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加藤周一『日本文学史序説』(6)

五.加藤の表現(日本文学史

 加藤は1200年に及ぶ日本文学の歴史を〈土着〉という即自的な自我が〈外来〉という他者を通じて対自化され、相互の交流を通じて創造的な自我(藝術)が生まれる過程―それはさながらヘーゲルの『精神現象学』を髣髴させる―を描く。まず論じられるのは、9世紀以前の即時的な土着世界についてである。そこで語られるのは「仏国土は遠かったが、恋のなかに『生きがい』」をみつけた万葉人の世界である。そこでは共同体内部の中で生きる身近な人々への素朴な愛情が詠われていた。

 

日本の土着思想(または土着の感受性)の焦点は、決して「自然」ではなく、何よりまず「恋」であった。(中略)此岸的世界、その中心に男女関係をおく感情生活は、ここでこそ徹底していたのである。[i]

 

この時代の文学を加藤は次のように小括している。

 

抒情詩の中心が恋の歌であることには変化がなく、そこにあらわれた世界観が徹底して此岸的であり、当人の今。此処における感情の動きに従い、どういう種類の超越的な原理や価値をも介入させようとしていないという点では、七世紀およびそれ以前から伝統の枠のなかにとどまる。天平仏教美術黄金時代にさえも、仏教の彼岸思想は、貴族支配層の心を捉えていなかった。(中略)かくして七世紀から八世紀へかけての支配層の文学は、土着の此岸的世界観の枠組のなかで、現世享楽主義へ向い、短詩形のなかで、身辺の日常的光景に題材を限定しながら、その感覚を洗練する傾向を示していたのである。[ii]

 

そして、加藤が最初の転換期と位置づける九世紀には何が起こったのか。この時代に起きた大きな変化は、藤原氏の権力独占を背景に、政治的に没落した貴族の中からある一定の知識人集団が形成されたこと。そして、完結した土着世界のなかにあって、知識人の内部に分化現象が生じたことである。加藤はこれを、外来思想にコミットしながら、詩人の生涯そのものを文学の題材として、一人の人間の生涯の全体の意味を意識し得た菅原道真(道真型)と、誰よりも深く土着世界に根ざしていた紀貫之(貫之型)という、二人の知識人に代表させている。

しかし、土着世界の分化現象は、知識人の一部に起きた現象であり、道真のような一部を除いた貴族と大衆は、土着世界のなかに浸っていた。こうした多くの知識人と大衆が共有した土着世界をよく反映しているのが『日本霊異記』である。そこにあるのは、仏教という外来思想の「日本化」ではなく粉砕であった。同じ時代を生きた空海(774‐834)の世界は、土着世界とは決して交わらなかった。この時代においては、むきだしの土着と外来思想が、互いに交じり合うことなく無造作に並立しているのでみである。

 

日本霊異記』の世界は、仏教の「日本化」というよりも、土着思想が仏教をほとんど解体し、拡散させ、装飾的効果に還元しようとしていた世界であった。九世紀の精神的日本のすべては、まさに、『十住心論』と『日本霊異記』の両極の間に考えられるのである。[iii]

 

土着と外来が交わることのなかったこの時代に起きたのは、土着世界の中で美的意識が洗練され、『古今集』に代表されるような美的感受性の型が成立したことであった。貴族支配層が生んだこの美的感受性の型は、貴族による支配が終焉した後も、長く日本文化に生き続けることになる。[iv]

その次の時代(10‐12C)になると、9世紀に分化した貫之型と道真型という二つの知識人による文学が再び接近する。それは、土着世界という枠組を前提としつつ、完全に分化していた土着と外来が、貴族社会において徐々に洗練されていったこと。すなわち、「日本化」された外来思想を用いた高密度の美的世界の構築が進んだことを意味する。これが『源氏物語』の世界である。他方には、『今昔物語』が描く大衆の土着世界が広がっていた。この時代は、仏教的な支配層と非仏教的な大衆が、「日本化」された仏教を媒介として向き合った時代であり、土着世界の中でそれぞれ立ち上がった支配層の文学と大衆の文学が、近寄りつつも互いに屹立していた時代であった。

 

一方には、「日本化」された外来思想の枠組を用いながら、土着の感受性を、極端に閉鎖的な環境のなかで洗練した文学があり、他方には、土着の世界観を背景とし、実生活上の知恵を、同時代の大衆とのつながりを通して徹底させた文学がある。平安時代が『源氏物語』と『今昔物語』の時代であったとすれば(中略)、その二面性こそは、まさに、時代の文化の社会的(貴族知識人と大衆)また思想的(外来思想と土着世界観)な二面性の内化に他ならない。[v]

 

そして日本社会に再び転換期が訪れる。それが13世紀の「鎌倉仏教」の時代である。

 

「鎌倉仏教」は、日本の土着世界観の幾世紀もの持続に、深く打ちこまれた楔であった。その影響がいかに拡り、いかに展開していったかということの裡に、鎌倉時代の、さらに室町時代にまで及ぶところの、もしそれを一括して「中世」と称ぶとすれば、まさに「中世」文化の問題の眼目があるだろう。[vi]

 

確かに鎌倉仏教は日本の土着世界に楔を打ち込んだ。しかしそのために土着思想の全体が変わったのでは決してなかった。加藤の日本文化史における仏教の意味は、むしろ次の時代において開花する。それよりも、この時代に起きた出来事として加藤が強調するのは、従来の貴族文学に代表されるような「作者即読者の文学」から「作者と読者の分離した文学」への移行がおこったことである。完結した土着世界は徐々に分化しつつ、それが〈文学〉(藝術)を通じて再びつながっていく。その次の時代、中世後期(14‐16C)において、「知識人即芸術家」の時代は終焉し、この流れは決定的となる。この時代は、世俗化した仏教が藝術を生み、そうした藝術を介して支配層と大衆の世界がもっとも近づいた時代であった。

 

十三世紀に興った禅宗が武士支配層に支持されると共に、世俗化したこと。その世俗化の内容は、主として藝術化であって、代表的な例は、一四、五世紀の五山の詩文の隆盛と水墨画の発達である。また一六世紀にあらわれた「侘び」の茶も、同じ系統に属するだろう。(中略)室町時代は、鎌倉時代の宗教的な禅を、一方で政治権力にむすびつけると共に、他方では文学藝術に転化したのである。(中略)貴族知識人がそのまま藝術家であるのを原則とした時代が終り、室町幕府そのものに典型的なように、武士支配層の保護のもとで専門の藝術化が、文化の担い手として、輩出するようになったこと。専門の藝術家の出身階級は、多岐にわたる。その仕事の受けとり手は、一方では貴族および武士の支配層であり、他方では農民・商人・下級武士を含む大衆であったらしい。[vii]

 

鎌倉仏教は土着世界を破らなかったが、禅は藝術として開花した。この時代に起こったことは、世俗化した宗教を介した土着世界の内面化に他ならない。

 

土着思想の特徴は、此岸性であり、日常性である。此岸的・日常的世界の内面化は、今、此処における「我が心」である。仏教が「我が心」の状態に還元され―そのために禅が役立ち得ることはいうまでもない―(中略)別の言葉でいえば、外来の「イデオロギー」は、ここでも土着世界観の構造を、その超越的性格によって破壊し、つくり変えるために役立ったのではなく、知的に洗練するために役立ったのであり、その知的洗練の内容が日常的此岸性の内面化にほかならなかった[viii]

 

かくして鎌倉時代以後の禅宗は、一方ではその寺院が、政治権力と癒着し、他方ではその思想が、文学となり、絵画となり、遂に一種の美的生活様式となり、独自の美的価値に化した。室町時代の文化に禅宗が影響したのではなく、禅宗室町時代の文化になったのである。すなわち宗教的な禅の、政治化と美学化を内容とする世俗化。何がこの世俗化を推進したか。おそらく日本人の意識の深層に持続していた―鎌倉仏教にも拘らず―此岸的・世俗的・土着世界観以外のものではなかったろう[ix]

 

室町文化(中世)とは土着と外来の触発と融合の開花であった。それは「土着世界の内面化」=「日本における個人主義」の可能性に満ちていた時代である。例えば、無常の世の中において「一人たのしむという解決法」を生み出すことで「たった一人で日本の土着世界観を内面化しようとしていた」兼好や、禅宗の世俗化の時代に「外来の『イデオロギー』を肉体化し、その宗教性を、放法無頼の生活として生き、肉体的な愛の裡に感覚的な陶酔として経験し、独創的で孤独な詩的世界をつくりあげた」一休の存在がそれを物語っている。

特に加藤が強調したのは、この時代に起きた支配者と大衆の文化的な交錯である。その象徴が能と狂言であった。加藤は次のように言う。

 

一四・五世紀における文学(また藝術)の受けとり手の拡大は、文学の生産者(または藝人)の専門化を促進し、独立の職業としての藝術家が、宮廷や寺社のみならず、足利将軍家および地方の封建領主の庇護のもとに、輩出するに到った。その典型的な例は、すでに触れたように画家であり(たとえば雪舟)、また連歌師であり、能狂言の俳優=作者である。連歌は宮廷貴族の文化が大衆化したものであり、能狂言はもと大衆の間の見世物が洗練されて支配層の支持を得たものである。前者は、文化の上から下への普及を、後者は下から上への吹上げを代表する。このような支配層と大衆の文化的交流に決定的な役割を演じたのが、連歌師であり、能狂言の役者であった[x]

 

日本の一四・五世紀に、すなわち内乱と一揆の時代に、なぜこのような劃期的なことがおこったか。おそらくそれ以前に藝術家を生みだしてきた階層とは全く異なる階層から、藝術家があらわれるようになったからであろう。(中略)「猿楽」を、一時代の文化の頂点にまで洗練したのは、貴族や武士上層から出た知識人ではなく、大衆から出た藝術家であった。たしかに連歌師たちも、大衆のなかから出てきたのだが、能・狂言の作家=役者が彼らと異るのは、連歌師が本来貴族の文学を大衆化したのに対し、能・狂言の作者=役者は、本来大衆の演藝を貴族化したからである。文化の下降・拡散に対する上昇・洗練の過程。(中略)支配階級と大衆とが同じ時に同じ場所で同じ娯楽に興じたということは、この時代の以前になく、以後にも、おそらく最近の「大衆社会」が成立するまでなかったから、注目に値するだろう。けだし「猿楽」の内容が、一方では平安朝以来の貴族文化―成上り武士支配層もそこに憧れていた―につながり、他方では大衆の日常生活に係らざるをえなかったのは、そのためである。[xi]

 

こうした加藤の中世文化への評価を象徴するのが世阿弥(1363‐1443)である。

 

世阿弥があらわれたときに、仏教そのものは世俗化していたのだから、彼の藝術が宗教の影響をうけたというよりも、彼において宗教が藝術となったというべきである。あるいは仏教の超越的思想が、日本の一三世紀には宗教として、一五世紀には藝術として、深く受け入れられ、創造的になったということもできる。そういうことは、全く此岸的な平安朝貴族の世俗的文化の延長上には―たとい連歌の場合のようにそれが大衆の方へ向ってどれほど遠く延長されようとも―、成立しえなかったにちがいない。「能」、つまり「猿楽」の起源が、貴族の世界とは別のところにあって、はじめて可能であったはずである。大衆が仏教的であったのではない。大衆のなかから出てきて、知的上流階級と接することのできた藝術家だけが、仏教の世俗化の潮流のなかで、彼岸思想を人間化し、藝術化し、文学化することができたのである[xii]

 

再び日本に転換期が訪れたのは16C半から17C半にかけてちょうど近世社会の成立期にあたる。この時代に起きた変化とは、加藤が描く中世と近世の違いに還元できよう。それは大きな流れで言えば、〈藝術〉を介して一度は近づいた大衆と知識人(貴族→武家)の世界が再び離れ、それが固定化したことにあった。これまでの歴史は、「土着世界」によって「日本化」された「外来思想」が、同時に「土着思想」を知的にあるいは美的に洗練することで「土着思想」そのものが内面化されていく歴史であり、その頂点が室町文化であった。それは大衆と知識人の世界が〈藝術〉を介して互いにもっとも接近した瞬間でもあった。これに対して、一度近づいた両者が再び離れたのが江戸文化であり、さらにこれが、江戸後期(18C~)に到るとこれまでの「外来⇄土着」という流れから「土着→外来」という流れへと一方的な逆流が生じるようになる。こうした潮目の変化の結節点にいる知識人こそ本居宣長(1730‐1801)その人であった。

こうしたベクトル変化の背景にあるのは何か。それは、仏教といった超越的思想が藝術的創造の源泉たることをやめ、土着と外来の創造的拮抗と求心力が失われ、さらにはそれぞれに固定化された社会的階層に応じて、藝術が細分化されていかざるを得なかった時代において生じた「藝術の世俗化」という現象である。こうして本来土着が持っている磁力にひきづられる形で文化の流れに変化が生じる。[xiii]

そして長い江戸が終り、時代は再び転換期を迎える。それが加藤の文学史における四度目の転換期であり、それは日本における近代社会の形成期であった。日本の近代文学に対する加藤の評価は、まず、土着世界にどっぷりと浸かった自閉的な私小説の伝統に対する強い否定に特徴づけられる。[xiv]こうした土着世界に根ざした私小説の根強い伝統のなかにあって、加藤は「西洋の歴史的な挑戦を内面化し、二つの文化の対立をみずから生きることで、それを創造力に転化」[xv]した作家たちに日本における個人主義の型を見出していく。加藤は近代文学の見取り図を次のように語っている。

 

