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戦後啓蒙と丸山眞男(6)

丸山思想史の展開

いまから取り上げるのは、一九六四年から六七年までの『講義録』である。丸山はこの中で、仏教、武士のエートスキリスト教儒教と、そこに自由を実現するための可能性、すなわち超越者や普遍者の可能性を探していく。しかし、結論から言えば、この試みは結局のところ挫折してしまう。丸山は次のように言う。

 

鎌倉以後の超越者の感覚の稀薄化過程についてはね、ぼくは一種の二段階説なんです。ややこしいことをいって恐縮なんですけど、超越性と普遍性とを区別すると、江戸時代でも天とか天道とかいうセンスがあるでしょう。あれはやはり経験的感覚的実在をこえているという意味では普遍性の感覚ですかね。だけど儒教は徹底的に現世的だから、内在的普遍性なんですね。だから「天下泰平」という秩序価値の優位と結びつく。「正義は行われよ、たとえ地球は滅びるとも」という意味での徹底した正義価値は、キリシタンを死滅させ、仏教を完全に俗権に従属させたあとでは、存立の場がなくなってしまう。江戸時代の「近代化」が同時に「古層」がせり上がってくる過程だと解説でいったのも、それと関係があるんです。[i]

 

問題は、どのように挫折をするのか。それは何を意味するのか、という問題である。要点だけ掻い摘んで見ていこう。ここで語られるのは、古代から江戸までの日本政治思想史である。明治以降の近代については語られていないが、ストーリーの筋書きがその評価を規定している。[ii]

江戸を対象とした『日本政治思想史研究』との最大の違いは、前述したように、近代化の非一義性という認識のもとに生まれた新しい歴史の見方によって、ヨコ(文化接触)の視点が与えられたことにある。これが「外からやってくる普遍者とこれに対応する日本」という図式を与えた。外から普遍者(宗教的規範意識)がやってくるということは、日本にはそもそも普遍者はいなかったということである。むしろ日本は、その島国という地理的環境ゆえに非常に強い性格(「原型」)を有しており、なかなか普遍者を受け入れようとはしない。[iii]講義では繰り返し「日本の原型的思考における普遍的な価値へのコミットメントの弱さ」[iv]が指摘される。如何にこの特殊(土着)主義を打破するかがこの物語に与えられたテーマであった。丸山思想史の特徴は、こうした宗教的倫理への拘りである。丸山は宗教の持つ意義を次のように語っている。

 

絶対者(たとえ人格神でなくても)を媒介として人間の尊厳を自覚させたことが人間の歴史において宗教のもつ最大の意義だ。[v]

 

なぜそこまで丸山が「普遍性」に拘るのかといえば、先にみたように、それは、ある「現実」に対抗しようとすれば、「現実」を越えた価値にコミットしなければそれは不可能だ、という丸山の経験的確信ゆえである。政治嫌いな政治思想史家丸山眞男は、現実に依拠した政治は、現実によっては批判できないと考える。事実によって事実は否定できない。「自由」を実現するためには、現実を越えたある価値に依拠し、事実を否定する主体性を成立たらしめるよりほかに術はない。これが「戦後民主主義の虚構に賭ける」と啖呵を切った男の考えである。そのためには、日本の特殊主義を打破し、真に普遍的な価値の勝利を宣言せねばならぬ。では、その可能性は日本思想史のなかにあったのか。丸山は「可能性」はあったと考える。

まず丸山が注目するのは、仏教である。「『原型』的世界像を徹底的に突破してまったく新しい精神的次元を古代日本人に開示したのは、世界宗教としての仏教であった」[vi]と丸山は言う。そして、この仏教の持つ意義を政治思想のなかで示したのが「十七条憲法」であった。[vii]丸山にとって、十七条憲法は「『仏教』への帰依がabsoluteでuniversalな価値への帰依として自覚されている点」[viii]において、仏教という「世界宗教の受容がはらんでいた思想的可能性を、少くも統治倫理の側面において明確に提示した最初の傑作」[ix]であった。丸山が評価したのは、たとえ古代仏教が鎮護国家という性格を帯びていても、日本社会に普遍的価値を介して聖俗観念が導入されたことそのものが持つ政治思想史的意味である。これは、『研究』において示された公私観念の萌芽を全時代的に拡大したものといってよい。その意味で、『研究』で示された図式は丸山思想史の原型であり、「開国」や「普遍者=宗教的規範」という視座を以って、これが歴史化(ストーリー化)されたものが丸山思想史の全貌であった。ただし、そうした意味において、太子の思想は古代国家の例外現象に過ぎなかった。[x]丸山が太子に託した夢が敗れたあと、次なる可能性を示すのは、「鎌倉仏教」であった。丸山に言わせると、以降の歴史は〈鎌倉仏教〉という大事件に到るまでのプレリュードに過ぎない。[xi](芸術に自身の確信を託そうとした加藤が密教を評価したのに対し、丸山は、例えば空海などについては、呪術的でかつ鎮護国家の代弁者であると手厳しい)かくして、日本思想の歴史に大事件が起こる。鎌倉仏教の登場に丸山がみたのは「普遍的な絶対者に自己をコミットした思想家」たちの姿だった。[xii]その後、丸山は親鸞道元日蓮と考察していくが、これを詳細に検討する紙幅は無い。[xiii]ここで確認すべきは、こうした可能性も悉く潰えてしまったという事実である。その後の日本思想における仏教の歴史は「屈折と妥協」の歴史であった。[xiv]

