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戦後啓蒙と丸山眞男(3)

丸山眞男の死去[i]がはじめて新聞各紙に報道されたのは、一九九六年八月一九日の朝刊だった。紙面には、戦後の平和運動、あるいは六〇年安保闘争の理論的指導者としての丸山眞男の姿が踊っている。[ii]総じて新聞記事を読む限り、丸山眞男が「政治思想史研究」に従事する学者というよりも、「戦後民主主義の旗手」といったイメージでとらえられていることがわかる。[iii]これが丸山本人の言うところの、いわゆる「夜店」の主人としての姿[iv]であるが、その一方で、丸山の没後、その著作や日記や書簡、対談記録といった資料の刊行が相次いだこと[v]で、思想史の分野における丸山眞男に関する本格的な研究――すなわち、丸山を「本店」の文脈の中で位置づけようとする機運が高まった。[vi]こうした認識の差は、現在の丸山研究の潮流と一般的な丸山理解の相違という特徴にとどまらず、「本店」と「夜店」をどう位置づけるかという丸山論における一つの論点につながっていく。この問題を考える際に手がかりとなるのが、「主体性」という概念である。この概念は、丸山の思想を考える際の鍵概念であり、また戦後直後には大きな論争にまで発展したことでよく知られている。(主体性論争)[vii]ここではまず、そもそも「主体性」とはどのような概念で、それがどのような思想的意味を持つのか[viii]という点、「主体性」をめぐる戦後の論争を簡単に整理することからはじめよう。

    梅本克己の問い

主体性論争とは、敗戦直後の昭和20年代前半(1946~49年頃)にかけて、人文学や社会科学さらには自然科学や技術論、労働運動といった広範な領域において「主体性」という言葉を用いて行われた論争のことである。この論争の震源となったのは文学の領域で、具体的には、1946年に創刊された文芸雑誌『近代文学』の同人によって提出された「エゴイズム」の問題であった。こうした問題は、「個人の解放」が社会的に関心を集めた時代における文学による問題提起に他ならない。こうして個人の「実感」というものを重視した文学的主体は、「本来、ヒューマニズムとは相容れず、また人間の卑小さをしめす以上のものではないと思われたエゴイズムが、戦時体制下にあってはむしろ人間性を防衛する有力で効果的な障壁でありうる」[ix]ことを発見した荒正人が「エゴイズムの否定の否定を通じた高次のヒューマニズム」を主張[x]したように、「エゴイズム」を肯定する方向をとったことで、それが結果的にエゴを抑圧し得る組織や運動への批判的傾向を強め、これに反発した中野重治といった党員作家との間―より具体的には、1946年に中野や宮本百合子らによって創刊された文芸雑誌『新日本文学』と『近代文学』との論争に、両同人以外の文学者を巻き込む形―で論争へと発展した。(政治と文学論争)

 この論争において「エゴイズム」の問題を、文学的主体性のように、レトリックのなかに解消させるのではなく、これをむしろマルクス主義において、弾圧の渦中にあって「エゴイズム」を越えてその思想を支えたものと、その論理とは如何なるものであるかという、より実存的な価値の問題として捉えなおそうとしたのが梅本克己である。突き詰めるとそれは、「人間、いかに生きるか」という問題、すなわち「人間がそこで死んでいい理由」への問いであった。[xi]梅本が指摘したのは、マルクス主義における「人間解放の物質的条件を洞察する科学的真理」と「解放される人間の実存的支柱」との間に存在する「空隙」の問題である。[xii]どういうことか。哲学の領域において展開された梅本の議論は、きわめて抽象的で、京都学派の哲学やマルクスへの理解がないとわかりづらいが、戦後しばらくして梅本自身が当時の論考を振り返った文章に、その主張がわかりやすく要約されているので引用してみよう。梅本は次のように言う。

 

