Ikkoku-Kan Is Forever..!!のブログ

バイトをして大学に行くお金を貯めながら時間を見つけて少しづつ本を読もう。

戦後啓蒙と丸山眞男(4)

一九三五年夏。丸山は友人と二人で宮城県刈田郡越河村(現在の白石市越河村)の定光寺にいた。大学二年の夏である。緑会懸賞論文を書くため、寺に籠って勉強しようというのだった。勉強する丸山を寺に残して一人遊びに出かける友人は猪野謙二である。このとき丸山が一生懸命に読んでいたのは、主にデモクラシーに関する本、ジェームズ・ブライスやハロルド・ラスキだった。[i]結局、この年の懸賞論文は書けずじまいで、翌年の懸賞に応募することになった。このときの出題者は南原繁。出されたテーマは「政治学に於ける国家の問題」だった。丸山は「政治学に於ける国家の概念」[ii]と題した論文を提出する。「あの論文が問題なく法学部をパスするようだったら、法学部に残ってもいい」。[iii]そう豪語した論文が南原の目に留まる。[iv]これが丸山が南原に師事して研究生活を歩みだすきっかけだった。丸山は当時をこう振り返っている。

 

これはまさに若気の至りの論文でありまして、自由主義的国家観からファシズム国家観への歴史的発展とその社会的背景ということを偉そうに論じたものですが、その結びの中で私は「今や全体主義国家の観念は世界を風靡している」云々と書きました。それは私の実感でありました。昭和十一年という時期はすでに法学部の一学生にそういう実感を与えても不思議ではない時代だったと思います。(中略)この稚拙な論文で、無論、力点はファシズム・ナチズムの国家論の批判に置いたのですが、それと並んで審査教授の南原先生の哲学的な立場である―と私自身では思っていた―新カント派の方法論に対して生意気にも批判を試みたのであります。文字通りの引用は恥ずかしいからやめますが、要するに、当為と存在、理想と現実とを峻別する「カント的、とくに新カント的」な二元論は、現実の理想性を強調するところの保守的な支配層と、理想の現実性を根拠づけようとする無産層―という妙な言葉を使って居りますが、これはまあプロレタリアートとか労働者階級とかいうべきところ、そういう言葉遣いは、一寸警戒して避けたわけであります―のイデオロギーとの間にはさみ打ちにあって「無力」である、という趣旨の勇ましい批判が含まれておりました。[v]

 

恥ずかしがっている丸山には悪いが、末尾だけ引用しておこう。丸山はその論文の末尾を次のように結んでいる。

 

我々の求めるものは個人か国家かのEntweder‐Oderの上に立つ個人主義的国家観でもなければ、個人が等族のなかに埋没してしまう中世的団体主義でもなく、況や両者の奇怪な折衷たるファシズム国家観ではありえない。個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもそうした関係は市民社会の制約を受けている国家構造からは到底生じえないのである。そこに弁証法的な全体主義を今日の全体主義から区別する必要が生じてくる。[vi](傍線引用者)

 

この「弁証法全体主義」という言葉の解釈をめぐっては様々な解釈がある[vii]が、ここでは「近代批判」という文脈のなかで、南原の哲学的立場(と丸山が考えていたもの)を批判していること。[viii]しかし、徐々にそうした立場を丸山が見直していったという点を確認したい。

 

常識として、わたしたちはすでに三〇年代において、とくにアメリカの恐慌以後は、いわゆる、ブルジョア民主主義というものに対する批判とか懐疑とか、そっちのほうをさんざん注ぎこまれていたわけだから、わたしたちの精神史から言えば、なだれを打った転向の時代に、かえって、ブルジョア民主主義とか自由主義とかいうものを見直した、というか再認識したといったほうが正しいんです。(中略)つまりマルクス主義にはコミットしなかったけれど、やっぱりムード的左翼だったから、河合栄治郎さんなんかの自由主義万々歳に対してはあまっちょろいなあ、と思っていた。ところが大学に入ると、なだれを打った左翼の転向時代で、しかもきのうまで勇ましい、ラディカルなことを言ってたやつが、たちまちわたしなんかをとび越して右がかったことを言い出し、やがて御稜威とか聖戦とかを口ばしるようになる。(中略)とにかく平素口で言っている思想だけではわからないものだという感じを痛切に味わった。それでもまだ大学時代には、リベラル・デモクラシーとか新カント派的な二元論なんかは、市民社会を絶対化しているのでダメだというような論文を、南原繁先生に出しているくらいです。だから、むしろ初めから惚れていたというより、だんだん見直してきたんです。[ix]

 

後年、近代の定義を「ルネッサンス・リフォメーション以後のヨーロッパに発生したブルジョワ文化の最良の遺産」 と述べている丸山だが、一般的な風潮としてブルジョワ民主主義への批判や懐疑が強かった一九三〇年代には、丸山自身これに批判的であり自由主義ブルジョワ民主主義を「無力」と一蹴していた。[x]問題はどのような形で見直されていったのかである。これが即ち戦後の思索の伏線になる。「ぼくが自分の経験を通して学んだのは、経験的な科学を超えた、なにものかへのコミットメントがないと、時代に対する抵抗もできないし、たんなる経験的学問では自分を支える精神的支柱にもならないのではないかということです」[xi]と語る丸山がみた風景とは何か。[xii]

 

時代批判の厳しさというか、時代の潮流に対して少しも動かされない、その確固としたもの。如是閑を含めた人たちとはぜんぜん違うのです。[xiii]宗教があるかどうかは別として、南原先生のそれはむしろ実在的なものだから、学者というより、人間としてしっかりしていて、右顧左眄しない。世を挙げて翼賛時代でしょう。だから、そのこと自身、大変なんですね。ぼくらが信じていた人は、どっちかというと左翼に多かったけれど、ぜんぶ転向でしょ。いまから思うと転向とは言いえない三木清とか、そういう人にしても、東亜共同体なんて書きだすものだから、「なーんだ」と思いました。なんて頼りないものだという思い。ぼくはかつて、存在と当為を峻別するなんてと、容易に新カント派を批判していたし、南原先生の立場を批判していたのだけれど、いずくんぞ知らん、存在と当為を結びつけるヘーゲルなんかをやっているのは、京都学派を含めて、ぜんぶ時代に流されてしまった。ぼくが学問的には批判の対象とし、資質的にも馴染めなかった、カントばかりやっている人のほうが、ちゃんとしていた。(中略)南原先生がドイツについて言っていました。「君、見たまえ。頑張っているのは、みんなカント派だ。ヘーゲルをやっているやつは、みんなナチにいかれてしまったんだ」と。ぼくがヘーゲルばかりやっているものだから。[xiv]

 