仏教という絶対者の可能性が消滅したということは、それから江戸、明治と時代を下ることが、形勢いよいよ我に利なしという事態の推移を意味する[xv]わけであるから、もはや、ほぼ日本の思想の中に丸山の考える自由を実現する可能性は無くなったといえる。[xvi]

六五年の講義で注目される「武士のエートス」は、普遍意識への忠誠の共鳴盤としての〈可能性〉でしかなくそこには限界があった。丸山が評価したのは、世俗化した仏教が、武士のエートス(「命惜しむな名こそ惜しめ」という名誉観)を洗練し、批判的主体の契機たり得たという点であるが、室町時代においては、「時と状況の重視は、戦闘者として当然であり、それ自体武士のエートスに内在したものだが、その契機が規範意識を欠いた形で赤裸々に現れたのが室町武将たちの行動格式であった」とし、これまた加藤とはその時代的評価を逆とする。その一方で、「自己規律を伴う一種の英雄的個人主義の噴出」した時代として戦国時代を評価するなど、武士のエートスの規範化(=忠誠心と批判的主体の逆説的接続)の可能性は、幕藩体制の成立によってエートスが秩序へと回収された長い江戸時代を挟んだ、戦国や幕末など時代の転換期に見出されるものの、その可能性も明治の〈国体〉概念の成立において決定的な断絶を迎える。[xvii]伝統的な身分的忠誠は天皇制的な忠誠へと変貌した。そして、天の意識の希薄化と権威への消極的恭順、武士階級自身の消滅によって、生き生きとした人格的忠誠感情は急速に失われ、非人格化された天皇の地位が神聖化されるに至った。[xviii]また、六六年の講義では「キリスト教」が注目される。丸山がそこに見ようとしたのは、「日本人がまったく異質的なカルチャアに突如として直面したときの反応を示す歴史的実験」[xix]としてのキリシタン時代であった。丸山はこの時代を、「開国」という視点から思想史を描いたときの間奏曲として位置づけた。[xx]そして、日本にとって異質なカルチャーである「キリスト教」への反応を通して丸山が見たものは、日本人の宗教的「寛容」の正体であった。丸山は「世界のいかなる国民も日本国民のように、新しい教義をよろこんで受容する国民はなかった。と同時に、これほどまでに頑強な伝統を持続的に固守する国民はなかった」といわれた日本における「キリシタン流入と伝播のスピードの早さ、鎖国体制による絶滅の早さの両面」的な様子[xxi]を通じて、日本人の寛容と不寛容について言及している。[xxii]確かに、日本人は「寛容」である。しかし、日本の場合、そこにあるのは同質性を前提とした集団的功利主義という特徴(=原型)であり、それゆえ、「寛容」の伝統ゆえの不寛容という現象がコインの裏表をひっくり返すように起こる。(つまり「ムラ社会」=「開国―異質なもの同士の接触やその思想化―」という経験の乏しい社会)そして、「精神の自由の究極的根拠」[xxiii]を根本的に否定した「キリシタン禁制」は、「権力と宗教一般の関係に根本的といえるほど大きな変化」[xxiv]をもたらすことになった。[xxv]

最後に残されたのは、「儒教」だが、そもそも総じて、丸山の儒教に対する評価は必ずしも高くはない。[xxvi]それでも、六七年の講義においては、〈江戸〉が普遍者をめぐる一連のストーリーのなかに位置づけられたことによって、儒教に対する評価が多少変化し、それが『日本政治思想史研究』との差を生み出している。どういうことか。つまり、『日本政治思想史研究』においては、儒教を徹底的にネガティヴに捉えており、むしろその解体のなかに近代意識の萌芽が見出された。国学への逆説的な評価もそこに起因する。しかし、普遍者の命題が意識されると、一応、儒教にも内在的普遍者(天という規範意識)という性格があるため、むしろ、江戸時代において武士のエートスと並んで最後の可能性である儒教(内在的普遍者)の否定は普遍者の挫折を決定づけることになる。すると、先に与えられていた国学の逆説的な評価はむしろネガティヴなものへと置き換わる。そこに、両者の違いがある。[xxvii]

以上、『講義録』を参考に丸山思想史の内容を駆け足で追ってきた。このとき、丸山の思索の行きついた先は明白であろう。もはや残された道は一つしかない。徹底的に「特殊主義」(日本的なもの)をみつめる認識作業、これである。自由の実現のため、特殊主義を打破する普遍者の可能性を探していたつもりが、気づくと、皮肉にもむしろ、特殊主義という問題の究極的原因の解明の必要性を決定づける結果となっている。(神々の微笑)これが古層論への道程であった[xxviii]

しかし、よくよく考えてみれば、近代日本の末路という結果論からその思索を始めた丸山が、いくら過去に遡って「可能性」を探したところで、行き着く先は、立論時点に決まっている。別に驚くことでも、今更、落ち込むことでもなかろう。では、その思索は全くの徒労であったのか。丸山が、古層論文の末尾を次のように結んでいることに注目したい。

 

眼を「西欧的」世界に転ずると、「神は死んだ」とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の連続」は、その側面においても、現代日本世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。[xxix](傍線引用者)

 

もちろん、最後の「世界の最先進国」というのは、丸山お得意のアイロニーである。(この言説を額面どおり受け取った森有正に対して丸山は弁明を迫られた)ただ、このことは既に、一九六〇年において語られている。「ヨーロッパの旅路の果てみたいな地点に日本はいわばはじめから立っているという点では、その意味では一番の先進国ですね」。[xxx]丸山は、思索のなかでそれを再認識したわけである。問題は、その意味は何かということだ。

