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加藤周一『日本文学史序説』(6)

五.加藤の表現(日本文学史

 加藤は1200年に及ぶ日本文学の歴史を〈土着〉という即自的な自我が〈外来〉という他者を通じて対自化され、相互の交流を通じて創造的な自我(藝術)が生まれる過程―それはさながらヘーゲルの『精神現象学』を髣髴させる―を描く。まず論じられるのは、9世紀以前の即時的な土着世界についてである。そこで語られるのは「仏国土は遠かったが、恋のなかに『生きがい』」をみつけた万葉人の世界である。そこでは共同体内部の中で生きる身近な人々への素朴な愛情が詠われていた。

 

日本の土着思想(または土着の感受性)の焦点は、決して「自然」ではなく、何よりまず「恋」であった。(中略)此岸的世界、その中心に男女関係をおく感情生活は、ここでこそ徹底していたのである。[i]

 

この時代の文学を加藤は次のように小括している。

 

抒情詩の中心が恋の歌であることには変化がなく、そこにあらわれた世界観が徹底して此岸的であり、当人の今。此処における感情の動きに従い、どういう種類の超越的な原理や価値をも介入させようとしていないという点では、七世紀およびそれ以前から伝統の枠のなかにとどまる。天平仏教美術黄金時代にさえも、仏教の彼岸思想は、貴族支配層の心を捉えていなかった。(中略)かくして七世紀から八世紀へかけての支配層の文学は、土着の此岸的世界観の枠組のなかで、現世享楽主義へ向い、短詩形のなかで、身辺の日常的光景に題材を限定しながら、その感覚を洗練する傾向を示していたのである。[ii]

 

そして、加藤が最初の転換期と位置づける九世紀には何が起こったのか。この時代に起きた大きな変化は、藤原氏の権力独占を背景に、政治的に没落した貴族の中からある一定の知識人集団が形成されたこと。そして、完結した土着世界のなかにあって、知識人の内部に分化現象が生じたことである。加藤はこれを、外来思想にコミットしながら、詩人の生涯そのものを文学の題材として、一人の人間の生涯の全体の意味を意識し得た菅原道真(道真型)と、誰よりも深く土着世界に根ざしていた紀貫之(貫之型)という、二人の知識人に代表させている。

しかし、土着世界の分化現象は、知識人の一部に起きた現象であり、道真のような一部を除いた貴族と大衆は、土着世界のなかに浸っていた。こうした多くの知識人と大衆が共有した土着世界をよく反映しているのが『日本霊異記』である。そこにあるのは、仏教という外来思想の「日本化」ではなく粉砕であった。同じ時代を生きた空海(774‐834)の世界は、土着世界とは決して交わらなかった。この時代においては、むきだしの土着と外来思想が、互いに交じり合うことなく無造作に並立しているのでみである。

 

日本霊異記』の世界は、仏教の「日本化」というよりも、土着思想が仏教をほとんど解体し、拡散させ、装飾的効果に還元しようとしていた世界であった。九世紀の精神的日本のすべては、まさに、『十住心論』と『日本霊異記』の両極の間に考えられるのである。[iii]

 

土着と外来が交わることのなかったこの時代に起きたのは、土着世界の中で美的意識が洗練され、『古今集』に代表されるような美的感受性の型が成立したことであった。貴族支配層が生んだこの美的感受性の型は、貴族による支配が終焉した後も、長く日本文化に生き続けることになる。[iv]

その次の時代(10‐12C)になると、9世紀に分化した貫之型と道真型という二つの知識人による文学が再び接近する。それは、土着世界という枠組を前提としつつ、完全に分化していた土着と外来が、貴族社会において徐々に洗練されていったこと。すなわち、「日本化」された外来思想を用いた高密度の美的世界の構築が進んだことを意味する。これが『源氏物語』の世界である。他方には、『今昔物語』が描く大衆の土着世界が広がっていた。この時代は、仏教的な支配層と非仏教的な大衆が、「日本化」された仏教を媒介として向き合った時代であり、土着世界の中でそれぞれ立ち上がった支配層の文学と大衆の文学が、近寄りつつも互いに屹立していた時代であった。