内村鑑三正宗白鳥。その間に森鴎外夏目漱石の世界があった。またたとえば、宮本百合子川端康成。その間に小林秀雄石川淳が位置づけられる。白鳥や康成に西洋文学の影響がなかったのではないが、その著作にあらわれた世界観は、全く土着の伝統に従う。その意味で鑑三におけるキリスト教、百合子におけるマルクス主義とは対照的であった。鴎外や漱石の場合、おそらく小林秀雄石川淳の場合にも、その世界観は土着の型ではない。そこには共通の、宗教的な信仰を媒介としないところの、一種の個人主義があり、その個人主義には、歴史的な社会および文化の全体との関係において、それ自身を定義しようとする傾向がある。その傾向は少なくとも潜在的な包括性を意味するにちがいない。しかしその世界観の構造は、鑑三の神や百合子の歴史に相当する超越的な全体者を含まない。(中略)「日本化」された西洋思想と、その文学。西洋文学の技術的な影響と、西洋思想の影響のもとにおこった作家の世界観の変化とを区別することにより、おそらく近代文学の歴史にも新しい見透しをあたえることができるだろう。[xvi]

 

加藤が発見した近代文学における個人主義の意味や妥当性の検討は本稿の範囲を超える。それは、もはや加藤の問題というよりは、日本における近代の問題であろう。

以上が加藤の文学史の簡単な流れであるが、このように、加藤周一は『序説』において「土着世界観への外部からの超越的世界観の挑戦と、後者の内在化と同時にその世俗化・非超越化の多層的な表現としての歴史」[xvii]を描いた。そしてそれは、加藤周一なりの日本における個人主義の可能性の検討であった。

 

おわりに

最後に総括して終わりたい。加藤周一とは何だったのか。加藤のデモクラシー論の特徴は、デモクラシー成立の前提となる「個人主義」を、キリスト教といったような超越的倫理によって内面化されたものとしてではなく、あらゆる前提を排除した、自己の「確かさ」の探求において考えたことにある。それはすなわち、何者にも還元不可能な〈個〉というものをみつめる作業(観心)であったといってよい。こうした〈個〉の非還元性は、日常生活の些事に徹底した石川丈山、官能的人生を徹底した一休宗純、知的人生を徹底した富永仲基に取材した小説『三題噺』(1965)において論じられたテーマであり、加藤の思想に一貫したモチーフでもあった。そこに描かれたのは、孤独な人間の自我である。そして、何者にも還元されえない自我の自覚。そうした自我が、単なるエゴではく、ある普遍性をもった〈個〉の存在定立にもなり得るはずだと加藤は考え、それを〈藝術〉という回路を通して描こうとした。その具体的な思索が、「土着思想」によって「日本化」された「外来思想」が、同時に「土着思想」を洗練し、これを内面化していくことで立ち上がった日本思想における自我の検討であり、こうした営みの中に加藤は非キリスト教文化における「個人主義」の可能性を読み取ろうとした。

 

[i]加藤周一著作集』④109‐110頁。

[ii]加藤周一著作集』④105‐106頁。

[iii]加藤周一著作集』④140頁。

 

[iv] 「このような感覚の洗練、時の流れに対する敏感さ、その上に築かれた繊細な美学は、貴族社会の内側で、真言・天台の二宗の浸透しなかった意識の層において、まさに現世的な土着世界観の枠組のなかで、またそのなかでのみ、成立したのであり、一度成立するや、やがて来るべき三〇〇年の摂関時代の文化の主軸となったのである」(『加藤周一著作集』④、171頁)

 

[v]加藤周一著作集』④214頁。

[vi]加藤周一著作集』④265頁。

[vii]加藤周一著作集』④338‐339頁。

[viii]加藤周一著作集』④343‐344頁。

[ix]加藤周一著作集』④348‐349頁。

[x]加藤周一著作集』④358頁。

[xi]加藤周一著作集』④371‐372頁。

[xii]加藤周一著作集』④378‐379頁。

 

[xiii] さらにいえば、近世において決定的となった支配層と大衆の分化とその固定化は、「表の義理と禁欲的な倫理」と「裏の人情と感覚的な快楽主義」(義理と人情)という二重構造を生むことになるが、つまりそれは外的規範は内在化されず、内的価値はそれがある規範として外在化されず、互いに平行して存在し、それ自体が「天皇制的なもの」の温床となったことを意味するだろう。そしてそうした内的価値と外的規範の没交渉とすれ違い(形なし)は、やがて「宣長問題」や、加藤周一がみた敗戦後の大衆として現れることになる。

 

[xiv]「逍遥の影響から出発した小説家たちは、人情をそのあるがままに描け、という逍遥の標語を、作者の経験した事実をそのまま描け、という意味に解釈し、そうすることで―少くとも彼らの一部分は―「自然主義」の文学を作る、とみずから称した。この言葉は、その後も日本の近代文学を語る多くの人に用いられて、無用の混乱を生みだしながら、今日に及ぶ。花袋、藤村、泡鳴、秋声、また独歩や白鳥の書いた小説は、西洋の一九世紀の後半に《naturalism》を説いた、たとえばゾラの作品と全くちがい、その理論ともほとんど全く関係がない。(中略)小説の世界は極度に狭く、作者身辺の雑事に限られ、しかも主題は市民社会内部の矛盾ではなく、市民社会の未成熟にもとづく紛争を主としていた。(中略)彼らは日常生活のなかで自分がどう生きるかに苦労していたから、社会の全体を考える暇はなかった。「没理想」のたてまえは、ほとんど反知性主義に近かったから、ゾラの科学的世界観やドストエフウキーの宗教的問題をみるはずはなかった。」(『加藤周一著作集』⑤417‐418頁)

 

[xv]加藤周一著作集』⑤353頁。

[xvi]加藤周一著作集』④36頁。

[xvii]加藤周一著作集』⑤559頁。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

加藤周一『日本文学史序説』(5)

四.加藤の思索(個人主義について)

加藤の思想の意味は、戦後日本におけるデモクラシーの成立を独自の立場から検討し、これを思想化したことにある。それは、本来キリスト教社会における個人主義の伝統を背景に成立したデモクラシーが、非キリスト教社会である日本においてどのように成立し得るか、という問いであった。加藤周一は〈藝術〉に関する自身の発想をその根拠としながら、日本における「個人主義」の可能性について思索していった。その具体的思索が『日本文学史序説』である。加藤の文学史では、7、8世紀から20世紀後半までのおよそ1200年に及ぶ日本の文学の歴史が論じられる。これだけ長い歴史を、加藤はどのような視座で語るのか。

加藤は、日本の歴史を「土着世界」と加藤が呼ぶ日本オリジナルの世界と、これに対する外来思想の対決の歴史として捉えている。日本の歴史は、「開いて」(open)、「閉じて」(closed)の繰り返しであり、前者は、いづれも歴史の「転換期」であり、「外来思想」の流入期にあたる。日本は歴史上それを四回経験しており、大凡、その期間はそれぞれ100年ほど続く。そうした「転換期」の後は、closedの時期、即ち、外来思想の咀嚼及び日本文化の新たな形成期に入り、大凡それは300年ほど続く。

加藤はこうした現象を、外来思想の「日本化」という言葉で表現しているが、問題はその「日本化」の内容であろう。これは、『序説』のみならず、加藤の日本文化史全般に関わってくる問題であるが、結論を言えば、加藤の日本文化史(日本文学史、美術史)にとって、外来思想とは新たな「藝術」の源泉というべきもので、土着と外来の世界が相互に刺激し合って創造的な「藝術」が生まれるという、そのモチーフは、①「日本的なもの」(土着)、②「超越的なもの」(外来)、③「日本的であり普遍的なもの」(土着×外来)という加藤の藝術観そのものといえる。そして、③を創出する「日本化」と呼ばれる現象を加藤は「美的洗練」(あるときは「知的洗練」)と呼ぶ。即ち、外来思想の刺激を受けつつ、土着思想が「洗練」されたものが、加藤の言う日本文化の「傑作」であった。加藤は自身の文学史のモチーフについて次のように述べている。

 

時流の底にひそみ、折にふれ噴出する特殊日本的な世界観は、外来イデオロギーによってしばしば背景に押しやられる。このわが国固有の世界観は―その根底にあるのは、他のアジア文化と密接なつながりを持つ神道であるが―かなり単純な、把握しやすい性格を持ち、深く民族の心の中に根を下してる。仏教、朱子学および近代ヨーロッパ思想と異様な外来の高度に発達したイデオロギー体系との出会いも、この世界観の生命を絶たなかった。外来イデオロギーに対して、少数の教養人は進んでそれを受け入れ、それを自分自身のものとするために、知的努力を重ねたが、民衆は、常に、強い抵抗を示し、それを受け入れた場合にも、ためらいがちに受容し、かつひどく原形とは異ったものとした外来の世界観に対するこのように異る二つの態度から、大きくみて、二種類の文学が生じた外来イデオロギーの影響を強く受けた知識人の文学(文学一)と、その影響をほとんど留めぬ大衆的文学(文学二)である。この二種類の文学を分つものは、言葉、価値体系と対象、および叙述の進め方である。二つの文学は、ながい歴史のなかで相互に影響を及ぼし合いながら、つまるところ外来イデオロギーを次第に日本化したといえよう。日本化の過程は、伝統的世界観と外来イデオロギーの総合から新たなもう一つの文学(文学三)を生みだした。これはほとんどいつも、文化エリートの手になるものだが、ある程度までは大衆の生活感情をも表現している。これまで日本文学の傑作として認められてきた作品の多くは、この最後のカテゴリーに属する[iii]

 

こうした加藤の文学史の枠組は、加藤の藝術観を踏まえるとよく理解できるが、問題はこうした加藤の日本文化論の枠組が、どのようにデモクラシー(日本における個人主義)の問題とつながるか、であろう。それが加藤周一のいう「主観主義」という問題である。この「主観主義」というのは、加藤の日本文化史において繰り返し登場し、加藤の思想の鍵概念の一つであるので、『序説』の内容を見る前に、この概念について説明しておきたい。 

加藤は「主観主義」という言葉を「自己の外にある規範や現実の対象、つまるところ環境の存在と機能を観察し、再現し、理解することよりもはるかに強く、自己の内にある感情や意見の表現へ向かう傾向」[iv]とこれを定義し、この「主観主義」こそが「日本文化が含む根本的な原理の一つであって、芸術家の視線を外の世界ではなく自己の内部へ向かわせる」[v]という。

 

共同体の内側に生きた人々は、何をしていたのだろか。共同体の内部は、個人の心情・精神、これを併せて「心」とよぶとすれば、心からみて外部である。世界は私の心の「内界」と私をとりまく「外界」または環境から成る。環境は自然的なそれと社会的なそれを含み、後者は他者と他者が作りだしたすべてのもの、すなわち文化である。もちろん「内界」と「外界」とは、身体を媒介として、相互に、おそらく不断に、影響する。しかし一方が他方に還元されることはない。(中略)その意味で心と環境、心の内外の世界は、相互に超越的である。したがって環境を堪え難いと感じるとき、個人がとり得る態度には、二つがあるだろう。環境を変えるか、自分自身の心を変えるか。どちらの道を採るにしても、「今=ここ」の状況を改善するためには、それぞれに固有な技術を必要とする。必要な技術を提供するのは、その社会と歴史に固有な、その時代の文化である。[vi]

 

このように、加藤の「主観主義」とは、自己(内的世界)と外的世界の語り方をめぐる問題であって、それはそのまま「日本における個人主義」(個人の語り方)の問題である。その際、こうした「主観主義」の表現はいくつかのパターンがあるという。加藤はその具体例を「典型的な日本文化」と位置づける18世紀の人間像として以下の4つに分類する。

 

 ①義理人情棲み分け型

 ②石門心学

 ③徂徠型

 ④宣長

 

①は自己(内界)と外界の二分法であり、生活世界と観念世界は互いに交わらない。即ち、規範は内在化されないし内面は規範化されていない状態である。加藤が「戦争と知識人」で問題にしたのは、まさにこうした世界であった。②は自己(内的世界)と外界の理論化であり、③は外界による内界の吸収、④は内界による外界の吸収といった状態で、③は「超越的なもの」に、④は「日本的なもの」に限りなく近づいていくだろう。(その点では、②に対する加藤の評価は高い[vii]

加藤は土着世界の思想を時間意識と空間意識の面から「今・此処」主義と表現するが、こうした「今・此処」の内面化による個人の定立こそが、加藤の目指した日本における「個人主義」であり、「土着×外来→美的洗練(あるいは知的洗練)」という日本文化の定式の倫理的表現であった。加藤は次のようにいう。

 

心の外の世界では、すべての出来事が時空間の中でおこる。しかし心の内側でおこる想念は時空間に束縛されずにおこり得るし、またおこり得たという報告は、古来、無数にある。時空間を超越する条件は主として宗教的であり、その中でも人格的な絶対者・神を媒介する場合と、そうでない場合がある。人格的神を媒介しないで、時空間のみならずすべての二律背反(自他・生死・有不有)を超える神秘的経験の代表的な例は、禅の「悟り」であろう。「今=ここ」を強調する日本文化も、究極的には「今即永遠」、「ここ即世界」の普通的な工夫を必要とした[viii]

 

この「人格的神を媒介しないで、時空間のみならずすべての二律背反(自他・生死・有不有)を超える神秘的経験」という一文に加藤の思想の一切が表現されている。ここに加藤周一の思想の難しさがあるし、加藤の思想とは、本来は言語化し得ないものをぎりぎりのところで言語化しようとした試みともいえる。故に加藤はその思想のモチーフを〈藝術〉という概念に託した。ただし加藤自身もこれを明確に言語化し得たわけではない。『日本美術史序説』は遂に書かれなかった。[ix]唯一、加藤が体系化し得たのは『日本文学史序説』であり、我々は具体的な加藤の思索をここにさぐる他にない。ここに来て、ようやく加藤の文学史まで辿り着いた。最後に、その内容を簡単に確認して、加藤の思想を総括したい。

 

[i] 小関素明「加藤周一の精神史―性愛、詩的言語とデモクラシー」(『立命館大学人文科学研究所紀要』111、2017年)145頁。

 

[ii] 戦後思想史という文脈では、加藤の『日本文学史序説』(1980)は丸山眞男の『日本政治思想史研究』と内田義彦の『経済学の生誕』がそれぞれ持っている思想史的意味と同様の意義を持っている。ただ、加藤周一研究において、その思想を戦後思想史のなかでどのように位置づけるかという研究は少ない。

 