ここでは、こうした思索を通じて、丸山の〈近代〉が弁証法的に描出されているということに注目したい。つまり、西欧的な価値の浸透を近代化のバロメーターと考えていた[xxxi]丸山が、近代化の非一義性という認識の下で、普遍者の命題を、日本の伝統の中に探す試みをしたということ、それ自体に意味がある。つまりそれが挫折し、再び立論時点に戻った丸山が、理念としての西欧的価値を「コレしかない」と再認識したとき、一度否定の契機を含んだ近代は、より究極的な形でその理念が強調されるに至る。もはやそれは実体としての西欧ではありえず、むしろ、その理念の難しさの前に、西欧も日本も横一列に並んでいる。このとき丸山のいう原型とは、経験値の差でしかない。こうした思考論理が、「永久革命」という言説を支えている。(先に述べた、加藤とは対極的に、デモクラシー論の王道に丸山がコミットしているというのは、この意味においてである)

近代を前にした難しさとは、もはや近代人そのものの難しさにほかならない。立論時点で遠く隔たっていた近代をめぐる西欧と日本の距離の差はもはや無いに等しい。西欧に成立した近代モデルを理想とし、日本における近代化の問題に向き合い続けた丸山とその読者はいま、まさに近代が抱え込んだその「問題」の前に立っているのである。それは、近代人が等しく共有する問題、ハーバーマスがいうところの「社会心理学の対象となった社会(公論)のなかで個人は如何に生きるのか」という問題にほかならない。[xxxii]では、自由の可能性は潰えたのか。そこで丸山が見出したのは第三世界の姿であった。[xxxiii]

 

丸山は晩年、次のように述べている。

 

私は二十一世紀が、西欧の伝統のなかで何が歴史的制約を負ったものであり、何がそれをこえた普遍性をもつものか、だんだんと―とくに第三世界によって認識されてゆく時代である、と思っております。[xxxiv]

 

果たして二一世紀の世界は一体どこに向かうことになるのだろうか。我々はそれぞれ、その世界の目撃者たる運命を背負っている。

 

最後に、これまでの思索を振り返ってみよう。

 

当初、丸山は第三節でみたように、前近代世界の崩壊のなかに近代意識の萌芽をみつけようとした。徂徠や宣長に後期スコラ哲学的な役割が求められた。神が超越化すれば、それだけ人間が認識し行動する自由が広がる。そこに丸山は自由な近代意識の広がりを見た。しかし、丸山は彼の生きた時代の中で、認識と行動をめぐる問いを突きつけられた。そしてそれは、神なき時代にヘーゲル的な自由をむしろ国家との対峙において実現しようとした丸山眞男の憂鬱そのものであった。国家を神殿とすることも、また、革命の夢に憂鬱さを晴らすこともできなかった。思えば、ヘーゲルの描いた歴史には自由を実現せんとこれを担保する神がいた。その神がいなくなれば近代人の憂鬱はいよいよ深刻である。丸山はその思索の果てに自由の黄昏迫る近代人の姿をみた。自由を希求する主体性は認識と行動の不連続性の溝に沈んでいく。この「ジレンマ」を「永久革命」と呼んで、「大丈夫だ、勇気を出せ」と鼓舞し続けた知識人こそ、「反逆の思想家」丸山眞男その人であった。

 

おわりに

 

戦後のデモクラシー思想を考えるとき、丸山の発想そのものが何か特別なものだったというわけでは決してない。丸山の師である南原繫が「人間革命」という言葉で表現したように、制度改革に止まらず、民主主義を真に担い得る主体を創出しなければならない、という発想は当時の知識人が共有した問題意識であり、そうした中から「戦後啓蒙」と呼ばれる思想が登場した。こうした戦後のデモクラシーを担う主体をめぐる問題について、これを誰よりも徹底的に突き詰めて思索したのが丸山眞男である。そしてその際、いみじくも苅部直が指摘[xxxv]したように、丸山自身が解ききっていない問題が、どうすれば「私」というものを尊重しながらデモクラシーを支える「公共的なもの」が立ち上がるのかという問題であった。[xxxvi]

ここで重要なのは、丸山が直面したこの難題が、丸山個人の思想が直面した論理的問題ではなく、デモクラシーを語ろうとするときに誰もが直面する普遍的な問いであるという点であろう。デモクラシーという言葉がプラトン以来、二千年間に渡ってネガティヴな言葉であり続けたという事実は、この問題の本質をよく物語っている。[xxxvii]こうしたデモクラシーという思想が原理的に持っている問題が、戦後日本という特殊具体的な時空間のなかで露呈しながらも、それを承知の上でなお、たじろぐことなく自らの信念の下に、それぞれの学問的営みのなかでこれをみつめ、それぞれの思想を築いていった点にこそ、「戦後啓蒙」と呼ばれる思想の歴史的意味がある。

 

 

