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丸山眞男と戦後啓蒙(2)

前回に続いて丸山の思想史的位置づけを簡単にまとめてみる。

 

戦後日本の思想には大きく分けて二つのトレンドが存在した。言うまでもなく、それは①「マルクス主義唯物史観)」と②「近代化論」である。この二大潮流に対し、問題意識の共有という意味において、対話可能な形で存在しつつも、独自の主張を展開したのが③「戦後啓蒙」と呼ばれる思想であった。今その内容を簡単に整理すれば、①が目指したのは「政治革命(体制変革)」であり、②は「経済革命(経済成長と産業化)」を重視するのに対して、③は政治や経済に関して、その問題の重要性は認めつつも、何よりもまず「人間革命(人間精神そのものの変革)」の必要性を訴えた。[i]具体的には①と③はA「主体性論争」、②と③はB「近代化論争」を通じて議論が交わされ、Aにおいては「歴史」と「人間」の関係が、Bにおいては「豊かさ」と「価値」の関係がそれぞれ主題となった。このとき、③を代表してAとBの両方の議論に強くコミットしたのが丸山眞男である。その意味において、③が①と②との関係によって定義され得るとすれば、丸山眞男によって③は代表されるし、また丸山の思想それ自体も、AとBとの関係によって定義され得るだろう。これが丸山を論じる思想史的意味である。

さらに90年代以降には、①と②に代わって、④ポストモダンと呼ばれる思想(国民国家批判や総力戦体制論)が新たなトレンドとして登場し、これに対して③は市民社会論や公共性論といった形をとりながら―近年のソーシャルキャピタルに関する議論もこの流れを汲む―④の潮流と一線を画し、そうした③と④の関係は、90年代以降の丸山眞男批判として現れた。[ii]③と④の対立が丸山眞男論として現れるとき、その中身は、丸山眞男の思想における〈近代〉という概念をどのように捉えるか、という丸山眞男論の核心に関わってくる。そしてその問いに答えるためには、詰まるところ丸山眞男の思想とは何か、という地点にまで踏み込まざるを得ない。結論から言えば、丸山眞男における〈近代〉概念とその思想とは、ヘーゲル的な自由をむしろ国家との対峙において実現すること、これであった。[iii]そして、具体的にそれは「非政治的な公共圏」の実現という形をとることになる。その意味で、丸山が評価する「自主的結社」とは、丸山の理想とした社会にあるべき一つの姿であった。[iv] 

こうした理想の上に立って丸山は、それを実現し得る主体の形成、すなわち「民主主義を支えるエートス」について徹底的に思索した。そして丸山は、こうした個々人の「主体性」の確立と、その社会的表現である公共圏の形成のためには、その思想的基盤として、現実を超越した価値へのコミットメント(神を戴く民主主義)が不可欠だと考えた。丸山の宗教に対する評価も斯く如き文脈で理解されるべき[v]だが、丸山は一連の日本政治思想史研究の中で、日本における超越者・普遍者の意識の希薄さを明らかにしてしまい、むしろその実現の難しさを再認識してしまった。[vi]その場合、丸山の考えていたことは一貫して、国家に対置された個人の問題であり、評価したのはそこに出現する緊張感であった。よって、この緊張感を革命に解消しようというマルクス主義とも、イデオロギー批判によって観念上の解消を志向する国民国家批判とも、「反逆の思想家」である丸山とは相容れないことは言うまでもない。[vii]

ここに現われる「丸山眞男の思想」とは「戦争とその余波の狂瀾怒涛の時代にその全青春期を生きた一日本人の知的発展の記録」[viii]である。

 

[i] ③の系譜が、戦後を通じてある一定の影響力を持ちつつも、①と③のようには大きな力を持たなかったのはなぜか。その理由は、こうした主張に対する共感を組織化できなかったこと。(①は言うまでもないが、②は自民党のいわゆる「保守本流」と呼ばれる立場と親和的である)そして、そうした共感も戦争体験の風化や大衆社会の成立とともに薄れていったこと、この二つに求められよう。その点、③の系譜において、唯一その組織化に成功したのは創価学会(SGI)だろう。両親が草創期のメンバーであり、自身も会員である山口那津男の回想は、大衆レベルでの「戦後啓蒙」の一面をよく伝えている。

  

「母親が一番先でして、一九五七年(昭和三二年)に創価学会に入会しました。(中略)私が四歳のときだったでしょうか。自発的に学会活動をし始めたのは、高校生のときからです。当時は仲間と一緒に日蓮大聖人の『立正安国論』を勉強していました。(中略)近所に住んでいる創価学会高等部の先輩が訪ねてきて『山口君も会合に出てみないか』と言うのです。誘われるまま高等部の会合に出てみると、そこに集まっているメンバーは学校もバラバラ、所属しているクラブ活動もみんなバラバラです。そういう高校生が一堂に会しているところがおもしろいと思いました。(中略)高校生のときにさまざまな年代の方と一緒に任用試験(仏法について学ぶ創価学会の初級教学試験)を受け、とてもびっくりしたものです。漢字がほとんど読めず、仏法用語の意味なんて全然わからない人が何人かいたのです。でも教える側は『それでいいんだ。みんなで任用試験を受けよう』と励まします。『自分が知らないことを一つでもわかったら、それだけですごいことじゃないか。合格、不合格は関係ない。みんなで一緒に任用試験に参加しよう。昨日よりも今日、一つでも勉強になったという実感を得られれば、それで合格と一緒なんだ』と言って、漢字の読めない人を励ましながら、一緒に一つひとつ勉強していく。(中略)学歴や地位を笠に着て威張っているような人間は、公明党ではまったく通用しません。公明党の支持者の皆さんは、そのあたりには特に敏感なんですよ。私も高校生、大学生のころにはよく『学生は役に立たねえな』と大人から叱られました。『地に足をつけて汗水を流して、庶民とともに生きる。庶民とともに息遣いをする。これが人間なんだ。頭でっかちで理屈ばかりで、上ばかり見ている学生は信仰も長持ちしねえぞ』。こうやって創価学会の先輩からも厳しく鍛えられたものです。私が暮らしていた地域には、さまざまな職業に従事する大人たちがいました。なかには背中に入れ墨が入っている怖いおじさんもいました。そういう赤裸々な生き様を隠そうとしない人の言葉には重みがあるわけです。教科書で学んだ学生の浅い知識なんて通用しません。(中略)在日韓国・朝鮮人も含め、創価学会には実にさまざまな人がいます。そういう人たちが一堂に集まって座談会を開き、『今日は一つためになったな』『今日はこういうことを決意して明日からがんばろう』と語り合う。創価学会とは本当にすごい場だと思いました」(佐藤優山口那津男『いま、公明党が考えていること』(潮新書、2016年)43-48頁。