[iii]加藤周一著作集』③、14‐15頁。

[iv] 加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店、2007年)211頁。

[v] 『日本文化における時間と空間』211頁。

[vi] 『日本文化における時間と空間』257‐258頁。

 

[vii] 心学に対する評価にも、加藤と丸山の思想の違いがよく現れている。こうした違いが最もよく現れているのは、室町時代への評価であろう。加藤の思想史では、室町時代への評価がもっとも高く、丸山の場合は最も低い。これは「超越的なもの」の論じ方の相違であるし、一言で言えば、デモクラシーの論じ方の違いである。西欧キリスト教社会において「人権」や「デモクラシー」といった近代的諸価値が生まれたことの意味を重視する丸山は、デモクラシーの論じ方で言えば、「近代の民主主義を支えたのは近代的個人主義の伝統であり、その背景にはキリスト教倫理が存在する」というデモクラシーの基本テーゼにあくまでもこだわる。丸山が課題としたのは、そうしたデモクラシーを支える倫理的主体(エトス)を確立することであった。その可能性を、日本思想史を通じて検討する丸山政治思想史は、その枠組こそ加藤の日本文化史と同じでありながら、その内容は真逆である。加藤は、「非キリスト教社会における個人主義」の可能性を論じたから、それは、ある意味で丸山的な視角では「特殊主義」の追求でもあった。その点、思想的意味が若干異なるものの、近代化論の文脈で心学を高く評価したロバート・ニーリー・ベラーの特殊主義と重なる要素がある。

 

[viii] 『日本文化における時間と空間』260頁。

[ix] その研究ノートというべき『日本その心とかたち』だけがそのモチーフを語っている。

 

加藤周一『日本文学史序説』(4)

三.加藤周一の着想

 加藤のいう〈藝術〉とは何か。この問いは、加藤周一の思想とは何か、という問いと同義といって良い。周知のように雑種文化論の背景には、加藤の西洋体験が存在するが、加藤は自身のフランス留学を振り返ってその印象を次の様に語っている。

 

「中世」は私をおどろかせた。これだけは東京で予想しなかったものである。[i]

 

 加藤を驚かせた「中世」とは何か。加藤は次にように述べている。

 

文化とは「形」であり、「形」とは外在化された精神であって、精神は自己を外在化することにより、またそのことのみによって、自己を実現できるものだということ。(中略)私は私なりに造形的な世界と文化全体とのきり離せぬ関係に、ある決定的な仕方で思い至った(中略)私はフランスで中世美術を発見した―というよりも中世美術を通じて、美術そのものの私にとっての意味を発見した[ii]

 

ここで言われているように、加藤を驚かせた「中世」とは、加藤がフランスで実際にみたカテドラルやゴシックに代表される中世美術のことである。加藤はそこに中世ヨーロッパの文化と精神が造形として結晶化されていることを発見した。それは海老坂武がいうように「芸術とは、さらに文化とは、内なるもの(衝動と言ってもよいし精神と言っても、加藤氏の場合にはよかろう)を形に刻み出すことであり、これを感覚的秩序として構築することである、という発見」[iii]である。ここで確認すべきは、加藤の「中世」の発見が、そのまま加藤の〈文学〉あるいは〈芸術〉概念のモチーフになっているという点である。たとえば、加藤は〈文学〉の定義を次のようにいう。

 

文学的経験は、単に具体的な、一回かぎりの経験なのではなく、それをとおして当事者の人生の全体、つまりその人の世界の全体に対する態度があらわざるをえないような経験である。[iv]

 

文学が経験を、その抽象的普遍性においてではなく、具体的特殊性において、表現しようとすること、またその表現が作者の世界の全体に対する態度を前提として含まざるをえないようなものであるということ、この二つの特徴であった。二つの特徴の両方の備ったことばによる表現が文学である。[v]

 

こうした〈文学〉という概念の定義は、加藤の〈藝術〉一般に通低するモチーフ[vi]であり、加藤の思想の核でもあるのだが、こうしたモチーフがよく表れているのが「科学と文学」(1979)である。ここで加藤は、「世界」(自己の周りの環境世界)に対するアプローチ(解釈や意味づけ)の両極として①「文学(=感じること)」と②「科学(=知ること)」を挙げ、両者を架橋するものとしての③「信条(宗教)=(信じること)」について論じながら、自身の〈藝術〉という概念と思想のモチーフを語っている。

 

私だけだったらそれは抒情詩になります。誰でもすべての人間が受け入れることだったら、それは科学的な命題です。しかし、私と同じ経験をもっている人にだけ訴えるのだったら、それはまさにWe shall overcome someday.となります。(中略)ここに出てくる「私」とは抒情詩の主語です。「われわれ」というのは信念の主語です。そして、誰でもすべての人、それが知ることの主語で、それが科学の場合です。だから、文学と信念と科学との関係は、「私」から「われわれ」を通じて「みなさん」の方へ行く関係になる。私からわれわれに移るところの問題、この移行が信ずるという行為です。ですから、信条というのは、感情的出発点があって、それがさらに思考過程と結びついて出来上るものです。その結びつきにおいて、主観的なものが客観化される。内在的なものが外在化される。伝達不可能なものが伝達される。それは結局、一言でいえば、経験、あるいは価値の特殊性を普遍性へ向かって超えてゆこうとする精神の動きです。信じるということは、特殊性を普遍性へ媒介する。しかし、決して完全に経験の特殊性を超越することはできない。内的なものを外在化するといっても、その外在化するのには場所がある。どういう場所で外在するのかというと、それは特定の社会と特定の文化の決める空間においてです。時代と文化を超えた空間というものはないのですから、内在的なものを外在化するときには必ず具体的特殊な社会とその文化によって条件づけられる。具体的で特殊な社会とその文化はもちろん歴史的なものですから、したがって、内在的なものの外在化とは、超歴史的な内的なるものの歴史的過程のなかへの外在化です。そういう過程が、信じるということの一つの特徴でしょう。[vii]

 

たくさんの特殊な条件のなかで起った自分の感情的な反応、世界に対するいちばん基本的な中心的な感情的反応、そういうものはやはり特殊な条件によってしばられているもので、それをもう少し広い世界に向かって解放したい、普遍性に向ってそれを超えていきたいという意思が、価値生産の基礎になるでしょう。(中略)特殊性をどうして超える必要があるかというと、それは特殊性が、われわれにとって限界として感じられるからです。私にとって貴重なものが、私だけのものじゃなくて、もう少し大勢の人と分かち合いたいという、つまり伝達の欲求もある。またそれは、わが経験、わが存在、わが内的世界の特殊性の限界を破りたいというそれ自身根源的な欲求でもあるでしょう。それを破っていくには二つの方法がある。その一つは、経験は全体としてあたえるけれどもその一面を抽象して、一般化する。そういう方法で普遍性の方へ向っていく。その場合には、一面だけが一般化されるので、私の経験の全体性は犠牲になる。全体性が犠牲にされますと、同時に具体的個別性、それがもっている強い現実感覚もむろん犠牲にされるでしょう。そうして知的世界が出来上がっていく。これは科学的な方法です。しかし、その犠牲は大きい。われわれにとって貴重なのはやはり具体性そのもの、個別性そのものです。それを犠牲にすると、たしかに経験が一般化されるが、その代り私にとって貴重なものはどんどん消失し、人にわかってもらえるところはごく抽象的な一面だけだということになってしまう。それだけでは満足できないとして、それではどうするか。自分の感情の個別性特殊性に執着して、人にはわからないというので黙ってしまうこともあります。しかし一方では人に伝達したいという欲求が強い。では他人に伝達しながら、つまり自分の経験をある程度普遍化しながら、同時に具体性個別性を維持するには一体どうしたらいいか。どういう逃げ道、方法があるだろうか[viii]

 

ここで言われているのは、〈文学〉と〈科学〉が〈信条〉を解する形で安定解をもつということであり、そうした安定解、すなわち「自分の経験をある程度普遍化しながら、同時に具体性個別性を維持する」方法こそ、加藤の言う〈藝術〉であった。

 

非社会的なものの社会化は、いかにして可能であろうか。個別的な対象の個別性=かけ替えなさを、切り捨てて分類するのではなく、それを特殊なときと特殊な場所のなかに固定したまま、安定化し、明確化し、その時と場所を超えての意識に対し―それが自分自身の意識であろうと、第三者の意識であろうと―、到達可能なものにするためには、どういう手段をもちいることができるだろうか。その手段は藝術的表現である。[ix]

 

特殊な「個」、あるいはかけがえのない「瞬間」。これを「世界」という全体につなぐものは「言葉」であり、「形式」である。これが「藝術」に加藤が与えた定義であり、そうした〈藝術〉によって「私」という特殊な個は、特殊であると同時に、またそれ故に普遍的なものになりうること。これが加藤の藝術に対するモチーフであった。尤も、こうした加藤の文学観や芸術観はそれ自体が何か特殊なものというわけではない。加藤の特徴は、こうした〈藝術〉概念を念頭に置きつつ、日本思想史全体を俯瞰しようとした点にある。[x]その試みが『日本文学史序説』に他ならないが、ここでは、西洋体験を通じて体系化されていく「特殊」から「普遍」への回路をめぐるこうした着想が、既に留学以前の段階で日本文化を語る際に表れているという点を確認しておきたい。「日本の庭」(1950)という文章で加藤は次のように述べていた。

 

わたくしは、風土や生活様式にもっとも直接にむすびついている日本の庭に、日本的なものをではなく―勿論必然的にもっとも日本的なものであるが、むしろ普遍的なあるものをみた。[xi]

 

薄陽のさす庭には、銀色の雨が降りそそいでいた。島も、樹立も、遠い岸の石組も、雨に煙り、何世紀も前からつづいているような静けさが、その美しい世界を支配していた。華麗ではないが美しい世界、巨大ではないが力強い世界、技巧的ではないが、技巧を超えている世界、わたくしにはその世界が、日本の美術史のあらゆる画家たちの世界でなかったとすれば、日本の文学史のあらゆる詩人の世界であったように思われた。分析的にとらえることのできないもの、法則に還元することのできないもの、精神に対立し、克服すべき抵抗としての素材を芸術家に提供しながら、同時に芸術家をつつみ、藝術的実現の最後の目標としてあるもの、そのようなものとしての自然は、日本の文化のあらゆる面に予感され、暗示され、部分的に示されているが、いまだかつて他のいずれのところにおいても、全体として表現されたことがなく、ここにおいてのみ全体として表現されたものである。ここには、日本的なもののなかで、もっとも日本的なものがある。しかし、もっとも日本的なものこそは、もっとも普遍的なものであろう[xii]

 

こうした加藤の芸術観を踏まえて雑種文化論を考えると、そこで語られていたのは、単なる西洋における①「超越的なもの」と②「日本的なもの」の対立ではなく、その間に③「日本的であり普遍的なもの」という存在が浮かび上がってくる。そして、その「日本的であり普遍的なもの」を担保するのが「特殊」と「普遍」を切り結ぶ加藤の藝術観であり、これこそ加藤がいった「希望」の正体であった。[xiii]こうした「特殊(心情)から普遍(共感)へ」という〈藝術〉概念をめぐる加藤のモチーフが日本文化論に投影されながら、「土着世界観」という独自の思想枠組に基づいて古代から現代の日本文学史を通じてデモクラシーの前提となる日本における「個人主義」の可能性を検討したのが『日本文学史序説』であった。

 

[i] 『続羊の歌』80頁。

[ii] 『続羊の歌』82‐83頁。

[iii] 海老坂武「雑種文化論をめぐって」『戦後精神の模索』92頁。

[iv]加藤周一著作集』①、65頁。

[v]加藤周一著作集』①、80頁。

 

[vi] 加藤は、美術について、フランスの美術史家であるアンリ・フォシヨン(1881‐1943)のテキスト(『形の生命』)から多くを学び、これを自家薬籠中の物としている。

 

[vii]加藤周一著作集』⑯、96‐97頁。

[viii]加藤周一著作集』⑯、121‐122頁。

[ix]加藤周一著作集』⑲、107頁。

 

[x]  例えば、こうした藝術を介した自己の普遍的外化に関する例としては、「もののあはれ」という言葉で馴染みのある宣長の和歌論があげられよう。人が「もの」の「あはれ」に触れたとき、自己に沸き上がる感情(パトス)は、それが他者と共有されることによってカタルシス(安定解)を得て収束するが、そのためには本来は言語化し得ない瞬間を「せむかたなし」との思いで言語化する必要がある。こうした作業こそ宣長にとっての和歌が持つ意味である。ただし、自己の「感情」を他者と共有するためには、そのツールである歌をうまく詠まなければならない。(こうした宣長の「もののあはれ」概念については、相良亨『本居宣長東京大学出版会、1978年を参照)ここに「型」(美的洗練)という問題が生じる。こうした「型」が崩れると行き場を失った自己のパトスは、「日本」という共同体との自己同定を求め、強くそのナショナリズムを刺激するようになる。これを加藤は「宣長問題」と呼んだ。

 

[xi]加藤周一著作集』⑫、138頁。

[xii]加藤周一著作集』⑫、164頁。

[xiii]  同時期に、加藤が天皇制に関する文章を書いているのは、「日本的なもの」と「日本的であり普遍的なもの」の峻別に他ならない。

 

加藤周一『日本文学史序説』(3)

二.加藤周一の問い

 1951年から55年までフランス政府の半給費留学生として渡仏していた加藤は、帰国後まもなく「日本文化の雑種性」(1955)という文章を発表する。有名な加藤周一の「雑種文化論」を、ここで仮に同論文にはじまり「雑種的日本文化の希望」(1955)や「近代日本文化史的位置」(1957)といった50年代における加藤周一の日本文化に対する言説として定義すれば、その問題意識とは「キリスト教圏の外で、西ヨーロッパの文化がそれと全く異質の文化に出会ったら、どういうことがおこるか」[i]という問いに尽きる。重要なのは、加藤周一のこうした問いが戦後デモクラシーに対する問いかけとして存在するという点である。少し長くなるが、加藤の問題意識がよく現れているので、「雑種文化論」における加藤の主張を適宜抜粋しながら見てみよう。加藤は次のように述べている。