[i] 「歴史意識と文化のパターン」一九七二年一一月『座談』七、二五〇‐二五一頁 

[ii] 『ノート』には、「明治以後の政治思想史の標題」だけ書き付けてある。

一.「国家」の発見 (体制の構想・乱世的革命・西欧政治思想と制度の移植)。

二.政体をめぐる闘争とその結末―天皇制的正統の確立。

三.「個人」の遁走 ―知識人の自意識。

四.大衆の早期的登場 ―車夫馬丁から労働大衆へ。

五.明治の終焉 ・・・・・・(漱石と「こゝろ」・鴎外・元老の後退・泰平と閉塞)。

六.戦間期のラプソディ (「近代思想」・「人格主義」・反英雄・民本主義、国家と社会)。

七.ヴ・ナロードから理論闘争まで。

八.転向 (九に先行することに注意せよ)。

九.新体制と共栄圏。

十.開国とデモクラシイ。

 

日本の原型(土着、特殊主義)を打ち破る普遍者の可能性を探った丸山にとっては、ここで言われる二の「天皇制的正統の確立」を以て完全にその可能性は絶たれた。これは忠誠と反逆(一九六〇)に描かれている通りである。すると、書かれなかった時代は、丸山にとってはほぼ同時代史にあたる。丸山はかつて「〝自分史〟を書きたい」と漏らしたことがあるという。(中野雄『丸山眞男 音楽の対話』文春新書、一九九九年、三七頁)しかし、「自分史」も「同時代史」もついに書かれることはなかった。

 

[iii] こうした「原型」の性格については、一九六七年の講義で、倫理意識、歴史意識、政治意識の三つに分けて考察されている。歴史意識については一九七二年の古層論文(『集』十)、政治意識については、論文ではないが「政の構造」(『集』一二)があるので、ここでは倫理意識だけ触れておく。簡単にいうとそれは、キヨキココロという絶対的基準が共同体的功利主義に制約されてしまい、共同体規範から、特定の共同体や関係をこえた普遍的な倫理規範(超越的な唯一神の命令とか、超越的な天道とか、そういったもの)への昇華がなされないということ。そしてこの制約は、仏教や儒教を摂取するときの変容の条件としても機能し、上記の倫理意識の「原型」を考えると共同体に対する純粋な献身が一番評価が高くなる。(『講義録』七、六六頁) 

要するに、日本には「キヨキココロ」という純粋さを尊ぶ意識が強い一方、共同体志向が強いため、この純粋さのベクトルが、超越的な正義や倫理への志向にはなかなかならず、「共同体」にひきづられる傾向が生じやすいということである。すると、「共同体のために、ひたすら純粋な気持ちで奉公する」というのが日本の原型に照らすと最高価値になる。だから、青年がお国のために命を賭けて云々という、特攻隊などの映画は倫理意識の観点からいうとウケがいい。また同時にこれは、「彼は、一生懸命やったじゃないか」という純粋さや懸命さが評価されることになるから、本来は結果論で評価されるべき政治行動などへの評価もこれに引きづられて「無責任」さを帯びる。例えば、A旧戦犯などへの評価。また、これら三つの意識の説明については、『話』二、二二二‐二三一頁も参照のこと。

[iv] 『講義録』四、七七頁。

[v] 『講義録 』別冊一、七五頁。

[vi] 『講義録』四、一五四頁。

 

[vii] 「ここではじめて、日本の国家は、したがってその統治者は絶対者にたいして、相対的なるものとして、普遍者にたいして特殊的・個別的なるものとして明確に自己を限定し、そうした自己限定のうえに立ってあらためて、そうした絶対的普遍者から、統治権と統治機能の義認を仰ぐことを学んだのである。」(『講義録』四、一五〇頁)

[viii] 『講義録』四、一五七頁。

[ix] 『講義録』四、一五四頁。

[x] 太子が示した可能性は以下の三点である。(『講義』四、一六三頁)

  • 地上の権威が普遍的真理・規範に従属すべきであるという意識。
  • 自然的・直接的人間関係と公的な組織とを区別する意識。
  • 制作の決定および施行過程における普遍的な正義の理念の強調。

[xi]

「日本における仏教が担った精神革命的意味―当面のテーマに即していえば、世間的なるものと超世間的なるもの、王法と仏法の二元的緊張のさまざまの形での自覚―は、いわゆる鎌倉仏教においてはじめて開花したのであるが、そこにいたるにはやはり、奈良・平安仏教時代の長いプレリュードがあった。」(『講義録』一七二頁)

 

[xii]

親鸞道元日蓮などに代表される鎌倉新仏教の思想的著作は、いずれも単なる経論のスコラ的註釈ではなく、時代の深刻な苦悩を直視する認識を、さらに自己の内面の奥底からの体験によって深化させたところに生れた魂の叫びであった。そこに提示された人間存在の本質についての思想は、日本思想史の上で他に類比を見ないほど独創的なものであっただけでなく、そこに流れる体験の深さ、情操の豊かさ、論理の透徹さは彼らをして優に世界の第一級の思想家に伍せしめるに足りる。むしろそれがいずれも十三世紀初頭の産物であったことは驚異というに近い。」(『講義録』四、二三一頁)

 

[xiii] 丸山がここで考察していたのは、「人間にたいするどのような新しい観方と、社会にたいするどのような行動態度が打ち出されたか〈および宗教意識のパターンがどのような政治意識のパターンへ移行していったか」〉(『講義』四、二三二頁)という問題であった。母が敬虔な真宗信者であり、その影響で丸山も中学までは、朝、食事の前に仏壇に手を合わせていたというから(「信者でもないのに念仏を唱えるのはおかしい」と思い上級生の頃には辞めたそうだが〈『書簡』三、一八頁〉)、親鸞へのシンパシーはわかるが、日蓮への評価は意外な感じがする。丸山は次のように述べている。

 

