Ikkoku-Kan Is Forever..!!のブログ

バイトをして大学に行くお金を貯めながら時間を見つけて少しづつ本を読もう。

加藤周一『日本文学史序説』(2)

一.戦後の出発

 加藤周一とはいかなる人物か。その自伝的小説である『羊の歌』から浮かび上がるのは、幼いころから周囲と馴染めず、常に自己の疎外感を拭い切れないでいる「孤独な観察者」としての姿である。[i]

 

私は生涯を考え、他人との関係についてではなく、自分自身について、自分が今ここにいるのはなぜだろうか、と考える。私はあらゆる社会から切りはなされた一刻の私自身を味わう。[ii]

 

労働者たちは、彼らには興味のないものをみている彼女を見ていて、私はその労働者たちを見ていた。彼らと私の間には、遠い距離があった。その距離は、私に昔埼玉県の村の畦道で、見えかくれしながらついて来た村の子供たち思い出させた。子供の私は、そのとき、彼らと私との間に超え難い距離を感じていた。私はそのときから変わらなかったのであろうか。私はどこでもいつでも第三者であり、傍観者であるのだろうか。[iii]

 

重要なのは、恐らくはこうした疎外感に由来するであろう「高みの見物」と自ら評する立場が、一貫して加藤の思想を規定しているという点であろう。それは加藤周一のデモクラシー論と晩年の「九条の会」の位置づけをどのように考えるか、という加藤周一に関する重要な論点につながっていく問題である[iv]が、ここではまず「戦後の出発」について、加藤自身が次のように述べていることに注目したい。

 

私は「経験」をもたず、いくつかの「観念」をもって、戦後の社会へ出発しようとしていた。私はそこで「経験」をもった人間に出会うだろうし、「観念」の無限の強みと無限の弱みとを知るだろう。[v]

 

ここで言われている「経験」は加藤の思想を考える際の重要な概念である。問題はそれが何を意味するのかということであるが、一言で言えば、それは「大衆」の発見であり、この「大衆」の位置づけと思想化という問題が、加藤の思想形成を促し、その思想の鍵概念である「土着世界観」へとつながっていく。『羊の歌』において加藤が挙げているその具体例をみてみよう。

 

 まず加藤は、敗戦直後の日本社会の印象について次のように描写している。

 

本郷と宮前町との間は、電車を乗りつげば、片道二時間ちかくもかかったが、占領軍払下げの貨物自動車を改造した市営の乗合では、一時間足らずであった。その座席は板張りで、坐り心地はよくなかった。しかし焼け野原のなかの道を車は疾風のように走り、私はその速力と、その窓に近く展開する風俗を好んでいた。その頃の東京の風俗は、地位の上下と貧富の差を、事毎に強調するようなものではなかった。焼け跡の男たちは、カーキ色の国民服か肩章をもぎとった軍服を着ていたし、女たちは「もんぺ」をはいたり戦前の「洋服」を身にまとったりしていた。実力のある男たちは、闇市でもうけて、白米をたべ、米国製の煙草を吸うことを、無上のぜい沢と心得ていた。彼らは乱暴で、他人の迷惑を顧みず、社会の全体についてどういう理想も、理解も、もちあわせていなかったろうが、活気にみちあふれ、自分自身の力だけに頼り、権威を背後にして傲慢で卑屈な人間よりは、はるかに正直であったのだろう。実力のある女たちは、占領軍の将校にわたりをつけ、「PX」の新しい衣類を着て、市営の乗合にも乗りこんで来たが、彼らの顔は、得意の絶頂でうれしさに輝いているようにみえた。焼け跡の東京は、見せかけの代りに、真実があり、とりつくろった体裁の代りに、生地のままの人間の欲望が―食欲も、物欲も、性欲も、むきだしで、無遠慮に、すさまじく渦を巻いていた。(中略)「戦後の虚脱状態」という文句も使われていた。しかし私が乗合の窓から眺めた東京の市民の表情は「虚脱状態」で途方に暮れているどころか、むしろ不屈の生活力にあふれていた。「虚脱」していたのは、戦争を賛美した言論界の指導者たちであったかもしれないが、闇屋でも、闇米でもうけていた農家の人々でもなかったろう。(傍線引用者)[vi]

