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加藤周一『日本文学史序説』(4)

三.加藤周一の着想

 加藤のいう〈藝術〉とは何か。この問いは、加藤周一の思想とは何か、という問いと同義といって良い。周知のように雑種文化論の背景には、加藤の西洋体験が存在するが、加藤は自身のフランス留学を振り返ってその印象を次の様に語っている。

 

「中世」は私をおどろかせた。これだけは東京で予想しなかったものである。[i]

 

 加藤を驚かせた「中世」とは何か。加藤は次にように述べている。

 

文化とは「形」であり、「形」とは外在化された精神であって、精神は自己を外在化することにより、またそのことのみによって、自己を実現できるものだということ。(中略)私は私なりに造形的な世界と文化全体とのきり離せぬ関係に、ある決定的な仕方で思い至った(中略)私はフランスで中世美術を発見した―というよりも中世美術を通じて、美術そのものの私にとっての意味を発見した[ii]

 

ここで言われているように、加藤を驚かせた「中世」とは、加藤がフランスで実際にみたカテドラルやゴシックに代表される中世美術のことである。加藤はそこに中世ヨーロッパの文化と精神が造形として結晶化されていることを発見した。それは海老坂武がいうように「芸術とは、さらに文化とは、内なるもの(衝動と言ってもよいし精神と言っても、加藤氏の場合にはよかろう)を形に刻み出すことであり、これを感覚的秩序として構築することである、という発見」[iii]である。ここで確認すべきは、加藤の「中世」の発見が、そのまま加藤の〈文学〉あるいは〈芸術〉概念のモチーフになっているという点である。たとえば、加藤は〈文学〉の定義を次のようにいう。

 

文学的経験は、単に具体的な、一回かぎりの経験なのではなく、それをとおして当事者の人生の全体、つまりその人の世界の全体に対する態度があらわざるをえないような経験である。[iv]

 

文学が経験を、その抽象的普遍性においてではなく、具体的特殊性において、表現しようとすること、またその表現が作者の世界の全体に対する態度を前提として含まざるをえないようなものであるということ、この二つの特徴であった。二つの特徴の両方の備ったことばによる表現が文学である。[v]

 

こうした〈文学〉という概念の定義は、加藤の〈藝術〉一般に通低するモチーフ[vi]であり、加藤の思想の核でもあるのだが、こうしたモチーフがよく表れているのが「科学と文学」(1979)である。ここで加藤は、「世界」(自己の周りの環境世界)に対するアプローチ(解釈や意味づけ)の両極として①「文学(=感じること)」と②「科学(=知ること)」を挙げ、両者を架橋するものとしての③「信条(宗教)=(信じること)」について論じながら、自身の〈藝術〉という概念と思想のモチーフを語っている。

 

私だけだったらそれは抒情詩になります。誰でもすべての人間が受け入れることだったら、それは科学的な命題です。しかし、私と同じ経験をもっている人にだけ訴えるのだったら、それはまさにWe shall overcome someday.となります。(中略)ここに出てくる「私」とは抒情詩の主語です。「われわれ」というのは信念の主語です。そして、誰でもすべての人、それが知ることの主語で、それが科学の場合です。だから、文学と信念と科学との関係は、「私」から「われわれ」を通じて「みなさん」の方へ行く関係になる。私からわれわれに移るところの問題、この移行が信ずるという行為です。ですから、信条というのは、感情的出発点があって、それがさらに思考過程と結びついて出来上るものです。その結びつきにおいて、主観的なものが客観化される。内在的なものが外在化される。伝達不可能なものが伝達される。それは結局、一言でいえば、経験、あるいは価値の特殊性を普遍性へ向かって超えてゆこうとする精神の動きです。信じるということは、特殊性を普遍性へ媒介する。しかし、決して完全に経験の特殊性を超越することはできない。内的なものを外在化するといっても、その外在化するのには場所がある。どういう場所で外在するのかというと、それは特定の社会と特定の文化の決める空間においてです。時代と文化を超えた空間というものはないのですから、内在的なものを外在化するときには必ず具体的特殊な社会とその文化によって条件づけられる。具体的で特殊な社会とその文化はもちろん歴史的なものですから、したがって、内在的なものの外在化とは、超歴史的な内的なるものの歴史的過程のなかへの外在化です。そういう過程が、信じるということの一つの特徴でしょう。[vii]