歴史の中での個人の存在と人間の歴史とはどのような関係にあるのか。この関係を、たれのものでもない一般的思惟の天上から眺めれば、個人は立派に全体の一契機として位置づけられている。ヘーゲルのいうように、まさに全体の必然的契機として位置づけられている。だが「位置づける」とはどういうことなのか。だれが、どこで、何を位置づけるのか。それは神を拒否して人間が歴史の前に立ったときに、必然的に解答を迫られる設問である。現実の歴史の中では、各個人はその有限の生存の中に、自分の全体を生きねばならないからだ。だからここでの設問は端的につぎのような形をとってくる。そもそも人間は、自ら体験しえぬ未来のために、どのような理由で死ぬことができるのか。未だない存在で、現にある存在をみたすとはどういうことか。しかも人間だけがこのような矛盾を生きるのであり、またそのことによって人間なのである。この矛盾の解決をもとめるところにひらかれる個人主体の領域に、史的唯物論は足をふみ入れたことがあるだろうか。(中略)このような発想のうしろにあるものはきわめて実存主義的なものである。しかしこの設問は、単にキルケゴールからの思いつきからマルクス主義にケチをつけるためにもち出されたものではない。そこには、あの戦争の中で、いま自分がここで死んでゆくのはいったいどういう意味をもつかという問いにたえずせまられ、しかも一方ではついにファシズムに対して一矢をも報いることの出来なかった一つの思想の敗北がふかく刻印されていたここにひらかれる課題が革命の問題と結びつくとき、問題の意識はただちに革命の過程と個人との関係に結びついた。革命の過程にもっとも大きな犠牲をはらったものが、かならずしもその成果の享受者となるとはかぎらない。この両者が合致するのはむしろきわめて稀れなことであり、時には人民の敵として最大の汚名の中にその生涯をとじることもある。そのときかれが自分のうちに定立する歴史の全体、そこに自分を一つの契機として位置づける全体とは何か。(中略)ヘーゲルに対するキルケゴールの関係はまさに反撃であったが、今日の実存主義マルクス主義に対する関係はその余白への寄生である。(中略)ただ唯物論における主体性の問題は、歴史の中でも自然の中でも、つねに自己自身を一つの過渡としてつかむところから出発した。そして物質的自然はつねに人間よりもふかいというのがその基本的前提である。(中略)人間はつねに過渡なのであり、人間の認識は、その「総和」においてつねに「残余」を残す。(中略)組織そのものが一つの過渡であり、その中にはつねに対立と闘争を含むものであること、この過程を認識過程として定位させてこそ組織もその本来の任務を果たしうるものであろう。と同時に、人間性の全体的解放をめざしてたたかうために創り出された組織そのものが、そこでいわれる「人間性」とは何かということの検討を忘れるならば、組織はもはや前衛としての資格を失う[xiii]

 

 こうした梅本の主張は、松村一人といった「個と全の関係をプロレタリアートの階級的利害によってむすびつけようと」する、いわゆる正統派マルクス主義による修正主義批判を招くことになる[xiv]が、主体性論争の詳細な検討はここでの課題ではない。ここで重要なのは、こうした梅本の主体性に関する問いが、丸山眞男の主体性論や内田義彦の市民社会論にも共通しているという点である。梅本が問うたのは、唯物論における人間の実存の問題――すなわち、プロレタリアートによる革命の論理的必然は、果たしてそこに命を賭ける人間存在の必然足り得るのか、という問いであった。梅本はそこにマルクス主義の「空隙」をみた。そしてこの問題は、そのまま「認識」と「行動」の不連続性(決断の論理)の問題として、丸山の主体性論につながっており[xv]、また、マルクス主義における人間存在の問題は、丸山と同じく戦後啓蒙を担った代表的な知識人の一人である内田義彦をして独自の市民社会論の創造に導くだろう。ここで取り上げるのは、丸山の「主体性」である。戦後初期において、丸山が「主体性」に関して語ったものに「唯物論と主体性」という座談会が存在する。そこに丸山のモチーフがよくあらわれているので、これを足掛かりとして、丸山の主体概念について考察したい。[xvi]

   せめて人間らしく

 雑誌『世界』1948年2月号に掲載された「唯物論と主体性」[xvii]は、当時『世界』の編集長だった吉野源三郎の呼びかけで集まった――古材由重、松村一人といった「正統派」(教義派)マルクス主義者や、清水幾多郎(社会学者)、宮城音弥(心理学者)、林健太郎歴史学者)、真下真一(哲学者)、そして丸山眞男政治学者)など――さまざまな分野の知識人によって、行われた座談会である。その概要を簡単に述べると、座談は、まず、チトー率いるユーゴスラビア(当時)の代表が、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と謳ったユネスコ憲章に対して、これを「唯物論を排斥する言動である」などと反発したことが取り上げられる。そして、ここにみられる唯心論と唯物論の対立に関し、吉野が「唯物論歴史観に対して人間の主観的・心理的契機の重要性さを強調している点は、わが国で最近しきりに論じられている主体性の問題やその強調と、何か相通ずるものをもっているのではないか」と出席者に水を向け、これに対する出席者の反応が、「主体性」という概念への可否の議論へと発展していく、というのが座談の一連の流れである。

 具体的にそれは、唯物論における「主体性」をめぐって、これに真っ向から反対する教条派(古材や松村)と、「主体性」という概念の必要性と重要性を主張する真下や丸山との対立に、あらゆる事象は科学的に説明されるべきだといい実存哲学を否定する科学主義(宮城音弥)や、価値相対主義を掲げる歴史学者林健太郎)を巻き込んだ論争へと発展するのだが、座談の詳細はここでの検討課題ではない。ここでは、この座談において示された「主体性」という概念に対する丸山の考えを確認すれば事足りる。この座談において、丸山が強く主張したのは、①マルクス主義はそれ自体、一つの「価値」や「理想」にコミットしており、往々にしてマルクス主義はその自覚に欠けているということ(党派性の指摘)。②そうしたある「価値」へのコミットメントを自覚した上で、その「価値」が持つ意味、すなわち「人間の動物的生存を確保するだけではなく、それだけにとどまらない人間的生活――内部的な、究極においては精神的なもの、単なる動物的生存や生理的生存から区別された人間らしさ」[xviii]とは何か、考えるべきだ[xix]、という二点に尽きる。そして丸山は自身が考える「人間らしさ」を「われわれが実践するときに必然的に予想せざるを得ないエトス」[xx]と呼んでいる。