日蓮の『立正安国論』は、鎮護国家論の否定の否定だと僕は言うんです。一〇年間、日蓮比叡山で修行して、それから山を降りてきて説きだすわけですけれども、結局、あのように弾圧される。法華経を護持しない国家は滅びると言うんですからね、これが以前の鎮護国家論と同じかというと、そうじゃない。体制宗教じゃないんです。むしろ、親鸞なんかよりももっと強く王法に立ち向かっていくという態度になるわけですね。だから、鎮護国家否定の否定、そこでの肯定と考えたんですけれども。(『自由』四七‐四八頁)

 しかし、やはり、丸山の性格には合わなかったようで、「日蓮はファナティックでね、ぼくはかなわんのだ。」(『自由』五三頁)と本音を漏らしている。

 

[xiv] 「つまり自我人格が〝世間〟や〝既成事実〟と内面的な緊張関係を保つことによって、不断に前者を体系的・合理的にreconstruct[再構築・改造]してゆくような精神的エネルギーを再生するほどには、日本の宗教改革はラヂカルに遂行されなかったといっていい」(『講義録』四、二七一頁)その後の仏教の末路は以下のとおり。

  • 術的傾向の再浸透(回帰)。
  • 神仏習合といった教義上の集合傾向。
  • 教団組織のparticularisticな性格の濃化。
  • 王法(俗権)との再癒着。
  • 聖価値の審美的価値への埋没。

[xv]

「こうして社会の価値体系の変動から見れば、江戸時代の開幕は、秩序価値の(真理価値と正義価値に対する)決定的優位によって秩序づけられる。秩序価値の優位→世間内の具体的共同体の倫理が最高価値になる。超越的普遍者(人格的創造神、彼岸的救済者、永劫不滅なる理、イデア)が見失われ、内在的普遍者(〝人類〟の理念、自由・平等・博愛の普遍的道徳、やや不徹底だが、自然法[天道]と同化した普遍の五倫五常の道)が、世間的秩序との緊張感系[ママ‐引用者]を失って、内在化する。→超越性から内在性へ、さらに普遍性から特殊性へという、精神的志向と強調点の移動。彼岸的・特殊主義的価値の強調。「正義よおこなわれよ、たとえ世界滅ぶとも」(Fiat iustitia,pereat mundus―Kant.普遍的正義の支配なき社会は存在根拠がない)とまさに対極的に、秩序維持天下泰平それ自体が至高の価値となる。(『講義録』四、三一二‐三一三頁、傍線引用者)

[xvi] なぜ仏教は原型から飛躍を維持できなかったのだろうか。それには二つの理由があるという。

「日本仏教がなにゆえに『原型』からの質的飛躍を歴史的に持続させるだけの力をもちえず、こうした屈折と妥協の跡を濃くとどめねばならなかったか。そこには、仏教そのものの持つ一般的性格の面からと、日本的な特殊性という面からと、の二つの側面からの考察が必要であろう」(『講義』四、二七八‐二七九頁)と言う丸山は、その訳を「普遍宗教が直面する一般的ジレンマ」の問題と前述したような日本の特殊主義(原型)に求めている。一般的ジレンマとは、次のようなものである。

 

いかなる絶対者を追及する普遍宗教も、人間の世間的な営為と交錯することによって、世間的な価値との通路の断絶か、さもなくば世俗への限界のない妥協かという二律背反に直面してきた(政治的に見れば、聖なる権威と俗権との関係づけの問題)。けれども仏教は右のような本来的性格に規定されて〈上に述べた根本教理からして、とくにこの二者択一性がつよい。すなわち〉、純粋化すれば世間的なるものへの浸透力を失い(これと断絶し)、さもなければ世間的価値と権威との境界を無限に曖昧にし、いずれにしても伝統的生活態度を変革させてゆく力には乏しいことは争えない。(『講義録』四、二八〇‐二八一頁、傍線引用者)

「そもそも絶対者への信仰は、現世的権威への通常の血縁・地縁的なつながりによる自然的な愛着感情とか、共同体・社会集団への自然的な所属意識をいったん遮断し、ご破算にして、いかなる地上的な規定性をも脱したただひとりの人間として、絶対者と向き合うところから始めて出発する」(『講義録』四、二八一頁)

しかし、日本の仏教の場合、それに輪をかけて、強力な「原型」の磁力がそれを困難にする。そこに仏教という絶対者が日本において敗れ去る所以があった。

 

[xvii]

特殊的な規定をもった人間でなく、およそ人間の人間としての尊厳に基づく自由と平等の思想および友愛と連帯の思想は、一切の経験的・感覚的存在を超えてこれを規律する絶対的・超越的普遍者へのコミットメントなしには、生れえなかった。経験的には人間は皆不平等であり、社会関係の相互作用のchain[連鎖]のなかにあるという意味で自由でない。〈それを突破するには、〉「神は人間を平等に作った」「人に従わんよりは神に従え」〈と説く、神=絶対者へのコミットメントが必要であり、そうしてはじめて水平的平等が生れる〉。武士のエートスのなかには、こういう超越的な神とか、普遍的原理への忠誠の共鳴盤たりうる契機はあっても〈たとえば『葉隠』のparticularisticな忠誠のあり方から、超越的モメントが逆説的に出てくる契機。しかも本来的にそれは特殊的人間関係の上に成り立つエートスであり、普遍的人倫のエートスではなかったから〉、特殊的人間関係自体のなかから絶対者は出てきようがない。にもかかわらず〈それは、明治中期以後に顕著になる〉軍隊の絶対服従、臣民的随順、忠君愛国の家族国家観と結びついたconformityとは非連続である。」(『講義録』五、二五四‐二五五頁、傍線引用者)

