Ikkoku-Kan Is Forever..!!のブログ

バイトをして大学に行くお金を貯めながら時間を見つけて少しづつ本を読もう。

私と世界の関係?

そもそも自分は何に興味があるのか。恐らく一言でいえば、「セカイ系」だと思う。今年で二十六である。やはり、中学生の頃から何一つ成長していない。

だがしかし、 誰しも思春期の肥大化する自意識のなかで「私と世界の関係」とは何か、考えたことがあるはずである。エリクソンのライフサイクル論によれば、人間にはそ れぞれ人生の段階において答えなければならない発達課題が存在し、この問いに答えながら自身のアイデンティティーを形成していくという。(確かに上記の表をみると、明かにこの人は、しかるべき時期の然るべき発達課題への回答に失敗したのだな、というような人に出会うことがままある)

エリクソンが設定する問いは八つだが、これを簡潔にして人生を「試験用紙」に例えれば、その試験用紙は二つの問いと大きな余白で構成されるだろう。

 

第一問「あなたは誰ですか?」

 

第二問「あなたの人生は満足でしたか?」

 

 改めて考えると、「人生」なるものは恐ろしく簡単で、また難しい試験だと思う。模範解答は単純である。最初の問いには堂々と「私は××だ」と書けばよい。最後の問いは、フランクルの本のタイトル(『それでも人生にイエスと言う』)ではないが、これまた飄々と「イエス」と書けばよい。いづれも出すべき答えは明確であるが、その過程式は千差万別である。そしてこの過程式において「私」と「世界」という関数は非常に重要な意味を持つ。この「世界」を「他者」という単語に置き換えたらデカルト以来の哲学的問題(デカルト問題)であり、「公」と置き換えたらギリシア以来の政治思想史の難題(公私問題/ホッブズ問題)である。「世界」というのは「私」が対峙するブラックボックスに他ならない。こう考えれば、「私と世界の関係」という厨ニ的発想も案外意味のありそうな問いである。

 

こうした問いをサブカルチャーでは「セカイ系」と形容するらしい。この「セカイ系」なる単語。一言で言えば「私と世界の関係」という命題に関するサブカル的表現に他ならないが、この言葉を聞いていつも思うのは、①世界をどう表現するか、②私が世界をどう表現するか、③私と世界をどう表現するか、この①~③の意味は同じかどうか。あるいは違うとすればそれはどのようにか、という問いである。①~③に共通する疑問は「私」という存在の立ち位置(アングル)とその意味内容だ。

 

②を標準にすると、

①世界をどう表現するのか(誰が?)

③私と世界をどう表現するのか(誰が?)

 

仮に①の「世界」を「自然」と考えて主語の欠落を主観に左右されない法則に担保される現象と捉えたとして、③に関しては「(私*が)私**と世界をどう表現するのか」と主語を補ったとしても、「私*」と「私**」はどういう関係なのかという疑問が湧く。この辺の問題は外山滋比古の「第四人称」の議論なんかを参照することにして、こうした問題はつまるところ、「私」という主観を基にした議論がもたらす必然的な問題(この辺の問題は日下部吉信の「主観性と存在」という議論を今後勉強する)と、これに起因して「私と世界の関係」を語ることの難しさに他ならない。

 

もっとカッコよく言えば、「公共性」というヤツで最近の流行でもある。「公共性」というのもそういう意味で興味があるので勉強しておきたいテーマだが、一言で言えばそれは、「①『私はあなたではないし、あなたは私ではない。』にもかかわらず、②『どのようにして我々になるか』」という問いだろう。一般に①を「自由」といい、②を「平等」という。①と②が「にもかかわらず」という逆説で接続していることが「『自由』で『平等』」な社会を形成することの論理的難しさを表現している。本来なら「『自由』にもかかわらず『平等』」と表現すべきである。

 

「私と世界の関係」という主題は、「主観性」だったり「他者論」、かっこよく言えば「デカルト問題」「ホッブズ問題」「公私問題」「公共性」と名称は異なりながら本質的には同じ問いとして、文学や哲学や政治学、社会学と様々な領域にまたがっている。こうした観点から色々と勉強していきたい。

 

まずは「セカイ系」から。とりあえず、前島賢セカイ系とは何か』という本を読む。

 

 

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さあ、最初の記事を書いてみましょう。

 

 

中学生の頃から「受験」というものに成功した記憶がない。高校受験然り大学受験然り資格試験然りである。では、勉強というのがそこまで嫌いだったのかというと、そんなこともない。こういう勉強をしよう、この勉強をしよう、あの勉強をしようと計画を立てるのは好きで、色々と創造が膨らみ、実際にその計画を実行しようとするのだが、だいたい上手くいかずに終わる。これは、間違いなく自身の努力不足の結果であるが、それに加えて、これをやるにはこれをやって、その前にはこれを…という極めて非生産的な計画を立てるある種の性格気質に拠るところも大きい。それでいて直ぐに目移りをするー高校時代は、志望大学と学部が毎月変わっていたこともあったーから、何か確かな感覚というものをもたないまま物理的・精神的時間が流れてしまう。小学生の時から塾に通っていたけれど、試験の前にはある程度計画を立てて勉強はするものの、受けた模試の直しをしたことがない。結局、そこから学ぶということもなく、これまた消化不良のまま通過してしまう。こうした中途半端というか、斑のようなものはあらゆる生活態度に反映されている気がする。

 

こうなると「三つ子の魂百まで」というやつで、もはやどうしようもない気がするが、「私に支点を与えよ」と喝破した古代の偉人よろしく、無意識に自覚的であろうとすることの意味について考えようと思う。それは即ち、中学生から成長していないのであれば、物理的には不可能だが、「あるべき理想」を頭に描きつつ、いろんな意味で中学生から勉強をやり直すということ。ただし、中学時代に受けた駿台模試など持っているわけがないから、本来であればこの歳までに身に着けておくべきだった教養、あるいは読んでおくべきだった本を限られた時間のなかでなるべく読んで勉強をしようと思う。そういう自分のための記録である。