 

一方には、「日本化」された外来思想の枠組を用いながら、土着の感受性を、極端に閉鎖的な環境のなかで洗練した文学があり、他方には、土着の世界観を背景とし、実生活上の知恵を、同時代の大衆とのつながりを通して徹底させた文学がある。平安時代が『源氏物語』と『今昔物語』の時代であったとすれば(中略)、その二面性こそは、まさに、時代の文化の社会的(貴族知識人と大衆)また思想的(外来思想と土着世界観)な二面性の内化に他ならない。[v]

 

そして日本社会に再び転換期が訪れる。それが13世紀の「鎌倉仏教」の時代である。

 

「鎌倉仏教」は、日本の土着世界観の幾世紀もの持続に、深く打ちこまれた楔であった。その影響がいかに拡り、いかに展開していったかということの裡に、鎌倉時代の、さらに室町時代にまで及ぶところの、もしそれを一括して「中世」と称ぶとすれば、まさに「中世」文化の問題の眼目があるだろう。[vi]

 

確かに鎌倉仏教は日本の土着世界に楔を打ち込んだ。しかしそのために土着思想の全体が変わったのでは決してなかった。加藤の日本文化史における仏教の意味は、むしろ次の時代において開花する。それよりも、この時代に起きた出来事として加藤が強調するのは、従来の貴族文学に代表されるような「作者即読者の文学」から「作者と読者の分離した文学」への移行がおこったことである。完結した土着世界は徐々に分化しつつ、それが〈文学〉(藝術)を通じて再びつながっていく。その次の時代、中世後期(14‐16C)において、「知識人即芸術家」の時代は終焉し、この流れは決定的となる。この時代は、世俗化した仏教が藝術を生み、そうした藝術を介して支配層と大衆の世界がもっとも近づいた時代であった。

 

十三世紀に興った禅宗が武士支配層に支持されると共に、世俗化したこと。その世俗化の内容は、主として藝術化であって、代表的な例は、一四、五世紀の五山の詩文の隆盛と水墨画の発達である。また一六世紀にあらわれた「侘び」の茶も、同じ系統に属するだろう。(中略)室町時代は、鎌倉時代の宗教的な禅を、一方で政治権力にむすびつけると共に、他方では文学藝術に転化したのである。(中略)貴族知識人がそのまま藝術家であるのを原則とした時代が終り、室町幕府そのものに典型的なように、武士支配層の保護のもとで専門の藝術化が、文化の担い手として、輩出するようになったこと。専門の藝術家の出身階級は、多岐にわたる。その仕事の受けとり手は、一方では貴族および武士の支配層であり、他方では農民・商人・下級武士を含む大衆であったらしい。[vii]

 

鎌倉仏教は土着世界を破らなかったが、禅は藝術として開花した。この時代に起こったことは、世俗化した宗教を介した土着世界の内面化に他ならない。

 

土着思想の特徴は、此岸性であり、日常性である。此岸的・日常的世界の内面化は、今、此処における「我が心」である。仏教が「我が心」の状態に還元され―そのために禅が役立ち得ることはいうまでもない―(中略)別の言葉でいえば、外来の「イデオロギー」は、ここでも土着世界観の構造を、その超越的性格によって破壊し、つくり変えるために役立ったのではなく、知的に洗練するために役立ったのであり、その知的洗練の内容が日常的此岸性の内面化にほかならなかった[viii]

 

かくして鎌倉時代以後の禅宗は、一方ではその寺院が、政治権力と癒着し、他方ではその思想が、文学となり、絵画となり、遂に一種の美的生活様式となり、独自の美的価値に化した。室町時代の文化に禅宗が影響したのではなく、禅宗室町時代の文化になったのである。すなわち宗教的な禅の、政治化と美学化を内容とする世俗化。何がこの世俗化を推進したか。おそらく日本人の意識の深層に持続していた―鎌倉仏教にも拘らず―此岸的・世俗的・土着世界観以外のものではなかったろう[ix]