 

加藤が敗戦後の東京でみたのは、生身の人間としての大衆の逞しさそのものであった。彼らは、彼岸や超越的、抽象的世界とは無縁の、まさに具体的、現実的な土着世界を生きる人々として『日本文学史序説』にも繰り返し登場することになる。こうした土着世界を生きる「大衆」を、全く無視してデモクラシーを語ることはできようはずもない。こうした問題意識が加藤のデモクラシー論のモチーフを形成していくことになるのだが、しかしその一方でまた、彼らだけでデモクラシーを語ることもできないし、加藤が感心しながら眺めるこうした「大衆」とは、加藤にとっては同時に全くの「他者」であることには変わりがない。

こうした「他者」を切り捨てることなく、どのように語りうるか。こうした問いこそ、加藤の「経験」の中身であり、「観察者」である加藤が徐々にその思想を形づくる軌跡でもあるわけだが、そのなかで加藤は、「観察」と「経験」の容易ならざる関係に突き当たった。その一つが、敗戦後まもなく、日米の「原子爆弾影響合同調査団」の一員として訪れた広島での「経験」である。

 

私は広島を見たときに、将来の核兵器については何も考えていなかった。後になって、核兵器についても考えるようになったが、そういう私自身の考えと、広島の人々を沈黙させた経験との間に横たわる遥かに遠い距離を、私はいつもくり返して思い出したのである。しかし眼のまえの患者と医者との間の沈黙は、破らなければならなかった。言葉であらわせることを言葉であらわし、その意味を見つけ、そうすることで、その人にとっての経験を、私の観察し分類することのできる対象に変えなければならない。「そのときあなたは何処にいましたか」と私はいった。「姉の亭主が出征していましたから、姉の家で……」。「お姉さんの家は、この地図の上でいえば、どの辺りに当たりますか。……なるほど、爆心から三粁ぐらい……家は木造ですね、その中で、あなたはどちらをむいていましたか」。そういう質問は、その人にとって、あきらかに、どっちでもよいことにすぎなかったろう。そういう質問を、広島の被害者に浴びせるのは、ほとんど野蛮な行為である、と私は感じていた――家が木造であろうとなかろうと、姉の子供は死に、姉の眼はみえなくなり、その人の人生は変ったのである。いうべからざる経験が一方にあり、当人の人生にとっては何の関係もない事実が他方にある。しかし世界を理解するためには、一個の人生を決定するだろういうべからざる経験ではなくて、言葉に翻訳することのできる事実を言葉に翻訳することが、必要なのである。もし広島が私に教えたことがあるとすれば、それは、その対象がどれほど激しく、どれほど堪え難いものにまでなり得るかということであったろう。すなわち私は、黙って東京へ帰るか、留って広島の「症例」を観察するか、そのどちらかを選ぶほかはなかった。(中略)私は留まった。(傍線引用者)[vii]

 

「個人の言語化し得ない経験」と「世界を理解するための言語化」という問題は、「経験」と「観察」という問題を超えて、「文学」と「科学」の問題として、また加藤周一にとっての「芸術」の問題として現れることになるが、それは後の話である。ここでは、こうした加藤周一の「経験」が、戦後を通じて繰り返し現れている点を確認したい。例えば、後に小説『神幸祭』(1959)の題材にもなった九州の炭鉱を訪れた際の話。

   