 ここから確認できるのは「主体性」という概念に関して、丸山はこうした「エートス」(内面化された規範意識[xxi]の存在にあくまで拘っているという事実である。本稿において重要なのは、こうした「エートス」へのこだわりの意味であろう。ここでは、こうした丸山の「人間らしさ」に関する拘りが、丸山の言説に繰り返し現れていることに注目したい。例えば、丸山はドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に感銘を受けたという。[xxii]

 

つまり、人間として生まれて人間の人間たるゆえんを認める以外に生き方がありますか、ということなんですね。さっき言ったように、動物は生きがいなんて考えないじゃないですか。生きがいなんて考えなきゃ、楽だっていえば楽ですよ。だけど、人間である以上、考えざるを得ない、それもまあ、あなたに言わせると、遺伝子かもしれない。だから、何千年来、何のために人は生きるかってことになる。『人はパンのみにて生きるものにあらず』って言ったのはキリストですよ。動物はそんなこと言いませんよドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で、大審問官とイエスの問答があるでしょ。あそこがいちばん素晴らしいところなんだけれど。[大審問官がイエスに向かって言うには]お前は人間を買いかぶり過ぎている。人はパンのみにて生きるものにあらずなんて言ったって、人間なんてものは、もし自由と安定を選択すれば―そういう言葉は使わないけれど、僕なりに言えば、これは価値の序列の問題なんだけれど―人間の九〇パーセントは自由よりは安定のほうを欲するんだと。そして自由は人に預ける―要するに安定を自分に与えてくれる、つまり、パンをくれる人には独裁者にも喜んでついていくのが人間という動物なんだと。お前は人間を買いかぶり過ぎている、人はパンのみにて生きるものにあらずってのは―「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」と言って、死という、人間にとっていちばん大事な生命価値さえ捨てても、自由を追求するのは、買いかぶりだと。こう大審問官は言うわけです。あそこがいちばん面白いところです。自由ってのは、ものすごい代償を払って自由を獲得してきた歴史なんです。人間というのは、そういう動物なんです。自由なんていらない、もう俺の安定さえ、今日の生活さえ保証してくれればと言うんなら、これはもう、偉い人が出てきて、その偉い人がパンをくれれば、それでいいということです。それでは満足しないわけですね。それで、自由獲得の歴史ってのは血にまみれているわけです。あそこのドストエフスキーは、直接的にはキリスト教の擁護論です。その意味では、キリスト教という制約はあります。僕はクリスチャンじゃないけれども、面白く感じたのはその解釈ですね。つまり、キリストはどうして十字架にかかったのか。彼は人間を救うんだから、十字架から下りて悪い奴をみんな剣で退治しちゃったほうがいいんじゃないか。そうじゃなくて、どうして黙って十字架にかかったのか。人間が自由意思で、つまり、善と悪とを選択する人間が自由意思でキリストを選ばなければ、それは信仰したことにならない、と。自分は黙って十字架について、人間のほうから自由意思でキリストを選択させる。それで、黙って十字架についた。だから、そこが「右手にコーラン、左手に剣」というのとの違いになるわけですね。正義を実現することだけが問題なら、左手に剣を持ち右手に真理を持って、真理を普及したほうがいいわけです。僕は、イスラム教からコミュニズムまで全部そういう考え方に立っていると思うんです。キリスト教は違うんですねキリスト教は自由意思をもって選択しなければ、意味がない。善の強制は善じゃないという立場です。そこで、キリストは黙って十字架にかかった。僕はそれをドストエフスキーから教わったな。自由、人間の自由とは何か。コミュニズムとかは、多かれ少なかれ、善の強制あるいは真理の強制という考えに立っている[xxiii]

 

こうした丸山の人間観は、丸山の思想を深いところで規定している。そして、それが丸山のデモクラシー論への賛否につながっていく。民主主義を支えるのは、個人主義の伝統であり、その背景にキリスト教のような宗教的倫理を想定し、それを以って西欧社会における民主主義成立の根拠とする考え方を、デモクラシー論の王道だとすれば、非キリスト教社会において民主主義はどのように成立し得るのか。こうした問題を、加藤周一は、自己の「確信」を芸術に托して語ろうとしたのに対し、丸山眞男は、「自由のために命懸けで闘う」ような、自身が理想とする人間像―すなわち、デモクラシーを真に担い得る主体(ェートス)とその根拠を、日本の歴史の中に探ろうとした。ここからは、こうした丸山の具体的な思索を見ていきたい。その思索はそのまま、「丸山思想史」という独自の歴史観の成立過程そのものである。