 

今仮に人間の自由・平等の自覚と社会的な人間解放の過程を併せて広くヒューマニズムということばでよぶとすれば、嘗ては西洋のキリスト教世界におこったヒューマニズムがアジアの非キリスト教世界におこるとき、どういう形をとって、どこまで発展するかということに要約される。また別の面から見れば、西洋では個人主義、殊に内面的な倫理観の伝統に支えられて成立したヒューマニズムが、そのような伝統のつよくないところでは、どういう形をとるか、どういう点で西洋の解決した問題を解決せず、解決しなかった問題を解決するかということにもなるだろう。(中略)もし非キリスト教的世界でのヒューマニズムの発展が主として社会的な面でアジア諸国全体の問題であるとすれば、そのヒューマニズムが文化の面、殊に思想・文学・藝術の面でどういう形をとり得るかという見透しをたてることは、日本の問題である。(傍線引用者)[ii]

 

日本の近代化・民主主義化を、西洋の手本から離れて、われわれ自身の道の上に追求するための条件は、日本の現実そのもののなかに与えられている。(中略)日本とは、日本の大衆の他にはないものだろう。過去は、たとえ日本の過去であるにしてもわれわれ自身の世界ではない。われわれは、われわれ自身ののなかにある大衆的な意識を拡大する必要があり、それを洗練し、それに表現を与えうる必要がある。それが日本の全体へ向かってわれわれの世界を広げるということになるだろう。(中略)手がかりは大衆であり、われわれの意識を大衆的な広がりのなかで育てることが、唯一の道だろうというのが私の考えである。[iii]

 

しかしその大衆は、おそらく『万葉集』の時代から一貫して発展してきた精神的構造によって支えられているのであり、まさにその意味で日本の大衆なのである。大衆のなかにある持続的なものとは、その精神的構造に他ならない。どういう民主主義ができるか、またそれがどこまで発展するかということは、長い見透しとしてそのことにかかわってくるだろう。歴史的にみれば、西洋での民主主義は、個人主義を前提として成りたったものである。また周知のようにその個人主義の歴史的背景は、人格的で同時に超越的な一神教である。人間が平等であるという考え方は、自明の事実に基づくものではない。(中略)神との関係において、人間は平等であるという以外に、平等の根拠がない、という議論には説得力がある。もし民主主義があらゆる人間に法律上の平等を与え、更にできれば経済上の平等を与えることを目的としているとすれば、西洋の民主主義の歴史にとって、神の観念が決定的に重要であったという理由は、容易に想像されるキリスト教の生み出した個人の価値は、キリスト教を離れても生きつづける。聖母子像にはじまった肖像画は、教会の壁を離れたときに、一般市民の肖像画として生きつづけた。個人主義は今日大部分の西洋人の意識のなかで、直接神にむすびついたものではない。しかしそのことから、キリスト教と全く無関係に個人主義または民主主義の問題を論じることができるという結論は出てこない。(中略)日本の大衆の意識の構造を決定した歴史的な要因は、明らかに超越的一神教とは全くちがうものであった。(中略)仏教自身が、少なくともキリスト教イスラム教におけるほど明白な超越的宗教ではなく、またたとえそうであったとしても、それがそのままの形で受け入れられたのは、少数の知識階級によってであり、大衆によってではなかった。(中略)価値の意識は常に日常生活の直接の経験から生みだされたのであり、本来感覚的な美的価値でさえも容易に生活を離れようとはしなかったのである。(中略)そしておそらくそのことと、たとえば個人の自由が絶対化されず、容易に家族的意識のなかに解消されるということとの間には、密接な関係がある。日常生活の経験が二人の個人の平等の根拠になりえないだろうことは、前にいったが、それは必ずしも昔の話ではなく、今の話である。(中略)個人の尊厳と平等の原則の上に考えられる社会制度は、このような歴史的背景と精神的構造を前提とするとき、どのように発展するか。今までのどころ、地上のどこにもそういう発展はなかった。それが日本の、また恐らく中国の最大の問題である。また、当時者にとってのみならず、人間の歴史にとっても巨大な実験であり、現在その実験を組織的に行うことができるのが、ただ日本と中国だけだということになろう。(中略)私は民主主義がキリスト教世界の外が成りたつかどうかを問題とするつもりはない。それは成りたつであろう。しかしどう成りたつかが問題である。確かなことは、おそらく西洋と同じ形では成りたたないだろうということだ。(中略)寛容と不寛容との区別のない一種の経験主義を通じて、「より高い生活程度」ではなく、「より幸福な生活」を実現する道があるかもしれない。ほんとうの目的は生活程度ではなく、生活である。たとえ西洋の社会がそれを忘れているとしても、日本の大衆はそれを本能的に知っているのである。そこにはキリスト教個人主義のつくらなかった一種の文化、決して断絶してはいないわれわれの伝統、日本にとっての創造の希望がある[iv]

 

長くなったが、加藤の主張を要約すれば、日本の文化的特徴を「雑種文化」と指摘したうえで、そうした文化のなかでデモクラシーというものを成立させようとすれば、キリスト教的倫理を媒介としない形での個人主義のあり方を模索するしかないということ。そしてそのヒントが日本の〈大衆〉にあるということ、この二点である。[v]加藤のこうした主張の背景には、前述した加藤自身の〈大衆〉の発見をめぐる「経験」という問題意識の他に、戦争中に孤立した知識人に対する問題意識があった。そうした問題を論じたのが「戦争と知識人」(1959)である。加藤は次のように言う。

 

日本の知識人において実生活と思想とは、はなれていたそこで思想は、危機的な場合には、実生活の側からの要求に屈服した。その実生活とは、直接には、小集団の内側での束縛、間接には、一切の価値に超越し、科学的な分析の対象であることをやめた国家・日本の精神的束縛を内容とするものであった。一言でいえば、実生活とはなれた思想は、実生活に対し超越的な価値概念も、真理概念も、つくりだすにいたらなかった。それこそ知識人の戦争協力という事実の内側の構造であったということになる。[vi]

 

ここにおいて加藤のデモクラシー論は、あるアポリアを抱えることになる。それは〈大衆〉と〈知識人〉をめぐるジレンマとも言える問題であるが、一方で〈大衆〉の重要性について論じながら、またもう一方では、そうした〈大衆〉の生きる土着世界に屈服した〈知識人〉の問題を告発せざるを得ないという、この問題意識の二律背反をどう考えるか。こうした問題の二律背反性は、「江戸時代に歌麿木版画をつくって、明治時代に漱石や鴎外を生んだ日本文化は、同時に南京虐殺の背景としての日本文化と同じです。もし、鴎外・漱石の文化に関心があれば、その関係はどうなっているのか。文化の核心にどういう問題があるだろう。日本文化の中心は何だろうという問題が生じます」[vii]という加藤自身の日本文化に対する問いでもあった。[viii]

こうした一見矛盾する問題を加藤自身はどのように考えたのか。それを解く鍵が加藤周一における〈藝術〉という概念であり、ここにおいてようやく、その日本文化論とデモクラシー論が一つの像を結ぶ。

 

[i]加藤周一著作集』⑦、27頁。

[ii]加藤周一著作集』⑦、35‐36頁。

[iii]加藤周一著作集』⑦、68‐69頁。

[iv]加藤周一著作集』⑦、72‐75頁。

 

[v] さらに言えば、ここには「雑種文化論」が書かれた五〇年代以降の高度成長が日本社会をどのように変えていったのか。その思想史的意味は何か、という問題が隠れている。戦後のデモクラシー論を考えるとき、この問題は「戦後啓蒙」の思想史的位置づけをめぐる論点となるが、高度成長と「大衆社会」の成立の思想史的検討の問題は、また別の課題である。

 

[vi]加藤周一著作集』⑦、329頁。

[vii] 加藤周一『「日本文学史序説」補講』(ちくま学芸文庫、2012年)28頁。

 

[viii] 例えば、海老坂武は、雑種文化論について次のような疑問を述べている。「もしも文化 が伝統の継承のうちにしか花咲かぬとするなら、そしてもしも文化をあくまでも擁護しようというなら、その伝統の母胎である民族の精神構造をそれが何であれ―それがが〈内なる天皇〉に通じているのしても―否定することは難しくなる。それだけではない。日本的精神構造なるものを中心的に担い、維持してきているのは大衆(民衆)である。だとするなら、前者を克服しようとすれば、ある局面において大衆、ないしは〈大衆的なもの〉に対して否定的にむかいあう覚悟が必要となるだろう。しかし、前にも指摘したように、知識人と大衆との意識の断絶をいかにして埋めるかというのが当時の氏の重要な課題であった。だとすれば、此岸的精神構造の粉砕などという台詞は気軽には吐けなくなってくる」(「雑種文化論をめぐって」『戦後思想の模索』みすず書房、1981年、147頁。)

 

加藤周一『日本文学史序説』(2)

一.戦後の出発

 加藤周一とはいかなる人物か。その自伝的小説である『羊の歌』から浮かび上がるのは、幼いころから周囲と馴染めず、常に自己の疎外感を拭い切れないでいる「孤独な観察者」としての姿である。[i]

 

私は生涯を考え、他人との関係についてではなく、自分自身について、自分が今ここにいるのはなぜだろうか、と考える。私はあらゆる社会から切りはなされた一刻の私自身を味わう。[ii]

 

労働者たちは、彼らには興味のないものをみている彼女を見ていて、私はその労働者たちを見ていた。彼らと私の間には、遠い距離があった。その距離は、私に昔埼玉県の村の畦道で、見えかくれしながらついて来た村の子供たち思い出させた。子供の私は、そのとき、彼らと私との間に超え難い距離を感じていた。私はそのときから変わらなかったのであろうか。私はどこでもいつでも第三者であり、傍観者であるのだろうか。[iii]

 

重要なのは、恐らくはこうした疎外感に由来するであろう「高みの見物」と自ら評する立場が、一貫して加藤の思想を規定しているという点であろう。それは加藤周一のデモクラシー論と晩年の「九条の会」の位置づけをどのように考えるか、という加藤周一に関する重要な論点につながっていく問題である[iv]が、ここではまず「戦後の出発」について、加藤自身が次のように述べていることに注目したい。

 

私は「経験」をもたず、いくつかの「観念」をもって、戦後の社会へ出発しようとしていた。私はそこで「経験」をもった人間に出会うだろうし、「観念」の無限の強みと無限の弱みとを知るだろう。[v]

 

ここで言われている「経験」は加藤の思想を考える際の重要な概念である。問題はそれが何を意味するのかということであるが、一言で言えば、それは「大衆」の発見であり、この「大衆」の位置づけと思想化という問題が、加藤の思想形成を促し、その思想の鍵概念である「土着世界観」へとつながっていく。『羊の歌』において加藤が挙げているその具体例をみてみよう。

 

 まず加藤は、敗戦直後の日本社会の印象について次のように描写している。

 

本郷と宮前町との間は、電車を乗りつげば、片道二時間ちかくもかかったが、占領軍払下げの貨物自動車を改造した市営の乗合では、一時間足らずであった。その座席は板張りで、坐り心地はよくなかった。しかし焼け野原のなかの道を車は疾風のように走り、私はその速力と、その窓に近く展開する風俗を好んでいた。その頃の東京の風俗は、地位の上下と貧富の差を、事毎に強調するようなものではなかった。焼け跡の男たちは、カーキ色の国民服か肩章をもぎとった軍服を着ていたし、女たちは「もんぺ」をはいたり戦前の「洋服」を身にまとったりしていた。実力のある男たちは、闇市でもうけて、白米をたべ、米国製の煙草を吸うことを、無上のぜい沢と心得ていた。彼らは乱暴で、他人の迷惑を顧みず、社会の全体についてどういう理想も、理解も、もちあわせていなかったろうが、活気にみちあふれ、自分自身の力だけに頼り、権威を背後にして傲慢で卑屈な人間よりは、はるかに正直であったのだろう。実力のある女たちは、占領軍の将校にわたりをつけ、「PX」の新しい衣類を着て、市営の乗合にも乗りこんで来たが、彼らの顔は、得意の絶頂でうれしさに輝いているようにみえた。焼け跡の東京は、見せかけの代りに、真実があり、とりつくろった体裁の代りに、生地のままの人間の欲望が―食欲も、物欲も、性欲も、むきだしで、無遠慮に、すさまじく渦を巻いていた。(中略)「戦後の虚脱状態」という文句も使われていた。しかし私が乗合の窓から眺めた東京の市民の表情は「虚脱状態」で途方に暮れているどころか、むしろ不屈の生活力にあふれていた。「虚脱」していたのは、戦争を賛美した言論界の指導者たちであったかもしれないが、闇屋でも、闇米でもうけていた農家の人々でもなかったろう。(傍線引用者)[vi]

 

加藤が敗戦後の東京でみたのは、生身の人間としての大衆の逞しさそのものであった。彼らは、彼岸や超越的、抽象的世界とは無縁の、まさに具体的、現実的な土着世界を生きる人々として『日本文学史序説』にも繰り返し登場することになる。こうした土着世界を生きる「大衆」を、全く無視してデモクラシーを語ることはできようはずもない。こうした問題意識が加藤のデモクラシー論のモチーフを形成していくことになるのだが、しかしその一方でまた、彼らだけでデモクラシーを語ることもできないし、加藤が感心しながら眺めるこうした「大衆」とは、加藤にとっては同時に全くの「他者」であることには変わりがない。

こうした「他者」を切り捨てることなく、どのように語りうるか。こうした問いこそ、加藤の「経験」の中身であり、「観察者」である加藤が徐々にその思想を形づくる軌跡でもあるわけだが、そのなかで加藤は、「観察」と「経験」の容易ならざる関係に突き当たった。その一つが、敗戦後まもなく、日米の「原子爆弾影響合同調査団」の一員として訪れた広島での「経験」である。

 