私は太平洋戦争の間、いくさと自分との間に知的距離をおくことにより、客観的判断の甚だ正確であり得るということを経験した。しかし九州の炭坑では、客観的判断がほとんど不可能な状況に出会ったのである。そういう場合には、判断を放棄することもできるだろう。私は九州で、調停者でも、審判官でもなかった。しかし判断を放棄できない場合には、どうするであろうか。私は九州でそういうことを考え、坑道のなかへ入った私自身の経験―それがどれほど短かったにしても―へ戻るほかないだろうと思った。暗い危険な坑道のなかから出て来る度に、出口に見える一片の青空。毎日一片の青空を全身のよろこびを以て感じる――いや感じざるをえない生活を生きている人々、彼らが酔っぱらおうと、無理な議論をしようと、毎日青空の下で暮らしているわれわれが、彼らの言分を拒否することはできないだろう。彼らがまちがっているということを客観的に説明できないかぎり、彼らの言分はすべて正しい、と私はそのときに思った。傍観者としての判断は、常に可能ではない。故に傍観者であるのをやめるときがなければならない……。(傍線引用者)[viii]

 

問題は、こうした「経験」が、加藤周一の思想において、どのような問題意識として提示され、その思想形成を促したのか、という点だが、このときに注意すべきは、加藤が直接問題としたのは、「知識人」についてであったという点である。加藤は「大衆」との出会いを通じて「経験」という問題を語るが、そのときの「大衆」とは「観察者」である加藤にとっての「客体」であって「主体」ではない。つまり、加藤の思想の「主体」は、自分を含めた「知識人」であって、「大衆」ではない。ここで初めて、「大衆」と「主体」の関係が問題として俎上にあがる。それが「戦争と知識人(1959)における問題意識であり、こうした問題意識が「土着世界観」という形で構築された思考枠組を通じて古代から現代に至る日本文学史として論じられたのが『日本文学史序説』(1980)であった。

その加藤の問題意識を一言で言えば、「大衆」(土着世界)を捨象することなく、どのように自己を含めた「知識人」について語りうるのか、という問いである。その含意をデモクラシー論の観点から踏み込んで言えば、土着世界を捨象することなくデモクラシーを語るためには、西欧社会においてデモクラシー成立の背景となったキリスト教といった超越的一神教を必ずしも根拠としない形での「個人主義」の可能性を模索する必要があるということであって、裏返して言えば、それは、そうでなければ、本当の意味で日本においてデモクラシーを成立させることは不可能であるという問題意識の現われといってよい。

しかし、そうしたデモクラシーの根拠となる「個人主義」は単なるエゴイズムであって良いはずはなく、そこに表現される「個」は、何らかのかたちで普遍的な表現でなければならない。キリスト教のような超越的宗教倫理を抜きに、果たしてそれは可能か。こうした難問に、戦後思想史を紐解けば、丸山眞男の問題として再び出会うことになるわけだが、ともかく、「そうあらねばならないし、それは可能である」と加藤周一は書いた。それがいわゆる「雑種文化論」と呼ばれるものである。[ix]丸山はこの加藤の「雑種文化論」を批判した。[x]ここに、デモクラシーの成立という問いに関して加藤と丸山の交錯がある。[xi]問題は、それぞれが、こうした問題に対してどのように向き合おうとしたか、これである。加藤はこの難問を「藝術」という概念を経由することで回避しようとした。この地点において、加藤の日本文化論とデモクラシー論は出会う。

 

[i] こうした加藤周一の人物像やそれに由来する思想的特徴については、鷲巣力『加藤周一を読む 「理」の人にして「情」の人』(岩波書店、2011)、同『「加藤周一」という生き方』(筑摩選書、2012)や海老坂武『加藤周一』(岩波新書、2013)に詳しい。

[ii] 『羊の歌』(岩波新書、1968年初版)16頁。

[iii] 『続羊の歌』(岩波新書、1968年初版)106‐107頁。

 