 

    ただし、日本においては創価学会に関する研究は、もっぱらジャーナリズムのなかで語られることが多く、学術的な研究はあまり存在しないため、その研究はむしろ海外のものに拠っている。例えば、古典的なものとしては、James W. White, Sokagakkai and Mass Society, Stanford Univ Pr,1970(邦訳は『創価学会レポート』雄渾社 、1971)また、海外の組織に関する研究としては、Bryan Wilson and Karel Dobbelaere, A Time to Chant: The Soka Gakkai Buddhists in Britain, Clarendon Press,1994(邦訳は『タイム トゥ チャント――イギリス創価学会社会学的考察』(紀伊國屋書店, 1997年)やPhillip Hammond and David Machacek, Soka Gakkai in America: Accommodation and Conversion, Oxford Univ Pr,1999(邦訳は『アメリカの創価学会―適応と転換をめぐる社会学的考察』紀伊國屋書店 2000年)など。

 

[ii]現代思想』一九九四年一月号では「丸山眞男」の特集が組まれ、姜尚中酒井直樹、中野敏男といったメンバーらが丸山を論じている。(その他、酒井直樹編『ナショナリティ脱構築』柏書房、一九九六年、『丸山真男を読む』状況出版、一九九七年なども参照)こうした丸山批判に対する反駁としては、たとえば間宮陽介「ポストモダン派の丸山批判」(『丸山眞男手帖』五号一九九八年四月)や田口富久治「丸山眞男 プロス・アンド・コンス」(『政策科学』七巻一号、立命館大学政策科学会、一九九九年十月)などがある。総じて、国民国家批判の延長線上に語られる「丸山論」は、間宮が指摘しているように、批判者が丸山の問題意識を真正面から捉えようという意識に希薄であるため、丸山論として議論がうまく噛み合っていない感がある。『現代思想』の特集の経緯について、丸山が言うには「丸山特集をするから、編集者と対談してくれ、と言って来たので、とんでもない、特集は編集者の自由だから仕方ないが、自分の『特集』で本人がノコノコ出て行ってしゃべる、などというのは私の趣味にもっとも反する、といって断り、その代り三、四年前に喋った旧稿[政事の構造:引用者]の転載だけは承諾した、というイキサツ」らしい。(『丸山眞男書簡集』五、一五四頁)丸山は「『現代思想』という雑誌には、私はこれまで関係がなく、むしろその常連の寄稿者には、アンチ丸山の人が少なくないので、『特集』を出したこと自体が不思議です。日本人からの寄稿には、丸山批判のToneが強いのもそれと関係があるかもしれません。(私自身はまったく気にしていませんが・・・・・・。)」(『書簡』五、二二一‐二二二頁)といいつつも、間宮のフォロー(「丸山眞男論」一九九五年、『同時代論―市場主義とナショナリズムを超えて』岩波書店、一九九八年所収)に関して、「間宮君が、それまで未知であったにもかかわらず、当方が恐縮するほど好意ある丸山論を書いてくれて、世の中捨てる神あれば拾う神ありだな、と思っております。」(『書簡』五、二三三‐二三四頁)と心情を吐露している。総じて日本においてはチープな丸山批判に終始した感が否めないものの、世界に目を転ずると、レヴィ=ストロースからは丸山に宛てて「お前の言ってることが、まさに近代の弊害である」と苦情の手紙が届いたらしく、また来日したミシェルフーコーとは赤坂のプリンスホテルで直接対談もしており興味深い。ただ、残念ながらフーコーとの対談の記録(テープ)に関しては丸山文庫にも残っていないようである。(松沢弘陽氏の御教示に拠る)

 

[iii] ここで「へーゲル的」というのは丸山のへーゲル観という意味においてである。丸山は次のように述べている。「私がヘーゲル体系の真髄とみたものは、国家を最高道徳の具現として讃美した点ではなくて『歴史は自由の意識に向っての進歩である』という彼の考え方であった。」(『集』一二、四八頁)(なお、丸山のヘーゲル観に関しては、池田元「丸山眞男ヘーゲル観と思想史学」『日本市民思想と国家論』論創社一九八三年初出、『丸山思想史学の位相』論創社、二〇〇四年を参照のこと。)また、学生時代の授業ノートである『南原教授政治学史Ⅲ 近世2』(東京女子大学丸山眞男文庫所蔵資料)四七~五五頁にヘーゲルに関する記述があり、当時の南原の授業を通して丸山のヘーゲル理解を窺うことができる。(なお、丸山の近代観をヘーゲルに求めるものとしては、杉山光信「丸山真男と近代的意識」『戦後啓蒙と社会科学の思想』新曜社、一九八二年がある)