私は広島を見たときに、将来の核兵器については何も考えていなかった。後になって、核兵器についても考えるようになったが、そういう私自身の考えと、広島の人々を沈黙させた経験との間に横たわる遥かに遠い距離を、私はいつもくり返して思い出したのである。しかし眼のまえの患者と医者との間の沈黙は、破らなければならなかった。言葉であらわせることを言葉であらわし、その意味を見つけ、そうすることで、その人にとっての経験を、私の観察し分類することのできる対象に変えなければならない。「そのときあなたは何処にいましたか」と私はいった。「姉の亭主が出征していましたから、姉の家で……」。「お姉さんの家は、この地図の上でいえば、どの辺りに当たりますか。……なるほど、爆心から三粁ぐらい……家は木造ですね、その中で、あなたはどちらをむいていましたか」。そういう質問は、その人にとって、あきらかに、どっちでもよいことにすぎなかったろう。そういう質問を、広島の被害者に浴びせるのは、ほとんど野蛮な行為である、と私は感じていた――家が木造であろうとなかろうと、姉の子供は死に、姉の眼はみえなくなり、その人の人生は変ったのである。いうべからざる経験が一方にあり、当人の人生にとっては何の関係もない事実が他方にある。しかし世界を理解するためには、一個の人生を決定するだろういうべからざる経験ではなくて、言葉に翻訳することのできる事実を言葉に翻訳することが、必要なのである。もし広島が私に教えたことがあるとすれば、それは、その対象がどれほど激しく、どれほど堪え難いものにまでなり得るかということであったろう。すなわち私は、黙って東京へ帰るか、留って広島の「症例」を観察するか、そのどちらかを選ぶほかはなかった。(中略)私は留まった。(傍線引用者)[vii]

 

「個人の言語化し得ない経験」と「世界を理解するための言語化」という問題は、「経験」と「観察」という問題を超えて、「文学」と「科学」の問題として、また加藤周一にとっての「芸術」の問題として現れることになるが、それは後の話である。ここでは、こうした加藤周一の「経験」が、戦後を通じて繰り返し現れている点を確認したい。例えば、後に小説『神幸祭』(1959)の題材にもなった九州の炭鉱を訪れた際の話。

   

私は太平洋戦争の間、いくさと自分との間に知的距離をおくことにより、客観的判断の甚だ正確であり得るということを経験した。しかし九州の炭坑では、客観的判断がほとんど不可能な状況に出会ったのである。そういう場合には、判断を放棄することもできるだろう。私は九州で、調停者でも、審判官でもなかった。しかし判断を放棄できない場合には、どうするであろうか。私は九州でそういうことを考え、坑道のなかへ入った私自身の経験―それがどれほど短かったにしても―へ戻るほかないだろうと思った。暗い危険な坑道のなかから出て来る度に、出口に見える一片の青空。毎日一片の青空を全身のよろこびを以て感じる――いや感じざるをえない生活を生きている人々、彼らが酔っぱらおうと、無理な議論をしようと、毎日青空の下で暮らしているわれわれが、彼らの言分を拒否することはできないだろう。彼らがまちがっているということを客観的に説明できないかぎり、彼らの言分はすべて正しい、と私はそのときに思った。傍観者としての判断は、常に可能ではない。故に傍観者であるのをやめるときがなければならない……。(傍線引用者)[viii]

 

問題は、こうした「経験」が、加藤周一の思想において、どのような問題意識として提示され、その思想形成を促したのか、という点だが、このときに注意すべきは、加藤が直接問題としたのは、「知識人」についてであったという点である。加藤は「大衆」との出会いを通じて「経験」という問題を語るが、そのときの「大衆」とは「観察者」である加藤にとっての「客体」であって「主体」ではない。つまり、加藤の思想の「主体」は、自分を含めた「知識人」であって、「大衆」ではない。ここで初めて、「大衆」と「主体」の関係が問題として俎上にあがる。それが「戦争と知識人(1959)における問題意識であり、こうした問題意識が「土着世界観」という形で構築された思考枠組を通じて古代から現代に至る日本文学史として論じられたのが『日本文学史序説』(1980)であった。

その加藤の問題意識を一言で言えば、「大衆」(土着世界)を捨象することなく、どのように自己を含めた「知識人」について語りうるのか、という問いである。その含意をデモクラシー論の観点から踏み込んで言えば、土着世界を捨象することなくデモクラシーを語るためには、西欧社会においてデモクラシー成立の背景となったキリスト教といった超越的一神教を必ずしも根拠としない形での「個人主義」の可能性を模索する必要があるということであって、裏返して言えば、それは、そうでなければ、本当の意味で日本においてデモクラシーを成立させることは不可能であるという問題意識の現われといってよい。

しかし、そうしたデモクラシーの根拠となる「個人主義」は単なるエゴイズムであって良いはずはなく、そこに表現される「個」は、何らかのかたちで普遍的な表現でなければならない。キリスト教のような超越的宗教倫理を抜きに、果たしてそれは可能か。こうした難問に、戦後思想史を紐解けば、丸山眞男の問題として再び出会うことになるわけだが、ともかく、「そうあらねばならないし、それは可能である」と加藤周一は書いた。それがいわゆる「雑種文化論」と呼ばれるものである。[ix]丸山はこの加藤の「雑種文化論」を批判した。[x]ここに、デモクラシーの成立という問いに関して加藤と丸山の交錯がある。[xi]問題は、それぞれが、こうした問題に対してどのように向き合おうとしたか、これである。加藤はこの難問を「藝術」という概念を経由することで回避しようとした。この地点において、加藤の日本文化論とデモクラシー論は出会う。

 

[i] こうした加藤周一の人物像やそれに由来する思想的特徴については、鷲巣力『加藤周一を読む 「理」の人にして「情」の人』(岩波書店、2011)、同『「加藤周一」という生き方』(筑摩選書、2012)や海老坂武『加藤周一』(岩波新書、2013)に詳しい。

[ii] 『羊の歌』(岩波新書、1968年初版)16頁。

[iii] 『続羊の歌』(岩波新書、1968年初版)106‐107頁。

 

[iv] すなわち、それは、晩年の加藤の「九条の会」をめぐる活動が、加藤周一という人物とその思想にとっての「必然」なのか、それとも、知識人の良識や亡き友への信条に基づいたある種の「決断」を伴った行動なのか、という問題である。前者であるならば、それはどのような論理的必然なのかという点、その思想を明らかにする必要があるし、後者であれば、その「決断」の意味を考える必要があるだろう。勿論、両方の側面を持つとも言えるが、加藤周一のデモクラシー論の思想的特徴を考える場合、どちらに焦点を当てるかでその意味はだいぶ変わってくる。例えば、樋口陽一は前者の立場を取ることで、「雑種文化論」の持つ憲法学的意味を論じている。(「『洋学紳士』と『雑種文化』論の間―再び・憲法論にとっての加藤周一」『思想』2011年6月号や『加藤周一丸山眞男平凡社2014年)

ただし、その場合、加藤周一の日本文化及び芸術論とデモクラシー論の関係が明らかではない。樋口が言うように、加藤自身、明確なかたちで両者の関係を論理的に提示しているわけではないが、またそれ故に、この問題は加藤の思想を考える際の最大の論点となる。こうした問題について論じた加藤研究としては、小関素明「加藤周一の精神史―性愛、詩的言語とデモクラシー」(『立命館大学人文科学研究所紀要』111、2017年)がある。

本稿では、こうした議論を踏まえた上で、加藤の日本文化論とデモクラシー論の関係に注目することで、加藤周一における「九条の会」の位置づけについて、これをその思想の論理的「必然」と解釈し、さらに改憲勢力が台頭するなかにおいて、加藤の「信条」がその思想的帰結の具現化を促したものと理解する。

 

[v] 『続羊の歌』11頁。

[vi] 『続羊の歌』2‐3頁。

[vii] 『続羊の歌』14‐15頁。

[viii] 『続羊の歌』174‐175頁。

 

[ix]一般に「雑種文化論」といわれるのは「日本文化の雑種性」(1955)であるが、ここでは、それに「雑種的日本文化の希望」(1955)及び「近代日本の文明史的位置」(1957)加えた50年代中頃の加藤による日本文化に関する言説(いづれも『加藤周一著作集』⑦所収)を「雑種文化論」と総称する。

 

[x]加藤周一は日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西欧的に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的な意味をひきだすよう提言されている。傾聴すべき意見であり、大方の趣旨は賛成であるが、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。第一に、雑種性を悪い意味で「積極的」に肯定した東西融合論あるいは弁証法的統一論の「伝統」もあり、それはもう沢山だということ、第二に、私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。」(丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年初版、64頁)

 

[xi] 田口富久治は、丸山の古層論と加藤の土着世界観に関する研究ノートにおいて、次のような疑問を述べている。「政治家の無責任や悪しき共同体主義を批判し、個人そして民衆の主体性を確立するという点で、加藤が丸山とほぼ同じ立場にたっていることは推定できるが、しかし文学の世界、より一般化していえば、芸術の世界において、作品に体現された土着世界観、土着思想、土着文化にたいして、あるいは『日本化された外来文化』に対して、われわれはどのような態度をとるべきなのだろうか。(中略)『序説』を読むかぎり、加藤が、伝統的な土着世界観を凝縮したような文学作品、あるいは能と狂言元禄文化等々についても、文化論や芸術論の観点から積極的な評価(批判を含めて)を惜しんでいないように見える。この辺の問題をどう考えるのか。これも私にとって残された問題である」(田口富久治「丸山眞男の『古層論』と加藤周一の『土着世界観』」『政策科学』9巻2号、2002年、66頁)田口の疑問は丸山の読者であれば、加藤を読んだときに感じる必然的な問いであるし、加藤に関する思想史研究の急所であるが、こうした問題に関する研究は皆無といって良い。唯一、小関素明氏の加藤論が、加藤の思想のモチーフをデモクラシー論として描いたことで、間接的ではあるがこうした問いに答えている。本稿では、田口の問いを、小関氏の言うように、デモクラシーに関するモチーフの相違として捉えた上で、そうした相違の意味を、戦後思想史研究の文脈から、「戦後啓蒙」を両極から支えているものとして位置づけたい。

 

加藤周一『日本文学史序説』(1)

加藤周一の読み方

加藤周一という名前は『日本文学史序説』の筆者として高校生の時から知っていたものの、実際に加藤を読んだのは大学に入ってからだった。実際に加藤のテキストに触れると、独特の文体というかその感覚に戸惑ったのを覚えている。一応、文学部に進学したものの、後に悔恨に身悶えるほど文学に触れることの少なかった私は、翻訳でもいいから外国の古典を読まないといけないなと思った。そういうわけで、無為な時間を過ごしていた教養のない学生にとって丸山眞男哲学史や社会科学の学習の導入に一役買ったのと同じように、加藤は文学や芸術に触れるきっかけを与えてくれた。それが私にとっての加藤体験。こうした文脈での加藤体験は意外と多いということを、『加藤周一著作集』を一通り読んだ後の友人との会話で知った。戦後の知識人のテキストにはそういういわゆる「教養主義」に密かに憧れる出来の悪い学生を惹きつける独特な匂いがある気がする。ただ、大学時代に自分が所属したゼミの「教材」として向き合ったとき、つまりそういった消費としての読書を離れて、いわば内在的に加藤のテキストを思想として理解しようとすると、それは単なる読書カタログとしてではなく、一つの思想として浮かんでくることにも気がついた。それは、加藤の独特のセンスについてこれない自分を含めた非文学青年に加藤のテキストが持つ思想的意味を客観的に説明するという作業でもある。要するに、晩年の市民運動にみられるような護憲派知識人としての加藤とフランス文学に始まり日本文化研究に至る加藤の関係を、加藤自身の思索の軌跡として理解すること。戦後民主主義を代表する知識人の一人である加藤のデモクラシー論を検討する、というのは至極真っ当な視点だと思う。ただ、本屋で加藤周一に関する解説書を数冊購入して読んでみても、案外そういう意味での解説本は少ない。そういう観点から加藤を読んでみたい。

加藤周一の主著といえば、言うまでもなく『日本文学史序説』である。これは古代から現代までの日本文学を独自の視点から整理した1000頁に及ぶ大著であり、日本文学の通史としては小西甚一とドナルドキーンのそれと並んで有名な著作といえよう。ただし、加藤のこのテキストが持つ特徴とその価値は単に数少ない日本文学の通史という点に留まらず、むしろそれが持っている思想的側面にある。小関素明氏は、加藤の『序説』を「日本の戦後民主主義を特定の時空間を超える『普遍性』のなかに定礎する狙いと相即した苦闘の痕跡」[i]とこれを定義しているが、こうした『序説』が持つ思想史的価値は、加藤周一研究において、従来あまり重視されてこなかった。[ii]ここでは、加藤周一の思想の全体像のなかで『日本文学史序説』がどのような位置にあるのかを加藤のテキストを思想地図のように辿って行きながら整理したい。

 

[i] 小関素明「加藤周一の精神史―性愛、詩的言語とデモクラシー」(『立命館大学人文科学研究所紀要』111、2017年)145頁。

[ii] 戦後思想史という文脈では、加藤の『日本文学史序説』(1980)は丸山眞男の『日本政治思想史研究』と内田義彦の『経済学の生誕』がそれぞれ持っている思想史的意味と同様の意義を持っている。ただ、加藤周一研究において、その思想を戦後思想史のなかでどのように位置づけるかという研究は少ない。

 

戦後啓蒙と丸山眞男(6)

丸山思想史の展開

いまから取り上げるのは、一九六四年から六七年までの『講義録』である。丸山はこの中で、仏教、武士のエートスキリスト教儒教と、そこに自由を実現するための可能性、すなわち超越者や普遍者の可能性を探していく。しかし、結論から言えば、この試みは結局のところ挫折してしまう。丸山は次のように言う。

 