 

[i] 丸山が息を引き取ったのは、一九九六年八月一五日、午後七時五分。都内の病院(東京女子医大)において。享年八二歳。癌だった。九三年の暮れに肝臓がんが見つかって以来その病状の経過を「病状報告」と題し、近しい友人に送っている。(書簡集にはその報告が掲載されていないため病状の進行についてはよく分からないが、一九五四年に肺葉切除手術をうけた後遺症である呼吸不全に長く苦しんでいた丸山にとって、全身麻酔はリスクが大きすぎると主治医は判断し、手術は行われなかったようである。〈『書簡』五、二二二頁〉)しかし「年中行事」(『書簡』四、六五頁)のように入退院を繰り返し、既に亡くなる五年前には「地獄の一丁目の辺りまで行って生還」(『書簡』四、二六三)していた丸山はその死を前に動揺をみせる様子はない。「医者からがんときかされても、それほどshockを感じなかった」(『書簡』五、二二三頁)そうで、ごく親しい友人宛の手紙に業平の辞世を「残念ながら業平ほどのプレイボーイの生涯ではなかった」と書き添えて送り(『書簡』五、一四二頁)、「人は何のために生きるか、一度会いたい、という人のために生きる」と格言を残している。(『書簡』五、二二八頁)その死去について、八月一五日というのは出来すぎているとして、死亡日偽造説を唱える者もあるが(松本健一丸山眞男 八・一五革命伝説』河出書房新社、二〇〇三年)果たして真相はどうだろうか。丸山にとって八月一五日は母の命日でもあった。丸山が「超国家主義の論理と心理」(一九四六)の末尾に、日本軍国主義に終止符が打たれた八月十五日の意味を噛み締めるように記してからちょうど半世紀の歳月が流れていた。

[ii] その内容に目を通すと、比較的、朝日が大きく取り上げその記事も多く、その論調も好意的であるのに対し、産経は「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。(中略)過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」(『産経新聞』一九九六年八月一九日付朝刊二一面)と丸山を全否定する中村勝範氏の記事でその紙面を飾るなど、その対比は面白い。社説をみると、「私たちは、戦後精神の柱を相次いで失った。その死は、いま一度、戦後とは何かへの問いを促しているようだ」(『朝日新聞』一九九六年八月一九日付朝刊五面)とする朝日。「丸山氏が遺した軌跡をたどることは、そのまま戦後知識人の功罪を問うことにもなるだろう。」と述べ、「サンフランシスコ講和条約締結の際、丸山氏らが多数講和ではなく、全面講和を主張したことは果たして現実的で正しかったのか。改めて問い直すことも日本の戦後を考えるうえで重要だろう。」と結ぶ読売の社説(『読売新聞』一九九六年八月二〇日朝刊三面)のコントラストはさもありなんといったところ。丸山への評価が、そのまま「戦後認識」のあり方につながっている。ちなみに、丸山がとっていた新聞は『朝日』と『毎日』である。(『書簡』五、七五頁)

[iii] 例えば、六〇年安保に触れた朝日新聞の「活動は『大学』という枠にとどまることなく、特に六〇年安保の強行採決後は大規模な反対行動の理論的支柱となった。六〇年五月二十四日、東京・神田で開かれた学者文化集会での丸山氏の『選択のとき』と題するアピールは、その後の抗議運動へ圧倒的な影響を与えた。が、安保は自然成立、日本が高度成長に入るにつれ、丸山氏の名は、時代の表面から消えていく。」(『朝日新聞』一九九六年八月一九日付朝刊三一面)という記事からもそれは伺える。

こうしたイメージを丸山自身、快く思っていなかったことは明らかで、例えば、一九七一年暮れに高木博義(丸山の教え子で「六○年の会」の発起人。毎年秋になると丸山の好物だった富有柿を贈っていた)に送った手紙には「もし貴君さえも『六〇年安保のオピニオン・リーダー(ゾっとするようないやな言葉です!)が大学問題から七〇年安保にかけて〝沈黙〟し、あるいはさせられた』というような、マス・コミの流通イメージに左右されているとするならば、残念です」(『書簡』一、二四六頁)と書いている。

 また、「丸山は本当に戦後民主主義の旗手だったのか」という疑問を投げかけ、どのようにしてそうしたイメージがつくられたのかと問題を提起する小熊英二は、確かに丸山は敗戦直後の時事論文で注目を集めたが、それは一部の元学徒兵など若い読者層が中心であり、人々が丸山の時事論文をまとめて読んだのは『現代政治の思想と行動』(未来社)の初版が上下巻として出た一九五七年においてであること。その後の六四年に刊行された増補版が大学生の必読図書にされていったことを指摘し、丸山の敗戦直後の論考に衝撃をうけた当時二〇代前半だった若者は六〇年代にはマスコミのなかである程度の影響力を持つポジションについており、彼らが丸山を担いで戦後民主主義のチャンピオン丸山眞男というイメージを作り上げたと分析している。(小熊英二丸山眞男の神話と実像」『KAWADE道の手帖 丸山眞男』河出書房新書、二〇〇六年)

