問いであった。[xxiii]丸山の主張を簡潔にまとめると、それは大凡次のような趣旨である。「近代化はSelf-realizationへの傾向とbureaucratizationへの傾向と、この両者のアンチノミーとして進行する。日本では後者が先行し、前者はアンバランスな発展を示してきた。こうしたアンチノミーをくぐって、それを意識したドイツや日本で近代が問題になることは意味がある」。要するに、丸山の関心は「近代がそれ自身問題とされるような場所」[xxiv]を捉えることにあった。[xxv]丸山がなぜここまで個人(近代人の自己意識)の問題に拘るのかという問題は、先に丸山の問題意識をみてきた我々にはさして疑問ではない。 

ここでは、近代化論をめぐる図式のなかで、丸山がどのような位置にいるのかという点を確認した。その後も、「近代化」をめぐって様々な議論が続いていくが、会議の詳細はここでの課題ではない。丸山の発言に注目して、この会議から窺えるのは、大凡以下のようなことである。丸山は、この会議において、近代化の非一義性という観点からマルクス主義を批判(単線的な発展段階論を否定)する欧米の学者に組みしながらも、「個人の価値体系」への解釈をめぐっては欧米の学者とその意見を異にし、むしろマルクス主義者の方に組みしている。つまり、欧米の学者が非一義性というとき、それは個人の問題をより大きな観点、つまりは経済や政治といったものに解消してしまい、丸山の考える「非一義性」とはその性格を異にしている。ここから窺える丸山の近代化論への関心とは、マルクス主義の公式にはこだわらず、しかし個人の価値体系に注目し、丸山の理想とする自由を実現する方法論(デモクラシーを支え得る人間創造の方途)を検討することにあるといえるだろう。

ロバート・ニーリー・ベラーと丸山眞男

この問題について、もう少し別の観点からこの問題について考えてみたい。次に取り上げるのは近代化について宗教の果たす役割に注目をするロバート・ニーリー・ベラーである。[xxvi]紙幅の都合上、ベラーについて詳細に検討することはできないが、ここではベラーが「宗教」に期待する役割と丸山とのそれが真逆であることを確認したい。そして、それを受けて、ベラーとは違う、丸山が宗教に期待するその役割とは何かという問題の答えとその意味を、次節において、丸山の思想史のなかにさがしていきたいと思う。

丸山はベラーの著書『徳川時代の宗教』[xxvii]への書評のなかで同書を「相変わらず輩出するアメリカの日本研究のなかで私の食欲と『闘志』をかき立てた久しぶりの労作」[xxviii]と評している。問題は、丸山の闘志に火をつけたものは何かということだ。簡単にベラーの議論をみてみよう。

ベラーにとって「近代化」とは「産業化」と同義語である。[xxix]ここにはパーソンズ理論[xxx]を念頭に「日本の宗教における合理化傾向が日本の経済的あるいは政治的合理化にどのように貢献したのか」[xxxi]と問うベラーの「政治の合理化なくして経済の合理化なし、経済の合理化なくして近代化なし」という論理(=経済成長に必要なものとは何か、という視点からの典型的な近代化論)が反映されているといえよう。ベラーにいわせると、こうした点に関して、日本は非常に都合の良い価値体系を有している。例えば、統合価値が重視される中国に対し、日本では政治的あるいは目標達成価値が重視されるとベラーは指摘する。ベラーに言わせると、こうした「日本の強固な政治体系と支配的な政治価値は、明らかに、産業社会の勃興に適していた」。[xxxii]そしてベラーは、こうした価値を支えたものこそ日本の宗教であったという。[xxxiii]

こうしたベラーの主張が丸山の闘志に火を付けた。[xxxiv]「特殊主義」(公に対する規範的な主体形成を妨げるもの=私概念の公概念への吸収)に日本の近代化の問題を見出している丸山に対して、ベラーは日本の特殊主義が逆説的に擬似普遍的機能を果たし(政治目標への国民的動員の容易さ)日本の近代化(この場合は産業化)の成功を支えた、というのだから、丸山が怒るのも無理はない。ここには、「近代化」をめぐって、ベラーと丸山の間にも前述した近代化論をめぐる図式が反映されていることが窺える[xxxv]が、ここで注目したいのは、宗教に期待される役割の相違についてである。ベラーは、上記のように日本の宗教が特殊主義を強めつつ、産業化に不可欠な政治的経済的合理化過程に重要な役割(私と公の媒介)を果たしたと指摘しているわけだが、そのうえで丸山に対して次のように問いかける。

私の疑問とはこうだ。丸山は、ヨーロッパであれ日本であれ、近代初期の原初的な意識から倫理的な自由へ移行する刺激的な時期に重点を置くことによって、前近代の伝統の源泉を軽視していないか。たとえば、近代よりはるか以前に世俗の肯定を離れて普遍主義と超越性に向かった紀元前の宗教と哲学を見落としていないか。おそらくは、そうした源泉と近代初期のイニシアティヴを組み合わせて用いることによって初めて、先進世界がとらわれている歪んだ近代性に対処する手がかりが得られるのではないだろうか。[xxxvi]

恐らくベラーは丸山の『講義録』を読んでいないのだろう。丸山も丸山なりの視点で、前近代の伝統や宗教に注目している。確かに、先に見たように、戦前や戦後初期の丸山は、ベラーのいうように伝統や宗教の役割に盲目だったかもしれない。しかし、一九六四年において丸山は、次のように述べている。

問題は、ヨーロッパと接触する以前の日本の思想に普遍的な価値がどれだけあり、ヨーロッパの中にどれだけあるかということで、どこで生まれたかは問題ではないのです。一度それを洗ってみる必要があります[xxxvii](傍線引用者)

丸山は、一九六四年以降、講義の中で、「仏教」、「キリスト教」、「武士のエートス」、「儒教」と、「可能性としての思想」という観点から、伝統や宗教に注目していく。ただ、丸山の場合、そこに期待されたのは、むしろベラーとは逆に特殊主義を打ち破る可能性であり、丸山が探していたのは、そうした普遍性に媒介された自由の実現の可能性であった。(そもそも、ベラーが問題視したのは、個人主義=エゴイズムの弊害であり、丸山が重視したのは規範意識を媒介とした個人主義の成立であったのだが)このベラーの問いかけに対して、丸山の代わりに答えようというのが次節に与えられた課題である。ここでようやく、丸山思想史の舞台の幕をあげることができる。そこに現れるのは、丸山の描く自由をめぐる物語である。

 

[i]超国家主義の論理と心理」(一九四六)、「日本ファシズムの思想と運動」(一九四七)、「軍国支配者の精神形態」(一九四九)など。

[ii] 「私は、日本帝国の崩壊ということも、昭和となって急に横合から軍部という乱暴者が出てきてせっかくの先代の苦心の経営を台なしにしてしまったという風に理解せずに、これをどこまでも明治時代に内在していた契機の顕在化として把えなければならぬと考える者です。」(『座談』二、二四〇頁)

 こうした視点が「オールドリベラリスト」と「戦前派」の差になっていることに注目したい。例えば、丸山の次のような発言。

 「現代の明治的な人間といわれている人は、日本の最近のウルトラ・ナショナリズムが明治以後の国家ないし社会体制の必然的な発展として出てきたものだということを、どうしても承認しません。津田左右吉先生なんかがいい例ですね。かつては日本はもっと近代化されておったが、横合いから不意に乱暴な軍部や右翼が出て来たものだからこういうことになってしまったんだ。以前は、日本にも自由があったし批判的精神もあったということを強調しておりますね。なぜ明治のインテリがこういう感じを持ったかという点が面白いのです。たしかに知識人の住んでいた世界は観念的にはかなり近代的だったのですが、そうした観念の世界は一般国民の世界を規定している「思想」からは遠くかけへだたっていて、国民生活そのものの近代化の程度との間に非常な不均衡があった。ところが知識社会に住んで、その社会の空気を知っておった人には、どうしても最近の神がかり的ファシズムの出現が突発現象としてしか受け取れない。(中略)実はむしろ逆にそういう人の住んでおった知識社会が特別の社会なので、一般の国民層は全くそれと隔絶された環境と社会意識の中におった。(中略)ぼくは明治的な知識人というような人は、重臣層的な意識と共通したものをもっていると思う。つまりリベラルだがデモクラティックでない。そういう重臣リベラリズムは国民的な基礎がなかったので無力だったのじゃないかと思います。」(『座談』一、二六六‐二六七頁)