 

また「自由」という概念については、丸山がローザルクセンブルクを評価している点も、注目される。

「ローザの有名な自由についての言葉で―『自由というのはいつでも、他人と考えを異にする自由である』、ぼくは好きなんだよね、これが(笑)。この伝統のあるなし、そこの違いなんです。民衆の解放とかいうよりね。つまり、自由とは、あなたと考えを異にする伝統なんです」(『自由について』一四一頁)

 そしてまた、その「自由」という概念は「抵抗」の精神と切り離せない。

 自由というものは、いつの時代でも抵抗の精神によって担保されている。「抵抗の精神」というのは、体制を革命するとかしないとかいうことと独立した次元の問題です。けれども、権力にたいする抵抗、また、およそ権力が立ち入ってよい事柄と立ち入るべからざる事柄との弁別の意識を欠落してしまったら、自由主義者のミニマムを欠くことになる。(中略)日本では体制自由主義者になることも、コミュニズムの同伴自由主義者になることも、やさしいのですよ。だから私は、リベラルの旗をあくまでおろさない。(『丸山眞男座談』六、一六一‐一六二頁)

さらに、この命題は、「なぜ丸山はマルクス主義に傾倒しながらも、マルクス主義者にはならなかったのか」という問いにもつながる。

丸山とマルクス主義の関係については、丸山の思想遍歴について考える必要性があるだろう。それについては、例えば、「思想史の方法を模索して」(一九七八、『丸山眞男集』一二)丸山眞男『自由について』(七九~一〇七頁)、『丸山眞男回顧談』上の九章(「歴史主義と相対主義の問題」)などが参考になる。例えば『回顧談』からは、丸山において「歴史主義的思考」と「超歴史主義的思考」という問題が、五〇年代初頭において「全体的真理」と「部分的真理」という問題に置き換えられ思考されていたことがわかる。この問題は、「ぼくの精神史は、方法的にはマルクス主義との格闘の歴史だし、対象的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だった」(対談「戦争と同時代」『座談』第二巻所収)という丸山のその「マルクス主義との格闘」の内容そのものであり、大変興味深い。丸山はそれを「哲学的相対主義」をめぐっての「全体的真理」と「部分的真理」という命題と表現し、「党派性」の問題を認識論的観点から問題にしていたという。(=ある党派的立場に立てば全体的真理を認識できるのか?というルカーチ的な問題)また『自由について』では、丸山は「なぜマルクス主義にならなかったのか」という鶴見俊輔の問いに「マルクス主義を勉強すると、マルクス主義についての疑問が出てくる」(『自由』九四頁)「社会科学的には、事実、非常にマルクス主義に近づいたなあ。(中略)だけど、哲学的に納得がいかない」(『自由』九七頁)「学生のとき読んだ官許マルクス主義というのはお粗末でした。だからソ連に対する失望と、それからやっぱり、これはとても官許マルクス主義にはついて行けないという気持ちはあったな。ただし、社会科学としては、やっぱりなんといってもマルクス主義は大したもんだということでしたねえ」(『自由』九八‐九九頁)「(ケルゼンとマルクスを引き合いに出して:引用者)その混同ですね。ザインとゾルレンの混同。存在と当為という、当時その言葉でよく言ったんですけど、『何である』ということと、『何をすべきである』ということを絶えず混同していると。それを峻別しようという立場でしょ。なまじっかその洗礼を受けちゃうと、マルクス主義側の論理の目の粗さばっかり、ぼくには目に映るわけです。そうすると、やはり、とてもこれはついていけない、ということでしょうね、まあ、なぜマルクス主義者にならなかったかということを、強いて説明すれば」(『自由』一〇一頁)と答えている。

そんな丸山の読書遍歴は新カント派→マルクスヘーゲルマンハイムといった具合で、右のような丸山の問題関心を考えたとき、やはりマンハイムについて考える必要がある。(マンハイムと丸山の思惟構造については、加藤節「南原繁丸山眞男―交錯と分岐―」『思想』一九九八年六月、安丸良夫「丸山思想史学と思惟様式論」大隅和雄、平石直昭編『思想史家 丸山眞男論』ぺりかん社、二〇〇二年などが参考になる)

こうした問題は、丸山の思惟構造を考える上でも興味深いテーマであるが、ここでは、丸山が「革命」ではなく「反逆」にその評価の重点を置いていたことを指摘しておくにとどめたい。

 

[iv]例えば、次のような明六社への評価。

 

明六社の思想は十年代以後の自由民権論に比べて、政治的急進性において劣っていたものを、啓蒙主義本来の課題の方法的自覚において補っていたといっても必ずしも言い過ぎではない。明六社のような非政治的な目的をもった自主的結社が、まさにその立地から政治を含めた時代の重要な課題に対して、不断に批判して行く伝統が根付くところに、はじめて政治主義か文化主義かといった二者択一の思考習慣が打破され、非政治的領域から発する政治的発言という近代市民の日常的なモラルが育って行くことが期待される。(「開国」一九五九『丸山眞男集』八、八三頁)

 