 

たくさんの特殊な条件のなかで起った自分の感情的な反応、世界に対するいちばん基本的な中心的な感情的反応、そういうものはやはり特殊な条件によってしばられているもので、それをもう少し広い世界に向かって解放したい、普遍性に向ってそれを超えていきたいという意思が、価値生産の基礎になるでしょう。(中略)特殊性をどうして超える必要があるかというと、それは特殊性が、われわれにとって限界として感じられるからです。私にとって貴重なものが、私だけのものじゃなくて、もう少し大勢の人と分かち合いたいという、つまり伝達の欲求もある。またそれは、わが経験、わが存在、わが内的世界の特殊性の限界を破りたいというそれ自身根源的な欲求でもあるでしょう。それを破っていくには二つの方法がある。その一つは、経験は全体としてあたえるけれどもその一面を抽象して、一般化する。そういう方法で普遍性の方へ向っていく。その場合には、一面だけが一般化されるので、私の経験の全体性は犠牲になる。全体性が犠牲にされますと、同時に具体的個別性、それがもっている強い現実感覚もむろん犠牲にされるでしょう。そうして知的世界が出来上がっていく。これは科学的な方法です。しかし、その犠牲は大きい。われわれにとって貴重なのはやはり具体性そのもの、個別性そのものです。それを犠牲にすると、たしかに経験が一般化されるが、その代り私にとって貴重なものはどんどん消失し、人にわかってもらえるところはごく抽象的な一面だけだということになってしまう。それだけでは満足できないとして、それではどうするか。自分の感情の個別性特殊性に執着して、人にはわからないというので黙ってしまうこともあります。しかし一方では人に伝達したいという欲求が強い。では他人に伝達しながら、つまり自分の経験をある程度普遍化しながら、同時に具体性個別性を維持するには一体どうしたらいいか。どういう逃げ道、方法があるだろうか[viii]

 

ここで言われているのは、〈文学〉と〈科学〉が〈信条〉を解する形で安定解をもつということであり、そうした安定解、すなわち「自分の経験をある程度普遍化しながら、同時に具体性個別性を維持する」方法こそ、加藤の言う〈藝術〉であった。

 

非社会的なものの社会化は、いかにして可能であろうか。個別的な対象の個別性=かけ替えなさを、切り捨てて分類するのではなく、それを特殊なときと特殊な場所のなかに固定したまま、安定化し、明確化し、その時と場所を超えての意識に対し―それが自分自身の意識であろうと、第三者の意識であろうと―、到達可能なものにするためには、どういう手段をもちいることができるだろうか。その手段は藝術的表現である。[ix]

 

特殊な「個」、あるいはかけがえのない「瞬間」。これを「世界」という全体につなぐものは「言葉」であり、「形式」である。これが「藝術」に加藤が与えた定義であり、そうした〈藝術〉によって「私」という特殊な個は、特殊であると同時に、またそれ故に普遍的なものになりうること。これが加藤の藝術に対するモチーフであった。尤も、こうした加藤の文学観や芸術観はそれ自体が何か特殊なものというわけではない。加藤の特徴は、こうした〈藝術〉概念を念頭に置きつつ、日本思想史全体を俯瞰しようとした点にある。[x]その試みが『日本文学史序説』に他ならないが、ここでは、西洋体験を通じて体系化されていく「特殊」から「普遍」への回路をめぐるこうした着想が、既に留学以前の段階で日本文化を語る際に表れているという点を確認しておきたい。「日本の庭」(1950)という文章で加藤は次のように述べていた。

 