 丸山は、青年文化会議の宣言にみられるような「オールドリベラリストとの訣別」という表現は「我々は兵隊にとられた」という(丸山を含めた)被害者意識の現れだと言

う。

「青年文化会議の創立宣言は川島武宜さんが書いた。『戦争とファシズムを阻止しえざりしオールド・リベラリストと訣別』という勇ましい言葉があります。それに我妻栄さんが激怒したのです。今だから言うけれど、川島さんが起草者だったというのはぜったい秘密でした。我妻先生の直系でしょう。あれは、ある意味では非常に不毛なのだけれど、戦後世代論の最初の提起なのです。我々は兵隊にとられたという、被害者意識です。(中略)一兵卒として召集された上限は、おそらく大岡昇平でしょう。あれより上になったら、もう安全です。少なくとも赤紙をもらうことはない。そういう被害者意識があるから、ついそれが『戦争とファシズムを阻止しえざりしオールド・リベラリスト』となる。そこでオールド・リベラリストという言葉を使っているのが面白いのです。もはや戦前のリベラリズムではだめだという共通認識があるのです。」(『回顧』下、二六‐二七頁)

 その後、丸山が「戦前派」の代表格として「戦中派」からの批判の対象となることを考えると、世代論の皮肉を感じるが、ここでは、こうした世代論が「天皇制」への評価を規定していることに注目したい。注一三で示したように「超国家主義の論理と心理」(一九四六)以降「天皇制」と訣別した丸山は、その後、「普遍者の命題」の具体化にともなって天皇制を「O正統面したL正統=似非普遍者」と規定するに至る。

 

[iii] 例えば、「陸羯南」(一九四七年、『集』三)、「明治国家の思想」(一九四九年、『集』四)「近代日本思想史における国家理性の問題」(一九四九年、『集』四)。戦後の明治論は戦前の「国民主義の『前期的』形成」(一九四三年、『集』二)の続きだという。

 

国民主義の形成」という論文を書こうとした本来の意図は、こういうことでした―つまり福沢は有名な「日本には政治ありてネーションなし」と言い、また国体のことを〝ナショナリティ〟と言っている。そのときのネーションとかナショナリティというものが、羯南の『日本』における主張や、雪嶺などの国粋主義にもどこかでつながっている。ところが、だんだんたどって明治三十年代になりますと、だいいち、「国民論派」―羯南はこれにナショナリズムというルビをつけていますが―という言葉自身があまり使われなくなって、同じ日本主義でも帝国とか日本国家という言葉がさかんに言われるようになってくる。そこで、『国家学会雑誌』に書こうとしたのは、国民主義から国家主義へ、という論旨だったわけです。どこでどう変貌したのか。結局、福沢から出発して羯南をとり上げ、それが樗牛の日本主義、さらに井上哲次郎穂積八束のドイツ的国家主義、官僚的国家主義に変貌していった、その変貌過程を実は書こうとして材料を集めたわけです。ところが、これは『日本政治思想史研究』の「あとがき」にも書きましたけれど、徳川時代のほうから始めたものですから、福沢にも到らないで「前期的国民主義」という仮の名前をつけ尊王攘夷論の変貌を書いたところで、召集令状が来てしまって中絶したわけです。ですから、戦後の『中央公論』の陸羯南」は、実はその続きなんです。戦後まもなく、歴研の講演会でやった「明治国家の思想」というのも、大体同じような関心です。もちろん、当時の、日本のナショナリズムや明治時代に対するあまりに一括的に否定的な風潮、ちょうど戦時期の風潮を裏返しにしたような風潮に対して、そうばっかりも言えないと反発する単純な動機もありましたけれど・・・・・・。(『座談』七、二〇九‐二一〇頁、傍線引用者) 

大凡、丸山の明治評価は二〇年代を下ると悪くなることに注目。また丸山は、国家理性論文(未完)が、『忠誠と反逆』(筑摩書房、一九九二)に収録される際に書かれた「追記」(一九九二、『集』一五)において、同論文のモチーフとなったマイネッケ(「近代史における国家理性の理念」)を一九三〇年代後半から四〇年代にかけて熟読し、マイネッケが「国家理性」が現在陥っている危機と堕落について語っている箇所にとりわけ明治の前半の国権論と三〇~四〇年代の皇国日本とが重なり感銘を受けたと回想している。(『集』一五、一七九‐一八二頁参照) 

 

[iv]

「私も初めはもっと王政復古史観ですから、維新について偏見を持っていまして、[しかし]だんだん何となく、それは別にどの思想書というのではなくて、明治新聞雑誌文庫をやたらに[見ていて]、明治の初期の雰囲気が、驚くべく、少なくとも私の生きている時代とは違う。じつに生き生きとしているし、多様だし、それから考え方が自由だし。そうすると、やっぱり、いつから、こんなになっちゃったのかと。こんなになった、と言っても、それは、明治新聞雑誌文庫に入りだした頃は、よほど悪くなった頃なんです。私が、こんなになった、と言うのは、一九三一年頃からのことを意味するわけです。だから、まだ左翼が盛んだった頃を意味するわけですけれども、それを含めても、こうして、こうして、こうなった、ということに対する純粋な観察の興味と、それから、どうして、かくも堕落したのかという価値判断と重なるんですね。重ならざるを得ない。」(『話』三、二一〇‐二一一頁、傍線引用者)

 「維新革命にはいろいろな解釈があります。極端に言えば、講座派のように反革命だという解釈さえあります。絶対主義の確立だから反革命だと。僕は[その説を]取りません。あれはやはりナショナリズムの革命」(『話』四、三〇五頁)

「世界史ではじめての実験なんですね。だいたい、近代化というのは、西欧化と結びついていたように、アジア人にはほんらいできない、と思われていた。組織を作るとか、時間の感覚、計画性、合理主義、東洋人はほんらいそういうものに向かないのだ、ノンビリしていて、なまけもので、そういう理念だったわけでしょう。それを、ヨーロッパ型の近代国家を自力で作るという、非常に大きな実験をはじめて日本がやった。その創業者の努力、苦心、これは大変なものだったと思う。」(『座談』四、二〇〇頁)

幕藩体制を打倒した維新というのはやはり日本の歴史のなかでは、われわれの民族がともかく自力でやった最大の革命だと思っています。それは完全な革命のイメージをえがき、それからの距離をいえば、まずい点はたくさんあるし、到達した結果は天皇制国家ということに終わってしまった。しかし、そんなことをいえばフランス革命からだってナポレオンが皇帝になったし、ロシア革命からだってスターリニズムが出てきた。結果論から判断すれば・・・・・・。結果論から判断しないで、維新の原点に立ってみれば、維新というのはわれわれは誇っていい一つの変革なのです。(中略)いろんな点からいって、明治後半期はむしろ大正の初めと一続きの時代とみたほうがいいのじゃないかとも考えられる。そうすると明治とは何ぞや、ということになる。同じ明治といっても明治二十年代の前と後ではいろんな点で非常に違います。ですから私は原点に帰るという意味では、明治全体じゃなくて明治維新の再評価に賛成です。もちろん明治維新の中のすべてという意味じゃない。けれども、その中にわれわれが誇り、また継承していくべきものがあると思います。」(『座談』七、三〇三‐三〇四、傍線引用者)

 

[v] 『集』七

[vi] このとき、丸山は脳裏を去来する思いを「精神的なスランプ」と表現して次のように述べている。

 ほんとに、この一、二年というもの、精神的にスランプを感じるんです。だから、なぜスランプになったかということを考えてみる以外にないんですがね。やっぱりぼくが、大学を出てから今までやってきた仕事をささえると言うか、その前提になっていたものがあるんで。それが一つは天皇制の問題だし、一つはマルクス主義です。つまりぼくは、日本のナショナリズムとか、超国家主義とかいうことばかり、まるでものにつかれたみたいに書いてきたのは、学生のころからいろんな見聞と体験を通じて、日本の「国体」というものは一体何だろう。ファウストじゃないけれど、この巨大なものの奥の奥をきわめたいという気持がいつも根底にあった。日本人のものの考え方にこれほど大きな呪縛力をもったものが、たんなる物理的暴力とはどうしても思えなかったんですね。そいつがしょっちゅう頭について離れなかった。それから、もう一つはマルクス主義です。(中略)つまり大げさだけど、ぼくの精神史は、方法的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だったわけで、それが学問をやって行く内面的なエネルギーになっていたように思うんです。ところが、現在実感としてこの二つが何か風化しちゃって、以前ほど手ごたえがなくなったんだ。もちろん、もはや相手にとって不足だといったごうまんな意味でいうのじゃなくって、少くとも両方とも昔ほど堅固な実体性をもってぼくに迫ってこなくなった。そうしてみると、何ていうか、必死になって対決していた当の相手が―対決っていうのは敵対というよりももっと内面的な意味でいうのだけれど―対決していた当の相手が少くもぼくの視野の中でフニャフニャになったために、こっちも何かガッカリして気がぬけちゃった。それが学問的ファイトの減退の大きな原因になっているような感じがします。自分のことはなかなか自分で分らないが、どうも考えてみると、そのへんにスランプのもとがあるように思うんです。(「戦争と同時代」一九五八年十一月、『座談』二、二三四‐二三五頁)