「現実と日々接触していると、毎日の現実を問われますからね。そうすると、すべて周りの状況が非なる時に、いや、これが正しいんだと、これが真理なんだ、これが正義なんだと思ったって、よほどじゃないと言い切れません」[xv]と当時を振り返る丸山は、あるとき岡義武に「丸山君、われわれの方がどうかしているんじゃないか」と言われ、衝撃をうけたという。[xvi]時代は大きく動いていた。一九四一年一二月八日。「君、えらいことになったね」。川島武宜が研究室に飛び込んできた。[xvii]南原の部屋に行くと「このまま枢軸がかったら世界の文化はお終いです」といわれハッと我に返った。[xviii]こうした戦前期に丸山がみた風景はその後の丸山の思索に決定的な影響を与えることになる。

そして、一九四四年六月、サイパン島陥落。「日本はもうお手上げで、これで戦争は決まった」などと荻窪の新居(妻ゆか里の疎開した親戚の留守宅)の応接間で鶴見和子と談笑していると、新婚三ヶ月の新妻が一枚の紙を持ってきて丸山に手渡した。召集令状だった。[xix]「遺書」として書いた「国民主義理論の形成」(後に「国民主義の『前期的』形成」と改題)を新宿駅まで見送りに来た辻清明に手渡し、出兵[xx]した丸山は、平壌に召集され、その後、再び広島宇品に召集。そこで終戦を迎えた。

 

さきのような南原先生の「警告」がいかに「実践的」に思い当ったにしても、そうした「非歴史的」もしくは「超歴史的」な立場が態度決定のうえで実証した強味を、思想史をふくむ歴史的アプローチのなかに学問的にリンクさせるすべをついに見い出せないまま、私は一九四四年に、応召によって研究生活から引き離されることになりました。[xxi]

 

戦前の丸山はまだ自分がみた風景をどのように思索すべきかわからなかった。それでは、丸山は一体これを問う術を戦後のどのタイミングで見出したのだろうか。戦後の丸山がこのような「告白」をしていることに注目したい。

 

最後に個人的な「告白」をしますと、私はこの著者のてびきによってはじめて学問することの何たるかを学ぶことができたのですが、著者自身の哲学的立場と信仰には今日に至ってもなおついて行けずにさまよい歩いている不肖の弟子です。[xxii](傍線引用者)

 

この「告白」は一九五九年のものである。「主体性というのは超越的絶対者、普遍者にコミットしなければ実現できない」という丸山思想史を貫く「認識と行動の不連続性」の問題が「具体的に思考されるのは六〇年代(厳密に言えば、50年代の終わりからこうした問題について触れてはいるが、それが全面的に展開されるのは欧米からの帰国後)のことである。[xxiii]六〇年代の思索を窺うまえに、我々はもう少し戦前の伏線をみていかなければならない。それは、丸山が近代をどのように語り始めるのか、という問題である。徂徠論文[xxiv]と作為論文[xxv]の二つ(後に『日本政治思想史研究』に収録)だけ簡単に見ておこう。ここでは、丸山が「近代」をどのように語り始めるかという点、その語りを戦後の思索の伏線として捉えるという観点から、要点だけを拾っていきたい。[xxvi]

近代の見つけ方

 徂徠論文の趣旨について、丸山は次のように述べている。

 

今の考え方とは違いますけど、そのときの考え方に立つなら、江戸時代における正統的な世界観であった朱子学が、どのように変容し、解体して、それに対する否定者によって取って代わられるようになったのかと。また、儒教内部の変容を、国学がどういうように受け継いだかを取り扱って、江戸時代における政治思想史のダイナミズムを書こうとした。[xxvii](傍線引用者)

 

丸山は近代の「超克」が声高に叫ばれるなかで、徳川社会における近代的要素の成熟に注目することによって、これに対抗しようとしたという。[xxviii]それは具体的には「朱子学的な世界観」の「解体」に見出された。[xxix]ではそれはどのように解体されていくのか。この問題に対して、徂徠に「政治の発見」者として東洋のマキャベリの称号を与える丸山[xxx]は、そうした儒教の政治化がその「根拠」への問いを惹起し、それを担保するため彼岸性を帯びた絶対的人格が要請されたと述べる。そして丸山はこれが引き金となって徂徠学において学問における公・私の分岐が実現されたと指摘する。要するに、もともとの朱子学は、聖人の道に誰でも至れるというオプティミズムと、それゆえに規範をとやかく言うリゴリズムとの共存であったが、徂徠において先王の道が彼岸的に超越化されたために、「政治の発見」という徂徠学の特徴は公的な方向へ、一方でそれ以外のものはリゴリズムからの解放とともに歴史意識が興隆し学問的に広がりを見せたということであり、その私的な側面の継承者が宣長国学であるということだが、モチーフがわからないと理解しづらい。[xxxi]

すなわちそこにあるのは、「人間の認識能力に広汎な制限を附与し、従来理性的認識の対象たりし多くの事項を信仰の領域に割譲することによって、一方に於て宗教改革を準備すると共に、他方に於て自然科学の勃興への路を開いた」「後期スコラ哲学の果たした役割」を「徂徠学や宣長学に於ける『非合理主義』」に見出すという着想である。[xxxii]そして、このような体系によって生まれた種々の学問的関心とその発展という「文化価値の自律性」こそ丸山がみていた「分裂せる意識」としての近代意識の特徴であった。丸山はそこに、封建社会に対抗する主体形成の逆説的な出現を捉えようとする。

このように徂徠論文で語られているのは、徂徠・宣長に与えられたスコラ哲学的役割とその帰結としての公私の分岐にみられる近代意識の萌芽であるが、もはやこうした視座が、作為論文の結末を規定してしまっている。このことは作為論文における「無からの作為」という命題に注目してみると、わかりやすい。[xxxiii]さらに言えば、この当時の丸山本人は知る由もないが、後でみるその後の本店の思索の結末もこれを規定している。どういうことか。それは例えば、作為論文における「神と世界との関係」をめぐる三段論法を一瞥すれば事足りる。

丸山は作為論文において「近代国家論の重要な概念はすべて神学的概念の俗化したものである」というシュミットの命題を掲げ、中世的世界の崩壊をうけた後の君主の性格のモデルを与えたのは「神と世界との関係」であるとし、スコラ哲学からデカルトに至る哲学史を語り始めるが、結局それは徂徠論文においてすでに語られていることであり、また、そのなかで導かれるのは次の方程式である。

 

デカルトの神」=「絶対君主の理念型」・・・①[xxxiv]

「徂徠における聖人」=「絶対君主」・・・②[xxxv]

 

すると、理屈の上では、①、②の式より、

 

デカルトの神」=「徂徠における聖人」・・・③[xxxvi]となる。

 