 

[iv] 「本店」「夜店」という区分けは、「原型・古層・執拗低音―日本思想史方法論についての私の歩み」(一九八四年)における「日本政治思想史というものが私の本来の場で、他は極端にいえば夜店を出したようなものです。」(『集』十二、一一〇頁)において示された。(その他、「本店と夜店と―丸山眞男氏に聞く」一九九五年〈『座談』九〉も参照のこと)夜店を扱った丸山論は、水谷三公丸山眞男―ある時代の肖像』(ちくま新書 二〇〇四年)、植村和秀『丸山眞男平泉澄』(柏書房 二〇〇四年)、渡辺純『現代日本政治思想史と丸山眞男』(勁草書房 二〇一〇年)などがあげられる。また、田口富久治は『戦後日本政治学史』(東京大学出版、二〇〇一年)のなかで第三章「戦後政治学丸山眞男・辻清明」を設け戦後政治学のなかに丸山を位置づけようとしており、また川原彰の『市民社会政治学』(三嶺書房 二〇〇一年)は「丸山先生がやり残した課題を現代の観点から論じた政治学のモノグラフ」を書こうと試みている。

 

[v] 丸山の死去を前後して出た著作は以下のとおり。 

 

これに丸山眞男加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波書店 一九九八年)を加えたものが丸山眞男を考えるための基本資料となる。なお、現在、丸山関係の資料は全て東京女子大学に寄贈され、著作権も同大学が保有している。一般に刊行されていないノートなども同大学の丸山文庫で閲覧が可能である。(詳細は、同大学のHPを参照のことhttp://www.twcu.ac.jp/facilities/maruyama/index.html)なお、近年立命館大学に開設した加藤周一文庫は、東京女子大学の丸山文庫を参考に作られている。

 

[vi]一九九九年度の日本思想史学会大会では、シンポジウム「丸山思想史学の地平」 が開かれ、はじめて大々的に丸山の「本店」が論じられたことはその傾向を最も具体的に示している。このシンポジウムの成果は、その後、『思想史家 丸山眞男論』(ぺりかん社、二〇〇二年)としてまとめられたが、その「まえがき」(大隅和雄)には、その経緯が次のように記されている。

日本思想史の研究に、指導的な役割を果たし続けた丸山眞男氏は、一九九六年八月に八二年の生涯を閉じたが、その前年から『丸山眞男集』の刊行が始まり、ついで『丸山眞男座談』『丸山眞男講義録』の編集刊行が始まって、一九九九年には、丸山氏の思想と学問を窺うための基本資料が揃い始めていた。(中略)そうした中で、丸山氏が、自身の仕事の「本店」と述べた日本政治思想史の分野については、本格的な論議はまだ起こっていなかった。丸山氏の日本思想史についての構想の全容を、捉えることが難しかったからである。従って、思想史の構想を窺うことのできる『講義録』が刊行され始めた時点で、丸山思想史学の地平を問うことは、時宜に適った企画であり、日本思想史学会が取り上げなければならないテーマであるという点で、委員会の意見は一致した。

 

その後の丸山論をみても、板垣哲夫『丸山真男の思想史学』(吉川弘文館 二〇〇三年)、池田元『丸山思想史学の位相』(論創社 二〇〇四年)、田中久文『丸山眞男を読みなおす』  (講談社選書メチエ 二〇〇九年)、遠山敦『再発見日本の哲学 丸山眞男―理念への信』(講談社 二〇一〇年)、安丸良夫・喜安朗編『戦後知の可能性 歴史・宗教・民衆』(山川出版社 二〇一〇年)など、丸山思想史をその主軸においたものが多い。

 

[vii] 主体性論争については、『近代日本思想論争』(青木書店、1963)318-345頁。『戦後日本の思想対立』(芳賀書店、1967年)の第一章「主体性論争の系譜」。菅孝行「主体性論争と戦後マルクス主義」(『戦後日本 占領と改革 第3巻 戦後思想と社会意識』岩波書店、1995)。

 

[viii] 「主体性」という言葉が、明治時代に「Subjekt」や「Subject」の翻訳語として日本に輸入されてから、時代によってその意味が書き換えられながら、現代においてエリクソンアイデンティティに取って代わられ、「主体性」という言葉そのものが遂に死語(意味の消失)となるまでの、その概念の歴史を、西周から高野悦子に至る近代日本思想史を通じて描いたものに、小林敏明『〈主体〉のゆくえ―日本近代思想史の一視角』(講談社メチエ、2010)がある。

 