また、この時期の丸山については石田雄「『正統と異端』はなぜ未完に終わったのか」『丸山眞男との対話』(みすず書房、二〇〇五年)も参照のこと。石田は、このスランプを大衆社会の問題として前々から丸山は感じていたといい、「私の推測では、丸山がこの実感を直接に研究の中で表現するのではなく、逆に『正統と異端』という枠組を設定することによって、敢えて『フニャフニャ』になった対決相手に型を与えようと試みたのではなかろうかとも思われる。あるいは、もっと広くみて六〇年代のはじめから明らかになりはじめる比較の視点の導入という方法論的転換全体が、右に丸山が自認していた『精神的スランプ』克服の企図を意味するのかもしれない」(同書、五六頁)と述べている。

この精神的スランプという表現をどのように解するかは、丸山眞男論にとって決して小さな問題ではないが、筆者は敢えて、この丸山のアンニュイな表現を、丸山眞男の思索の転換期の表現として捉えたい。現に、戦前から戦後まで続いたマルクス主義天皇制への対決に一つ区切りをつけた丸山の思索は、石田のいうように六〇年代以降、戦前からその視野を広げ、その方法論を展開(転換)させることになる。むしろ、天皇制やマルクス主義固執していた時よりも、その呪縛が解けたことで、ある種のフレキシブルさが生まれ、ある意味では身軽になったとはいえないか。

 

 

[vii] 論文の中身を詳細に検討することはしないが、「要約」としてはこれもさしあたり都築勉「『日本の思想』を読む」(『丸山眞男への道案内』吉田書店、二〇一三年)が簡便。また、「日本の思想」を取り上げたものとしては、宮村治雄『丸山眞男『日本の思想』精読』(岩波現代文庫、二〇〇一年)、仲正昌樹『《日本の思想》講義』(作品社、二〇一二年)がある。

ここでは本稿の趣旨を鑑みて、単行本の「あとがき」(一九六一)の一部だけ引用しておきたい。

 したがってここには、よかれ悪しかれ、私が大学卒業以来当面したさまざまの学問的課題と、それを追求する過程で不可避的に刻みつけられた私の思想的道程とが流れ込んでおり、それと同時に、これ以後の関心方向の新たな起点ともなった。もっとも表面的な事柄を例にとれば、戦後私は種々の事情から、対象的には日本政治思想史の、いや政治思想史の範囲をふみこえて政治学上の諸問題、とくに現状分析の領域にまで手をひろげて来たけれども、「日本の思想」の前後からようやく「戦線」を整理して、その後の論稿はおおむね旧著『日本政治思想史研究』や福沢研究の系列に属する。(『集』九、一一二頁、傍線引用者)

超国家主義の論理と心理」以来、日本ファシズムや日本ナショナリズムに関する諸論文、さらには日本の政治的状況についてのエッセイなどを通じて、私の分析は、批判の側からも支持の観点からも、大体において日本の精神構造なり日本人の行動様式の欠陥や病理の診断として一般に受け取られて来た。それは私にいわせれば、ある面では当っているし、ある面では当っていない。(中略)ある意味では当っているというのは、右のような論稿がいずれも戦争体験をくぐり抜けた一人の日本人としての自己批判―あまりにすりきれた言葉であるけれども、これよりほか表現の仕方がない―を根本の動機としてあり、しかも三〇年代から四〇年代において何人の目にもあらわになった病理現象を、たんなる一時的な逸脱ないしは例外事態として過去に葬り去ろうとする動向にたいする強い抵抗感の下に執筆されたために、そうした病理現象の構造的要因を思想史的観点からつきとめることにおのずからアクセントがおかれたからである。そうしてこのような動機と関心は「日本の思想」にも引きつがれ、本書のⅡ、Ⅲ、Ⅳ、にも共通に流れる一つの主潮になっている。(同、一一三‐一一四頁、傍線引用者)

私自身としてはこうして現在からして日本の思想的過去の構造化を試みたことで、はじめて従来より「身軽」になり、これまでいわば背中にズルズルとひきずっていた「伝統」を前に引き据えて、将来に向かっての可能性をそのなかから「自由」に探って行ける地点に立ったように思われた。(同、一一四‐一一五頁、傍線引用者) 

 

[viii] この命題は、六〇年代以降の思索で具体的に検討されていくことになるが、この時点では「私達が思想というもののこれまでのありかた、批判様式、あるいはうけとりかたを検討して、もしそのなかに思想が蓄積され構造化されることを妨げて来た諸契機があるとするならば、そういう契機を片端から問題にしてゆくことを通じて、必ずしも究極の原因まで遡らなくても、すこしでも現在の地点から進む途がひらけるのではなかろうか」(『集』七、一九四‐一九五頁)という考えから、この論文では主に近代日本の思想について考察されている。言うまでもなくこの「究極の原因」まで遡って思考された結果が古層論にほかならない。

『日本の思想』では、近代日本の思想というものが、直接のテーマですから、古代の天皇制じゃなくて近代天皇制の思想的な構造というのが直接のテーマですから、そこでは、「原型」とか「古層」とか、そういうところまでいっていない。また、そういうところまで考えてもいなかった。しかし、問題は、そこからずっと続いてるんですね。(『話』二、三二七‐三二八頁)

例えば、安易な模倣と批判的言説創出のアイロニーについて述べるところ(「ある永遠なもの―その本質が歴史的内在的であれ、超越的であれ―の光にてらして物事を評価する思考法の弱い地盤に、歴史的進化という観念が導入されると、思考的抵抗が少なく、その浸潤がおどろくほど早いために、かえって進化の意味内容が空虚になり俗流化する」前掲、二〇八‐二〇九頁)のくだりは、「歴史意識の古層」(一九七二)において、日本の原なるイメージたる「なる」(=「おのづからなりゆくいきほひ」というオプティミズム)が「進歩」ではなく「進化」と相性が良いことが指摘されていることを想起させる。

 

[ix] この命題については、その結果論として「超国家主義の論理と心理」(一九四六)においてすでに語られているので、読み方によっては同論文の「解説」とも読める。例えば、明治憲法体制について述べるくだり(「『輔弼』とはつまるところ、統治の唯一の正統性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。政治構造の内部において主体的決断の登場が極力回避される」云々、前掲二二一‐二二二頁)は、「論理と心理」でいう「無窮性」の言説であると同時に、「政事の構造」(『集』一二)でいわれる、政治意識の執拗低音につながっていくように思える。

 

[x] 具体的には「理論信仰」と「実感信仰」という話―この二つの定義については『座談』四、四八頁を参照―だが、それはまた丸山が理想とする社会の成立を阻むものの正体でもあった。少し内容をみてみよう。

丸山は「家族国家」観の問題が、「『限界』の意識を知らぬ制度的物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ『自然状態』(実感)への密着」(『集』七、二三三頁)という日本の思想の問題に帰結することを述べた後、「『いえ』的同化と『官僚的機構化』という日本の『近代』を推進した二つの巨大な力に排撃されながら自我のリアリティ  をつかもうとする懸命な模索から出発」した日本の近代文学の特徴を文学的実感の問題として解説し(同、二三四‐二三五頁)、近代日本にはじめて輸入された理論体系というマルクス主義の思想的意義についてひとしきり論じたあと(二三五‐二三七頁)、「私たちの伝統的宗教がいずれも、新たな時代に流入したイデオロギーに思想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果たしえず、そのために新思想はつぎつぎと無秩序に埋積され、近代日本人の精神的雑居性がいよいよ甚だしくなった。日本の近代天皇制はまさに権力の核心を同時に精神的『機軸』としてこの事態に対処しようとしたが、国体が雑居性の『伝統』自体を自らの実体としたために、それは私たちの思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ、否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけ強力に働き、人格的主体―自由な認識主体の意味でも、倫理的な責任主体の意味でも、また秩序形成の主体の意味でも―の確立にとって決定的な桎梏となる運命をはじめから内包していた」(同、二四二頁)と述べて、再び「日本人の精神状況に本来内在していた雑居的無秩序性」を指摘し論を総括し、その克服の必要性を主張して論を結んでいる。(同、二四三‐二四四頁)

 