また、「政治と異なった次元に立って組織化される自主的結社の伝統」の重要性について、

政治団体が自主的集団を代表するところでは、国家と独立した社会の十分な発達は期待できない。むしろ本来的に闘争集団であり権威性と凝集性を欠くことのできない政治団体にたいして、開いた社会への垂範的な役割を託すということ自体に内在的な無理があるというべきであろう。政治と異なった次元(宗教・学問・芸術・教育等々)に立って組織化される自主的結社の伝統が定着しないところでは、一切の社会的結社は構造の上でも機能の上でも、政治団体をモデルとしてそれに無限に近づこうとする傾向があるし、政党は政党で、もともと最大最強の政治団体として政府の小型版にすぎない。それだけにここでは一切の社会集団がレヴァイアサンとしての国家に併呑され吸収されやすいような磁場が形成されることとなる。(同、『丸山眞男集』八、八四頁)

 という。しかし、そうした非政治的公共性である自主的結社は明治二十年以降なくなってしまうという。

問題は政治団体以外に思想的意味を持った自発的結社が同様に活発にできたかというと、二十年以後にはどうもそういう伝統がない。つまり、自発的結社として活発に動くものは政治団体になってしまうわけですね。(『丸山眞男座談』三、三四頁)

 では、現代はというと、丸山は『政治の世界』(一九五二年)では圧力団体に期待を寄せていた。しかし結局、この期待も後に撤回されてしまう。

「『政治の世界』で、ぼくは、結局、デモクラシーを支えるのは自主的結社であって、したがって労働組合がしっかりしなきゃいけないと、自発的結社のモデルとして労働組合を考えていた。(中略)政党じゃない結社の政治的活動によってデモクラシーがはじめて支えられるというのが、ぼくの一貫した信念なんです。その時に、このモデルを労働組合に求めたわけです。完全に間違いです、これは。この本のいちばん終わりに書いた予測は、完全に外れました。(中略)ぼくはね、非政治的自主性が重大だという観点を抱いたとき、組合官僚化と、ある意味での労働貴族化というものが、これほどになるとは夢にも思わなかった。」(『自由について』七一頁)

 

[v] 丸山の宗教観については、丸山と親交のあったアメリカの宗教社会学者であるロバート・ニーリー・ベラーとの比較するとわかりやすいので、そのうち時間があれば書くことにする。

 

[vi] 普遍者という命題を具体的に思考するようになった六〇年代において、丸山は東大法学部の講義の中で近代化には普遍者を介在した近代化とそうではない近代化の二つのパターンがあり、日本は後者だという。

 

地上の一切の権威をこえた見えざる普遍者―それがいかなる名で呼ばれようとも―へのcommitmentという伝統を背景として進行する〈コミットメントを通じての弁証法的発展としての〉近代化と、然らざる、単純な世俗化(脱宗教化)を意味する近代化〈絶対者との単純な背反関係における近代化〉とでは、まさに、同じ近代化でも、その内容と形態に著しいちがいが存在するのである。(『丸山眞男講義録』七、一四六‐一四七頁)

 

このとき具体的にイメージされているのは、ルネッサンス宗教改革を通じて、キリスト教の神を媒介に個人が成立し、他方、中世的世界から脱して国家理性が成立するという西欧における近代世界の崩壊‐成立のイメージである。(例えば、「十九世紀以降欧州社会思想史 庶民大学講義要旨」一九四六年二‐四月『丸山眞男話文集』一、「権力と道徳」一九五〇年『丸山眞男集』四を参照)また別のところで、丸山が「近代の定義」を「ルネッサンス、リフォメーション以後のヨーロッパに発生したブルジョワ文化の最良の遺産」と述べていることは注目される。(『丸山眞男話文集』四、二五七頁)

 

[vii] これは決して権力を無前提に肯定しているわけではない。ここで重要なのは「反逆」という概念である。国家のなかで個人が居直るのでもなく、革命に解消してしまうのでもない、「永久革命としての民主主義」とはそうした不断の緊張感のことにほかならない。これは丸山の政治観も考慮する必要があるだろう。丸山は自身の政治観を次のように語っている。

政治ってのは、最終的には暴力を使うんだから、ぼくに言わせれば、ないに越したことはないんです。その意味では、教育がなくなる世界って、考えられない。政治のほうは、なくなるように持っていくべきなんです。だけど、残念ながら、なかなかなくならない。ぼくの定義する政治は。だから、教育や経済と並ぶ価値を、ぼくは政治に置きたくないわけ。人間活動には、もっといろんな文化価値がありますよね。これは、南原先生とは根本的に違う。南原先生は、政治も文化価値だって言うんですね。それでぼくは大論争したの。「新カント派、西南ドイツ学派には、そういう考えがあります」って、先生は言うの。ぼくに言わせれば、西南ドイツ学派なんかの考えでは、政治に文化価値なんてないんです。この文化価値が、本来人間にとって価値あるものであって、その中に教育も入るんです。南原先生は、「政は正なり」っていう『論語』の言葉で、政治的価値っていうのは一つの文化価値だと言うんです。ぼくは、基本的にそれは違うんだと。政治は、それ自身の固有の価値というのを持たない。ぼくは、やっぱり、アナキズムが理想であって、だけどそれが実現できないから、しょうがなくて、政治というものがあると思う。経済とか教育とか芸術とか、そういうものはしょうがないからあるんじゃなくて、やっぱり将来永久にあるし、あるべきものなんです。政治はだんだん減らしていくべきものだけど、残念ながらなくならない。(『自由について』一七二‐一七三頁)

これをみると、丸山にとって政治は「必要悪」であることがわかる。ドイツ国家学の影響の強かった学生時代からだんだんと行動科学へシフトしていくのが丸山政治学の大きなベクトルであった。(例えば、「政治学の研究案内」『座談』四巻などを参照)