 

室町文化(中世)とは土着と外来の触発と融合の開花であった。それは「土着世界の内面化」=「日本における個人主義」の可能性に満ちていた時代である。例えば、無常の世の中において「一人たのしむという解決法」を生み出すことで「たった一人で日本の土着世界観を内面化しようとしていた」兼好や、禅宗の世俗化の時代に「外来の『イデオロギー』を肉体化し、その宗教性を、放法無頼の生活として生き、肉体的な愛の裡に感覚的な陶酔として経験し、独創的で孤独な詩的世界をつくりあげた」一休の存在がそれを物語っている。

特に加藤が強調したのは、この時代に起きた支配者と大衆の文化的な交錯である。その象徴が能と狂言であった。加藤は次のように言う。

 

一四・五世紀における文学(また藝術)の受けとり手の拡大は、文学の生産者(または藝人)の専門化を促進し、独立の職業としての藝術家が、宮廷や寺社のみならず、足利将軍家および地方の封建領主の庇護のもとに、輩出するに到った。その典型的な例は、すでに触れたように画家であり(たとえば雪舟)、また連歌師であり、能狂言の俳優=作者である。連歌は宮廷貴族の文化が大衆化したものであり、能狂言はもと大衆の間の見世物が洗練されて支配層の支持を得たものである。前者は、文化の上から下への普及を、後者は下から上への吹上げを代表する。このような支配層と大衆の文化的交流に決定的な役割を演じたのが、連歌師であり、能狂言の役者であった[x]

 

日本の一四・五世紀に、すなわち内乱と一揆の時代に、なぜこのような劃期的なことがおこったか。おそらくそれ以前に藝術家を生みだしてきた階層とは全く異なる階層から、藝術家があらわれるようになったからであろう。(中略)「猿楽」を、一時代の文化の頂点にまで洗練したのは、貴族や武士上層から出た知識人ではなく、大衆から出た藝術家であった。たしかに連歌師たちも、大衆のなかから出てきたのだが、能・狂言の作家=役者が彼らと異るのは、連歌師が本来貴族の文学を大衆化したのに対し、能・狂言の作者=役者は、本来大衆の演藝を貴族化したからである。文化の下降・拡散に対する上昇・洗練の過程。(中略)支配階級と大衆とが同じ時に同じ場所で同じ娯楽に興じたということは、この時代の以前になく、以後にも、おそらく最近の「大衆社会」が成立するまでなかったから、注目に値するだろう。けだし「猿楽」の内容が、一方では平安朝以来の貴族文化―成上り武士支配層もそこに憧れていた―につながり、他方では大衆の日常生活に係らざるをえなかったのは、そのためである。[xi]

 

こうした加藤の中世文化への評価を象徴するのが世阿弥(1363‐1443)である。

 

世阿弥があらわれたときに、仏教そのものは世俗化していたのだから、彼の藝術が宗教の影響をうけたというよりも、彼において宗教が藝術となったというべきである。あるいは仏教の超越的思想が、日本の一三世紀には宗教として、一五世紀には藝術として、深く受け入れられ、創造的になったということもできる。そういうことは、全く此岸的な平安朝貴族の世俗的文化の延長上には―たとい連歌の場合のようにそれが大衆の方へ向ってどれほど遠く延長されようとも―、成立しえなかったにちがいない。「能」、つまり「猿楽」の起源が、貴族の世界とは別のところにあって、はじめて可能であったはずである。大衆が仏教的であったのではない。大衆のなかから出てきて、知的上流階級と接することのできた藝術家だけが、仏教の世俗化の潮流のなかで、彼岸思想を人間化し、藝術化し、文学化することができたのである[xii]

 