[xi] 丸山自身は次のように述べている。

 もし私の戦前の研究と戦後の研究とをいちばん大きく区別するメルクマールがあるとしたら、文化接触による文化変容という視点を投入しなければならないと私が思い出したことです。それで異質的な文化接触による文化変容という、その視角で書いた最初の思想史の論文が「開国」なんです。ですから、それが外国に二年間滞在して帰ってきたときに、決定的に「原型」という発想になるんですけどね。私がコメントしたいのは、その文化接触という考え方自身が、普遍史的な発展段階論の否定を意味しているということなんです。したがって、『日本政治思想史研究』はまだ非常に大きく普遍史的な発展段階論を想定しているんです。つまりボルケナウ的な「封建的世界像から近代的世界像へ」という普遍史的な研究です。ところが、文化接触というのは、歴史を縦の発展とすれば、いわば横のぶつかり合いなんです。いわば怒涛のように横から異質的な文化がやってくる。開国がそうでしょ。つまり、異質的な文化がぶつかりあったときにどういうものが生まれるのかという問題は、縦の歴史的発展段階という考え方の中にはないわけです。ある時代からどうやって次の時代が生まれてくるか、奴隷制からどうやって封建制が生まれてくるか、ということですから、まったく異質な文化圏がぶつかりあうという文化接触の問題は、普遍的な発展段階論からは生まれない。(中略)じつは「開国」を書いた当時はあまり意識していなかったんです。「原型」とか「古層」とかいうことを考えるときに文化接触の問題を意識したんです。つまり、大陸からの文化が日本に入ってきてどういう変容を受けるか、という問題です。そこでbasso ostinato[執拗低音]という結論がでてきたんです。でも遡ると「開国」からです。(『話』三、二八〇‐二八二頁)

 

「開国」(一九五九年、『集』八)のなかで丸山は「開国」を次のように定義している。

 開国とはある象徴的な事態の表現としても、また一定の歴史的現実を指示する言葉としても理解される。象徴的にいえばそれは「閉じた社会」から「開かれた社会」への相対的な推移を意味するし、歴史的現実としてはいうまでもなく、十九世紀中葉以後において、極東地域の諸民族、とくに日本と中国と李氏朝鮮とが「国際社会」に多少とも強制的に編入される一連の過程にほかならない。(『集』八、四五‐四六頁)

 

つまり、「開国」には「精神的な問題」と「物理的な問題」という二つの意味がある。丸山に言わせると、日本はその「開国」を三度経験しているという。それは①室町末期から戦国時代。②幕末維新期。③敗戦後、の三回であるが、論文では第二期が主題とされるものの、第三期にいる我々は「歴史的な開国をただ一定の歴史的現実に定着させずに、そこから現在的な問題と意味とを自由に汲みとることが必要」(『集』八、四七頁)だと丸山は言う。

ここで注目したいのは、まず、「近代化」という問題にひきつけて考えたとき、内発的な近代化を経験した西欧とウェスタインパクトによって否応無しに開国させられたアジアとでは、やはりその性格を異にするということ。ここではそういう意味(=物理的な問題)で近代化を非一義的に捉えることができることを確認したい。結局のところ、アジアにとって近代化とは開国からはじまり産業化に至るまでの「課題」として存在し、日本はその意味での「近代化」には成功したと言える。

ここで問題になるのは、精神的な意味についてである。丸山にいわせると、この意味での「開国」は「自由」の問題と関係しているという。

 閉じた社会が開いた社会になり、日本があらゆる面で世界につながったとき、そのときはじめて自由というものが大幅に問題になる。これは、ヨーロッパだって、お互いに横の交通が非常に盛んであるということで、昔から自由が発達してきたので、俗に島国島国といわれているけれども、それは、想像する以上に大きな意味を持っていたんじゃないか。その島国が打破されかかった最初は室町から戦国時代ですね。つまり、スペイン人、ポルトガル人が来て、キリシタンが伝わってきた前後の時期をみますと、日本は非常に自由で、活発な空気があった。(中略)民衆のエネルギーがみなぎっていたわけですね。これは、やはり開国というものと関係があり、そしてこれが、その後どうなったかというと、鎖国にしちゃったわけです。(中略)そして鎖国があったために、そういう封建体制が、三百年近くの長きにわたって続いたわけだが、ところが第二の開国ということは、ペリー来航とともに、はじまったわけだ。それを契機にして、とざされた社会の固定性が非常に動揺して、結局明治維新になって、明治以後、一時は百家争鳴で非常に自由であったわけで、日本が世界の国際社会の中に初めて引き入れられて、いろんな面で強烈な刺激をうけ、非常に溌剌とした空気がみなぎった時代だと思います。これも非常に、大ざっぱに言ってしまうと、第二の開国の衝撃も、結局、支配層に都合よく処理されてしまった。(中略)つまり、万邦無比の国体というものを持ってきて、国体を強化するものは取入れるが、それに反するものは異端としてしめ出す。(中略)ところが、その第二のやり方がとうとう破綻したのが、今度の戦争で、今度は本当に開国になった。これまで「摂取」という形で使いわけができたのは、やはり日本が地理的に島国で、民衆相互の自主的な横の交流ができにくかったという事情が大きい。だから、日本が初めてここで文字通り、世界のまっただ中に引き入れられて、今後のコミュニケーションの発達とともに、テクノロジカルな鎖国はもとより、イデオロギー的な鎖国ということも出来なくなった。つまり、世界のあらゆる大きな運動というものと、日本の歩みを揃えて進んでいかなければならなくなってきた。(『座談』三、二七九‐二八〇頁、傍線引用者)

 

ここには「自由の実現」という丸山が理想とする世界が表現されているともいえるが、丸山は「『開国』という問題を鎖国から開国へ、という日本の遭遇した歴史的経験と、それからclosed societyからopen societyへという超歴史的な―というか、何度でもくりかえされる普遍的な問題という二重性においてとらえよう」(『集』一二、一二〇頁)としていた。「そこには戦争中の思想的な鎖国が解かれた直後の状況と、たまたま戦争中に読んでいた維新の精神状況とがダブって私の目に映った、という学問以前の、あるいは学問を越えた生活経験が背景にあった」(同、一二〇‐一二一頁)という。そして「そのことが同時に思想史、具体的には日本思想史の方法論についてのこれまでの考え方を大きく変えないではおかなかった」。(同、一二一頁)どういうことか。丸山の説明を引用しよう。

 私はいろいろな点で、当時のマルクス主義者の「反動的」とか「進歩的」とかいう思想の規定の仕方に疑問をもちました。それは『日本政治思想史』を辛抱してじっくり読んで下されば、よくお分かりになると思います。けれども、それにもかかわらず、卵のなかにひよこが育って、殻をやぶってとびだすというような形で思想や世界像の内在的な歴史的変化に着目するという点では、たとい、どんなに公式的なワリ切りに反対して、微妙な、地下で進行している思想的変遷に目を向けるといっても基本的に歴史的発展―つまり縦の線―の見方の枠内にあります。どうもそれだけでは幕末維新の思想的景観を、さらに、今度の戦争以後の思想的文化的景観をとらえ切れないのではないか、いわば横からのいわば大波とか洪水の衝撃―そのインパクトというものに大きな思想的意味を与えて初めて「開国」というものが思想史的な対象として問題になってくるのではないか。といっても歴史的な縦の線を辿る方法が無意味というのではむろんありません。ただそれだけでは十分でなく、「横から」の急激な文化接触という観点を加えることがどうしても必要と考えるようになったのである。(『集』一二、一二三頁)

 

ここで語られているのは、『日本政治思想史研究』とは違った歴史の見方である。敗戦時の日本に明治初期のイメージを重ね合わせたことが「開国」という問題を考えるきっかけとなり、この開国の問題の意味が「文化接触」の問題として問われたことが、丸山に戦前とは違った新しい歴史の見方を与えた。ここでは、開国→文化接触という問題意識の具体化が丸山に従来とは違う歴史の見方が芽生えさせたこと。それに伴って「近代化」の捉え方に変化が生じたことを確認したい。

 ちがったパターンの近代化がありうる。典型的、つまりThe「近代化」があるのではなく、複数「近代化」がある。日本の近代化のパターンと中国の「近代化」のパターンは同じでないし、また同じである必要もない。日本の「近代化」とヨーロッパの「近代化」はまたちがうように。そういう考えは戦後強くなった考えで、「日本政治思想史研究」を書いた当時には、The「近代化」を基準にしてどこまで近代化しているかを考えていました。しかし「近代化」の内容については、すくなくともその当時のマルクス主義者の考えていた「近代化」の発展段階のとり方には不満でした。しかし、The「近代化」があると考えていた。複数の「近代化」があり、その比較が問題なのだという考えは当時はなかったわけです。(「普遍の意識欠く日本の思想」一九六四年、『集』一六、五四頁、傍線引用者)

