Ikkoku-Kan Is Forever..!!のブログ

バイトをして大学に行くお金を貯めながら時間を見つけて少しづつ本を読もう。

丸山眞男と戦後啓蒙(1)

大学に通っていた頃、丸山眞男の本をよく読んでいた。友人から、「丸山眞男という名前はよく聞くが、読んだことがないから、簡単に説明してくれ」と言われて閉口したことがある。取り敢えず、自分なりに丸山について考えたことをまとめてみる。

まず、そもそも自分がどういう興味で丸山を読んでいたかという話。思想というのはそれぞれの興味によって切り口が異なるので、芥川龍之介の『藪の中』よろしく、私が読んだ丸山眞男という観点から整理したい。

 

①戦後啓蒙と人間革命

丸山の思想をジャンルとして一括りにしてしまえば、それは「戦後啓蒙」と呼ばれるもので、丸山は同思想を代表する知識人の一人である。では、そもそも「戦後啓蒙」とはどのような思想なのか、というのが問題になるわけだが、これがなかなか難しい。

「戦後啓蒙」という言葉を、思想史の用語として定着させたのは杉山光信(『戦後啓蒙と社会科学の思想』新曜社、1983)だが、杉山もその定義については明確なかたちで述べていない。「啓蒙思想」とはそもそも何か、という哲学史上の議論はさておき、日本において「啓蒙思想」といえば、明治の啓蒙思想と戦後の啓蒙思想の二つだろう。

言うまでもなく、前者は福沢諭吉なんかに代表されるもので、後者は丸山に代表されるものだ。明治の啓蒙と戦後の啓蒙。この二つの共通点や違いは何か、というと趣味の世界をやや超えそうな気がするが、どちらも「新しい国家建設という時代的課題に関しての知識人の言説」という点では共通している。その点、一時期流行った国民国家批判の延長に語られた丸山批判は、当たり前というか、あまり意味があるとは思えないというのが正直なところ。

丸山の思想に対する批判は、その他にも民衆史観やマルクス主義の立場からのものなど色々あるが、批判をしている当事者が意識していたかどうかはともかく、思想的に最も鋭利に対立していたのはマルクス主義だと思う。

昔、学生時代に参加したとある読書会の帰り道。自転車を押しながら「丸山って、講座派の影響を受けているのに、どうしてマルクス主義者にはならなかったんですかね?」「丸山とマルクス主義の関係って、思想的にはつまるところ、どうなんでしょう?」という趣旨の疑問を投げかけられて、これまた閉口したことがあったが、今思えば、それは丸山の思想に対する本質的な問いだと思う。

この問いの答えを自分なりに言語化し得たのは、『人間革命と人間の条件』という本の解説で竹本忠雄が「人間を変えずしてなにを変ええようか?これは永遠なる宗教的命題であり、マルクス主義のアンチテーゼである」と書いていたのを読んだことが大きい。

閑話休題。本筋に戻って「戦後啓蒙」という用語の意味を整理すると、そもそもこの思想を担った戦後知識人の多くは、同時に「近代主義者」と呼ばれる人々でもあった。元々、「近代主義」という言葉そのものは戦後になってマルクス主義者ではない進歩的知識人に対して日本共産党が批判的に用いた呼称だが、思想史の文脈で捉えると、「近代主義」と呼ばれる思想は、二〇世紀前半の日本における、いわゆる〈モダン〉と呼ばれる現象に関する言説と深く関わっている。

それはすなわち、都市の思想としての〈個〉の解放を謳ったモダン文化としての言説が、マルクス主義を介する形で社会認識として現れ、都市的風俗を表現するものとしての「近代」が、社会科学の対象として捉えなおされた後(日本資本主義論争)、こうした視座を共有しつつも、戦争と敗戦を経験した戦後日本において、再び〈個〉をめぐる問題として現れたことを意味する。こうして登場した「近代主義」は、「近代」を単なる都市的風俗、あるいは生産様式や社会構造としてではなく、「近代的人間」という言葉に象徴されるように、人間が体現すべき一つの目的価値として捉え直した。 

ここで重要なのは、日本における「近代」という言葉の意味の推移ではなく、「近代主義」が「近代」に読み込もうとしたものが「精神的な個の確立」という戦後知識人の多くが共有した理念であり、そしてそれが、デモクラシーに関する彼らの原理的理解として存在し、「戦後啓蒙」と呼ばれる思想を支えているという点である。すなわち、「戦後啓蒙」が語るデモクラシー論は、「近代」というものを、ひとつの目的価値として捉えた上で、デモクラシーというものを考える際には、その近代的価値を実現する人間のあり方について思考し、社会変革と同時に人間変革を伴わなければならない、という認識をその起点とする。