鎌倉以後の超越者の感覚の稀薄化過程についてはね、ぼくは一種の二段階説なんです。ややこしいことをいって恐縮なんですけど、超越性と普遍性とを区別すると、江戸時代でも天とか天道とかいうセンスがあるでしょう。あれはやはり経験的感覚的実在をこえているという意味では普遍性の感覚ですかね。だけど儒教は徹底的に現世的だから、内在的普遍性なんですね。だから「天下泰平」という秩序価値の優位と結びつく。「正義は行われよ、たとえ地球は滅びるとも」という意味での徹底した正義価値は、キリシタンを死滅させ、仏教を完全に俗権に従属させたあとでは、存立の場がなくなってしまう。江戸時代の「近代化」が同時に「古層」がせり上がってくる過程だと解説でいったのも、それと関係があるんです。[i]

 

問題は、どのように挫折をするのか。それは何を意味するのか、という問題である。要点だけ掻い摘んで見ていこう。ここで語られるのは、古代から江戸までの日本政治思想史である。明治以降の近代については語られていないが、ストーリーの筋書きがその評価を規定している。[ii]

江戸を対象とした『日本政治思想史研究』との最大の違いは、前述したように、近代化の非一義性という認識のもとに生まれた新しい歴史の見方によって、ヨコ(文化接触)の視点が与えられたことにある。これが「外からやってくる普遍者とこれに対応する日本」という図式を与えた。外から普遍者(宗教的規範意識)がやってくるということは、日本にはそもそも普遍者はいなかったということである。むしろ日本は、その島国という地理的環境ゆえに非常に強い性格(「原型」)を有しており、なかなか普遍者を受け入れようとはしない。[iii]講義では繰り返し「日本の原型的思考における普遍的な価値へのコミットメントの弱さ」[iv]が指摘される。如何にこの特殊(土着)主義を打破するかがこの物語に与えられたテーマであった。丸山思想史の特徴は、こうした宗教的倫理への拘りである。丸山は宗教の持つ意義を次のように語っている。

 

絶対者(たとえ人格神でなくても)を媒介として人間の尊厳を自覚させたことが人間の歴史において宗教のもつ最大の意義だ。[v]

 

なぜそこまで丸山が「普遍性」に拘るのかといえば、先にみたように、それは、ある「現実」に対抗しようとすれば、「現実」を越えた価値にコミットしなければそれは不可能だ、という丸山の経験的確信ゆえである。政治嫌いな政治思想史家丸山眞男は、現実に依拠した政治は、現実によっては批判できないと考える。事実によって事実は否定できない。「自由」を実現するためには、現実を越えたある価値に依拠し、事実を否定する主体性を成立たらしめるよりほかに術はない。これが「戦後民主主義の虚構に賭ける」と啖呵を切った男の考えである。そのためには、日本の特殊主義を打破し、真に普遍的な価値の勝利を宣言せねばならぬ。では、その可能性は日本思想史のなかにあったのか。丸山は「可能性」はあったと考える。

まず丸山が注目するのは、仏教である。「『原型』的世界像を徹底的に突破してまったく新しい精神的次元を古代日本人に開示したのは、世界宗教としての仏教であった」[vi]と丸山は言う。そして、この仏教の持つ意義を政治思想のなかで示したのが「十七条憲法」であった。[vii]丸山にとって、十七条憲法は「『仏教』への帰依がabsoluteでuniversalな価値への帰依として自覚されている点」[viii]において、仏教という「世界宗教の受容がはらんでいた思想的可能性を、少くも統治倫理の側面において明確に提示した最初の傑作」[ix]であった。丸山が評価したのは、たとえ古代仏教が鎮護国家という性格を帯びていても、日本社会に普遍的価値を介して聖俗観念が導入されたことそのものが持つ政治思想史的意味である。これは、『研究』において示された公私観念の萌芽を全時代的に拡大したものといってよい。その意味で、『研究』で示された図式は丸山思想史の原型であり、「開国」や「普遍者=宗教的規範」という視座を以って、これが歴史化(ストーリー化)されたものが丸山思想史の全貌であった。ただし、そうした意味において、太子の思想は古代国家の例外現象に過ぎなかった。[x]丸山が太子に託した夢が敗れたあと、次なる可能性を示すのは、「鎌倉仏教」であった。丸山に言わせると、以降の歴史は〈鎌倉仏教〉という大事件に到るまでのプレリュードに過ぎない。[xi](芸術に自身の確信を託そうとした加藤が密教を評価したのに対し、丸山は、例えば空海などについては、呪術的でかつ鎮護国家の代弁者であると手厳しい)かくして、日本思想の歴史に大事件が起こる。鎌倉仏教の登場に丸山がみたのは「普遍的な絶対者に自己をコミットした思想家」たちの姿だった。[xii]その後、丸山は親鸞道元日蓮と考察していくが、これを詳細に検討する紙幅は無い。[xiii]ここで確認すべきは、こうした可能性も悉く潰えてしまったという事実である。その後の日本思想における仏教の歴史は「屈折と妥協」の歴史であった。[xiv]

仏教という絶対者の可能性が消滅したということは、それから江戸、明治と時代を下ることが、形勢いよいよ我に利なしという事態の推移を意味する[xv]わけであるから、もはや、ほぼ日本の思想の中に丸山の考える自由を実現する可能性は無くなったといえる。[xvi]

六五年の講義で注目される「武士のエートス」は、普遍意識への忠誠の共鳴盤としての〈可能性〉でしかなくそこには限界があった。丸山が評価したのは、世俗化した仏教が、武士のエートス(「命惜しむな名こそ惜しめ」という名誉観)を洗練し、批判的主体の契機たり得たという点であるが、室町時代においては、「時と状況の重視は、戦闘者として当然であり、それ自体武士のエートスに内在したものだが、その契機が規範意識を欠いた形で赤裸々に現れたのが室町武将たちの行動格式であった」とし、これまた加藤とはその時代的評価を逆とする。その一方で、「自己規律を伴う一種の英雄的個人主義の噴出」した時代として戦国時代を評価するなど、武士のエートスの規範化(=忠誠心と批判的主体の逆説的接続)の可能性は、幕藩体制の成立によってエートスが秩序へと回収された長い江戸時代を挟んだ、戦国や幕末など時代の転換期に見出されるものの、その可能性も明治の〈国体〉概念の成立において決定的な断絶を迎える。[xvii]伝統的な身分的忠誠は天皇制的な忠誠へと変貌した。そして、天の意識の希薄化と権威への消極的恭順、武士階級自身の消滅によって、生き生きとした人格的忠誠感情は急速に失われ、非人格化された天皇の地位が神聖化されるに至った。[xviii]また、六六年の講義では「キリスト教」が注目される。丸山がそこに見ようとしたのは、「日本人がまったく異質的なカルチャアに突如として直面したときの反応を示す歴史的実験」[xix]としてのキリシタン時代であった。丸山はこの時代を、「開国」という視点から思想史を描いたときの間奏曲として位置づけた。[xx]そして、日本にとって異質なカルチャーである「キリスト教」への反応を通して丸山が見たものは、日本人の宗教的「寛容」の正体であった。丸山は「世界のいかなる国民も日本国民のように、新しい教義をよろこんで受容する国民はなかった。と同時に、これほどまでに頑強な伝統を持続的に固守する国民はなかった」といわれた日本における「キリシタン流入と伝播のスピードの早さ、鎖国体制による絶滅の早さの両面」的な様子[xxi]を通じて、日本人の寛容と不寛容について言及している。[xxii]確かに、日本人は「寛容」である。しかし、日本の場合、そこにあるのは同質性を前提とした集団的功利主義という特徴(=原型)であり、それゆえ、「寛容」の伝統ゆえの不寛容という現象がコインの裏表をひっくり返すように起こる。(つまり「ムラ社会」=「開国―異質なもの同士の接触やその思想化―」という経験の乏しい社会)そして、「精神の自由の究極的根拠」[xxiii]を根本的に否定した「キリシタン禁制」は、「権力と宗教一般の関係に根本的といえるほど大きな変化」[xxiv]をもたらすことになった。[xxv]

最後に残されたのは、「儒教」だが、そもそも総じて、丸山の儒教に対する評価は必ずしも高くはない。[xxvi]それでも、六七年の講義においては、〈江戸〉が普遍者をめぐる一連のストーリーのなかに位置づけられたことによって、儒教に対する評価が多少変化し、それが『日本政治思想史研究』との差を生み出している。どういうことか。つまり、『日本政治思想史研究』においては、儒教を徹底的にネガティヴに捉えており、むしろその解体のなかに近代意識の萌芽が見出された。国学への逆説的な評価もそこに起因する。しかし、普遍者の命題が意識されると、一応、儒教にも内在的普遍者(天という規範意識)という性格があるため、むしろ、江戸時代において武士のエートスと並んで最後の可能性である儒教(内在的普遍者)の否定は普遍者の挫折を決定づけることになる。すると、先に与えられていた国学の逆説的な評価はむしろネガティヴなものへと置き換わる。そこに、両者の違いがある。[xxvii]

以上、『講義録』を参考に丸山思想史の内容を駆け足で追ってきた。このとき、丸山の思索の行きついた先は明白であろう。もはや残された道は一つしかない。徹底的に「特殊主義」(日本的なもの)をみつめる認識作業、これである。自由の実現のため、特殊主義を打破する普遍者の可能性を探していたつもりが、気づくと、皮肉にもむしろ、特殊主義という問題の究極的原因の解明の必要性を決定づける結果となっている。(神々の微笑)これが古層論への道程であった[xxviii]

しかし、よくよく考えてみれば、近代日本の末路という結果論からその思索を始めた丸山が、いくら過去に遡って「可能性」を探したところで、行き着く先は、立論時点に決まっている。別に驚くことでも、今更、落ち込むことでもなかろう。では、その思索は全くの徒労であったのか。丸山が、古層論文の末尾を次のように結んでいることに注目したい。

 

眼を「西欧的」世界に転ずると、「神は死んだ」とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の連続」は、その側面においても、現代日本世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。[xxix](傍線引用者)

 

もちろん、最後の「世界の最先進国」というのは、丸山お得意のアイロニーである。(この言説を額面どおり受け取った森有正に対して丸山は弁明を迫られた)ただ、このことは既に、一九六〇年において語られている。「ヨーロッパの旅路の果てみたいな地点に日本はいわばはじめから立っているという点では、その意味では一番の先進国ですね」。[xxx]丸山は、思索のなかでそれを再認識したわけである。問題は、その意味は何かということだ。

ここでは、こうした思索を通じて、丸山の〈近代〉が弁証法的に描出されているということに注目したい。つまり、西欧的な価値の浸透を近代化のバロメーターと考えていた[xxxi]丸山が、近代化の非一義性という認識の下で、普遍者の命題を、日本の伝統の中に探す試みをしたということ、それ自体に意味がある。つまりそれが挫折し、再び立論時点に戻った丸山が、理念としての西欧的価値を「コレしかない」と再認識したとき、一度否定の契機を含んだ近代は、より究極的な形でその理念が強調されるに至る。もはやそれは実体としての西欧ではありえず、むしろ、その理念の難しさの前に、西欧も日本も横一列に並んでいる。このとき丸山のいう原型とは、経験値の差でしかない。こうした思考論理が、「永久革命」という言説を支えている。(先に述べた、加藤とは対極的に、デモクラシー論の王道に丸山がコミットしているというのは、この意味においてである)

近代を前にした難しさとは、もはや近代人そのものの難しさにほかならない。立論時点で遠く隔たっていた近代をめぐる西欧と日本の距離の差はもはや無いに等しい。西欧に成立した近代モデルを理想とし、日本における近代化の問題に向き合い続けた丸山とその読者はいま、まさに近代が抱え込んだその「問題」の前に立っているのである。それは、近代人が等しく共有する問題、ハーバーマスがいうところの「社会心理学の対象となった社会(公論)のなかで個人は如何に生きるのか」という問題にほかならない。[xxxii]では、自由の可能性は潰えたのか。そこで丸山が見出したのは第三世界の姿であった。[xxxiii]

 

丸山は晩年、次のように述べている。

 

私は二十一世紀が、西欧の伝統のなかで何が歴史的制約を負ったものであり、何がそれをこえた普遍性をもつものか、だんだんと―とくに第三世界によって認識されてゆく時代である、と思っております。[xxxiv]

 

果たして二一世紀の世界は一体どこに向かうことになるのだろうか。我々はそれぞれ、その世界の目撃者たる運命を背負っている。

 

最後に、これまでの思索を振り返ってみよう。

 

当初、丸山は第三節でみたように、前近代世界の崩壊のなかに近代意識の萌芽をみつけようとした。徂徠や宣長に後期スコラ哲学的な役割が求められた。神が超越化すれば、それだけ人間が認識し行動する自由が広がる。そこに丸山は自由な近代意識の広がりを見た。しかし、丸山は彼の生きた時代の中で、認識と行動をめぐる問いを突きつけられた。そしてそれは、神なき時代にヘーゲル的な自由をむしろ国家との対峙において実現しようとした丸山眞男の憂鬱そのものであった。国家を神殿とすることも、また、革命の夢に憂鬱さを晴らすこともできなかった。思えば、ヘーゲルの描いた歴史には自由を実現せんとこれを担保する神がいた。その神がいなくなれば近代人の憂鬱はいよいよ深刻である。丸山はその思索の果てに自由の黄昏迫る近代人の姿をみた。自由を希求する主体性は認識と行動の不連続性の溝に沈んでいく。この「ジレンマ」を「永久革命」と呼んで、「大丈夫だ、勇気を出せ」と鼓舞し続けた知識人こそ、「反逆の思想家」丸山眞男その人であった。

 

おわりに

 

戦後のデモクラシー思想を考えるとき、丸山の発想そのものが何か特別なものだったというわけでは決してない。丸山の師である南原繫が「人間革命」という言葉で表現したように、制度改革に止まらず、民主主義を真に担い得る主体を創出しなければならない、という発想は当時の知識人が共有した問題意識であり、そうした中から「戦後啓蒙」と呼ばれる思想が登場した。こうした戦後のデモクラシーを担う主体をめぐる問題について、これを誰よりも徹底的に突き詰めて思索したのが丸山眞男である。そしてその際、いみじくも苅部直が指摘[xxxv]したように、丸山自身が解ききっていない問題が、どうすれば「私」というものを尊重しながらデモクラシーを支える「公共的なもの」が立ち上がるのかという問題であった。[xxxvi]