 

こうした「近代化の非一義性」という命題のなかで思考される「文化接触」の問題こそ、「外から来る普遍者とそれに対応する原型」という丸山思想史のモチーフにほかならない。これに関して言えば、問題意識が「開国」から「文化接触」へと深化したことに、丸山の初めての海外生活という体験が関係していることは興味深い。

 一九六三年に長い外国生活から帰ってきて、講義を再開した時に講義を全部書き改めて、日本思想の原型という言葉を使ったんですね。(中略)「日本思想の原型」という名前で講義を、六三年から。その頃から少しずつ考え方が変わったわけです。つまり、『日本政治思想史研究』とは非常に違った点ですけれども、僕の考え方が変わった点です。(『話』二、二〇九頁)

丸山は海外ではアジアがひとくくりで捉えられていることが印象的だったという。「開国」という問題は、アジア全体の問題だが、そのなかで日本はどのように位置づけられるのか。海外生活を通じてこうした視点を与えられたことが、その後の丸山の思索にとって大きなヒントになったのではないだろうか。

 

[xii] 可能性としての思想史というモチーフに関しては、「思想史の考え方について」一九六一年(『集』九)を参照。

「過去の伝統的な思想の発掘を問題にする場合に、我々はその思想の到達した結果というものよりも、むしろその初発点、孕まれて来る時点におけるアンビヴァレントなもの、つまりどっちにいくかわからない可能性、そういったものにいつも注目することが必要であります。」(同、七六頁)

ネガ像からポジ像を読み取るというこうした発想は、「忠誠と反逆」(一九六〇年、『集』八)によく現われている。

 

[xiii] 箱根会議とは、アジア学会(Association for Asian Studies)に属する近代日本研究会議(Conference on Modern Japan)が一九六〇年の夏(八月三〇日‐九月一日)に箱根で行った会議の名称である。米国で五カ年セミナーの計画がなされたときに、たまたま、研究者の多くが日本に居合わせることがわかったため、初回のセミナーがバミューダで開かれるのに先立って、急遽「予備会議」という形で開かれたというのがその経緯らしい。この五カ年セミナーとは、元々、一九五八年の秋に、ミシガン大学で行われたとある会議の中で、日本に関する多数の本格的な研究成果を、もっと組織的に糾合しようという話になり、その結果、「近代日本研究会議」(The Conference on Modern Japan)が発足したことに始まる。こうして、フォード財団の資金援助の下、日本の近代的発展について、五つの側面から考察すべく、五回の年次セミナーの開催が決定した。(箱根会議については、ジョン・W・ホール、細谷千博訳「日本の近代化にかんする概念の変遷」マリウス・B・ジャンセン編『日本における近代化の問題』 岩波書店 一九六八年を参照のこと)

このように、「箱根会議」はそうした五カ年セミナーの第一回目が一九六二年一月に開かれるのを前に行われた予備会議であるが、この会議では、概念としての近代化の定義について討議された後、今後五年に渡って開かれるセミナーの議題の紹介とこれに関する討議などが行われた

 

[xiv] 丸山眞男論において、箱根会議を取り上げたものとしては、垣内健「丸山眞男の『近代化』観の変容について―箱根会議を中心に―」(『比較社会文化研究』第二十五号、九州大学大学院比較社会文化学府、二〇〇九年)がある。

 

[xv] 毎日新聞は一九六〇年九月八日、十日と二回に分けて「国際会議のむずかしさ―『日本の近代化‐その問題点と方法』の会議から―」と題して、遠山とドーアに依頼した執筆記事を掲載している。遠山茂樹「現実と伝統は違うも学者の協力は可能」(『毎日新聞』一九六〇年九月八日付)、ロナルド・P・ドーア「問題意識の相違―世界的な検知と民族的な見地と―」(『毎日新聞』一九六〇年九月十日付)。また、朝日新聞に投稿しているのはライシャワーである。エドウィン・ライシャワー「東西『考え方』の交換―〝ハコネ会議〟に参加して」(『朝日新聞』一九六〇年九月一一日付)

 

[xvi] 大雑把に言えば、近代化=産業化ないし経済成長という観点からこれを考える立場である。例えば、箱根会議には出席していないが、ロストウがその典型である。(Walt Whitman Rostow, The Stages of Economic Growth: A Non-Communist Manifesto, Cambridge University Press, 1960:木村健康・久保まち子・村上泰亮訳『経済成長の諸段階――一つの非共産主義宣言』ダイヤモンド社、一九六一 年)また、出席者でいうと、ロストウのような経済の観点に政治の観点を合わせた独自の図式を用いて近代化について考えたライシャワーエドウィン・O・ライシャワー「近代史の新しい見方」一九六二年初出、『日本近代の新しい見方』講談社現代新書一九六五年、所収を参照)や、近代化論は発展途上国がその産業化に際して直面するであろう困難への解決法を示すことにその意味があるとするドーア(R・P・ドーア「日本近代化論の再検討」『潮』一九六六年十月号、参照)など。総じてその特徴としては、近代化を考える際に、イデオロギーといったものを考えず、例えば「経済成長」のような、なるべく明確にこれを定義することが可能な指標を求める傾向がある。

結果的に、イデオロギーを考慮しないということは、例えば、マルクス主義封建社会ブルジョワ社会というコースのように、必ずしも近代化というものを、ある決まった目標に向かう一つのコースを示すものとは捉えないということでもある。これに対して、マルクス主義は自身の(あるべき)モデルが否定されたことに対して、また丸山のようなノンマルキストは、近代化の非一義性という観点は共有しつつも、やはり民主主義に向かうか否かというような個人の価値体系を重要なメルクマールとして考えたいという個人的な問題意識から、それぞれこれに反発する。(ちなみに、そうした問題意識にたって、箱根会議の後に丸山が執筆したのが、近代化に対する個人のリアクションの問題について考察した「個人析出のさまざまなパターン―近代日本をケースとして」『集』九、である)

 

[xvii] マルキストは、欧米の学者のいう「近代化」論は中ソ論争というタイミングにつけこんだマルクス主義の「抹殺」の目論見であり、アメリカ帝国主義後進国戦略構想の「理論」的裏付けにほかならず、その理論も近代化の非一義性などと謳いながら、結局それはただのブルジョア民主主義の発想に過ぎないと猛反発している。例えば、矢留一太郎「いわゆる「近代化」理論の根本的(基本的)批判」上中下(『アカハタ』一九六三年一二月一一日付~一三日付)、井上清「「近代化」への一つのアプローチ」(『思想』一九六三年一一月号)、和田春樹「現代的『近代化』論の思想と論理」(『歴史学研究』一九六六年一一月号)、金原左門『「日本近代化」論の歴史像』(中央大学出版部、一九六八年初版。一九七一年に増補版)などを参照。

 

[xviii] 丸山は次のように述べている。

 主として[全米アジア学会所属の]アメリカの学者ですけれど、イギリスの学者や日本の学者も入って近代日本研究会議が[一九六二年一月にバーミューダ島で]催されました。その予備会議が[一九六〇年八月に]箱根であったんです。その時、遠山茂樹君のようなマルクス主義者も出ました。[私は]ペーパーも出しました。それが近代化論のおそらく最初だと思うんですね。その時、日本側の学者と英米学者との間で近代化の概念について、いろいろ食い違った点がありました。非常に大きく食い違った点を列挙しますと、第一は、マルクス主義の場合、あるいはマルクス主義に近い人の場合、「近代化」イコール「封建制から資本制への移行」である。これが近代化であって、これ以上に近代化の意味を使うのは間違いである。だから近代化というのは資本主義化と同じこと、封建制から資本制への移行が近代化なんだと。アメリカの学者もイギリスの学者もそうは考えない、もっと広い概念だと。つまり近代化をもっぱら歴史的カテゴリー、歴史的な段階として理解するか、それとも歴史的な段階ではなくてもう少し広い概念として理解するか、その食い違いが一つ第二の食い違いは、イデオロギーとか価値判断、是非善悪の価値判断というものを近代化の定義の中に入れるかイデオロギー(Ideologie)、価値判断(Werturteilung)あるいはエートス(Ethos)と言ってもいいんです。そういう倫理的な判断ですね。そういうものを近代化の定義の中に入れるか、あるいは入れないで、つまりノン・イデオロギー的に定義するか、これが第二の問題です。(中略)私自身はマルクス主義者とは意見を異にした。つまり「封建制から資本制への移行」だけを「近代化」とするのは近代化という概念を狭く解しすぎるんじゃないか、と。その意味では英米学者と一致しました。しかし違ってくるのは、エートスとかイデオロギーとか価値判断を近代化の中に入れるかどうか。私はこれを入れないと近代化を論ずる意味がないのではないか、と主張した。そしてそれはノン・イデオロギー近代化を定義する立場の英米学者のマジョリティの見解と非常に違いました。具体的に言えば、民主化とか自由の拡大とか個人の主体性の重視とか、そういうことを近代化の要素として入れるか入れないのか、私は入れないと近代化を論ずる意味自身がないのではないかと思う。同時に日本の場合にはそれを入れないと、近代という言葉を歴史の文献を見る場合に理解できない。(『話』四、二二五‐二二七頁、傍線引用者)