この時点で、日本においてキリスト教に代わる絶対者の存在が具体的(現実的)にありうるかと問えば、それまでの話になるが、むしろこの意識(可能性)としての絶対者が消滅する過程が六〇年代の『講義』において丸山本人によって語られているのである。[xxxvii]

西欧政治思想史と日本政治思想史をパラレルなものとして考えた場合、確かに「公私の分離」という点では同じだが、西欧では公と私が双生児として生まれ、宗教的倫理がこれを担保しているのに対し、日本の場合、公の突出と私の自閉性という問題がどうしても拭い切れない。このように宗教的倫理が持つ主体形成原理をはっきりと自覚しないまま行われた思索による「近代」探しは、結局のところ挫折している。しかし、この挫折は丸山の思想の展開を考えたとき、それは単なる破綻ではなく、思索の深化の伏線にほかならなかった。(続く)

 

 註

[i] 『回顧』上、一五五~一五六頁。大学二年のときの出題者は蝋山政道。出題は「デモクラシーの危機を論ず」。このときの勉強が後に役に立ったと後年語っている。

「そのころ、二年と三年のときに、一生懸命勉強して緑会の懸賞論文を出そうとしたことは、ぼくにとって非常によかった。国家論と政治学は、ほとんどこの機会に読みました。英語またはドイツ語、および日本語も含めて。その後、日本政治思想史をやっていたから、漢文の勉強のほうが忙しくて、なかなか政治学の勉強ができないのです。だから、学生のときにそういう勉強をやっておいたのは、非常によかった。」(『回顧』上、一五八頁)

 

 

[ii] 『集』一(通称、「緑会論文」)

[iii] 『回顧』上、一五七頁

 

[iv] 成績は「第二席A(第一席該当なし)」南原の評価:「・・・かゝる考え方に根拠して一箇 の体系としての政治学が如何に立てられるか、又筆者が要請する如き新な国家概念が歴史的社会的地盤との関係に於て如何に在るのか、に就いて重要なる問題が存するであらう。然し、それとして一つの纏つた論作であり、基礎的文献をよく咀嚼し、刻念なる研究と相俟つて、就中ファシズム国家のイデオロギーの分析に於て徹つたものがあり、叙述又内容に富み、蓋し今回提出せられた論文中優れた一篇たるを失はぬ」(『集』一、三二頁、傍線引用者)

 

[v] 「南原先生を師として」一九七五『集』十、一七五‐一七六頁

[vi] 『集』一、三一頁

[vii] まず丸山自身は、以下のように述べている。

 

あの論文はつまらんものですけれど、最後の結論のところでね、ぼくは「今の全体主義はダメだ」と書いた。それは本当の全体主義ではない、「弁証法全体主義」でなきゃあいかん、と書いているわけです。あのころぼくは非常にマルクス主義に近づいていました。マルクス主義ではなかったけれども(体系としてのマルクス主義の哲学にはいろいろ疑問をもっていましたから)。だけど、「弁証法全体主義」といったとき、かなりマルクス主義的なものを予想していたのは事実です。それはファッショの側がさかんに「全体主義」を高唱したので、こっちも勢い全体主義というコトバを用いて、今のファシズムには矛盾の論理がないからあの全体主義はニセモノだ、といおうとしたのです。そのときに、南原先生が、「筆者のいう弁証法全体主義の社会的基礎は何なんだ」と、問うているわけですね(笑)。これは、まいったね、ぼくは。もうあの時代には、その基礎はプロレタリアートだとは、ハッキリ言えないわけです。(『座談』九、二〇〇頁、傍線引用者)

 

こうした丸山の証言を踏まえて、松沢弘陽は「社会主義」と解す。

マルクス主義をくぐった丸山が「弁証法的な全体主義」によって意味したのは、「世界を風靡している・・・・・・」「今日の全体主義」に替わるべき社会主義だった。

(松沢弘陽「丸山眞男における近・現代批判と伝統の問題」『思想史家丸山眞男ぺりかん社、二〇〇二年、二七四頁)

都築勉はそこにヘーゲルをみる。

若き日の丸山は、この論文で「あらゆる社会的拘束から脱却した自由平等な個人」を単位とする個人主義的な、また合理主義的な、そうした意味での「市民的国家観」の歴史的限界を説いている。そして、「弁証法的な全体主義」というのは社会主義を暗示すると思われるが、この「弁証法」は個人と国家の関係においてこそ働くと思われるから、結局、丸山の求めたものは両者の間のいわば自由と結合の弁証法的過程であったと考えることができる。ここに浮びあがるのは、マルクスよりもむしろヘーゲルの姿ではあるまいか。一九四六年に書かれたある文章の中で、丸山はヘーゲルについて、「その行きついた所はプロシア的な立憲君主制の讃美ではあったが、ヘーゲルが最も反動化した時代に於ても、〝主体性の原理〟すなはち個人の主体的自由は決して見失はれてゐない」と述べているが、そこでヘーゲルの課題としていわれている「近代国家に於ける自由の基礎づけ」こそは、研究者生活に入ったときの丸山自身の「所与」の問題関心であったと考えられる。(都築勉『戦後日本の知識人―丸山眞男の時代』世織書房、一九九五年、四六頁)

 

異色なのは今井弘道の『丸山眞男研究序説―「弁証法的な全体主義」から「八・一五革命説」へ』(風行社、二〇〇四年)における解釈で、今井は同書の中で丸山のいう「弁証法的な全体主義」は「田辺哲学」であるという。少し今井の解釈をみてみよう。

今井は、戦間期法哲学的/政治哲学的思想世界は、「法哲学的カント主義」と「法哲学ヘーゲル主義」との正面衝突の時代であり、両陣営は、文字通りの意味で「神々の闘争」を闘っていた(同書、一三三頁)という。(ここでは、「法哲学的カント主義」は「個人的人格価値を最高の価値と見る」立場。「法哲学ヘーゲル主義」は「政治的=集団的価値を個人人格価値とは独立の意味をもった、場合によっては個人人格的価値を越えた価値をもつ立場」と説明されている。同一三三頁)

 今井によると、丸山は、前者の立場であった南原に対し、後者の「法哲学ヘーゲル主義」の立場から緑会論文を執筆したという。(同一三四頁)そして、こうした立場から表明された「弁証法的な全体主義」は、単に「法哲学的カント主義」に対置された平板で没「弁証法」的な、ファシズム的国家観でもなく、個人の実践的主体性の強調を介した点で「機械論的な唯物論の方向に理解されたマルクス主義にはみられないダイナミックな革新性」があると今井はいう。(同一三七‐一三八頁)