ここで重要なのは、丸山が直面したこの難題が、丸山個人の思想が直面した論理的問題ではなく、デモクラシーを語ろうとするときに誰もが直面する普遍的な問いであるという点であろう。デモクラシーという言葉がプラトン以来、二千年間に渡ってネガティヴな言葉であり続けたという事実は、この問題の本質をよく物語っている。[xxxvii]こうしたデモクラシーという思想が原理的に持っている問題が、戦後日本という特殊具体的な時空間のなかで露呈しながらも、それを承知の上でなお、たじろぐことなく自らの信念の下に、それぞれの学問的営みのなかでこれをみつめ、それぞれの思想を築いていった点にこそ、「戦後啓蒙」と呼ばれる思想の歴史的意味がある。

 

 

[i] 「歴史意識と文化のパターン」一九七二年一一月『座談』七、二五〇‐二五一頁 

[ii] 『ノート』には、「明治以後の政治思想史の標題」だけ書き付けてある。

一.「国家」の発見 (体制の構想・乱世的革命・西欧政治思想と制度の移植)。

二.政体をめぐる闘争とその結末―天皇制的正統の確立。

三.「個人」の遁走 ―知識人の自意識。

四.大衆の早期的登場 ―車夫馬丁から労働大衆へ。

五.明治の終焉 ・・・・・・(漱石と「こゝろ」・鴎外・元老の後退・泰平と閉塞)。

六.戦間期のラプソディ (「近代思想」・「人格主義」・反英雄・民本主義、国家と社会)。

七.ヴ・ナロードから理論闘争まで。

八.転向 (九に先行することに注意せよ)。

九.新体制と共栄圏。

十.開国とデモクラシイ。

 

日本の原型(土着、特殊主義)を打ち破る普遍者の可能性を探った丸山にとっては、ここで言われる二の「天皇制的正統の確立」を以て完全にその可能性は絶たれた。これは忠誠と反逆(一九六〇)に描かれている通りである。すると、書かれなかった時代は、丸山にとってはほぼ同時代史にあたる。丸山はかつて「〝自分史〟を書きたい」と漏らしたことがあるという。(中野雄『丸山眞男 音楽の対話』文春新書、一九九九年、三七頁)しかし、「自分史」も「同時代史」もついに書かれることはなかった。

 

[iii] こうした「原型」の性格については、一九六七年の講義で、倫理意識、歴史意識、政治意識の三つに分けて考察されている。歴史意識については一九七二年の古層論文(『集』十)、政治意識については、論文ではないが「政の構造」(『集』一二)があるので、ここでは倫理意識だけ触れておく。簡単にいうとそれは、キヨキココロという絶対的基準が共同体的功利主義に制約されてしまい、共同体規範から、特定の共同体や関係をこえた普遍的な倫理規範(超越的な唯一神の命令とか、超越的な天道とか、そういったもの)への昇華がなされないということ。そしてこの制約は、仏教や儒教を摂取するときの変容の条件としても機能し、上記の倫理意識の「原型」を考えると共同体に対する純粋な献身が一番評価が高くなる。(『講義録』七、六六頁) 

要するに、日本には「キヨキココロ」という純粋さを尊ぶ意識が強い一方、共同体志向が強いため、この純粋さのベクトルが、超越的な正義や倫理への志向にはなかなかならず、「共同体」にひきづられる傾向が生じやすいということである。すると、「共同体のために、ひたすら純粋な気持ちで奉公する」というのが日本の原型に照らすと最高価値になる。だから、青年がお国のために命を賭けて云々という、特攻隊などの映画は倫理意識の観点からいうとウケがいい。また同時にこれは、「彼は、一生懸命やったじゃないか」という純粋さや懸命さが評価されることになるから、本来は結果論で評価されるべき政治行動などへの評価もこれに引きづられて「無責任」さを帯びる。例えば、A旧戦犯などへの評価。また、これら三つの意識の説明については、『話』二、二二二‐二三一頁も参照のこと。

[iv] 『講義録』四、七七頁。

[v] 『講義録 』別冊一、七五頁。

[vi] 『講義録』四、一五四頁。

 

[vii] 「ここではじめて、日本の国家は、したがってその統治者は絶対者にたいして、相対的なるものとして、普遍者にたいして特殊的・個別的なるものとして明確に自己を限定し、そうした自己限定のうえに立ってあらためて、そうした絶対的普遍者から、統治権と統治機能の義認を仰ぐことを学んだのである。」(『講義録』四、一五〇頁)

[viii] 『講義録』四、一五七頁。

[ix] 『講義録』四、一五四頁。

[x] 太子が示した可能性は以下の三点である。(『講義』四、一六三頁)

  • 地上の権威が普遍的真理・規範に従属すべきであるという意識。
  • 自然的・直接的人間関係と公的な組織とを区別する意識。
  • 制作の決定および施行過程における普遍的な正義の理念の強調。

[xi]

「日本における仏教が担った精神革命的意味―当面のテーマに即していえば、世間的なるものと超世間的なるもの、王法と仏法の二元的緊張のさまざまの形での自覚―は、いわゆる鎌倉仏教においてはじめて開花したのであるが、そこにいたるにはやはり、奈良・平安仏教時代の長いプレリュードがあった。」(『講義録』一七二頁)

 

[xii]

親鸞道元日蓮などに代表される鎌倉新仏教の思想的著作は、いずれも単なる経論のスコラ的註釈ではなく、時代の深刻な苦悩を直視する認識を、さらに自己の内面の奥底からの体験によって深化させたところに生れた魂の叫びであった。そこに提示された人間存在の本質についての思想は、日本思想史の上で他に類比を見ないほど独創的なものであっただけでなく、そこに流れる体験の深さ、情操の豊かさ、論理の透徹さは彼らをして優に世界の第一級の思想家に伍せしめるに足りる。むしろそれがいずれも十三世紀初頭の産物であったことは驚異というに近い。」(『講義録』四、二三一頁)

 

[xiii] 丸山がここで考察していたのは、「人間にたいするどのような新しい観方と、社会にたいするどのような行動態度が打ち出されたか〈および宗教意識のパターンがどのような政治意識のパターンへ移行していったか」〉(『講義』四、二三二頁)という問題であった。母が敬虔な真宗信者であり、その影響で丸山も中学までは、朝、食事の前に仏壇に手を合わせていたというから(「信者でもないのに念仏を唱えるのはおかしい」と思い上級生の頃には辞めたそうだが〈『書簡』三、一八頁〉)、親鸞へのシンパシーはわかるが、日蓮への評価は意外な感じがする。丸山は次のように述べている。

 

日蓮の『立正安国論』は、鎮護国家論の否定の否定だと僕は言うんです。一〇年間、日蓮比叡山で修行して、それから山を降りてきて説きだすわけですけれども、結局、あのように弾圧される。法華経を護持しない国家は滅びると言うんですからね、これが以前の鎮護国家論と同じかというと、そうじゃない。体制宗教じゃないんです。むしろ、親鸞なんかよりももっと強く王法に立ち向かっていくという態度になるわけですね。だから、鎮護国家否定の否定、そこでの肯定と考えたんですけれども。(『自由』四七‐四八頁)

 しかし、やはり、丸山の性格には合わなかったようで、「日蓮はファナティックでね、ぼくはかなわんのだ。」(『自由』五三頁)と本音を漏らしている。

 

[xiv] 「つまり自我人格が〝世間〟や〝既成事実〟と内面的な緊張関係を保つことによって、不断に前者を体系的・合理的にreconstruct[再構築・改造]してゆくような精神的エネルギーを再生するほどには、日本の宗教改革はラヂカルに遂行されなかったといっていい」(『講義録』四、二七一頁)その後の仏教の末路は以下のとおり。

  • 術的傾向の再浸透(回帰)。
  • 神仏習合といった教義上の集合傾向。
  • 教団組織のparticularisticな性格の濃化。
  • 王法(俗権)との再癒着。
  • 聖価値の審美的価値への埋没。

[xv]

「こうして社会の価値体系の変動から見れば、江戸時代の開幕は、秩序価値の(真理価値と正義価値に対する)決定的優位によって秩序づけられる。秩序価値の優位→世間内の具体的共同体の倫理が最高価値になる。超越的普遍者(人格的創造神、彼岸的救済者、永劫不滅なる理、イデア)が見失われ、内在的普遍者(〝人類〟の理念、自由・平等・博愛の普遍的道徳、やや不徹底だが、自然法[天道]と同化した普遍の五倫五常の道)が、世間的秩序との緊張感系[ママ‐引用者]を失って、内在化する。→超越性から内在性へ、さらに普遍性から特殊性へという、精神的志向と強調点の移動。彼岸的・特殊主義的価値の強調。「正義よおこなわれよ、たとえ世界滅ぶとも」(Fiat iustitia,pereat mundus―Kant.普遍的正義の支配なき社会は存在根拠がない)とまさに対極的に、秩序維持天下泰平それ自体が至高の価値となる。(『講義録』四、三一二‐三一三頁、傍線引用者)

[xvi] なぜ仏教は原型から飛躍を維持できなかったのだろうか。それには二つの理由があるという。

「日本仏教がなにゆえに『原型』からの質的飛躍を歴史的に持続させるだけの力をもちえず、こうした屈折と妥協の跡を濃くとどめねばならなかったか。そこには、仏教そのものの持つ一般的性格の面からと、日本的な特殊性という面からと、の二つの側面からの考察が必要であろう」(『講義』四、二七八‐二七九頁)と言う丸山は、その訳を「普遍宗教が直面する一般的ジレンマ」の問題と前述したような日本の特殊主義(原型)に求めている。一般的ジレンマとは、次のようなものである。

 

いかなる絶対者を追及する普遍宗教も、人間の世間的な営為と交錯することによって、世間的な価値との通路の断絶か、さもなくば世俗への限界のない妥協かという二律背反に直面してきた(政治的に見れば、聖なる権威と俗権との関係づけの問題)。けれども仏教は右のような本来的性格に規定されて〈上に述べた根本教理からして、とくにこの二者択一性がつよい。すなわち〉、純粋化すれば世間的なるものへの浸透力を失い(これと断絶し)、さもなければ世間的価値と権威との境界を無限に曖昧にし、いずれにしても伝統的生活態度を変革させてゆく力には乏しいことは争えない。(『講義録』四、二八〇‐二八一頁、傍線引用者)

「そもそも絶対者への信仰は、現世的権威への通常の血縁・地縁的なつながりによる自然的な愛着感情とか、共同体・社会集団への自然的な所属意識をいったん遮断し、ご破算にして、いかなる地上的な規定性をも脱したただひとりの人間として、絶対者と向き合うところから始めて出発する」(『講義録』四、二八一頁)

しかし、日本の仏教の場合、それに輪をかけて、強力な「原型」の磁力がそれを困難にする。そこに仏教という絶対者が日本において敗れ去る所以があった。

 

[xvii]

特殊的な規定をもった人間でなく、およそ人間の人間としての尊厳に基づく自由と平等の思想および友愛と連帯の思想は、一切の経験的・感覚的存在を超えてこれを規律する絶対的・超越的普遍者へのコミットメントなしには、生れえなかった。経験的には人間は皆不平等であり、社会関係の相互作用のchain[連鎖]のなかにあるという意味で自由でない。〈それを突破するには、〉「神は人間を平等に作った」「人に従わんよりは神に従え」〈と説く、神=絶対者へのコミットメントが必要であり、そうしてはじめて水平的平等が生れる〉。武士のエートスのなかには、こういう超越的な神とか、普遍的原理への忠誠の共鳴盤たりうる契機はあっても〈たとえば『葉隠』のparticularisticな忠誠のあり方から、超越的モメントが逆説的に出てくる契機。しかも本来的にそれは特殊的人間関係の上に成り立つエートスであり、普遍的人倫のエートスではなかったから〉、特殊的人間関係自体のなかから絶対者は出てきようがない。にもかかわらず〈それは、明治中期以後に顕著になる〉軍隊の絶対服従、臣民的随順、忠君愛国の家族国家観と結びついたconformityとは非連続である。」(『講義録』五、二五四‐二五五頁、傍線引用者)

 

「明治中期以後の国民教育の枢軸となった。〝忠君愛国〟という観念は、「封建的」範疇でもなければ近代的範疇でもない。忠君は封建的・人格的忠誠の天皇への延長というより、むしろ、その水増しであり、愛国は、近代的な市民によって支えられたパトリオティズム愛国心]からは遠く、対内的には臣民的conformityによる権威への恭順であり、対外的には自我と国家との直接的・情動的な同一化を意味した。忠君が[非人格的な]愛国と結合したことによって、忠君からは、生き生きとした人格的契機が喪失し、「愛国」は〈元来なかった言葉で、明治二十年ごろまでは「自主愛国」「自由愛国」ともリンクして、近代市民によって担われる愛国という観念であったのが〉、〝自主自由〟とのかつての結びつきに代わって、「忠君」と結びついたことによって、下からの自発性と自律性の契機(民主的契機)を脱落させた。〈〝武士のエートス〟は「愛国」とリンクすることによって、その「忠君」から生き生きとした人格的契機を失い、〝市民のエートス〟は「忠君」と結びつくことによって、市民的自発性を脱落させて、ともに姿を消していったといってもよい。〉」(『講義録』五、二五五‐二五六頁、傍線引用者)

 

[xviii] こうした過程については、「忠誠と反逆」一九六〇年(『集』八)を参照。

[xix] 『講義録』六、五三頁。

[xx] 『講義録』別冊二。

[xxi] 『講義録』六、二一頁。

[xxii]

「集団的な和の維持のための「抱擁主義」であって、ヴォルテールの「私は君の意見に反対である。しかし君がその意見を主張する自由は死を賭して守る」に見られるような、自分の確信の故に、他人の確信を尊重するという寛容ではない。思想的排他性が少い。その反面は「雑信」の伝統への反逆にたいする不寛容となる。「寛容」の伝統のゆえの不寛容。文化的同質性に基づく集団的凝集性が高いから、一旦、集団的同質性がゆるがされるという猜疑が高まると、それだけ異質的な分子の排除は熱狂的となる。」(『講義録』一一八頁)