 

「明治中期以後の国民教育の枢軸となった。〝忠君愛国〟という観念は、「封建的」範疇でもなければ近代的範疇でもない。忠君は封建的・人格的忠誠の天皇への延長というより、むしろ、その水増しであり、愛国は、近代的な市民によって支えられたパトリオティズム愛国心]からは遠く、対内的には臣民的conformityによる権威への恭順であり、対外的には自我と国家との直接的・情動的な同一化を意味した。忠君が[非人格的な]愛国と結合したことによって、忠君からは、生き生きとした人格的契機が喪失し、「愛国」は〈元来なかった言葉で、明治二十年ごろまでは「自主愛国」「自由愛国」ともリンクして、近代市民によって担われる愛国という観念であったのが〉、〝自主自由〟とのかつての結びつきに代わって、「忠君」と結びついたことによって、下からの自発性と自律性の契機(民主的契機)を脱落させた。〈〝武士のエートス〟は「愛国」とリンクすることによって、その「忠君」から生き生きとした人格的契機を失い、〝市民のエートス〟は「忠君」と結びつくことによって、市民的自発性を脱落させて、ともに姿を消していったといってもよい。〉」(『講義録』五、二五五‐二五六頁、傍線引用者)

 

[xviii] こうした過程については、「忠誠と反逆」一九六〇年(『集』八)を参照。

[xix] 『講義録』六、五三頁。

[xx] 『講義録』別冊二。

[xxi] 『講義録』六、二一頁。

[xxii]

「集団的な和の維持のための「抱擁主義」であって、ヴォルテールの「私は君の意見に反対である。しかし君がその意見を主張する自由は死を賭して守る」に見られるような、自分の確信の故に、他人の確信を尊重するという寛容ではない。思想的排他性が少い。その反面は「雑信」の伝統への反逆にたいする不寛容となる。「寛容」の伝統のゆえの不寛容。文化的同質性に基づく集団的凝集性が高いから、一旦、集団的同質性がゆるがされるという猜疑が高まると、それだけ異質的な分子の排除は熱狂的となる。」(『講義録』一一八頁)

[xxiii] 『講義録』六、一二八頁。

[xxiv] 『講義録』六、一一八頁。

[xxv]

「むしろわれわれは、観点をたんに「外教」としてのキリスト教への個々の支配者の政策ということにしぼらずに、室町末期から戦国を経て、江戸時代にいたる国内の政治的変動のなかから、近世的支配者体制が創出される過程のなかで、宗教勢力一般が俗権と対決しつつ、後者に完全に従属するに至る大きな歴史的出来事の一環として、このキリシタン禁制の問題をとらえる必要があろう。そうすると、信長のキリシタン援助から、秀吉・家康さらに江戸幕府によるその全面的禁圧へというまさに正反対の政策の背後に、実は一本の赤い糸のように貫徹している歴史的な傾向性と、その思想的意味が浮かび上がってくる。」(『講義録』六、一一九‐一二〇頁、傍線引用者)

ことは宗教だけの問題ではない。少くも歴史的には、良心の自由〈、学問の自由、思想の自由〉の観念は信仰の自由から発したし、いかなる権力も浸すべからざる領域としての自由権の保証のうえに、国家と社会との二元的区別も、自発的結社の発想も根づく。政治的価値と全く異なった次元、異なった価値基準に立つ自発的集団の原型は信仰共同体である。学問や芸術を目的とする結社や集団が、国家とか政党のような政治集団と相似型をなしやすく、また容易に政治権力(反体制的政治勢力もふくむ)に従属するのは、政治的価値をこえた価値へのコミットメントが弱いからである。ここでは権力獲得をめぐる闘争、または経済的利害に基づく対立は起こりえても、被世辞的。内面的価値に依拠し、その内面性をまもるために政治権力に抵抗する伝統は定着しにくい。行動の次元でいえば、非政治的目的から発する政治行動という発想である。これが政党を除く、一切の自発的結社の自律性が保証される社会的基盤である。それがないと組織と行動様式がすべて政治集団の相似形となり、そういうところではまた、最大の政治集団としての国家がリヴァイアサンとして、社会を併呑する傾向性が高い。一切の宗教と宗教教団が地上の権威に従属させられ、超越的絶対者へのコミットメントに基づく共同体の形成が禁圧されたうえに、鎖国によって「閉じた社会」が人為的に二世紀にわたって維持されたことは、その後の日本の思想文化のあり方に、見える形だけでなく、さまざまな見えない形態において、ほとんど決定的といっていいほど重大な刻印を押したのである。」(『講義録』六、一二七‐一二八頁、傍線引用者)

 

[xxvi]そもそも、儒教は、「天」「天道」「天命」の観念のような普遍主義的一面も持つが、その倫理は著しくparticularisticな側面で制限され、普遍的人類の発想=個体としての人間という発想は極めて乏しい。(『講義録』四、一五三頁)だから、丸山は仏教やキリスト教を「超越的絶対者」と表現する一方で、儒教を「内在的普遍者」と呼んでいる。

 