国籍を「奉還する」届けを出して、処罰されましたけど、そんな人は今はいないんじゃないですか。われわれはやはり国家にすがって生きている面がある。その現実を無視してはいけない。しかし国家がもはやメンバーの忠誠を独占できないし、メンバーの活動を国家だけが制限することはできない。ということは逆に言うと、国家が国家としてやって良いこととやって悪いがある。やって悪いことがあるということを徹底して教えなきゃいけない、教育で。(「戦争観の変化と東アジアの近代化」1988年6月『丸山眞男話文集』四、一一六頁)

と丸山が言うとき、それはいかにも丸山らしい批判の仕方だが、丸山は国民国家を讃えているわけではない。むしろ、丸山の問題意識は国家に対する個人の主体性の問題であり、それは終始一貫していた。それは「忠誠と反逆」(一九六〇)にも現れているモチーフであり、一九八九年の手紙に「今でも自信がある」と書いた(『書簡』四、二〇七頁)この論文について、丸山は「大杉(栄)までは反逆なんだけど、それからあとマルクス主義が入ってくると、反逆の論理が革命の論理に吸収されて、反逆や抵抗の独自の次元が見失われちゃった。ぼくはそれを福沢から教わったわけ。革命に解消しちゃったらいけないと」と語っている。(『自由について』一三八頁)

 

[viii]丸山眞男集』一二、四九頁

 

丸山眞男と戦後啓蒙(1)

大学に通っていた頃、丸山眞男の本をよく読んでいた。友人から、「丸山眞男という名前はよく聞くが、読んだことがないから、簡単に説明してくれ」と言われて閉口したことがある。取り敢えず、自分なりに丸山について考えたことをまとめてみる。

まず、そもそも自分がどういう興味で丸山を読んでいたかという話。思想というのはそれぞれの興味によって切り口が異なるので、芥川龍之介の『藪の中』よろしく、私が読んだ丸山眞男という観点から整理したい。

 

①戦後啓蒙と人間革命

丸山の思想をジャンルとして一括りにしてしまえば、それは「戦後啓蒙」と呼ばれるもので、丸山は同思想を代表する知識人の一人である。では、そもそも「戦後啓蒙」とはどのような思想なのか、というのが問題になるわけだが、これがなかなか難しい。

「戦後啓蒙」という言葉を、思想史の用語として定着させたのは杉山光信(『戦後啓蒙と社会科学の思想』新曜社、1983)だが、杉山もその定義については明確なかたちで述べていない。「啓蒙思想」とはそもそも何か、という哲学史上の議論はさておき、日本において「啓蒙思想」といえば、明治の啓蒙思想と戦後の啓蒙思想の二つだろう。

言うまでもなく、前者は福沢諭吉なんかに代表されるもので、後者は丸山に代表されるものだ。明治の啓蒙と戦後の啓蒙。この二つの共通点や違いは何か、というと趣味の世界をやや超えそうな気がするが、どちらも「新しい国家建設という時代的課題に関しての知識人の言説」という点では共通している。その点、一時期流行った国民国家批判の延長に語られた丸山批判は、当たり前というか、あまり意味があるとは思えないというのが正直なところ。

丸山の思想に対する批判は、その他にも民衆史観やマルクス主義の立場からのものなど色々あるが、批判をしている当事者が意識していたかどうかはともかく、思想的に最も鋭利に対立していたのはマルクス主義だと思う。

昔、学生時代に参加したとある読書会の帰り道。自転車を押しながら「丸山って、講座派の影響を受けているのに、どうしてマルクス主義者にはならなかったんですかね?」「丸山とマルクス主義の関係って、思想的にはつまるところ、どうなんでしょう?」という趣旨の疑問を投げかけられて、これまた閉口したことがあったが、今思えば、それは丸山の思想に対する本質的な問いだと思う。

この問いの答えを自分なりに言語化し得たのは、『人間革命と人間の条件』という本の解説で竹本忠雄が「人間を変えずしてなにを変ええようか?これは永遠なる宗教的命題であり、マルクス主義のアンチテーゼである」と書いていたのを読んだことが大きい。

閑話休題。本筋に戻って「戦後啓蒙」という用語の意味を整理すると、そもそもこの思想を担った戦後知識人の多くは、同時に「近代主義者」と呼ばれる人々でもあった。元々、「近代主義」という言葉そのものは戦後になってマルクス主義者ではない進歩的知識人に対して日本共産党が批判的に用いた呼称だが、思想史の文脈で捉えると、「近代主義」と呼ばれる思想は、二〇世紀前半の日本における、いわゆる〈モダン〉と呼ばれる現象に関する言説と深く関わっている。

それはすなわち、都市の思想としての〈個〉の解放を謳ったモダン文化としての言説が、マルクス主義を介する形で社会認識として現れ、都市的風俗を表現するものとしての「近代」が、社会科学の対象として捉えなおされた後(日本資本主義論争)、こうした視座を共有しつつも、戦争と敗戦を経験した戦後日本において、再び〈個〉をめぐる問題として現れたことを意味する。こうして登場した「近代主義」は、「近代」を単なる都市的風俗、あるいは生産様式や社会構造としてではなく、「近代的人間」という言葉に象徴されるように、人間が体現すべき一つの目的価値として捉え直した。 

ここで重要なのは、日本における「近代」という言葉の意味の推移ではなく、「近代主義」が「近代」に読み込もうとしたものが「精神的な個の確立」という戦後知識人の多くが共有した理念であり、そしてそれが、デモクラシーに関する彼らの原理的理解として存在し、「戦後啓蒙」と呼ばれる思想を支えているという点である。すなわち、「戦後啓蒙」が語るデモクラシー論は、「近代」というものを、ひとつの目的価値として捉えた上で、デモクラシーというものを考える際には、その近代的価値を実現する人間のあり方について思考し、社会変革と同時に人間変革を伴わなければならない、という認識をその起点とする。