 そして、今井は自身の田辺哲学理解を踏まえて、こうした「丸山の『弁証法的な全体主義』というモティーフは、ヘーゲル法哲学に依拠しつつマルクスを克服していった田辺哲学を踏襲するところに成立したものであった」(同一四三頁)と結論づけている。

また、今井が若い丸山を新ヘーゲル学派とみなすことを「馬鹿げた間違い」と一蹴する田口富久治は、丸山のいう「弁証法的な全体主義」を「人権と市民権の保証を獲得した自主独立の諸個人たる同市民が自発的に形成(作為)する脱資本主義的国民国家、「市民社会」の止揚の上に立つルソー的な自由な市民の自由な政治共同体」(前者強調田口、後者引用者)と解す。(田口富久治「丸山眞男 プロス・アンド・コンス」『政策科学』七巻一号〈通巻一四号〉立命館大学政策科学会、一九九九年十月、三頁)(なお、「弁証法的な全体主義」の解釈をめぐる田口の今井批判については、田口富久治『丸山眞男マルクスのはざまで』日本経済評論社、二〇〇五年、一七四‐一九四頁を参照のこと)

***

丸山の「弁証法的な全体主義」をめぐるこうした解釈については、私自身の勉強不足もあり、なんとも言えないが(学生時代の論文で丸山本人が言うようにそこまで考えていないというのが本当のとことだろうが)、本稿は丸山の思想が六〇年代において結実するという視点に立っているため、戦前期はその伏線において捉えるにとどめ、あえてここでは強いて単語の解釈に固執することはしない。

 

[viii]私は先生の哲学に対する(少なくも自分のつもりでは)真向からの反対者として、批判者として弟子入りした、ということであります。『自分のつもりで』といいましたのは、何といっても私は非常に未熟で理解が足りなかったのですが、先生の哲学は当時、少なからぬ有力な法学部教授の立場でもあった新カント派の、マールブルグ派の方法論とも、同じではなく、むしろ原カント、カントそのものの先生なりの理解に立ち、それを先生独自の哲学で修正或いは発展させたものであります。けれども、そういうことなどは到底私の理解の外にあり、先生の立場も十把一からげにして、こういう自由主義的思惟方法は時代の危機に対して無力である、ときめつけたわけであります。」(『集』十、一七六‐一七七頁、傍線引用者)

 

[ix] 『座談』七、一〇九‐一一〇頁

[x] もっとも、緑会論文における丸山の意図は学問上の「人民戦線」を構築することだったらしい。

けれど僕の意図は、こんなことを言うと笑われるかもしれないけれど、いかに僕がある意味で傲慢であったか・・・・・・。国家論の「人民戦線」をつくること。(笑)そういう当時のマルキシストでないリベラル左派というか、アンチ・ファシストのある空気を非常によく出していると思うのです。マルキストを含めて、学問上の「人民戦線」をつくろうという・・・・・・。これは戦後捨てましたけど。いろいろな経験を経て捨てました。(『話』二、四五二‐四五三頁)

 

[xi] 『回顧』上、二〇二頁

[xii]  決定的な体験として、丸山は度々、一高時代の留置場経験を挙げている。唯物論研究会の講演を長谷川如是閑の名前に誘われて偶々聞きに行って特高に捕まった話である。本富士警察署の留置場では戸谷敏之と一緒だった。「話がとだえたとき、ついポロポロッと涙を流してしまった。房と房の間でサインを交換してて、向うから『丸山、元気か』というサインが来る。こちらから『元気だ』ってまたサインを返してるわけですけどね、実は元気じゃないんだな。これで俺の一生はめちゃめちゃだと思った。この高校時代の二つの事件が、ぼくの内部にある実に大きな挫折なんだな。『俺はだらしない人間だ。いざとなると、平常、読書力などを誇っていたのが、ちっとも自分の支えになっていない』という挫折感を十代で経験したんです。」(『座談』七、五九頁、傍線引用者)取り調べでは「心の日記」と題した手帖に書き付けた丸山の言葉をいちいち引き合いに出されて論詰され殴られた。「取り調べの最中に、あまりすごいんで、特高の前でも泣き伏してしまった」(『回顧』上、五一頁)という。

傍線の「二つの事件」と言ったもう一つの事件は、唯物論研究会の講演で捕まる前の同じ年、二年生の丸山が一高の寮委員(庶務衛生委員)だったときに起こったボート部と寮の委員との衝突事件のことである。これも度々言及される有名な事件だが、この事件の委員会でついにノーと言えなかったことが深い心の傷になったと丸山は当時を振り返っている。「俺はなんてだらしのない人間なんだということ、いざというときノーと言えない人間だということ・・・・・・ですね。」(『座談』七、五九頁)丸山は当時を振り返って言う。

 

そうしたら、府立一中を四年終了でぼくより一年上になっているボート部員が、寮の委員長を殴ってしまった。そこで緊急委員会が開かれた。委員会は、自分が関係している事件なので退席し、副委員長が議長になって議事が進行する。副委員長が熱弁をふるったのです。「暴力をもって寮の自治を犯したのだ」、極刑に値すると。論理は全くその通りなんです。非はボート部にあることは明らかです。ただ、極刑といっても、退寮処分にすると学校も退学になってしまう。それで、何回か委員会をやったけれども、結局委員会で極刑論が通ってしまったわけです。これは、ぼくの非常に大きな挫折なんだけれど、副委員長の熱弁に圧倒されてしまったのです。(中略)これは、ぼくにとって非常に大きな傷になった。ちょっと極刑はひどいじゃないかと思いながら、副委員長のまくし立てるのに押されて、ノーと言わなかった。後でいろいろ聞いてみると、寮の委員や総代会の議長になって、そういう意味で精神的に傷を受けたのが多いのです。ティーンエージャーの子どもにとって、セリフガバメントというのは、あまりに重い課題なんです。(『回顧』上、六二‐六三頁)

 

そんな丸山は、一中の頃の自分がいちばん許せないという。「一中の会には、ずっと出なかった。一中そのものも嫌いだし、一中にいる自分が嫌いという感じ。」(『回顧』上、四八頁)こうした一中の頃の自己嫌悪は、唯物論研究会で捕まった事件をきっかけに自己を省みた結果であった。「自己分析というか自己批判の結果、自分のだらしなさというか、自分の弱さというか・・・・・・。それは、正直のところ、中学の時はあまり感じていなかった。後から顧みて『さぞ、いやな子に映ったろうな』ということで、その当時ではないのです。」(『回顧』上、五三頁)「生意気な口をきいていた自分がこういう目にあったときに、日頃の読書とか知性とか、そういうものが何も自分を支えない。だから、一中時代の生意気な自分という自己嫌悪の感情は、そのときのだらしなさから逆に遡ったのかもしれない。」(『回顧』上、五一頁)という丸山の中学時代になにがあったのか。