儒教的な規範意識には致命的な欠陥がある。一つには、それがどこまでも君子と庶民との断絶を前提にしているので、大衆的な契機がないことです。(中略)もう一つは、儒教規範意識というものは、歴史意識以前のものなので、歴史的なものに媒介されないという点です。だから、それは非歴史的な尚古主義や、単純な勧善懲悪観に陥ってしまって、歴史的個体に浸透して行ってこれを内面から動かす力にならない。」(「被占領心理」一九五〇年八月『座談』二、二四頁)

 

「日本の儒教は近代化を促進したのか、それとも妨害したのか、という問題があります。(中略)先取りして言いますと、「思想的近代化」、近代化の意味を思想的近代化という意味にとるならば、つまり自由とか民主とか人権とか、あるいは法の優位、ルール・オブ・ロー(rule of law)、法の支配、そういう思想的近代化の意味にとるならば、日本の儒教はほとんどその反対の役割をしました。(中略)思想的近代化に限りますと、プラスの役割はしなかった、というのが私の見解です。その一つの理由は日本の儒教が国体論と結びついたからです。しかし、かといって国体論と結びつかなかったら儒教思想儒教道徳そのものが思想的近代化に役立ったかというと、それにも私は否定的です。」(「儒教・近代化・民主主義」一九八八年十月『話』四、二一五頁)

 

[xxvii] 丸山自身、『研究』との違いについて、「本居宣長の思想の内部構造や構成契機の相互連関については、かつての所説を修正する必要を認めない」としつつ、「ただその江戸時代における思想史的位置づけについては、若干の修正を要する」と指摘し、「儒教的世界像の解体-近代意識の成熟という路線のなかで位置づけようとしているために、やや一方的になった(国学のある一面のみが強調されすぎた)」と述べている。(『講義録』七、二八〇頁)これを受けて、『講義録』では、「特殊江戸時代的な条件の下における「原型」のふきあげ(噴出)と近代意識の成長とのからみあい」としての国学の思想運動(『講義録』七、二八一頁)という位置づけのもとで論じられるに至る。よってそのときの国学運動の性格は「儒教思想中に成長した風土的・歴史的相対主義の思考を儒教的世界像全体に適用させ、そこから一切の普遍主義的要素を剥ぎ取ったのが、江戸後期に興った国学運動」(『講義録』七、二七七頁)ということになる。

 

[xxviii] しかし、これは丸山自身が散々言っているように、「宿命論」ではなく、「自己認識」である。まず、自己を認識すること。しかも、決して非合理的なものを合理化して考えるのではなく、あくまでも非合理的なものを非合理的なものとして認識し、その上で無意識のコントロールに務める。要するに「認識からすべてが始まる」。それが丸山の考えであり、そうした考えを丸山は「ヘーゲル的な考え」と表現している。

 

僕の考え方がヘーゲルの考え方から基本的に影響を受けているのは、ヘーゲルは認識と実践とをなんとか架橋しようとしたわけです。ヘーゲルの立場からいうと、トータルに現実を認識すれば、自分が現実から隔離されるわけです。自分が現実から隔離されると、アルキメデスのいうテコの規準じゃないけれど、地球の外に立てば、地球を動かせると言ったでしょ。あれと同じなんだ。つまり、トータルに現実を認識できるということは、現実を変革できる条件ができるということなんです。そういうヘーゲルの読み方に非常に僕は影響を受けた。なんとかして、すくなくとも過去の日本をトータルに認識できないか。そうすれば、現代の日本を変革できるという・・・・・・。僕はどちらかというと、デカダンスのほうが好きなんだけれど、しいて(笑)、弁明するならば、ヘーゲルなんです。(『話』二、二三四頁)

皆さんが僕の文章を読んでいて、いろいろな問題を持つのはいいんだけれども、そのなかでたった一つでも、「あ、これは、今の問題だな」と思ったら、僕の意図は達せられるんです。昔のことじゃないんだなと。そうすると、それが、持続する契機になるわけです。自分で意識しないけれど、「あ、そうか。俺もそうだった」ということが一つでもあれば、僕の目的は達せられる。無自覚なものを自覚化させるということが、一つあるわけです、モティーフのなかに。(中略)昔のことは昔のことじゃない、済んだことじゃない。逆に、昔のことを済んだこととするのが、日本人の盲点です。過去を過去のこと、過去との対話がないということ。過去が自分のなかに住んでいるという意識が希薄なこと。俺は現代に住んでいるんだ、江戸時代とは無関係だと。そうではありませんよ、江戸時代どころか、『古事記』の時代、あなたのなかに『古事記』が住んでいますよという、ちょっと意地の悪い意図が[僕のなかに]あるわけです。一つでもそういうものを感じたのなら、僕としては成功なんです。       (『話』二、三二八‐三二九頁)

 

[xxix] 「歴史意識の「古層」」一九七二年『集』十、六四頁。

[xxx]丸山眞男氏との一時間」一九六〇年(『座談』四、五一頁)

この座談で面白いのは、村松剛と丸山の討論である。面白いというのは、「今ヨーロッパ文化が神様がなくなって困ってる時代に来て、われわれが神をどっかで回復し観念の上で神を、あるいは永遠なるものを回復するということが具体的に出来るでしょうか。」(同、五一頁)という村松の質問に対する丸山の答えが、この発言の意味をうまく説明しているからである。引用しておこう。