[iv] すなわち、それは、晩年の加藤の「九条の会」をめぐる活動が、加藤周一という人物とその思想にとっての「必然」なのか、それとも、知識人の良識や亡き友への信条に基づいたある種の「決断」を伴った行動なのか、という問題である。前者であるならば、それはどのような論理的必然なのかという点、その思想を明らかにする必要があるし、後者であれば、その「決断」の意味を考える必要があるだろう。勿論、両方の側面を持つとも言えるが、加藤周一のデモクラシー論の思想的特徴を考える場合、どちらに焦点を当てるかでその意味はだいぶ変わってくる。例えば、樋口陽一は前者の立場を取ることで、「雑種文化論」の持つ憲法学的意味を論じている。(「『洋学紳士』と『雑種文化』論の間―再び・憲法論にとっての加藤周一」『思想』2011年6月号や『加藤周一丸山眞男平凡社2014年)

ただし、その場合、加藤周一の日本文化及び芸術論とデモクラシー論の関係が明らかではない。樋口が言うように、加藤自身、明確なかたちで両者の関係を論理的に提示しているわけではないが、またそれ故に、この問題は加藤の思想を考える際の最大の論点となる。こうした問題について論じた加藤研究としては、小関素明「加藤周一の精神史―性愛、詩的言語とデモクラシー」(『立命館大学人文科学研究所紀要』111、2017年)がある。

本稿では、こうした議論を踏まえた上で、加藤の日本文化論とデモクラシー論の関係に注目することで、加藤周一における「九条の会」の位置づけについて、これをその思想の論理的「必然」と解釈し、さらに改憲勢力が台頭するなかにおいて、加藤の「信条」がその思想的帰結の具現化を促したものと理解する。

 

[v] 『続羊の歌』11頁。

[vi] 『続羊の歌』2‐3頁。

[vii] 『続羊の歌』14‐15頁。

[viii] 『続羊の歌』174‐175頁。

 

[ix]一般に「雑種文化論」といわれるのは「日本文化の雑種性」(1955)であるが、ここでは、それに「雑種的日本文化の希望」(1955)及び「近代日本の文明史的位置」(1957)加えた50年代中頃の加藤による日本文化に関する言説(いづれも『加藤周一著作集』⑦所収)を「雑種文化論」と総称する。

 

[x]加藤周一は日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西欧的に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的な意味をひきだすよう提言されている。傾聴すべき意見であり、大方の趣旨は賛成であるが、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。第一に、雑種性を悪い意味で「積極的」に肯定した東西融合論あるいは弁証法的統一論の「伝統」もあり、それはもう沢山だということ、第二に、私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。」(丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年初版、64頁)

 

[xi] 田口富久治は、丸山の古層論と加藤の土着世界観に関する研究ノートにおいて、次のような疑問を述べている。「政治家の無責任や悪しき共同体主義を批判し、個人そして民衆の主体性を確立するという点で、加藤が丸山とほぼ同じ立場にたっていることは推定できるが、しかし文学の世界、より一般化していえば、芸術の世界において、作品に体現された土着世界観、土着思想、土着文化にたいして、あるいは『日本化された外来文化』に対して、われわれはどのような態度をとるべきなのだろうか。(中略)『序説』を読むかぎり、加藤が、伝統的な土着世界観を凝縮したような文学作品、あるいは能と狂言元禄文化等々についても、文化論や芸術論の観点から積極的な評価(批判を含めて)を惜しんでいないように見える。この辺の問題をどう考えるのか。これも私にとって残された問題である」(田口富久治「丸山眞男の『古層論』と加藤周一の『土着世界観』」『政策科学』9巻2号、2002年、66頁)田口の疑問は丸山の読者であれば、加藤を読んだときに感じる必然的な問いであるし、加藤に関する思想史研究の急所であるが、こうした問題に関する研究は皆無といって良い。唯一、小関素明氏の加藤論が、加藤の思想のモチーフをデモクラシー論として描いたことで、間接的ではあるがこうした問いに答えている。本稿では、田口の問いを、小関氏の言うように、デモクラシーに関するモチーフの相違として捉えた上で、そうした相違の意味を、戦後思想史研究の文脈から、「戦後啓蒙」を両極から支えているものとして位置づけたい。