こうした発想こそ「啓蒙」と呼称される所以であろうが、例えば、一九四七年の秋に行われた東大の卒業式で「我々は、『人間革命』をしなければならない」と強く主張したのは丸山の師で当時東大総長だった南原繁であった。

 

人間そのものの革命「人間革命」を成し遂げねばならぬ。われわれは単に政治的或は社会的生活に於てのみでなく、人間存在の内容そのもの、内的思惟の革命をなす必要に迫られている。これは道徳的宗教的な「精神革命」、また「文化革命」であり、これなくしては民主的政治革命も社会的経済革命も空虚であり、ついに失敗に終わるであろう。(南原繁『人間革命』東京大学新聞社出版部、1948 年59‐60頁)

 

ただし、日高六郎によると、こうした「〈個〉の精神的確立」という、当時多くの知識人が共有したデモクラシーに関する原理的理解は、戦後思想を特徴付けるテーマであったにも関わらず、思想としては理論的に突き詰められることは無かったとされる。 

 

しかし現実には、敗戦直後の一時期、日本の民衆は〈理論〉的にではなく〈実践〉的に、自らの個を古い社会的束縛から解放したのだった闇市は売り手でもあり、買い手でもある民衆の生活をささえた。そこでは国の法規は全く問題にならなかった。各個人がすなわち法であった。闇市は闇にではなく、青空に向かってひらかれていた。そこには弱肉強食もあり、暴力もあったにちがいない。しかしまた民衆のなかで同意された契約もあった。民衆は自分以外に頼るものがどこにもないことを実感した。大都市では、浮浪児たち、浮浪青年たちが、いたるところの地下道、焼けビル、防空壕、広場で寝起きしていた。彼らは家族共同体からいやおうなく現実的に「解放」されていた。(日高六郎「戦後思想の出発」『戦後日本思想大系』第一巻、筑摩書房1968年35頁) 

 

「〈個〉の精神的確立」という問題が、思想として深められることは無かったという日高は、「戦後の思想」を「『滅私奉公』から『滅公奉私』へ」というベクトルで説明する。( 日高六郎『戦後思想を考える』岩波新書、1980)恐らく、この日高の観察は、実態としての戦後日本社会を的確に捉えているし、とりわけ五〇年代以降の「大衆社会」的状況に対する戦後知識人の憂慮をよく示している。「戦後民主主義」という言葉は、このような中で誕生した。

ただし、こうした問題が、戦後の思想史において深められなかったのかといえば、必ずしもそうではなく、むしろ、「戦後啓蒙」という思想は、こうした問題を様々な角度から思索しこれを思想化した。その具体例が、戦後知識人の言説であって、丸山はその代表例の一つ。

 

1948年の批判キャンペーン(『前衛』三〇号、一九四八年)において日本共産党がそう名づけたのは、次のような人物。大塚久雄丸山眞男川島武宣、清水幾多郎 らの社会科学者たち、思想の科学研究会のグループ、『近代文学』の同人たちなど。 とりわけ丸山に対しては、その晩年に『赤旗』や『前衛』などで十数回にわたって丸 山批判キャンペーンを展開するなどして執拗に攻撃した。 

 寺出道雄は、「モダニズム」というカタカナ語を漢字語にすれば「近代主義」になり、「近代主義」という漢字語をカタカナ語に直せば「モダニズム」になるというように、本来は同じ内容を表現するべき言葉が、日本の現実のなかでは全く異なるというこの奇妙な現象について、山田盛太郎の議論を通じて、講座派マルクス主義が「モダニティ」の転換に関する旋回基軸の役割を果たしたことを指摘している。 (寺出道雄『山田盛太郎―マルクス主義者の知られざる世界』日本経済評論社、    2008)

近代主義」の特徴については、日高六郎「戦後の『近代主義』」(『現代日本思想大系34 近代主義筑摩書房、1964)に詳しい。

その点、示唆的なのは、杉山光信の修士論文が山田盛太郎、大塚久雄、内田義彦の三人を扱ったものであり、その研究の出発点が、講座派マルクス主義をくぐり抜けながら、どのように戦後の市民社会思想が生まれたのかという視点であったこと(その成果として、杉山光信「『経済学の生誕』の成立-内田義彦の「市民社会」をめぐって」『思想』1971年11月号)である。また、同様の視角で戦後思想を扱ったものとしては、小野寺研太『戦後日本の社会思想史』(以文社、2015)。

 

 

植木雅俊『思想としての法華経』

 

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「作家になるにはどうしたらいいか」という質問に恩田陸が「一冊の本を書けばいい」と答えていた。その答えは簡潔で、恐らく「正解」だろうが、必ずしも質問者の問いの答えにはなってはいない。誰しもが「何かを表現したい」という欲求を持ち、また「その個人でなければ表現できない何か」を持っているとして、問題は、それを表現する「言葉」を持つか否かである。そのことの「深刻さ」は、「作家に成りたくてなったのではなく、成らざるを得なかったのだ」という三島由紀夫の表現によく現れていると思う。

最近、植木雅俊の『思想としての法華経』(岩波書店2012)の序章「『法華経』との出会い」を読んだ。なぜ「序章」なのかといえば、単純に時間がなかった(この場合、物理的な時間もさることながら読書の優先順位の問題でもある)からだが、大体、「なぜ、この人はこういうことを考えようと思ったのか」というのが、とどのつまりその思想のすべてだったりするのだから、さしあたり。(そのうち『ほんとうの法華経』と一緒に読むことにする)。植木雅俊といえば、「元々は物理学を勉強していたのに、どういうわけか中村元の弟子になって法華経を勉強し始めた変な人」と定義できるわけで、その理由だけでも面白かった。