 中学校で習志野に軍事訓練に行ったときです。宿舎で何かいたずらの騒ぎをおこして先生から集合を命ぜられたことがありました。そのとき、先生は「首謀者は前に出ろ」といいました。私はまぎれもなく首謀者―すくなくともその一人でしたが、先生の形相がこわくて出そびれてしまいました。そのかわりほかの生徒が先生に主犯と目せられ、実は大した役割をしていなかったのに、可哀そうに大目玉を喰ったのです。すくなくとも十何人かの級友はこの光景を目撃しています。どんなに彼等の目に私はずるがしこい卑怯者と映ったことでしょう。私はいまでも中学のクラス会にあまり出たくないのは、このときだけでなく、中学生時代の自分自身について後々までむかつきたくなるほど嫌悪感をもよおす思い出があるからです。(「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」『君たちはどう生きるか岩波文庫、一九八二年初版、三二一頁)

 完全にコペル君である。しかし、このような思い出話が、たんにコペル君の成長物語に終わらなかったのは、こうした自己体験が時代状況への認識とシンクロし、「戦争とその余波の狂瀾怒涛の時代にその全青春期を生きた一日本人の知的発展の記録」(『集』一二、四九頁)のモチーフとしてその仕事を規定したからである。こうした自己体験と時代状況への認識のシンクロのなかでオットー・ヴェルスの演説なども読まれていることに注目したい。

 このウェルズの演説を大学時代に知ったとき、あの日本のなだれをうった転向の過程で痛いほどの実感で受けとめました。(中略)ウェルズも社民なりのマルクス主義者で、エンゲルスが『反デューリング論』の中で、自由・平等の永遠普遍という理念がいかにブルジョワ的な歴史的成約を持っているかを論じているのを知らないはずはない。しかもここで彼はいかなる歴史的現実も永遠不滅の理念を破壊しえない、という信仰告白をしている。この瞬間での自由と社会主義への帰依は、歴史的現実へのもたれかかりからは絶対に出てこないし、学問的結論でもない。ギリギリのところでは「原理」というのはそういうものでしょう。(中略)あの状況の中でウェルズを支えたものは何か―それが私の脳裏にきざみつけられたんです。(中略)ただ、言葉ではいえないけれど、私は体験を通じて、やはり何かそういう「道理」の究極的な優越を信じてきましたね。一九三〇年代の終わりから四〇年代にかけて、私の学生時代にもインテリは観念のお化けで、現実を知らない、たんなる口舌の徒だ、といった形で、当時の自由主義知識人への批判がさかんでしたよ。私だって理性を信じっぱなしでなくて、いろいろ動揺しました。おれは十八世紀の啓蒙時代に生まれるべき人間じゃなかったか、どうも生まれるのが遅すぎたんじゃないかなどと・・・・・・。だけど体験を通じて、「道理」は通る、歴史の無理は結局通らない、なまじ「情報」なんかよりは、その感覚で判断しよう、というはなはだ非合理的な確信を強めましたね。(『座談』五、三一六‐三一七頁、傍線引用者)

 

[xiii] 丸山の考える「如是閑と南原の違い」については、『座談』九、一九九頁を参照。ここでは如是閑を「認識者、スペンサー的な進化論」、南原を「反進化論」と捉えて「結局ね、『価値判断』というものを自分の哲学のなかにどう位置づけるかということについていえば、如是閑の哲学のなかからは結局それは出てこなかったんじゃないか」(同、一九九頁)と言っていることに注目したい。そういう面で、丸山は南原の明確な価値判断と反進化論的態度に「震撼された」という。

 

[xiv] 『回顧』下、七〇‐七一頁

[xv] 『話』三、二〇八頁。とくに丸山が考えさせられたのはマルクス主義者の転向だという。

転向する人は、マルクス主義の中にあるMaterie[物質]、現実、歴史的現実、それから歴史的発展、歴史的必然性、そちらの方を重視した人は、必ずと言っていいほど転向しました。というのは、世界を見回してみても「現実」はまったくそれと反対の方向に行っているわけです。翻然として全体主義に行っているわけですね。これが「現実」じゃないか。だから、「自由主義から全体主義へ」というのは歴史的必然ではないか、という・・・・・・。その面で[マルクス主義を]受け入れている人は、大体まぁ、転向という言葉を使うかどうかは別として、考え方が変わりました。そうじゃなくて、マルクス主義を、ある意味で「規範」として、つまり「現実」と離れて、にもかかわらず真理は真理なんだという、規範として受け取った人は、非転向です。(『話』三、二〇七‐二〇八頁)

 

 

 新カント派についていえば、大学の学生時代はマルクス主義の影響を受けて、新カント派のいう文化の自律性ということには非常に懐疑的だった。だが学問なり文化の自律性ということをかたくなに主張する立場の強さというものをナチ・ドイツの下の学界や日本の実例で見、学問の自律性を否定し、学問が生活によって制約されるという考え方や党派性の主張がそのままファシズムを合理化する論拠になっていく例をたくさん見たときに、ぼくは随分考えさせられました。弁証法とか、観照よりも行動をといったスローガンが、ヴェクトルの方向だけかえて同じ人間を動かしている。同じラジカルといっても、行動様式のラジカリズムは思想の問題とは一応別に考えなければならないとか、そういう問題をいやおうなくつきつけられたんです。(『座談』四、一〇四頁)

 

[xvi] 『話』三、二〇八頁

[xvii] 『集』一五、二五三頁

[xviii] 『集』十、一九四頁

[xix] 『集』一五、一六三頁

[xx] 「本論の前奏にすぎない徳川時代の部分を書いている最中に、一九四四年七月はじめ、突如私に召集令状が舞いこみ、初年兵教育を受けるために、私ははるばる挑戦の平壌につれてゆかれた。この論文の叙述が幕末までで中絶しているのは、そのためである。召集令状を受けてから新宿駅を出発するまでに、まだ一週間の余裕があったので、私は、家を出る直前までこの原稿のまとめに集中していた。私がペンを走らせている室の窓の外には、私の『出征』を見送るために、日の丸の旗を手に続々集って来る隣人たちに、私の亡母と、結婚して僅か三ヶ月の妻とが、赤飯をつくってもてなしていた。その光景は、いまでも昨日のことのように脳裏に浮かんでくる。もしこの論文の調子にいくらかパセティックなところがあるとするならば、それはこうした緊迫した状況の下で書かれたこととおそらく無関係ではなかろう。一九四四年七月という時期に応召することは、生きてふたたび学究生活に戻れるという期待を私にほとんど断念させるに充分な条件であった。私はこの論文を『遺書』のつもりであとに残して行った。」(「『日本政治思想史研究』英語版への著者序文」一九八三年、『集』一二、九六頁)