[ix] 『戦後日本の思想対立』(芳賀書店、1967年)29頁。

[x] 「青春のヒューマニズムの否定者としてのエゴイズムを、ただの耳触りより客間談義としてではなく、茶の間に、台所に、書斎に、寝間に、すなわち、家常茶飯のなかに、ひとつひとつ丹念につまみあげてゆかねばならない。これは精神が異常に強靭でなければできない仕事だ。そして、エゴイズムというものが、じつは社会的矛盾の人間心理への反映形態であるというような、手をよござぬ綺麗事の算術的思索ではなく、その背後にひろがる巨大な深遠の口について、さらにその深淵を透して感知される際限ない虚無の世界にまで、いわば、宇宙論的極限にまで、肉体の思惟をどんらんに追究、拡大してみようではないか。(中略)もし、しんの希望が、敗戦日本という砂漠のなかから、不死鳥のごとく羽搏き生れるとするならば、その死灰となるものは、第一の青春に夢みたヒューマニズムを悉皆否定し、焼き尽くしたものにほかならない。似而非ヒューマニストの、スコラ的弁証法などというごまかしの形式を通らず、もっと直線的に電気のように肉体に伝わってくるものとしての、否定を通じての肯定、虚無の極北に立つ万有、エゴイズムを拡充した高次のヒューマニズム―これこそわたくしたちが、第一の青春という浪費のなかから購うことのできた唯一の財貨ではないのか。(中略)わたくしはなにも、一切の人間を凡庸化し、散文化する自然主義的人間観をよしとしているのではない。いや、それとは逆に、一切の人間に英雄を発掘しようとしているのである。すべての人間にヒューマニズムを見出そうとしているのである。――というだけではかならずしも正確ではない。あらゆる人間に、エゴイズムを、そして、それを通してのみ、ヒューマニズムを見ようとするのである、高次のヒューマニズムを。偉大なもののなかに卑小をみとめる。その卑小のなかに、または、その卑小なものがつきまとっているという点において、偉大なるものは一層真底から偉大なのだ。(荒正人「第二の青春」1946年『荒正人著作集』第一巻、29-33頁」

 

[xi] 梅本克己「主体性と階級性」1948年初出(同著『唯物論と主体性』現代思潮社、1974年、96頁)

[xii] 梅本克己「唯物論と人間」1947年初出、『唯物論と主体性』20頁。

[xiii] 梅本克己「唯物論における主体性の問題」『思想』1964年3月号、49-55頁。

[xiv] 松村一人「哲学における修正主義」(『世界』1948年7月号)における松村による梅村批判。詳細は『戦後日本の思想対立』328-331頁を参照。

 

[xv] 梅本自身、「丸山眞男への手紙」という文章で次のように述べている。「戦後マルクス主 義哲学の領域で『主体性論』というのがありました。私もそれに関係しましたが、私たちがそこで問題にしたことの一つも、認識と決断の論理―無限の認識過程における決断の論理でした。(中略)私はこの文章(丸山の「現代における態度決定」のこと:引用者注)をよみながら、学生時代以来の愛読の書であるマックスウェーバーの『職業としての政治』の最後の一節を思い起こしました。(中略)私はマックスウェーバーとは、いろいろな点で異なる立場にあります。しかしこのことばを吐いたウェーバーには心打たれます。同時にあなたの文章にも感動しました。私はこのことばによってあなたと共通の立場に立ちます」(『唯物論と主体性』313頁)

 

[xvi] 「主体性」という観点から丸山眞男を考えたものは、例えば笹倉秀夫『丸山真男論ノート』(みすず書房 一九八八年。なお後に大幅に加筆され『丸山眞男の思想世界』〈みすず書房、二〇〇三年〉となる。同書の第二部がほぼそれにあたる)、宇野重規丸山眞男における三つの主体像」(小林正弥編『公共哲学叢書 丸山真男論』東京大学出版、二〇〇三年所収)、田中久文『丸山眞男を読み直す』(講談社選書メチエ、二〇〇九年)がある。

笹倉の研究は、一言で言えば、徹底的に「丸山らしさ」というものを考えた研究である。その論は多岐にわたるが、笹倉がいう「丸山らしさ」とは、その思惟構造としての「主体性」に求めることができ、特に氏が強調するのは「アンチノミーの自覚」 という命題である。「アンチノミーの自覚」というのは『現代政治の思想と行動』の「追記」(一九五七年)に登場する表現であり、笹倉は丸山の「主体性」の本質を「アンチノミーの自覚」に見出し、そうした丸山の思考を「主体的緊張の弁証法」と表現する。言わば、それは「運動としての思考」であり、「福沢諭吉の哲学」(一九四七)において表現されたような「思惟様式」のことにほかならない。

宇野重規は、丸山眞男の「主体性」について三種類の例をあげて、こうした主体性理解をさらに展開している。宇野のいう三つの主体とは、国家と個人の関係をめぐって問われる①国民主体、前述の「福沢諭吉の哲学」にみられる惑溺しない自己をめぐって問われる②自己相対化主体、自発的集団と結びつく主体としての③結社形成的主体であるが、総じてこれらの「主体性」理解には「普遍者の問題」(宗教的契機)が表現されていない。