 植木さんが仏教を勉強することになったきっかけは、二つの「だから何なのだ」という問いに答えるためだったという。一回目は1970年に九州大学理学部に進学したときのこと。物理を勉強することになったのだが、当時はまだ学生運動の機運が大学に残っていたらしく、時折、運動家に議論を吹っかけられたという。ろくに答えられず、何とか言葉を搾り出すも「だから何なんだ?」と一蹴され、「何を考えてんだ」「何も考えてないんじゃないか」と詰め寄られる有様だった。そんな折、澤瀉久敬の『「自分で考える」ということ』に出会う。本の中で、澤瀉が「自分で考える」ことを身をもって実践した人物として名前を挙げたのが、デカルト釈尊だった。そこで手当たり次第に仏教書を読み漁り始めたという。二回目は、自己の「虚栄心」に対する問いだったらしい。筆者自身の言葉を引用すると、当時の筆者は「孤独と虚しさに耐えられず、同情と慰めを求めて毎晩のように友人・先輩の下宿を訪ねては、『私はこんなことで悩んでいる』『あんなことで悩んでいる』などと、愚痴を言って回っていた。そして、なぐさめられたり、同情されたりすると、さも『俺は人生の苦悩と闘っているんだ』と錯覚していた」p11という。イヤな性格である。「同じ人のところへ行かないのがミソだった。それは、手の内がわかってしまうのが怖かったからだ。(中略)繰り返していると、どういう話をどういうふうに話せば、相手が反応してシンミリとなって同情してくれるのか、計算できるようになってくる。計算どおりにことが運ぶと、心の中で拍手している自分があった」p11-12。最悪である。「ある日、大学の先輩を訪ねて、いつもと同じように愚痴を繰り返していた。ただ、そこまでと違ったのは、いつもならここで反応を示して、シンミリとなるはずだというところで、全く反応を示してくれないことだった。(おかしいな、おかしいな。こんなはずではないんだが……)と思っているうちに、愚痴のネタも尽きた。先輩はおもむろに、『植木くん、そんなことを百万遍繰り返して、何が変わるんだい?』と、私の一番痛いところを突いてきた」p12。痛快である。こうして、他人に同情してもらうことで自己の虚栄心を満たそうとするその卑しい性根を見透かされた筆者は、先輩に「君は君自身でしかないんだよ」と諭されて、『法華経』の「衣裏珠の譬え」と「長者窮子の譬え」を聞かされたという。その後、筆者は「言葉」と「自己」と「他者」という自身の問題関心について、原始仏典や日蓮の思想を根拠に考えていく。

とりわけ関心があったのは「言葉」に関する問題だったという。筆者は、天台智顗の『法華玄義』の序文にある一節「声もて仏事を為す。之を称して経と為す」と日蓮の『木絵二像開眼之事』の一節「人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあら はる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華 の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり」を引用し、次のように続けている。

「人が声を出すのに、二種類あるというのだ。一方は、自己の心に思っていることを何とか伝えたいとして発される声、もう一つは、自分自身は何も知らないのに、知っているかのように『人をたぶらかす』ための声だというのだ。これは、表現すべき何ものも持たないのに、言葉などの表現手段を弄している場合のことにも当てはまるであろう。このように分類しておいて、仏の発する声も、それを記録した文字としての経典も、それらは皆、仏にとって何とか衆生に分かってもらいたいという『自身の思い』が表現されたものであり、『仏の御意なり』と結論されている。ここに、『自身の思い』や『意』に対する『言葉』や『文字』の本質的な役割が垣間見えるような気がする。『自身の思い』や『意』があってはじめて、『言葉』や『文字』は意味を持つということだ。」p26-27

その後、中村元との出会いとその思い出が続くわけだが、「だから何だ」という問いに発する「言葉」に対する関心は個人的にも考えさせられる。筆者の場合はこの問題を、釈尊入滅から五世紀以上経過して成立した『法華経』の研究を通じて、「釈尊の覚り」から「言葉への結晶」という観点から考えようとしている。「言葉が先にあったのではなく、『ある思い』のほうが先にあった。ところが、千年、二千年と時間が経過して、『ある思い』を抱いていた人は亡くなり、それを受け継いでいた人もどんどん少なくなり、ついにはその『ある思い』は見失われてしまい、言葉だけが残った。私たちが、仏教を学ぶ時には、『ある思い』のほうは見失われて、残された言葉を憶えたり、解釈したりすることになってしまう。ここに本末転倒が起こる。私は、そのことに気づいた時、一つひとつの仏教用語は、何らかの必然があって、やむにやまれぬ思いを込めて使われるようになったはずだと考えた」p28と言う筆者の問題意識が『法華経』の翻訳作業や『思想としての法華経』本書のタイトルに反映されているわけだ。

本書の続きとその周辺領域に関しては追々勉強するとして、 「だから何なんだ」という問い(この場合、学生時代の筆者のようなナルシズムに染まったセンチメンタリズムへの問いではなく、目的論の問題だが)と「言葉」(その思考・表現方法)については個人的にもう少し考える必要がある。

 

私と世界の関係?