 

[xxi] 『集』十、三四一頁

[xxii]南原繁フィヒテの政治哲学」を読んで」一九五九『集』八、一一〇頁

 

[xxiii] 「大は世界の動向から、小は周辺の具体的人間関係までをふくめて、もし経験的現実として目に映る世界がすべてになってしまって、それをこえた目に見えない権威―神であっても理性であっても「主義」であってもいい、とにかく見えざる権威によって自分がしばられているという感覚がなくなったら、結局は見える権威に―これまた政治権力であろうと、世論であろうと、評判であろうと―ひきずられるというのが、私の非合理的な確信なんです。」(『座談』五、三一五頁)という主体性をめぐる非合理的な確信が丸山の思想のモチーフである。こうした不合理的な確信は註六三のような体験のなかで育まれ、その後の思索のなかで普遍者の命題として問われることになる。

普遍者をめぐる命題は、学術的には、近代社会の〈成立〉をめぐって現われるが、(註二四)より具体的な形で思考されるのは六〇年代であり、『日本政治思想史研究』の場合は、後述するように前近代社会の〈崩壊〉に視座があるので具体的に問題関心にあがることはないが、「普遍者無き日本の近代化」をめぐる問題は「超国家主義の論理と心理」(一九四六)や「日本の思想」(一九五七)でも現れてはいる。要するに、前者では「普遍者無き日本の近代化」の末路が語られ、後者では方法論が語られている。そして、普遍者の可能性を日本の思想に探す作業が六〇年代の『講義』(四‐七冊)にほかならない。そして、この問題は、日本の近代化をめぐる問題でもあり、丸山自身の問題でもあった。それは、中学、高校、そして軍隊時代の自分のなさけなさ、醜さへの嫌悪、コンプレックスである。また、こうした体験から丸山政治学の方向性を規定する丸山眞男の政治観も生まれる。

 

[xxiv]「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」一九四〇『集』一

[xxv] 「近世日本政治思想史における『自然』と『作為』」一九四一『集』二

[xxvi] 『日本政治思想史研究』を取り上げた研究は枚挙に遑がないが、「要約」としては、さしあたり、その要点をうまく捉えたものとして都築勉「『日本政治思想史研究』を読む」『丸山眞男への道案内』(吉田書店、二〇一三年)が簡便である。又、歴史学からの「批判」については前述したように、本稿の趣旨からあえて取り上げることはしないが、一応、丸山学説を正面から取り上げたものとして、平石直昭「戦中・戦後徂徠論批判」『社会科学研究』(三九巻一号、一九八七年)だけ挙げておく。

 

[xxvii] 『自由』三九‐四〇頁

[xxviii] 「『日本政治思想史研究』あとがき」一九五二年(『集』五、二九〇頁)、「『日本政治思想史研究』英語版への著者序文」一九八三年(『集』一二、九四‐九五頁)

[xxix] 丸山がみた徳川社会とは、安定と停滞が取り違えられ、自然と規範が連続し、人間の自己意識が欠如した世界であった。

 

徳川時代の思想史なんかを勉強していて私が非常に感じたことは、ああいう封建社会の色々な学問、ないしイデオロギーというものに根本的に共通した特徴というものが感じられる。そのなかの、少なくとも一つとして、私はそこにおいて人間の自己意識ということが欠如しているということを感じたのです。これはどういうことかというと、人間が環境との乖離を感じていない、つまり自分の環境のなかにとけ込んでいるということなんですね。環境のなかにとけ込んでいるということは、自分の環境というものと自分がひとつづきになっている。つまり環境が客体として理解されているのではなくて、むしろ自分の身体の延長というか、そこに空間的な連続性がある訳です。そこで、そういう雰囲気のもとにおいては、人間の社会的な環境、人間をとり巻く社会的環境というものが結局自然的な環境、自然界というものに連続している。いいかえれば、社会秩序と自然秩序が同じものとして把握されている。(『座談』一、二七頁)

 

こうした意識は、当時支配的だった朱子学的思惟に求められ、丸山はその解体のなかに近代意識の成長を求めた。丸山は、こうしたモチーフを通じて「広くは日本社会の、狭くは日本思想の近代化の型、それが一方西欧に対し、他方アジア諸国に対してもつ特質を究明しようとした」(『集』五、二八七頁)という。

この点、問われるべきは冒頭にヘーゲル(シナ停滞論)が引用された理由だろう。これについては、まず当時「何故中国は近代化に失敗し、日本は成功したのか」という問題を考えていた丸山は、「中国の停滞性に対する日本の相対的進歩性という見地」について①「一面では正当さを含みながらも、他面では事態の不当な単純化に導く危険性」があると自己批判していること。(同、二八九頁)(丸山は一九八五年の段階でも「停滞と言うと価値判断が入るから、問題なんだけれども、やっぱり再生されて、毛沢東まで続いていると思いますね。」〈『話』二、三六四頁〉と述べている。)そして、一九五二年の「あとがき」の段階では、②「カッコ付の近代を経験した日本と、それが成功しなかった中国とにおいて、大衆的地盤での近代化という点では、今日まさに逆の対比が生れつつある」(『集』五、二八九‐二九〇頁)という認識を示していること、の二点を確認したい。

 

ヘーゲルの引用については、丸山は次のように述べている。

  

書き出しでヘーゲルの停滞論から始めたというのは、後の日本の思想史が、封建制の賛美ばかりに見えるけれども、よく見るとその中に見えない過程で自己否定の契機が育っているということを書きたかったということが一つ。もう一つは、つまりこれは明治以後の日本の儒学者に対する私の非常なアンティパシィ(antipathy)というのかな、反情があるんです。それは、さっき言った儒教なんです。日中を儒教でくくるんですよ。それで東洋精神というのは儒教精神。日中は兄弟であるというのは儒教精神で同じだという、そういうのが非常に強かった。反動的な時代だったですから、同時に東亜共同体論にもなるわけです。それで日本の間違いは明治維新の時にヨーロッパ文化を取り入れたことだ、これが日本浪漫派の人たちの主たる主張です。日本の今日の根本的誤りは西洋のものを取り入れたことにあるということ。儒教信仰とか皇道信仰とか、もういろいろな本がたくさん―僕もたくさん持っていますけれど、お目にかけます―出て、それに対する〔私の〕非常な反感があった。したがってその当時の日本主義に対する反情が強かったあまり、今から思えば儒教に対して否定が強すぎた。儒教の中に自己否定的な契機がどうやって起こってくるのかということばかりに興味を持って、一つはマルクス主義の思想的な影響がありました。それで同時に東亜共同体論に対する批判があったわけです。それはちょっと説明するのが困難なぐらいです。つまり、同文同種というイデオロギーぐらい日中友好を妨げ、日本の侵略を合理化した観念はないんですよ。(『話』四、二六六‐二六七頁)