再び日本に転換期が訪れたのは16C半から17C半にかけてちょうど近世社会の成立期にあたる。この時代に起きた変化とは、加藤が描く中世と近世の違いに還元できよう。それは大きな流れで言えば、〈藝術〉を介して一度は近づいた大衆と知識人(貴族→武家)の世界が再び離れ、それが固定化したことにあった。これまでの歴史は、「土着世界」によって「日本化」された「外来思想」が、同時に「土着思想」を知的にあるいは美的に洗練することで「土着思想」そのものが内面化されていく歴史であり、その頂点が室町文化であった。それは大衆と知識人の世界が〈藝術〉を介して互いにもっとも接近した瞬間でもあった。これに対して、一度近づいた両者が再び離れたのが江戸文化であり、さらにこれが、江戸後期(18C~)に到るとこれまでの「外来⇄土着」という流れから「土着→外来」という流れへと一方的な逆流が生じるようになる。こうした潮目の変化の結節点にいる知識人こそ本居宣長(1730‐1801)その人であった。

こうしたベクトル変化の背景にあるのは何か。それは、仏教といった超越的思想が藝術的創造の源泉たることをやめ、土着と外来の創造的拮抗と求心力が失われ、さらにはそれぞれに固定化された社会的階層に応じて、藝術が細分化されていかざるを得なかった時代において生じた「藝術の世俗化」という現象である。こうして本来土着が持っている磁力にひきづられる形で文化の流れに変化が生じる。[xiii]

そして長い江戸が終り、時代は再び転換期を迎える。それが加藤の文学史における四度目の転換期であり、それは日本における近代社会の形成期であった。日本の近代文学に対する加藤の評価は、まず、土着世界にどっぷりと浸かった自閉的な私小説の伝統に対する強い否定に特徴づけられる。[xiv]こうした土着世界に根ざした私小説の根強い伝統のなかにあって、加藤は「西洋の歴史的な挑戦を内面化し、二つの文化の対立をみずから生きることで、それを創造力に転化」[xv]した作家たちに日本における個人主義の型を見出していく。加藤は近代文学の見取り図を次のように語っている。

 

内村鑑三正宗白鳥。その間に森鴎外夏目漱石の世界があった。またたとえば、宮本百合子川端康成。その間に小林秀雄石川淳が位置づけられる。白鳥や康成に西洋文学の影響がなかったのではないが、その著作にあらわれた世界観は、全く土着の伝統に従う。その意味で鑑三におけるキリスト教、百合子におけるマルクス主義とは対照的であった。鴎外や漱石の場合、おそらく小林秀雄石川淳の場合にも、その世界観は土着の型ではない。そこには共通の、宗教的な信仰を媒介としないところの、一種の個人主義があり、その個人主義には、歴史的な社会および文化の全体との関係において、それ自身を定義しようとする傾向がある。その傾向は少なくとも潜在的な包括性を意味するにちがいない。しかしその世界観の構造は、鑑三の神や百合子の歴史に相当する超越的な全体者を含まない。(中略)「日本化」された西洋思想と、その文学。西洋文学の技術的な影響と、西洋思想の影響のもとにおこった作家の世界観の変化とを区別することにより、おそらく近代文学の歴史にも新しい見透しをあたえることができるだろう。[xvi]

 

加藤が発見した近代文学における個人主義の意味や妥当性の検討は本稿の範囲を超える。それは、もはや加藤の問題というよりは、日本における近代の問題であろう。

以上が加藤の文学史の簡単な流れであるが、このように、加藤周一は『序説』において「土着世界観への外部からの超越的世界観の挑戦と、後者の内在化と同時にその世俗化・非超越化の多層的な表現としての歴史」[xvii]を描いた。そしてそれは、加藤周一なりの日本における個人主義の可能性の検討であった。

 