そもそも自分は何に興味があるのか。恐らく一言でいえば、「セカイ系」だと思う。今年で二十六である。やはり、中学生の頃から何一つ成長していない。

だがしかし、 誰しも思春期の肥大化する自意識のなかで「私と世界の関係」とは何か、考えたことがあるはずである。エリクソンのライフサイクル論によれば、人間にはそ れぞれ人生の段階において答えなければならない発達課題が存在し、この問いに答えながら自身のアイデンティティーを形成していくという。(確かに上記の表をみると、明かにこの人は、しかるべき時期の然るべき発達課題への回答に失敗したのだな、というような人に出会うことがままある)

エリクソンが設定する問いは八つだが、これを簡潔にして人生を「試験用紙」に例えれば、その試験用紙は二つの問いと大きな余白で構成されるだろう。

 

第一問「あなたは誰ですか?」

 

第二問「あなたの人生は満足でしたか?」

 

 改めて考えると、「人生」なるものは恐ろしく簡単で、また難しい試験だと思う。模範解答は単純である。最初の問いには堂々と「私は××だ」と書けばよい。最後の問いは、フランクルの本のタイトル(『それでも人生にイエスと言う』)ではないが、これまた飄々と「イエス」と書けばよい。いづれも出すべき答えは明確であるが、その過程式は千差万別である。そしてこの過程式において「私」と「世界」という関数は非常に重要な意味を持つ。この「世界」を「他者」という単語に置き換えたらデカルト以来の哲学的問題(デカルト問題)であり、「公」と置き換えたらギリシア以来の政治思想史の難題(公私問題/ホッブズ問題)である。「世界」というのは「私」が対峙するブラックボックスに他ならない。こう考えれば、「私と世界の関係」という厨ニ的発想も案外意味のありそうな問いである。

 

こうした問いをサブカルチャーでは「セカイ系」と形容するらしい。この「セカイ系」なる単語。一言で言えば「私と世界の関係」という命題に関するサブカル的表現に他ならないが、この言葉を聞いていつも思うのは、①世界をどう表現するか、②私が世界をどう表現するか、③私と世界をどう表現するか、この①~③の意味は同じかどうか。あるいは違うとすればそれはどのようにか、という問いである。①~③に共通する疑問は「私」という存在の立ち位置(アングル)とその意味内容だ。

 

②を標準にすると、

①世界をどう表現するのか(誰が?)

③私と世界をどう表現するのか(誰が?)

 

仮に①の「世界」を「自然」と考えて主語の欠落を主観に左右されない法則に担保される現象と捉えたとして、③に関しては「(私*が)私**と世界をどう表現するのか」と主語を補ったとしても、「私*」と「私**」はどういう関係なのかという疑問が湧く。この辺の問題は外山滋比古の「第四人称」の議論なんかを参照することにして、こうした問題はつまるところ、「私」という主観を基にした議論がもたらす必然的な問題(この辺の問題は日下部吉信の「主観性と存在」という議論を今後勉強する)と、これに起因して「私と世界の関係」を語ることの難しさに他ならない。

 

もっとカッコよく言えば、「公共性」というヤツで最近の流行でもある。「公共性」というのもそういう意味で興味があるので勉強しておきたいテーマだが、一言で言えばそれは、「①『私はあなたではないし、あなたは私ではない。』にもかかわらず、②『どのようにして我々になるか』」という問いだろう。一般に①を「自由」といい、②を「平等」という。①と②が「にもかかわらず」という逆説で接続していることが「『自由』で『平等』」な社会を形成することの論理的難しさを表現している。本来なら「『自由』にもかかわらず『平等』」と表現すべきである。

 

「私と世界の関係」という主題は、「主観性」だったり「他者論」、かっこよく言えば「デカルト問題」「ホッブズ問題」「公私問題」「公共性」と名称は異なりながら本質的には同じ問いとして、文学や哲学や政治学、社会学と様々な領域にまたがっている。こうした観点から色々と勉強していきたい。

 

まずは「セカイ系」から。とりあえず、前島賢セカイ系とは何か』という本を読む。

 

 

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中学生の頃から「受験」というものに成功した記憶がない。高校受験然り大学受験然り資格試験然りである。では、勉強というのがそこまで嫌いだったのかというと、そんなこともない。こういう勉強をしよう、この勉強をしよう、あの勉強をしようと計画を立てるのは好きで、色々と創造が膨らみ、実際にその計画を実行しようとするのだが、だいたい上手くいかずに終わる。これは、間違いなく自身の努力不足の結果であるが、それに加えて、これをやるにはこれをやって、その前にはこれを…という極めて非生産的な計画を立てるある種の性格気質に拠るところも大きい。それでいて直ぐに目移りをするー高校時代は、志望大学と学部が毎月変わっていたこともあったーから、何か確かな感覚というものをもたないまま物理的・精神的時間が流れてしまう。小学生の時から塾に通っていたけれど、試験の前にはある程度計画を立てて勉強はするものの、受けた模試の直しをしたことがない。結局、そこから学ぶということもなく、これまた消化不良のまま通過してしまう。こうした中途半端というか、斑のようなものはあらゆる生活態度に反映されている気がする。

 

こうなると「三つ子の魂百まで」というやつで、もはやどうしようもない気がするが、「私に支点を与えよ」と喝破した古代の偉人よろしく、無意識に自覚的であろうとすることの意味について考えようと思う。それは即ち、中学生から成長していないのであれば、物理的には不可能だが、「あるべき理想」を頭に描きつつ、いろんな意味で中学生から勉強をやり直すということ。ただし、中学時代に受けた駿台模試など持っているわけがないから、本来であればこの歳までに身に着けておくべきだった教養、あるいは読んでおくべきだった本を限られた時間のなかでなるべく読んで勉強をしようと思う。そういう自分のための記録である。