 

そして右の二点については丸山の中国観を考える必要があるだろう。丸山の中国観(ひいてはアジア観)については、「竹内好丸山眞男」という命題も含めて、様々な観点から今後考察されるべきだと思うが、ここでは本稿の趣旨を鑑みて、丸山の中国革命(一九四九年)への評価についてのみ触れておきたい。中国革命については、丸山が「modernization=westernizationという定式をはじめて完全にぶちこわしたのが、中国革命だ」(一九五五年の日記、『ノート』四二頁)と言っている点に注目したい。四九年の革命について丸山は竹内好とよく議論をしたという。

 

竹内好さんとよく議論しましたが、彼はマルクス・レーニン主義というのは道具で、民族独立が主だとしょっちゅう言っていました。僕は、いやいや、マルクス・レーニン主義にコミットしたことは画期的だと。僕は精神の面から言いますからね。中華帝国思想はマルクス・レーニン主義で打破された。マルクス・レーニン主義というのはあらゆる国家の上にある思想ですから。中華帝国思想が、世界的な普通的な思想にコミットしたのは初めてだと。それまでは天子が治めているのですから、自分が文化の中心でしょ。まるで富士山の上に自分がいるようなもので、あとは夷狄が周りにいるというのが、中国の世界像だった。この世界像が打破されるということは、やはりマルクス主義にコミットしなければできなかった。普遍的なイデオロギーにコミットしなければできなかったと言って、随分議論しました。(『話』四、三〇七‐三〇八頁)

 ここではマルクス・レーニン主義にコミットして中華帝国思想が打破されたことが評価されていることに注目したい。そして丸山が「キリスト教とかコミュニズムの場合は、なんといってもまず、一定の世界観があって、教会や党はその世界観に奉仕し、それを実現するための組織です。ところが、いわゆる大日本帝国の国体思想というのは、それをどう解釈するにせよ、はじめにロゴスありきではなくて、逆にはじめに一定の組織権力があって、その弁護論なんですね。」(『座談』六、四六‐四七頁)と言っていることを考えれば、傍線②の意味は自ずと明らかになる。こうした「普遍者の命題」が「近代化の非一義性」という命題の下、日本思想史において具体的に問われるのが後述する六〇年代の本店の思索にほかならない。

 

[xxx]  徂徠に注目した理由として、『回顧』で次のように回想していることにも注目。

 

ある意味では、ぼくに対する過大評価と悪口とが同時にくっついた批判の一つなのですが、政治を重くみて、政治的思惟の優位ということから、徂徠学を高く買った。そして政治思想というものを日本で、それ自身、独自に存在するものとして認めた、と。それは褒め言葉だけでなく、同時に江戸時代の思想史を歪曲したという批判にもなるのです。ぼくにとっては、非常に簡単なんですね。大学にいる人ならよくわかるんだけれど、ぼくが初めて東洋政治思想史を受け持って、非常に困った。東洋だけど、日本の政治思想ということにして江戸時代をやるとするでしょう。いろいろ読んでみるのだけれど、政治思想といえば君臣関係だけ。考え方として思想史にならない。君臣の義ということで何ら変化はないのです。国学にしたって、やはり君臣が対象ですね。でも何とかして東洋政治思想史の講座を担当して助手論文は書かねければならない。そうすると、徂徠学なんですね。修身斉家‐個人道徳の政治の手段化。これを中心におけば政治思想史になるわけです。徂徠の政治思想が立派だとかいうことではない。矢部貞治さんが、「政治の優位」という論文を戦時中に書きました。法に対して政治が優先するというナチの根本思想ですね。ぼくは、そういう考え方に反感をもっていました。だから、「政治的思惟の優位」ということを必要以上に強調したのは、明らかに助手論文執筆中の意識なんです。単に道徳論や倫理学説だけではなくて、日本にもこういう政治論があるぞ、と。その論文に、徂徠学における「政治の発見」といっていいだろうと書いたのですが、ぼくが徂徠学の中に発見して喜んだようなものです。ぼくにとっては大発見なのです。(『回顧』下、二一八‐二一九頁)

 

[xxxi]  丸山が津田左右吉宛の書簡(一九四〇年六月二一日)に「西洋の社会科学を専攻した者の眼に徳川時代の思想がいかに映じたかといふ点で、多少とも先生の御関心を惹くことが出来ましたら幸甚の至りです。」と書送っていることに注目。(『書簡』一、三頁)丸山は後年、そのモチーフを次のように述べている。

 

『プロ倫』は早く訳されたものですから、熟読しましたし、正直言って下敷きに使いました、『日本政治思想史研究』の。それからボルケナウですけれども。中世の超自然と自然が連続している段階から、超自然がますます超越的になってくる。だから「神の超越性」がますます強調されていく。そこでカルヴァニズムが出てくる。すると逆に、近代的な実証科学という、「この世」的なものがますます「この世」的になってくる。つまり、超自然との自然の連続性が断たれていく過程。これは面白いと思ったのですね。それで、今はちょっと自己批判をしていますけれど、この図式を使えると思ったわけです、〔荻生〕徂徠に。朱子学における「超自然」。超自然と言うとおかしいですけれど、形而上学と経験的なアプローチとの連続を、〔徂徠は〕徹底的に絶った。社会の経験的な考察というのは、大体古学のほうから出ているのです。その代表として、いわば政治を絶対化するわけです。デカルトやなんか、みんなそうなのですね、読んでみると。デカルトはもちろん徂徠と同じというのではないけれど、例えばデカルトの中に「神がもし欲したならば、二等辺三角形の内角の和は五角形にできただろう」と。(笑)つまり、「神は万能だ」という前提をとるとそうなる。そこで、神を徹底的に超越化すると、逆に彼岸的なものは、徹底的に実証的につかまえるという方向がでてくる。スコラ学というものが、そこで解体してくるわけです。その後、近代科学の成立がある。その過程において神が逆に利用されてくる。つまりスコラ学よりももっと絶対化、超越的なものになってくるという、僕は、それを政治の絶対化とパラレルに見ようとした。そこに無理もあるますけど、それが一つの動機なのです。だから、その過程で『プロ倫』は役立ちました。(『話』二、四一五‐四一六頁)

 

また、丸山は徂徠論文に関してボルケナウ『封建的世界像から市民的世界像へ』に学んだ点として「聖トマスにおける自然法の渾然とした体系が解体してゆく具体的過程の分析に大きく学んだ」と述べている。(「思想史の方法を模索して」『集』十巻、三二八頁)

 