その点、田中久文は、「戦後の丸山は、主体性というものが、じつは主体性を超えた超越的なもの・普遍的なものとの関わりによってしか成り立たないことに気づき、その方向で思索を深めることになった」(田中二〇〇九、二五六頁)と述べているように、主体性を普遍者の命題に引きつけて考察している。こうした視座は、「主に丸山が『本店』とした、日本政治思想史に関する業績において説かれた主体性の思想を、時代を追いながら解明し、その思想的可能性について考えようとする」(前掲、一四頁)立場から導かれたものであるが、それ故にまた、それが夜店をどのように規定するのかが明らかではない。

このように、主体性の問題にひきつけて丸山の思想を考えるとき、内面的主体と政治的主体の関係をどのように説明するかが課題となる。本稿では、こうした問題に実は丸山自身も答えてはおらず(そもそも〈答え〉などないのだが)、それが公共性をめぐるジレンマともいえる問題――個人では限界があるため公共性を演繹せざるを得ないが、公共性は避難場所ではなく超越的絶対者ないし普遍者にコミットした主体性の発揮によって実現されねばならないこと。さらに日本には超越的絶対者や普遍者がいないという問題――として、依然今日的な課題として残っていると考える。(それはつまり、内面的主体〈=アンチノミーの自覚といった思惟様式〉は政治的主体〈=ある決断を伴った行動〉の十分条件に過ぎず、これを政治的主体に収束させるのは究極的には「賭け」であり続けることから必然的に演繹される問題である)

 

こうした「問題」をめぐる表現としては、丸山が福沢諭吉内村鑑三を語る以下の文章を参照。

 

周囲の情勢がどうあろうと、世界がどう変ろうと、自分は自分の正しいと信ずる思想をつらぬいて行く。この節操と気概がまた日本人には非常に欠けています。荒野に叫ぶ預言者というのは日本の歴史に非常に少い。内村はその貴重な一人です。しかし、現実の政治は「可能性の技術」ですから、彼の叫んでいるような原則が具体的にどういう風に実現されればいいかという問題は、内村には欠けている。歴史的な思考法も欠けている。福沢にはプラグマティックな考え方と歴史意識があるけれども、岩をも通すといった内村のような強さと徹底性はない。この二つの要素が結びつけば大したものですが・・・・・・。(『座談』二、三一六頁)

また、認識と行動の間に「賭け」があること(認識と行動の不連続性)の表現としては、例えば次の言葉に注目。(梅本克己の主体性との相関性!)

認識することによって失敗や挫折からも学んで行くというところに、人間の、したがって歴史の進歩もあるわけでしょう。にもかかわらず、一つ一つのプロセスではどんな人間でも失敗や挫折をする。それは認識が完全認識でないからではなくて、そもそも認識というものが、過去から現在への認識であるのに対して、行動にはいつも知られざる未来に向かって飛び込むという賭けの要素がつきまとうからだ。どんなに精密な理論でも、行動する立場に立った瞬間に次の状況というものをすみずみまで規定することはできない。最後のところは自分の決断の問題になる。それを賭けといえば非合理的にきこえるし、自由な選択といえば合理的にきこえるけれど同じことだ。いくら進歩を信じたって、そこからは具体的な選択は出てこない。自分で現実から選びとらなければならない。進歩勢力といっても、そのなかの何を選びとり、何を選びとらないかという問題に不断に直面する。(『座談』四、二五八頁、強調丸山)

 こうした「認識と行動の不連続性」は丸山の思想を貫く一つの命題だが、これが「学問論」という形を取れば「ヘーゲル的な考え方」(「日本思想史における『古層』の問題」一九七九、『集』一一)という自己認識(=古層論)に繋がっていく。

 

学問ってのは、あぁ、面白いなってんで、それでお前、どうするんだ、そんなことを言っては野暮なんだ。面白いなこれは、という知的好奇心、純粋な知的好奇心。これが見るということ。それが学問の一つの立場なんです。われわれは日々行動している、日々人間関係の中にいるわけで、そこでモラルが生まれるし、政治も生まれる。見てばかりいる人間ってないわけです。現実にはありえない。そこで、見るという立場と、行動するという立場とがどう関係するのかをめぐって、哲学がアリストテレス以来争ってきて、今も解決がつかないんです。なんで丸山眞男に解決がつけられますか。ただ、僕の考え方を言うと、良かれ悪しかれヘーゲルが影響してきています。(『話』二、二三二‐二三三頁)

 

[xvii]丸山眞男座談』①に所収。

[xviii]丸山眞男座談』①、120頁。 

[xix] 「意識が高いとか低いとか、歴史的使命とか、目的設定とか、この目的のために闘うとか、すべてこういうことか、社会主義社会に対する価値意識を前提としています。それは単なる現在社会の経験的認識―存在と意識との正確な対応―ということではない。とすれば、それはどこから来るのか。そういう価値意識は、たしかに人間的実践をを基盤としてある。人間という存在に担われている。しかし、それは人間的実践を人間的実践たらしめているもの、それの前提であって、その逆ではないでしょう。」『丸山眞座談』①、122頁。