ただ、その議論の違いは別として、ノン・イデオロギー、近代化の中にイデオロギーを入れないで定義すべきだという人の立場、その近代化論というのは、私は日本では非常に誤解されたと思うんですね。日本では、近代化論というのは西欧の近代化を絶対として、それを尺度としてほかの国の近代化を測る議論だと言われているわけです。西欧的な価値体系をいちばんいいものとして、これと違っているのは遅れた近代化とか言って、やっつけるというか批判する。そういうのが近代化論だというのが、日本での一般的な受け取り方です。しかしそれは私の実際の体験からいうと非常に違うんです。これは英米学者とも意見が違いました。英米学者のためにあえて擁護するならば、そうじゃないんです。逆です、むしろ。近代化の道が多様だということを彼らは言いたかった。(中略)西欧のデモクラシーを通過しない近代化もあり得るのではないか、というのがヨーロッパ、アメリカ系の学者の主張した近代化です。それは必ずしも日本では正しく理解されていないと思うんですね。複数の近代化を主張したのが、ノン・イデオロギーの近代化の立場だということです。(『話』四、二二八‐二二九頁)

近代化の諸段階についてのいろいろな仮説のなかにも、ロストウのように経済成長を中心にしているのもあれば、政治的近代化とは何かを問題にしているのもあれば、宗教意識を指標しているのもあり、またそういう各領域間における「近代化」のズレとか落差に着目しているのもある。ロストウの場合は、経済発展を中心としていることと、彼自身あきらかに唯物史観の発展段階説に対抗する意識を持っていることのために、さっきのロストウ理論即近代化論、近代化論即アンチマルクス理論というような一般化したイメージを日本で生んでいると思うんです。私などはロストウ史観は唯物史観と同じ次元で比較するような「大理論」とは思っていませんから、逆にそれなりにおもしろい着眼もあるなという感じです。(中略)私は何か近代化の「一般理論」のようなものがすでにあるとは思いませんが、同時に、ロシア革命も中国革命も、また発展地域におこっている変化も、近代化のさまざまなヴァリエーションとして比較してみることが可能であり、また今後の見透しをつけるうえに有効だという考えです(中略)結局「近代化」を従来のように、封建制から資本制への移行にだけ限定しないで、もっと広くさまざまの側面から比較するという点で、ロストウ理論もひとつの問題提起として受けとめられると思います。(『座談』六、二八六‐二八七頁、傍線引用者)

ただ、アメリカの学者の「近代化」論の問題意識についていえば、むろんひとつには、発展地域がコミュニズムでない方向に「近代化」する可能性の探求ということはありますよ。だけどすべての学者がそうだとはいえない。少なくもそれだけとみるのは学問的にフェアといえないと思うんです。というのは、そこにはアメリカの正統的イデオロギーにたいする自己批判の側面もあるんです。つまり、中国・ソ連あるいは旧植民地の「社会主義的」方向もひろく「近代化」の文脈に入れて比較しようという関心は、自由世界対全体主義というイデオロギー的割り切りにたいして、いやあれはあれでやはり「近代化」なんだという一歩突きはなした認識は、自由とか平等とか民主主義とかファシズムとかいった「主義」を一切合切「近代化」の範疇から排除して、その意味で「没価値的」に近代化を定義する傾向を伴ったんです。(中略)ですから、私たちが戦後に日本社会の民主化をいった場合の「近代化」―つまりエトス的側面を不可欠の契機とした「近代化」概念とはどうしても喰いちがいが出てくるし、現に箱根会議でも喰いちがった。ただこういう「没価値的」近代化概念に立つ学者とは意見はちがっても対話ができるし、いろいろ学ぶところもあります。それを一方が自由世界対全体主義といい、他方が帝国主義社会主義といってるだけでは、対話ができません。その意味では私はある種のマルクス主義者のように、近代化論のミソもクソも一緒にしてイデオロギー的役割の観点だけから批判するのには与しないんです。もっとも箱根会議に出ていた学者の一人だったライシャワーがその後大使になって、大使として―つまりアメリカ政府の代弁者として―いっているのか、それとも一学者としていっているのか、役割があいまいなままで、日本近代化論をブッたり、左翼学者を批判したりするのはちょっと困る(笑)、あれで近代化論は大分損をした(笑)。(『座談』六、二八九‐二九〇頁、傍線引用者)

引用が長くなったが、当時の近代化論の図式と丸山の考え方がよく現れているので敢えて引用した。また、丸山以外のノン・マルキストについては例えば、川島武宜「近代日本の社会科学的研究―一九六〇年箱根会議の感想―」(『思想』一九六一年四月号)、同「『近代化』の意味」(『思想』一九六三年一一月号)を参照。

 

[xix]金井圓編『箱根会議議事録』(米国アジア学会近代日本研究会準備委員会、一九六一年、以下、引用に際しては『議事録』と記す)を参照。もっともここでは、その要点にのみに絞り、且つ丸山の発言に注目しながらごく簡単にその議論を追うにとどめる。要するに、ここでは、丸山が大凡どのような発言をしているかが確認できれば良い。その中で、箱根会議が、前述した近代化論をめぐる図式のなかにあることを押さえつつ、丸山の発言からその関心を拾いながら丸山の近代化論に迫りたい、というのが本節の趣旨である。

 

[xx] その九つの基準とは以下の通り。

  • 比較的高度の都市化。
  • 読み書きの能力が広くゆきわたっていること。
  • 比較的高い個人当り所得。
  • 広くゆきわたった地理的社会的移動性。
  • 経済内における相対的に高度の商品化傾向と工業化。
  • ひろくゆきわたり各階層に滲透しているマス・メディア網。
  • 社会の成員が広く近代的な社会過程に参加し関わりあうこと。
  • 相対的に高度に組織化された政府の官僚主義的形態があり、これに社会の成員が広く関わり合っていること。
  • 科学的知識の発展を基礎として、個人がその環境にたいして益々合理的かつ非宗教的に思考しようとすること。

 また、これについては、J・W・ホール、金井円・森岡清美訳「日本の近代化―概念構成の諸問題―」(『思想』一九六一年一月号)も参照のこと。

 

[xxi]

丸山「ここであげたcriteriaがinterrelatedであることを前提としての議論ですが、僕の考えではそれらがあまりにもsociologicalであるように思われます。たとえば⑨に書いてある、個人が環境に対して合理的orientationをもつというのは、つまるところ意識の問題、attitudeの問題ではないかと思います。このlevelであるならば、もっと個人のvalue systemなどといった問題がでてこなくてはいけないのではないでしょうか」

 

議長「それはpaperの後でintellectual modernizationとして挙げてありますけれど、この一般的基準のところではあまりはっきり出ていませんね」

 

丸山「⑨のところでethos的なのがひとつだけとりあげてあるに過ぎないこと自体、これらのcriteriaを恣意的、at randomなものに思わせるのです」

 

そして、こうした丸山の主張に高坂が賛同する。

 

高坂「Ideologicalな面が問題にされて良い。人間の問題、近代人が問題になる。」

 

さらに、Liftonが高坂を支持する。

 

Lifton「近代化された社会の個人の意識の問題について高坂の考えを社会心理学者として支持」

 

(以上、『議事録』七‐八頁)

 

取り敢えず、ここでは丸山が近代化を考える際に「エトス」のような個人の価値体系を重視していること。これに高坂正顕のような哲学者や、欧米の社会心理学者が賛同していることを確認したい。

 

[xxii] Levyの提案するカテゴリーは次のようなもの。(『議事録』一八頁)

 

     1 Indigenous       A   Old and Traditional

                             B   Yong and Empty

 

            

     2  Underdeveloped      A    O&T

                B  Y&E

 

 1と2は、近代化に関して内発的な発展を示した国々と、キャッチアップを余儀なくされた国々という違いである。この場合、日本は、Later comerの外発型でOld and Traditionalなので、2-Aということになる。その後、植民地化の経験の有無についてカテゴリーをどうするのかという意見が出て、例えば、2-Aの中にColony、Non-colonyを設ける案が示される。また、加藤周一が「oldは封建制を意味するのか」という問いかけると、「それも重要な要素」だと議長が引き継ぎ、1と2との区別の重要な点(議長)へと討論が展開していく。(『議事録』一九‐二〇頁)