頭にあったのは、スコラ自然学です。スコラ自然法と、儒教自然法とがパラレルになるのです。その解体過程を、ボルケナウなんかの影響で問題にしている。その場合の自然法は、むしろネガティヴな要素です。解体していく要素です。だから自然法から実定法へという過程。実定法というのは、だれか人間がつくったものだということでしょう。自然法は人間がつくったものではない。規範というものが自然に存在するのだという考え方から、人間がつくったのだという考え方へ転回する、これが近代なのだという。それを下敷きにして見ると、朱子学自然法の解体という考え方が出てくる。ですから、ネガティヴな考えで、のちに関心となった自然権とは全く結びつかない。(『回顧』上、二五九‐二六〇頁)

 

このようにボルケナウのモチーフが徳川時代に投影され、自然と規範の連続性が解体していく様子が描かれる徂徠論文だが、後述するように、それが前近代世界の〈崩壊〉に視座がある限り、そこには「キリスト教」に代わるものが日本にはないという事実の深刻さは表現されていない。しかし、作為論文の結論は、もはや初めからこの問題

によって規定されていたのである。ちなみに、ウェーバーの『プロ倫』は和辻哲郎の「現代日本と町人根性」(『和辻哲郎全集』四巻に収録)への反駁に役立ち―江戸町人の歴史的位置づけに関しては丸山は後年もこれに自信を持っていた(『書簡』三、二三三頁)―マンハイムに関しては、「なぜ丸山はマルクス主義者にならなかったのか」という命題について「マルクス主義イデオロギー論の問題性」について語る際、ボルケナウがマルクス主義的認識論に依拠していることの逆説的な「悲劇」(『集』十、三二九頁)が指摘され、この「悲劇」こそマンハイムの思想史的方法を感受する契機となったという。

[xxxii] 『集』一、三〇一頁

[xxxiii] 田中久文は「西田哲学の問題意識を一部受け継ぎながらも、それを戦後において新たな形で克服していこうとした思想家として丸山眞男を取り上げてみたい」と述べ、丸山の「無」からの作為」は三木清の哲学を徹底化させたものだとし、その後、その考えがニヒリズムを抱え込むことに気づき、その立場を変え、普遍者の再評価に至るとしているが(田中久文「西田幾多郎から丸山眞男へ」『日本の哲学』第十号、昭和堂、二〇〇九)、筆者は、丸山が『日本政治思想史研究』の「あとがき」で「正統的なイデオロギーの解体過程を裏返せばそのまま近代的なイデオロギーの成熟になるという機械的な偏向に陥ってしまった」「封建的イデオロギーを内部から解体させる思想的契機を以て直ちに近代意識の表徴とは看做し難い。それはむしろ本来の近代意識の成熟を準備する前提条件とでもいうべきものである。」(『集』五、二九〇頁)と自己反省しているように、結局のところ、無からの作為という命題は、戦前の思索は前近代世界の〈崩壊〉に視座があるため、そこから演繹される「崩壊」と「成立」の位相の違いから必然的に「普遍者」が宙に浮いたこと(普遍者を媒介にした「成立」という問題まで思考を徹底化されなかったこと)からくる結果論的な帰結であると捉えたい。

 

[xxxiv]デカルトの神に比すべき地位に立ち、自己の背後に、自己が服従し実現すべきいかなる規範的理念をも蔵せざる絶対的主体として一切の規範秩序を自由意識よりして制定し、法・不法を区別する政治的決断を自己の手に独占する政治的支配者とはまぎれもなく、近世初期の絶対君主の理念型ではないか」(『集』二、四七頁)

 

[xxxv]「絶対君主」=「自己の背後になんらの規範的拘束を持たずして逆に一切の規範に対する主体的作為者の立場に立った最初の歴史的人格」(『集』二、四三頁)このとき、「自然的秩序思想の転換に際して、彼方に於て神の営んだ役割こそ、此処徂徠学に於ける聖人の役割にほかならぬ」(『集』二、四七頁)であることに注目。

 

[xxxvi] 「秩序に内在し、秩序を前提にしていた人間に逆に秩序に対する主体性を与えるためには、まずあらゆる被人格的なイデーの優位を排除し、一切の価値判断から自由な人格、彼の現実性そのものが窮極の根拠でありそれ以上の価値的遡及を許さざる如き人格、を思惟の出発点に置かなければならぬ。このいわば最初の人格が絶対化されることは、作為的秩序思想の確立に於ける殆ど不可避的な迂路である。とくに朱子学が自然的秩序思想として徹底していただけにイデーのペルゾーンに対する優位性は強靭であり、従ってそれだけ又、之を顛倒さすべき人格は絶対化される必然性をもっていた。この点、クリスト教的創造神の観念が有機的思惟乃至自然的秩序思想の徹底化を制約していたヨーロッパに於ける場合に比して、徂徠の果すべき思想史的使命は遥かに困難であったという事が出来る。かくしてはじめて、徂徠が聖人観念からあらゆるイデア性を払拭して之を現実化したこと、聖人の道を「理」を以て推す事を以て聖人の冒涜として激しく拒否したこと、先験的な正邪の存在を否定し、「先王の道に循ふ、之を正と謂ひ、先王の道に循はざる、之を邪と謂ふ」(弁明、上)という、ホッブスのAutoritas,non veritas,facit legem[真理に非ずして権威が法を作る]を思わしめる如き命題を立てたこと、―こうした論理的工作のもつ客観的意義が生々しい価値を帯びて再認識されるのである。」(『集』二、四七‐四八頁)

 もっとも、後年丸山自身、「『自然と作為』にホッブスを用いたのも、今になって見れば強引すぎ、ホッブスにも徂徠にも気の毒をした」(『書簡』三、一三〇頁、一九八三年一月三一日付)と述べている。

 

[xxxvii] もっとも、この作為論文の最後で丸山は「危機の時代」における徂徠以降の「作為」の可能性をいくつか挙げながらも(安藤昌益、本多利明、佐藤信淵、海保青陵) 「徂徠学の制度建立の要請は夫々これらの思想家に受継がれて、著しくその内容を豊にし、そこに近代的なるものも混入した。その限りでそれは作為の立場の具体的発展ではあった。だが同時に此等を通じて、作為の立場そのものの理論的展開は殆ど全く見られなかった。徂徠学的『作為』の理論的制約―作為する主体が聖人或は徳川将軍という如き特定の人格に限定されていること―はまた彼等のものでもあった。いな、この制約は徂徠学以後我々が辿って来た「作為」の立場のすべてに執拗に附纏っていた。云い換えれば、そこには『人作説』(=社会契約説)への進展の契機が全く欠如していたのである。」(『集』二、一〇七頁)とちゃんとそのオチに言及している。