 

[xx]丸山眞男座談』①、122頁。

[xxi]エートス」の定義については、丸山の自筆ノートに次のようにある。「行動様式を内面的に規制して、ある方向性を与えるところの〝気質〟。ⅰ 社会性をもつこと。極度に個人的な気質はエートスではない。ⅱ 必ずしも理性的なものでないが、全く無意識的なTrieb{衝動}でもなく、その中間地帯にある。〈一方の端に倫理思想的モラルをおき、他端に感情、情操等のエモーショナルなものをおくとすれば、その中間に位する〉」。(『丸山眞男講義録別冊』①、136頁。)

 

 丸山のいう「エートス」とは〈近代〉社会をつくりあげるエネルギーのことである。

 

 近代主義とか言いますけど、近代精神というものを、近代社会をいわばたえず再生産して行く主体として理解するか、それとも出来上がちゃって近代社会のなかにあぐらをかく精神を意味するかでちがってくるんですね。もちろん、その場合、近代が生み出されるプロセスによって、近代のなかでの精神も違ってきますが、それにしても近代社会の中で生まれてくる精神は必ずしもいただけないと思うんですよ。近代的合理主義というけれども、近代社会をつくって行く、あるいは近代化を押しすすめて行くエトスというか、エネルギーというか、そういうものはむしろある意味では非合理的なものだと思うんです。(『座談』四、三八頁、強調丸山)

 

そして、そのエトスとは「個人のさとりで確立するんじゃなくって、歴史的にも集団や結社を通じて確立してゆく」(『座談』四、三九頁)ものである。これが非政治的な公共圏(自主的結社)にほかならない。

 

[xxii] その他にも、丸山は、ナチスの全権委任法に対するオットー・ウェルズの反対演説を聞いたときの強い感動や、ハンスケルゼンの「プラトンの正義論」でみせた信仰告白への感慨を語っている。

 

「このウェルズの演説を大学時代に知ったとき、あの日本のなだれをうった転向の過程で痛いほどの実感で受けとめました。(中略)ウェルズも社民なりのマルクス主義者で、エンゲルスが『反デューリング論』の中で、自由・平等の永遠普遍という理念がいかにブルジョワ的な歴史的成約を持っているかを論じているのを知らないはずはない。しかもここで彼はいかなる歴史的現実も永遠不滅の理念を破壊しえない、という信仰告白をしている。この瞬間での自由と社会主義への帰依は、歴史的現実へのもたれかかりからは絶対に出てこないし、学問的結論でもない。ギリギリのところでは「原理」というのはそういうものでしょう。(中略)あの状況の中でウェルズを支えたものは何か―それが私の脳裏にきざみつけられたんです。(中略)ただ、言葉ではいえないけれど、私は体験を通じて、やはり何かそういう「道理」の究極的な優越を信じてきましたね。一九三〇年代の終わりから四〇年代にかけて、私の学生時代にもインテリは観念のお化けで、現実を知らない、たんなる口舌の徒だ、といった形で、当時の自由主義知識人への批判がさかんでしたよ。私だって理性を信じっぱなしでなくて、いろいろ動揺しました。おれは十八世紀の啓蒙時代に生まれるべき人間じゃなかったか、どうも生まれるのが遅すぎたんじゃないかなどと・・・・・・。だけど体験を通じて、「道理」は通る、歴史の無理は結局通らない、なまじ「情報」なんかよりは、その感覚で判断しよう、というはなはだ非合理的な確信を強めましたね。」(『座談』五、三一六‐三一七頁、傍線引用者)

 

「Platonic Justiceは助手の時に読みました。感動して全部ノートに写しました。(中略)これはプラトンは正義がイデーとして客観的に実在すると言おうとしたけれど成り立たない、ということを論証した論文なんです。客観的正義というのはないという結論なんです。それで、一番最後が面白いんです。客観的正義はない、その意味ではイリュージョンillusionだと。だけれど歴史においてはイリュージョンはリアリティよりしばしば強い。たとえないにしても、正義を求める道が血と涙に塗られた道であろうとも、人類はその道を歩み続けるであろう、と言ってるんです。(中略)だけどケルゼンが自分の矛盾というものを自覚していて、『俺の立場というのは結局承認されないんだ』ということを、彼自身が認めている。しかし『絶対的正義』の中にはやっぱりナチズムが入っているわけですよ。だからいわば自己敗北というのかな、selfdefeatingな結語なんです。しかし僕は非常に感動しました、そこまで正直に自分の立場を無力だと言ったこと」(『丸山眞男話文集』続①、227頁)

[xxiii] 「歴史意識・政治意識・倫理意識」1983年11月『話』2、280-282頁。