キリスト教に改宗しろとか、ヨーロッパの発展の時間的順序を追えということじゃないんです。」(同、五一頁)「日本民族のエネルギーでヨーロッパの過去からの全体像をつかまえて、ちょうどゲルマン族古代に対したように自由に我がものにして行けということなんです。日本の伝統にしても同じそういう自由な態度で操作すればよい。もたれかかっちゃいけないということです。」(同、五一頁)「神はないという伝統に居直っていい気になったら――なんだ、ヨーロッパが今ごろ到達したものを俺は最初から持っているということに甘えちゃったら―おしまいだというんです。郷土性とか民族性とかいうものは、否応なしにわれわれをいわば背後から規定しているもので、誰もそれから事実上自由でない。しかし民族とか伝統は創造の目標じゃないんですね。目標になったら、いわゆる郷土芸術みたいなものしか出てこない。」(同、五一‐五二頁)「卑下したってはじまらないんだけれども、同時にそこに居直ちゃったら何も出てこない(中略)理性的に認識することに耐えられない弱さがわれわれの間にないか。パっと勘で分かっちゃったり、またそれを感傷的に美化したり、あるいはけなしてみたり、気分的な評価のほうが認識より先に来ちゃう」(同、五二頁)「自己内対話というものが出来てない。自分の中にはアジア的なものもあれば、原始神道的なものもあれば、ヨーロッパ的なものもあるが、それが併存してる状況じゃないですか。それが混ざり合えば触発されて、もっと創造的なイマジネーションが出てくる。」(同、五四頁)

[xxxi] 例えば、「麻生義輝「近世日本哲学史」を読む」一九四二年(『集』二)では「私をしていわしむれば、精神的分野に於けるヨーロッパ的なるものの浸潤の程度こそ日本の近代化の全現象を測定するバロメーターである」(一八二頁)と述べ、「近代的思惟」一九四六年(『集』三)でも「私はこれまでも私の学問的関心の最も切実な対象であったところの、日本に於ける近代的思惟の成熟過程の究明に愈々腰をすえて取り組んでいきたいと考える」(三頁)と述べていることに注目。

 

[xxxii] ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』(未来社、一九七三年初版)

[xxxiii] 丸山は国連で傍聴したアルジェリア戦争をめぐる演説が印象的だったという。 

僕が国連の傍聴席で聴いた時に、パキスタンの代表がアルジェリア戦争を支持する演説をやりました。フランス代表が退席し、イギリス、アメリカは棄権です。そうしたらパキスタン代表が「反仏的とは何ごとか。われわれは自由・平等・博愛という理念をフランス革命から教わった」と。つまり西欧から教わった武器で西欧と闘っているんです。それが第三世界なんですね。(『話』四、一二九頁)

[xxxiv] (『書簡』四、二八七頁)また、丸山は「天安門事件」について次のように述べている。

 天安門のデモを毎日TVで見ておりました。(中略)デモ旗の中に「天賦人権」の文字を見たとき、私はわが目をこすりました。日本の自由民権運動は、日本ではなくて、中国で身を結んだのです。くりかえしますが、この果実はけっして現在の事態によってつぶされるものではありません。(『書簡』四、一八一‐一八二頁)

 まるで理性の狡智を思わせる。

 

[xxxv] 苅部直は『日本政治思想史研究』について次のように指摘している。

 助手論文は公私の領域の分離を構図として描き、全体を管制する政治権力のもとで、「私的」な活動がさまざまに展開するという「寛容」の体制を、「近代的なもの」と呼んだ。しかしそれは、「政治的なもの」の担い手が、その支配下に生きる個人のありのままの欲望や心情の発露を許すというだけで、場合によっては統治者の恣意による専制とも両立してしまうだろう。(中略)したたかに監視の目を逃れて欲求を満たそうとする庶民は、同時に憲兵に密告して隣人を売る人々でもあった。「主体」どうしの道徳上の結びつきが失われ、個人が放埒な自我のまま、ばらばらに放り出された地平に、強大な政治権力がおおいかぶさっていたのである。これに対して、個人の自由の確保と、政治権力に対する批判とを、倫理としてしっかり基礎づけるには、ありのままの自我の「私的」な内面と、権力が規制する「公的」空間との間に、たがいの自由と権利を維持すべく、「主体」どうしが結びあう道徳秩序を、考えなくてはならない。(中略)「内奥の心情」に動かされる生身の個人は、自由と権利の価値を内面化した作為の「主体」へと、どうやって陶冶されるのか。そうした諸問題も、空白のまま残されている。

 

私的なものを根拠としながら、そこから公共的なものをどのように立ち上げるかというのは、丸山の思想においても中心テーマであった。本稿では、こうした問題について、丸山の「主体性」という概念の検討を通じて考えた。そしてそれは、丸山の理想とする人間像としてアプリオリに 措定されていたといえる。問題は、大衆社会などにあって、その理想と現実をどのように考えるかであろう。そこに丸山眞男の主体性のアポリアが存在する。

 

[xxxvi] その点、デモクラシーに関する政治学の古典であるトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』における主題の一つが、デモクラシーの下で私的な生活領域にのみ強い関心を抱く「個人」を、公共精神を持った「市民」へと転化させるための観念(イデア)としての「共通善(common good)」とは何か、という問題であったことは感慨深い。こうした観点からの思想史研究としては、例えば、猪木武徳『自由の条件-スミス・トクヴィル福沢諭吉の思想的系譜』(ミネルヴァ書房、2016)など。

[xxxvii] ちなみに、政治思想史において長く軽蔑的な用法として使用されてきた「デモクラシー」という言葉に肯定的意味を与えた最初の人物はロベスピエールらしい。(ロバート・二ーリー・ベラー編『宗教とグローバル市民社会岩波書店、2014)