こうした発想こそ「啓蒙」と呼称される所以であろうが、例えば、一九四七年の秋に行われた東大の卒業式で「我々は、『人間革命』をしなければならない」と強く主張したのは丸山の師で当時東大総長だった南原繁であった。

 

人間そのものの革命「人間革命」を成し遂げねばならぬ。われわれは単に政治的或は社会的生活に於てのみでなく、人間存在の内容そのもの、内的思惟の革命をなす必要に迫られている。これは道徳的宗教的な「精神革命」、また「文化革命」であり、これなくしては民主的政治革命も社会的経済革命も空虚であり、ついに失敗に終わるであろう。(南原繁『人間革命』東京大学新聞社出版部、1948 年59‐60頁)

 

ただし、日高六郎によると、こうした「〈個〉の精神的確立」という、当時多くの知識人が共有したデモクラシーに関する原理的理解は、戦後思想を特徴付けるテーマであったにも関わらず、思想としては理論的に突き詰められることは無かったとされる。 

 

しかし現実には、敗戦直後の一時期、日本の民衆は〈理論〉的にではなく〈実践〉的に、自らの個を古い社会的束縛から解放したのだった闇市は売り手でもあり、買い手でもある民衆の生活をささえた。そこでは国の法規は全く問題にならなかった。各個人がすなわち法であった。闇市は闇にではなく、青空に向かってひらかれていた。そこには弱肉強食もあり、暴力もあったにちがいない。しかしまた民衆のなかで同意された契約もあった。民衆は自分以外に頼るものがどこにもないことを実感した。大都市では、浮浪児たち、浮浪青年たちが、いたるところの地下道、焼けビル、防空壕、広場で寝起きしていた。彼らは家族共同体からいやおうなく現実的に「解放」されていた。(日高六郎「戦後思想の出発」『戦後日本思想大系』第一巻、筑摩書房1968年35頁) 

 

「〈個〉の精神的確立」という問題が、思想として深められることは無かったという日高は、「戦後の思想」を「『滅私奉公』から『滅公奉私』へ」というベクトルで説明する。( 日高六郎『戦後思想を考える』岩波新書、1980)恐らく、この日高の観察は、実態としての戦後日本社会を的確に捉えているし、とりわけ五〇年代以降の「大衆社会」的状況に対する戦後知識人の憂慮をよく示している。「戦後民主主義」という言葉は、このような中で誕生した。

ただし、こうした問題が、戦後の思想史において深められなかったのかといえば、必ずしもそうではなく、むしろ、「戦後啓蒙」という思想は、こうした問題を様々な角度から思索しこれを思想化した。その具体例が、戦後知識人の言説であって、丸山はその代表例の一つ。

 

1948年の批判キャンペーン(『前衛』三〇号、一九四八年)において日本共産党がそう名づけたのは、次のような人物。大塚久雄丸山眞男川島武宣、清水幾多郎 らの社会科学者たち、思想の科学研究会のグループ、『近代文学』の同人たちなど。 とりわけ丸山に対しては、その晩年に『赤旗』や『前衛』などで十数回にわたって丸 山批判キャンペーンを展開するなどして執拗に攻撃した。 

 寺出道雄は、「モダニズム」というカタカナ語を漢字語にすれば「近代主義」になり、「近代主義」という漢字語をカタカナ語に直せば「モダニズム」になるというように、本来は同じ内容を表現するべき言葉が、日本の現実のなかでは全く異なるというこの奇妙な現象について、山田盛太郎の議論を通じて、講座派マルクス主義が「モダニティ」の転換に関する旋回基軸の役割を果たしたことを指摘している。 (寺出道雄『山田盛太郎―マルクス主義者の知られざる世界』日本経済評論社、    2008)

近代主義」の特徴については、日高六郎「戦後の『近代主義』」(『現代日本思想大系34 近代主義筑摩書房、1964)に詳しい。

その点、示唆的なのは、杉山光信の修士論文が山田盛太郎、大塚久雄、内田義彦の三人を扱ったものであり、その研究の出発点が、講座派マルクス主義をくぐり抜けながら、どのように戦後の市民社会思想が生まれたのかという視点であったこと(その成果として、杉山光信「『経済学の生誕』の成立-内田義彦の「市民社会」をめぐって」『思想』1971年11月号)である。また、同様の視角で戦後思想を扱ったものとしては、小野寺研太『戦後日本の社会思想史』(以文社、2015)。