[xxiii] 『講義録』六、一二八頁。

[xxiv] 『講義録』六、一一八頁。

[xxv]

「むしろわれわれは、観点をたんに「外教」としてのキリスト教への個々の支配者の政策ということにしぼらずに、室町末期から戦国を経て、江戸時代にいたる国内の政治的変動のなかから、近世的支配者体制が創出される過程のなかで、宗教勢力一般が俗権と対決しつつ、後者に完全に従属するに至る大きな歴史的出来事の一環として、このキリシタン禁制の問題をとらえる必要があろう。そうすると、信長のキリシタン援助から、秀吉・家康さらに江戸幕府によるその全面的禁圧へというまさに正反対の政策の背後に、実は一本の赤い糸のように貫徹している歴史的な傾向性と、その思想的意味が浮かび上がってくる。」(『講義録』六、一一九‐一二〇頁、傍線引用者)

ことは宗教だけの問題ではない。少くも歴史的には、良心の自由〈、学問の自由、思想の自由〉の観念は信仰の自由から発したし、いかなる権力も浸すべからざる領域としての自由権の保証のうえに、国家と社会との二元的区別も、自発的結社の発想も根づく。政治的価値と全く異なった次元、異なった価値基準に立つ自発的集団の原型は信仰共同体である。学問や芸術を目的とする結社や集団が、国家とか政党のような政治集団と相似型をなしやすく、また容易に政治権力(反体制的政治勢力もふくむ)に従属するのは、政治的価値をこえた価値へのコミットメントが弱いからである。ここでは権力獲得をめぐる闘争、または経済的利害に基づく対立は起こりえても、被世辞的。内面的価値に依拠し、その内面性をまもるために政治権力に抵抗する伝統は定着しにくい。行動の次元でいえば、非政治的目的から発する政治行動という発想である。これが政党を除く、一切の自発的結社の自律性が保証される社会的基盤である。それがないと組織と行動様式がすべて政治集団の相似形となり、そういうところではまた、最大の政治集団としての国家がリヴァイアサンとして、社会を併呑する傾向性が高い。一切の宗教と宗教教団が地上の権威に従属させられ、超越的絶対者へのコミットメントに基づく共同体の形成が禁圧されたうえに、鎖国によって「閉じた社会」が人為的に二世紀にわたって維持されたことは、その後の日本の思想文化のあり方に、見える形だけでなく、さまざまな見えない形態において、ほとんど決定的といっていいほど重大な刻印を押したのである。」(『講義録』六、一二七‐一二八頁、傍線引用者)

 

[xxvi]そもそも、儒教は、「天」「天道」「天命」の観念のような普遍主義的一面も持つが、その倫理は著しくparticularisticな側面で制限され、普遍的人類の発想=個体としての人間という発想は極めて乏しい。(『講義録』四、一五三頁)だから、丸山は仏教やキリスト教を「超越的絶対者」と表現する一方で、儒教を「内在的普遍者」と呼んでいる。

 

儒教的な規範意識には致命的な欠陥がある。一つには、それがどこまでも君子と庶民との断絶を前提にしているので、大衆的な契機がないことです。(中略)もう一つは、儒教規範意識というものは、歴史意識以前のものなので、歴史的なものに媒介されないという点です。だから、それは非歴史的な尚古主義や、単純な勧善懲悪観に陥ってしまって、歴史的個体に浸透して行ってこれを内面から動かす力にならない。」(「被占領心理」一九五〇年八月『座談』二、二四頁)

 

「日本の儒教は近代化を促進したのか、それとも妨害したのか、という問題があります。(中略)先取りして言いますと、「思想的近代化」、近代化の意味を思想的近代化という意味にとるならば、つまり自由とか民主とか人権とか、あるいは法の優位、ルール・オブ・ロー(rule of law)、法の支配、そういう思想的近代化の意味にとるならば、日本の儒教はほとんどその反対の役割をしました。(中略)思想的近代化に限りますと、プラスの役割はしなかった、というのが私の見解です。その一つの理由は日本の儒教が国体論と結びついたからです。しかし、かといって国体論と結びつかなかったら儒教思想儒教道徳そのものが思想的近代化に役立ったかというと、それにも私は否定的です。」(「儒教・近代化・民主主義」一九八八年十月『話』四、二一五頁)

 

[xxvii] 丸山自身、『研究』との違いについて、「本居宣長の思想の内部構造や構成契機の相互連関については、かつての所説を修正する必要を認めない」としつつ、「ただその江戸時代における思想史的位置づけについては、若干の修正を要する」と指摘し、「儒教的世界像の解体-近代意識の成熟という路線のなかで位置づけようとしているために、やや一方的になった(国学のある一面のみが強調されすぎた)」と述べている。(『講義録』七、二八〇頁)これを受けて、『講義録』では、「特殊江戸時代的な条件の下における「原型」のふきあげ(噴出)と近代意識の成長とのからみあい」としての国学の思想運動(『講義録』七、二八一頁)という位置づけのもとで論じられるに至る。よってそのときの国学運動の性格は「儒教思想中に成長した風土的・歴史的相対主義の思考を儒教的世界像全体に適用させ、そこから一切の普遍主義的要素を剥ぎ取ったのが、江戸後期に興った国学運動」(『講義録』七、二七七頁)ということになる。

 

[xxviii] しかし、これは丸山自身が散々言っているように、「宿命論」ではなく、「自己認識」である。まず、自己を認識すること。しかも、決して非合理的なものを合理化して考えるのではなく、あくまでも非合理的なものを非合理的なものとして認識し、その上で無意識のコントロールに務める。要するに「認識からすべてが始まる」。それが丸山の考えであり、そうした考えを丸山は「ヘーゲル的な考え」と表現している。

 

僕の考え方がヘーゲルの考え方から基本的に影響を受けているのは、ヘーゲルは認識と実践とをなんとか架橋しようとしたわけです。ヘーゲルの立場からいうと、トータルに現実を認識すれば、自分が現実から隔離されるわけです。自分が現実から隔離されると、アルキメデスのいうテコの規準じゃないけれど、地球の外に立てば、地球を動かせると言ったでしょ。あれと同じなんだ。つまり、トータルに現実を認識できるということは、現実を変革できる条件ができるということなんです。そういうヘーゲルの読み方に非常に僕は影響を受けた。なんとかして、すくなくとも過去の日本をトータルに認識できないか。そうすれば、現代の日本を変革できるという・・・・・・。僕はどちらかというと、デカダンスのほうが好きなんだけれど、しいて(笑)、弁明するならば、ヘーゲルなんです。(『話』二、二三四頁)

皆さんが僕の文章を読んでいて、いろいろな問題を持つのはいいんだけれども、そのなかでたった一つでも、「あ、これは、今の問題だな」と思ったら、僕の意図は達せられるんです。昔のことじゃないんだなと。そうすると、それが、持続する契機になるわけです。自分で意識しないけれど、「あ、そうか。俺もそうだった」ということが一つでもあれば、僕の目的は達せられる。無自覚なものを自覚化させるということが、一つあるわけです、モティーフのなかに。(中略)昔のことは昔のことじゃない、済んだことじゃない。逆に、昔のことを済んだこととするのが、日本人の盲点です。過去を過去のこと、過去との対話がないということ。過去が自分のなかに住んでいるという意識が希薄なこと。俺は現代に住んでいるんだ、江戸時代とは無関係だと。そうではありませんよ、江戸時代どころか、『古事記』の時代、あなたのなかに『古事記』が住んでいますよという、ちょっと意地の悪い意図が[僕のなかに]あるわけです。一つでもそういうものを感じたのなら、僕としては成功なんです。       (『話』二、三二八‐三二九頁)

 

[xxix] 「歴史意識の「古層」」一九七二年『集』十、六四頁。

[xxx]丸山眞男氏との一時間」一九六〇年(『座談』四、五一頁)

この座談で面白いのは、村松剛と丸山の討論である。面白いというのは、「今ヨーロッパ文化が神様がなくなって困ってる時代に来て、われわれが神をどっかで回復し観念の上で神を、あるいは永遠なるものを回復するということが具体的に出来るでしょうか。」(同、五一頁)という村松の質問に対する丸山の答えが、この発言の意味をうまく説明しているからである。引用しておこう。

キリスト教に改宗しろとか、ヨーロッパの発展の時間的順序を追えということじゃないんです。」(同、五一頁)「日本民族のエネルギーでヨーロッパの過去からの全体像をつかまえて、ちょうどゲルマン族古代に対したように自由に我がものにして行けということなんです。日本の伝統にしても同じそういう自由な態度で操作すればよい。もたれかかっちゃいけないということです。」(同、五一頁)「神はないという伝統に居直っていい気になったら――なんだ、ヨーロッパが今ごろ到達したものを俺は最初から持っているということに甘えちゃったら―おしまいだというんです。郷土性とか民族性とかいうものは、否応なしにわれわれをいわば背後から規定しているもので、誰もそれから事実上自由でない。しかし民族とか伝統は創造の目標じゃないんですね。目標になったら、いわゆる郷土芸術みたいなものしか出てこない。」(同、五一‐五二頁)「卑下したってはじまらないんだけれども、同時にそこに居直ちゃったら何も出てこない(中略)理性的に認識することに耐えられない弱さがわれわれの間にないか。パっと勘で分かっちゃったり、またそれを感傷的に美化したり、あるいはけなしてみたり、気分的な評価のほうが認識より先に来ちゃう」(同、五二頁)「自己内対話というものが出来てない。自分の中にはアジア的なものもあれば、原始神道的なものもあれば、ヨーロッパ的なものもあるが、それが併存してる状況じゃないですか。それが混ざり合えば触発されて、もっと創造的なイマジネーションが出てくる。」(同、五四頁)

[xxxi] 例えば、「麻生義輝「近世日本哲学史」を読む」一九四二年(『集』二)では「私をしていわしむれば、精神的分野に於けるヨーロッパ的なるものの浸潤の程度こそ日本の近代化の全現象を測定するバロメーターである」(一八二頁)と述べ、「近代的思惟」一九四六年(『集』三)でも「私はこれまでも私の学問的関心の最も切実な対象であったところの、日本に於ける近代的思惟の成熟過程の究明に愈々腰をすえて取り組んでいきたいと考える」(三頁)と述べていることに注目。

 

[xxxii] ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』(未来社、一九七三年初版)

[xxxiii] 丸山は国連で傍聴したアルジェリア戦争をめぐる演説が印象的だったという。 

僕が国連の傍聴席で聴いた時に、パキスタンの代表がアルジェリア戦争を支持する演説をやりました。フランス代表が退席し、イギリス、アメリカは棄権です。そうしたらパキスタン代表が「反仏的とは何ごとか。われわれは自由・平等・博愛という理念をフランス革命から教わった」と。つまり西欧から教わった武器で西欧と闘っているんです。それが第三世界なんですね。(『話』四、一二九頁)

[xxxiv] (『書簡』四、二八七頁)また、丸山は「天安門事件」について次のように述べている。

 天安門のデモを毎日TVで見ておりました。(中略)デモ旗の中に「天賦人権」の文字を見たとき、私はわが目をこすりました。日本の自由民権運動は、日本ではなくて、中国で身を結んだのです。くりかえしますが、この果実はけっして現在の事態によってつぶされるものではありません。(『書簡』四、一八一‐一八二頁)

 まるで理性の狡智を思わせる。

 

[xxxv] 苅部直は『日本政治思想史研究』について次のように指摘している。

 助手論文は公私の領域の分離を構図として描き、全体を管制する政治権力のもとで、「私的」な活動がさまざまに展開するという「寛容」の体制を、「近代的なもの」と呼んだ。しかしそれは、「政治的なもの」の担い手が、その支配下に生きる個人のありのままの欲望や心情の発露を許すというだけで、場合によっては統治者の恣意による専制とも両立してしまうだろう。(中略)したたかに監視の目を逃れて欲求を満たそうとする庶民は、同時に憲兵に密告して隣人を売る人々でもあった。「主体」どうしの道徳上の結びつきが失われ、個人が放埒な自我のまま、ばらばらに放り出された地平に、強大な政治権力がおおいかぶさっていたのである。これに対して、個人の自由の確保と、政治権力に対する批判とを、倫理としてしっかり基礎づけるには、ありのままの自我の「私的」な内面と、権力が規制する「公的」空間との間に、たがいの自由と権利を維持すべく、「主体」どうしが結びあう道徳秩序を、考えなくてはならない。(中略)「内奥の心情」に動かされる生身の個人は、自由と権利の価値を内面化した作為の「主体」へと、どうやって陶冶されるのか。そうした諸問題も、空白のまま残されている。

 

私的なものを根拠としながら、そこから公共的なものをどのように立ち上げるかというのは、丸山の思想においても中心テーマであった。本稿では、こうした問題について、丸山の「主体性」という概念の検討を通じて考えた。そしてそれは、丸山の理想とする人間像としてアプリオリに 措定されていたといえる。問題は、大衆社会などにあって、その理想と現実をどのように考えるかであろう。そこに丸山眞男の主体性のアポリアが存在する。

 

[xxxvi] その点、デモクラシーに関する政治学の古典であるトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』における主題の一つが、デモクラシーの下で私的な生活領域にのみ強い関心を抱く「個人」を、公共精神を持った「市民」へと転化させるための観念(イデア)としての「共通善(common good)」とは何か、という問題であったことは感慨深い。こうした観点からの思想史研究としては、例えば、猪木武徳『自由の条件-スミス・トクヴィル福沢諭吉の思想的系譜』(ミネルヴァ書房、2016)など。

[xxxvii] ちなみに、政治思想史において長く軽蔑的な用法として使用されてきた「デモクラシー」という言葉に肯定的意味を与えた最初の人物はロベスピエールらしい。(ロバート・二ーリー・ベラー編『宗教とグローバル市民社会岩波書店、2014)