おわりに

最後に総括して終わりたい。加藤周一とは何だったのか。加藤のデモクラシー論の特徴は、デモクラシー成立の前提となる「個人主義」を、キリスト教といったような超越的倫理によって内面化されたものとしてではなく、あらゆる前提を排除した、自己の「確かさ」の探求において考えたことにある。それはすなわち、何者にも還元不可能な〈個〉というものをみつめる作業(観心)であったといってよい。こうした〈個〉の非還元性は、日常生活の些事に徹底した石川丈山、官能的人生を徹底した一休宗純、知的人生を徹底した富永仲基に取材した小説『三題噺』(1965)において論じられたテーマであり、加藤の思想に一貫したモチーフでもあった。そこに描かれたのは、孤独な人間の自我である。そして、何者にも還元されえない自我の自覚。そうした自我が、単なるエゴではく、ある普遍性をもった〈個〉の存在定立にもなり得るはずだと加藤は考え、それを〈藝術〉という回路を通して描こうとした。その具体的な思索が、「土着思想」によって「日本化」された「外来思想」が、同時に「土着思想」を洗練し、これを内面化していくことで立ち上がった日本思想における自我の検討であり、こうした営みの中に加藤は非キリスト教文化における「個人主義」の可能性を読み取ろうとした。

 

[i]加藤周一著作集』④109‐110頁。

[ii]加藤周一著作集』④105‐106頁。

[iii]加藤周一著作集』④140頁。

 

[iv] 「このような感覚の洗練、時の流れに対する敏感さ、その上に築かれた繊細な美学は、貴族社会の内側で、真言・天台の二宗の浸透しなかった意識の層において、まさに現世的な土着世界観の枠組のなかで、またそのなかでのみ、成立したのであり、一度成立するや、やがて来るべき三〇〇年の摂関時代の文化の主軸となったのである」(『加藤周一著作集』④、171頁)

 

[v]加藤周一著作集』④214頁。

[vi]加藤周一著作集』④265頁。

[vii]加藤周一著作集』④338‐339頁。

[viii]加藤周一著作集』④343‐344頁。

[ix]加藤周一著作集』④348‐349頁。

[x]加藤周一著作集』④358頁。

[xi]加藤周一著作集』④371‐372頁。

[xii]加藤周一著作集』④378‐379頁。

 

[xiii] さらにいえば、近世において決定的となった支配層と大衆の分化とその固定化は、「表の義理と禁欲的な倫理」と「裏の人情と感覚的な快楽主義」(義理と人情)という二重構造を生むことになるが、つまりそれは外的規範は内在化されず、内的価値はそれがある規範として外在化されず、互いに平行して存在し、それ自体が「天皇制的なもの」の温床となったことを意味するだろう。そしてそうした内的価値と外的規範の没交渉とすれ違い(形なし)は、やがて「宣長問題」や、加藤周一がみた敗戦後の大衆として現れることになる。

 

[xiv]「逍遥の影響から出発した小説家たちは、人情をそのあるがままに描け、という逍遥の標語を、作者の経験した事実をそのまま描け、という意味に解釈し、そうすることで―少くとも彼らの一部分は―「自然主義」の文学を作る、とみずから称した。この言葉は、その後も日本の近代文学を語る多くの人に用いられて、無用の混乱を生みだしながら、今日に及ぶ。花袋、藤村、泡鳴、秋声、また独歩や白鳥の書いた小説は、西洋の一九世紀の後半に《naturalism》を説いた、たとえばゾラの作品と全くちがい、その理論ともほとんど全く関係がない。(中略)小説の世界は極度に狭く、作者身辺の雑事に限られ、しかも主題は市民社会内部の矛盾ではなく、市民社会の未成熟にもとづく紛争を主としていた。(中略)彼らは日常生活のなかで自分がどう生きるかに苦労していたから、社会の全体を考える暇はなかった。「没理想」のたてまえは、ほとんど反知性主義に近かったから、ゾラの科学的世界観やドストエフウキーの宗教的問題をみるはずはなかった。」(『加藤周一著作集』⑤417‐418頁)

 

[xv]加藤周一著作集』⑤353頁。

[xvi]加藤周一著作集』④36頁。

[xvii]加藤周一著作集』⑤559頁。