 

[xxiii]  

丸山「学問の歴史からもそうですが、西欧をとって見ても近代を問題にしたのはドイツであったと思います。ドイツの歴史意識の勃興と関係があるのです。TroeltschやMax WeberのWesen des modernen Geistes[近代精神の本質:引用者]という考えが出た時期に始めて近代は問題となり、包括的に近代を捉えようとする空気が出てきます。すると、近代の自己意識化はⅠのgroupに少ないという結果になると思うのです。IのgroupにはいるAnglo-Saxonの間では一九三〇年以後になって始めてmaking of modern mind とかmodern spiritについての本が出るのです。一九三〇年以後と、こんどの戦後に於いて、この地域では近代の自己意識が出てくるわけです。抽象的な言い方で恐縮ですが(中略)、自己意識的なself-realizationへの傾向と、そしてbureaucratizationへの傾向と、この両者のantinomyとして近代は進行するのであり、それが主体としては矛盾でないのです。(中略)Institutionはそれ自身mechanizeされるのであり、国家をmechanismとして把握し、それを創り出し、変えて行く人間の自己意識があり、この2つのprocessがidealtypischには併行してくるのが近代です。ところが日本に於いては、bureaucratizationの方が先でSelf-realizationの方がunbalanceな発展を示したのです。(中略)Rommanticな解決法はbureaucracyからの逃避として自我の膨張をさせようとする一方、かのMarxismはこのdualismを克服しようとしてbureaucracyの方を推し進める方向をとるのです。Max Weberが何故あんなにrationalizationとbureaucratizationとを問題にしたかというと、それは彼の人格と関係していますが、destinyとしてrommanticに逃れることはできない。しかしbureaucracyを推し進めてもいけない。人間を受動化せず、不可避的なものから逃れず、不断にfree decisionを下していく人間のimageが彼のprotestantische Ethikの本の中に生きている。そこには彼の人間像があるのです。そこで川島氏や遠山氏の、日本では何故近代化が求められるかという問題と共に、さらに近代のもつこのantinomyをどう意識したかについてお考えをも伺いたいのです。日本が今modern societyを持っているのに対して、Turkeyや中国はそれをもっていないのです。近代のantinomyをくぐって来てそれを意識したドイツや日本で近代が問題になるのは意味のあることで、だから実践的関心がそこにはあり、単なるanalyticな、scientificな興味にとどまらないのです」(『議事録』二〇‐二二頁、傍線引用者)

 

[xxiv] 『議事録』二二頁

[xxv] ここでは、「認識と行動の不連続性」をめぐる丸山の思想のモチーフが「近代人」の問題に引付けて語られていることに注目したい。神なき時代にエトスなき個人は如何に生きるかという、ウェーバー的な憂鬱さを背負うような議論でもあるといえよう。こうした問題に丸山はどのように答えようとするのか。それが問題である。

また、こうした丸山の発言がLevyによって、「Self-realizationといったKant的な意味での発言もあったが、いろいろなcaseが出てくれば来るほどエモションで意味のないこと」(『議事録』二三頁)と一蹴されていることは、前述した近代化論をめぐる図式を端的に示しているといえよう。

 

[xxvi] ロバート・N・ベラー「意味の問題と近代化」(『みすず』一九六六年一二月号)を参照のこと。このペーパーは、アメリ社会学学会における報告の翻訳である。この報告でベラーは、「新しいメンタリティーは新しい科学や技術よりも重要である」というイギリスの哲学者ホワイトヘッドの言葉を引用しつつ、「精神的現象」という観点から近代化を考察しようとする。その内容を簡単に要約すると、大凡次のような話である。

 

ある社会がある段階からある段階に移行するときに、うまく宗教が機能すれば、社会はその大きな変化に対して混乱をせずに、うまくその同一性を保ったまま、変化に応じて、その社会構造の再組織化を達成することができる。要するに、近代化のように大きく社会が変化するときに、その社会にいる人間の精神がこれに対応するためには宗教の果たす役割が重要になるというわけだが、これをベラーは「社会心理的革命」と表現している。 

しかし、この「社会心理的革命」は、実際のところ、これを達成することは非常に難しい。それは新しい変化に対応できるメンタリティを確立することの難しさであるが、これをうまくやり遂げたのがウェーバーも注目しているプロテスタント宗教改革であった。このようなところでは、ベラーが近代化の第一イデオロギーと呼ぶ自由主義が定着する。しかし、初期の近代社会心理革命が不発に終わったり、宗教が、例えば宗教戦争だったり、体制にとって不都合だったりして、うまく機能を果たせなかったところでは、この近代化の第一イデオロギーは拒絶されて、ベラーのいう近代化の第二イデオロギーであるところの、ロマンティックナショナリズムや急進的社会主義が生じる。これらは、社会分化や個人主義的傾向を極力排し、緊密に統合された社会を希求する点に特徴がある。

第一イデオロギーアングロサクソンやフランス系の民族、第二イデオロギーは、ドイツや日本を念頭に語られているが、ここで注目すべきは、これらのイデオロギーに関してなんら価値判断が下されているわけではないということである。要するに、第一イデオロギーが拒絶されたところでは、第二イデオロギーを以て近代化するという、近代化の方法論が提示されているに過ぎない。前述した近代化論の図式がここにも反映されているといえよう。

そして、後述するように、ベラーはこうした観点から、『徳川時代の宗教』において、欧米とは違った方法で「近代化」に成功した日本の秘密を、特殊主義が普遍主義として機能するという日本社会の特異性に見出し、こうした日本に於ける価値体系こそ日本の経済成長を可能にした要因であるとこれを評価する。その点、ベラーのいう近代化の第二イデオロギーの末路を告発している丸山が理想とするのは、ベラーの表現するところの近代化の第一イデオロギーであるため、ベラーの「近代化の非一義性」に関して丸山は、「それこそが、問題なのだ」と反発するわけである。

 

[xxvii] 原書のTokugawa Religion: the Values of Pre-industrial Japan が出たのが一九五七年。その後、一九八五年に副題をThe cultural roots of modern Japanとしてペーパバック版が出る。邦訳は未来社から一九六二年に、堀一郎・池田昭訳『日本近代化と宗教倫理――日本近世宗教論』が出て、一九九六年に、ペーパバック版のまえがきを付与した全訳が岩波文庫からでているが、絶版。本稿では、岩波文庫版の池田昭訳『徳川時代の宗教』(一九九六年)から引用する。

 一応その内容を簡単に紹介しておこう。モチーフとしては、宗教が近代産業社会の発展に対して果たす重要な役割にパーソンズのカテゴリー観点から注目した作品であり、ベラーは本書において「日本の宗教における合理化傾向が日本の経済的あるいは政治的合理化にどのように貢献したか」(四六頁)という関心のもと、徳川社会を考察している。

その内容を大雑把に示すと、日本の場合、「政治価値」が優位性をもつ。政治的合理化が産業社会の勃興に意味を持つと考えるベラーにいわせると「日本は、この政治的合理化の過程の特異な、またいきいきとした例証を示しており、このことを理解してはじめて日本における特異な経済の発展が理解できる」(四一頁)という。こうした問題意識のもとで「聖なるものと、聖なるものに対する人間の義務の捉え方が経済的合理化に都合のよい諸価値や動機づけにどのように影響するか、またその媒介課程である政治的合理化の重要な役割が経済的合理化にどのように影響するか」(四六頁)を検証するのが本書である。

 第一章で上記のような主題が提示された後、第二章では、「徳川社会とはどんな社会か」という命題がパーソンズのカテゴリーに則して考察される。そこで見出される徳川社会の特徴は、①非人格的なものへの「忠誠」②遂行価値の重視であり、前者は、「一般化された特殊主義が権力の合理化と拡大という意味において普遍主義に相当する機能をもつこと」にその特徴があり、後者に関しては、遂行価値の重視にかかわらず、「政治価値の優位性はかわらず中心価値体系が深刻に分裂することがない」ところが特徴的だとベラーはいう。このように徳川社会においては、統合価値は目標達成価値に従属し、学問・宗教が手段として存在している。

第三章では、「日本における宗教生活」について論じられる。ここでは、徳川時代においては、宗教行為は中心価値を強化し、遂行と特殊主義の価値を強め、動機体系から制度体系にパターンを順応させるように促すことが指摘される。