わたくしは、風土や生活様式にもっとも直接にむすびついている日本の庭に、日本的なものをではなく―勿論必然的にもっとも日本的なものであるが、むしろ普遍的なあるものをみた。[xi]

 

薄陽のさす庭には、銀色の雨が降りそそいでいた。島も、樹立も、遠い岸の石組も、雨に煙り、何世紀も前からつづいているような静けさが、その美しい世界を支配していた。華麗ではないが美しい世界、巨大ではないが力強い世界、技巧的ではないが、技巧を超えている世界、わたくしにはその世界が、日本の美術史のあらゆる画家たちの世界でなかったとすれば、日本の文学史のあらゆる詩人の世界であったように思われた。分析的にとらえることのできないもの、法則に還元することのできないもの、精神に対立し、克服すべき抵抗としての素材を芸術家に提供しながら、同時に芸術家をつつみ、藝術的実現の最後の目標としてあるもの、そのようなものとしての自然は、日本の文化のあらゆる面に予感され、暗示され、部分的に示されているが、いまだかつて他のいずれのところにおいても、全体として表現されたことがなく、ここにおいてのみ全体として表現されたものである。ここには、日本的なもののなかで、もっとも日本的なものがある。しかし、もっとも日本的なものこそは、もっとも普遍的なものであろう[xii]

 

こうした加藤の芸術観を踏まえて雑種文化論を考えると、そこで語られていたのは、単なる西洋における①「超越的なもの」と②「日本的なもの」の対立ではなく、その間に③「日本的であり普遍的なもの」という存在が浮かび上がってくる。そして、その「日本的であり普遍的なもの」を担保するのが「特殊」と「普遍」を切り結ぶ加藤の藝術観であり、これこそ加藤がいった「希望」の正体であった。[xiii]こうした「特殊(心情)から普遍(共感)へ」という〈藝術〉概念をめぐる加藤のモチーフが日本文化論に投影されながら、「土着世界観」という独自の思想枠組に基づいて古代から現代の日本文学史を通じてデモクラシーの前提となる日本における「個人主義」の可能性を検討したのが『日本文学史序説』であった。

 

[i] 『続羊の歌』80頁。

[ii] 『続羊の歌』82‐83頁。

[iii] 海老坂武「雑種文化論をめぐって」『戦後精神の模索』92頁。

[iv]加藤周一著作集』①、65頁。

[v]加藤周一著作集』①、80頁。

 

[vi] 加藤は、美術について、フランスの美術史家であるアンリ・フォシヨン(1881‐1943)のテキスト(『形の生命』)から多くを学び、これを自家薬籠中の物としている。

 

[vii]加藤周一著作集』⑯、96‐97頁。

[viii]加藤周一著作集』⑯、121‐122頁。

[ix]加藤周一著作集』⑲、107頁。

 

[x]  例えば、こうした藝術を介した自己の普遍的外化に関する例としては、「もののあはれ」という言葉で馴染みのある宣長の和歌論があげられよう。人が「もの」の「あはれ」に触れたとき、自己に沸き上がる感情(パトス)は、それが他者と共有されることによってカタルシス(安定解)を得て収束するが、そのためには本来は言語化し得ない瞬間を「せむかたなし」との思いで言語化する必要がある。こうした作業こそ宣長にとっての和歌が持つ意味である。ただし、自己の「感情」を他者と共有するためには、そのツールである歌をうまく詠まなければならない。(こうした宣長の「もののあはれ」概念については、相良亨『本居宣長東京大学出版会、1978年を参照)ここに「型」(美的洗練)という問題が生じる。こうした「型」が崩れると行き場を失った自己のパトスは、「日本」という共同体との自己同定を求め、強くそのナショナリズムを刺激するようになる。これを加藤は「宣長問題」と呼んだ。

 

[xi]加藤周一著作集』⑫、138頁。

[xii]加藤周一著作集』⑫、164頁。

[xiii]  同時期に、加藤が天皇制に関する文章を書いているのは、「日本的なもの」と「日本的であり普遍的なもの」の峻別に他ならない。