第四章では「徳川期の日本における宗教と政治体系」について論じられるが、要するに政治的合理化の話である。ここで注目されているのが、忠の宗教である。武士道の倫理規範が商人階級にも拡大したことが指摘され、「積極的倫理行為者」という点で両者は一致しているという。こうした政治的合理化は経済的合理化に弾みをつけたとベラーは主張する。

第五章は第四章を引き継ぐ形で、「徳川期の日本における宗教と経済体系」について論じられる。要するに、ここで語られているのは経済的合理化の話である。ここではベラーによって「目標に対する没我的服従」の態度が指摘されている。

第六章で論じられるのは「宗教と倫理運動について」であるが、ここでは、これまでの分析を踏まえたうえで、具体的に石田梅岩を中心に心学についての考察がなされる。ベラーにいわせると、梅岩の「武士だけが臣ではなく、農民は田舎の臣だし、商人や尺人は都市の臣。それぞれがそれぞれの役割を果たしている」云々というのは、目的達成価値が支配的である日本に特有な社会観念であるという。

そして、第七章では「宗教と近代日本の勃興の関係」について「まとめ」がなされている。

 

[xxviii] 「ベラー「徳川時代の宗教」について」一九五八年(『集』七)

[xxix]

「近代化とは、教育や医学などはもちろんのこと、政治の近代化の概念を含んでいるとはいえ、経済的要因に非常に強く依存するものであるから、それはほぼ「産業化」と同義語である。この点から、近代化への動機づけは第一に経済的でなければならない、という結論を引き出すことは、論理の貧困というべきである。実際、日本における近代化への多くの動機づけは、経済的であるより政治的であり、権力の増大と関連していて、富の増大がたんなる手段にしかすぎなかったことは明らかであろう。」(ベラー一九九六、三五一‐三五二頁)

[xxx] パーソンズについては、高城和義『パーソンズの理論体系』(日本評論社、一九八六年)がよくまとまっていて参考になる。また、パーソンズとベラーについては、山本智宏「ロバート・ベラーのパーソンズ論―パーソンズ理論の受容と革新」(『社会学研究』七九号、二〇〇六年)を参照のこと。 

[xxxi] ベラー一九九六、四六頁。

[xxxii] 同前、三六三頁。

[xxxiii]

「西欧では、普遍主義は、多くの脈絡において戦士の忠誠倫理を変化させ、あるいは取りかえた。たとえば、古い特殊主義的忠誠は、新たな非個人的な国家主義イデオロギーと置きかえられ、これは、一層普遍主義的な忠誠を強調することになった。日本では、これと反対に、特殊主義は、批判されずに残存した。日本のナショナリズムは、永遠に支配する、全日本の家族をその分家とする本家として天皇家を中心としたために、とくに特殊主義的なものにとどまった。西欧では、種々の不安定な結合にかかわらず、キリスト教に固有の普遍主義は、究極的には、核家族の外で、特殊主義的忠誠の多くの関係を弱めるものとして作用した。日本では、国家神道は、ほとんど特殊主義的忠誠の現われにしかすぎず、儒教は、それをよわめるどころかむしろ一層再強化するものとして作用した。仏教は、滅私と禁欲主義の思想によって武士の忠誠倫理に対して、最大の影響を与え、これらの思想が特殊主義的忠誠を解体するよりはむしろ強めた。」(同前、三四五‐三四六頁)

「武士階級の倫理は、儒教と仏教の影響のもとに十分一般化し、民衆全体の倫理となることができた。皇統と国家宗教の継続は、およそ「原初的」な特殊主義を象徴するのに役立った。軍事的成果やその主君の命令の実行などを高く評価することによって、武士階級を超えて、あらゆる領域における遂行は高く評価されられうようになり、一般化した。」(同前、三四八頁)

 宗教が日本の場合、特殊主義的忠誠を強め、それが普遍主義と同じような機能を果たしたとこれを評価するベラーの宗教理解は、仏教に超越的絶対者、儒教に内在的普遍者の可能性を求める丸山と真逆である。

 

[xxxiv] 丸山の不満を書評から引用しておこう。

そもそも著者が触れているような地方的神性や民間信仰の統合過程が、我が国の場合けっして「呪術から解放」の一方コースではなく、仏教のような「普遍主義的」な救済宗教さえ、日本化される過程において広汎に呪術的要素と妥協しなければならなかったのはなぜか。(中略)むしろ著者の方法と問題意識からしても、国家神道や民衆宗教の呪術性にもかかわらず、ではないし、まさにトップ・レベルと社会的底辺での呪術性がいかに日本的な合理化=近代化を内面的に特質づけ、推し進めているかという秘密こそが、解明の核心でなければならない。(『集』七、二八五頁、傍線引用者)

 手段目標への熱狂的献身と機械的連帯性」はたしかに日本の「富国強兵」の内面的推進力であったが、それは同時に派閥性・割拠性・情実性の醗酵源ともなって、終始ナショナリズム自身にはねかえって来たのであって、これまた決して権力の一般化と合理化という一方交通の過程ではなかったはずである。著者は維新と引続く工業化における政治的動機の主導性を強調し、「政治的資本主義」というウェーバーの範疇まで用いながら、なぜか同じことの楯の反面としての「実業」の寄生的性格―それが経済的合理化を強靭に阻んだ面の意味を追求しようとしない。(中略)たんに一方における伝統主義にもかかわらず、他方における合理化というように分離すべきではなく、むしろその両者の構造連関の歴史的過程が著者の問題を処理する上にも究明のかなめだと思われるのである。(『集』七、二八六‐二八七頁、傍線引用者)

著者は総じて「近代化」のパターンの世界史的な多元性を強調するというきわめて正しい観点に立ち、その日本的特殊性を主として近代化の担い手と、近代化を推進するイデオロギーあるいは心理的動機づけの面で認めながら、結果としての「合理化」とか「商業化」自体の内面構造にこうした特性がいかに刻印されたかの面を看過したために、あたかも結果の普遍性を当然の前提として、もっぱら原因の特殊性に着目するという一面性に陥ってしまった。それでは日本の近代の「躍進」と「蹉跌」を統一的に理解する途は閉ざされてしまうのである。(『集』七、二八八頁、傍線引用者)

 つまり、丸山とベラーでは根本的に問題意識が異なる。社畜となる代わりにお金を稼ぐか、お金を犠牲にして自由を手に入れるか、といっては例えが極端で適さないだろうが、要するにここで問題となるのは、根本的に「問題意識」が違うのでそこから演繹される「宗教」に期待される役割も異なるということである。つまり、丸山は主体性という問題意識から普遍者としての宗教を思考し、ベラーは経済という指標に関し特殊主義でも近代化に寄与したという点を逆説的に指摘している。

 

[xxxv] もっとも、ベラーも後(一九八五年のペーパーバック版のまえがき)に「私の見落としたのは、富と権力の限りない蓄積からは良い社会が招来しないどころか、むしろ発展し得るどの社会にも必要な諸条件が否定されがちなことである」(ベラー一九九六、二六頁)と述べているように、歳月を経て丸山的な問題に近づいたという。

年月を経て、近代という研究課題を倫理的な個人主義とありうべき民主主義という観点からとらえるという意味で、私はますます丸山に近づいていった。倫理的に表現された近代のいずれの次元も米国や日本では確固とした形で制度化されていないため、丸山に適応されるかぎりにおいて「近代主義」は時代遅れの流行として軽んじられるものというより、未完の研究課題である。(ロバート・N・ベラー「学者丸山眞男と友人丸山眞男」『丸山眞男の世界』みすず書房、一九九七年、四九頁)

ベラーが丸山に近づいたというのは、具体的にどういう意味かという点は、ベラー論として検討されるべきものだが、後述するように、普遍者を介した自由の実現という丸山の理想は、普遍者の不在と消滅という事実によって、明らかに挫折している。丸山がベラーを批判することは、丸山の問題関心を考えたとき、至極当然のことだが、同時に、いくら「未完のプロジェクト」と言っても、丸山の挫折を打開する可能性は全くないのだろうか。こうした点も含めて、ベラーと丸山の議論を止揚するようなアプローチを、その有無から検討する必要があるのではないか、と筆者は考えてしまう。また、ベラーと丸山については、山本智宏「ロバート・ベラーの日本近代化論―丸山眞男による批判を中心に―」(『社会学研究』第七六号、東北社会学研究会、二〇〇四年一一月)、同「現代社会における『伝統』の問題に関する一考察―ロバート・ベラーと丸山眞男との果たされざる対話」(『政治思想研究会』第六号、風行社、二〇〇六年)がある。

 

[xxxvi] 前掲、『丸山眞男の世界』五一頁。

[xxxvii] 「普遍者意識欠く日本の思想」一九六四年(『集』一六、五八頁)