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戦後啓蒙と丸山眞男(6)

丸山思想史の展開

いまから取り上げるのは、一九六四年から六七年までの『講義録』である。丸山はこの中で、仏教、武士のエートスキリスト教儒教と、そこに自由を実現するための可能性、すなわち超越者や普遍者の可能性を探していく。しかし、結論から言えば、この試みは結局のところ挫折してしまう。丸山は次のように言う。

 

鎌倉以後の超越者の感覚の稀薄化過程についてはね、ぼくは一種の二段階説なんです。ややこしいことをいって恐縮なんですけど、超越性と普遍性とを区別すると、江戸時代でも天とか天道とかいうセンスがあるでしょう。あれはやはり経験的感覚的実在をこえているという意味では普遍性の感覚ですかね。だけど儒教は徹底的に現世的だから、内在的普遍性なんですね。だから「天下泰平」という秩序価値の優位と結びつく。「正義は行われよ、たとえ地球は滅びるとも」という意味での徹底した正義価値は、キリシタンを死滅させ、仏教を完全に俗権に従属させたあとでは、存立の場がなくなってしまう。江戸時代の「近代化」が同時に「古層」がせり上がってくる過程だと解説でいったのも、それと関係があるんです。[i]

 

問題は、どのように挫折をするのか。それは何を意味するのか、という問題である。要点だけ掻い摘んで見ていこう。ここで語られるのは、古代から江戸までの日本政治思想史である。明治以降の近代については語られていないが、ストーリーの筋書きがその評価を規定している。[ii]

江戸を対象とした『日本政治思想史研究』との最大の違いは、前述したように、近代化の非一義性という認識のもとに生まれた新しい歴史の見方によって、ヨコ(文化接触)の視点が与えられたことにある。これが「外からやってくる普遍者とこれに対応する日本」という図式を与えた。外から普遍者(宗教的規範意識)がやってくるということは、日本にはそもそも普遍者はいなかったということである。むしろ日本は、その島国という地理的環境ゆえに非常に強い性格(「原型」)を有しており、なかなか普遍者を受け入れようとはしない。[iii]講義では繰り返し「日本の原型的思考における普遍的な価値へのコミットメントの弱さ」[iv]が指摘される。如何にこの特殊(土着)主義を打破するかがこの物語に与えられたテーマであった。丸山思想史の特徴は、こうした宗教的倫理への拘りである。丸山は宗教の持つ意義を次のように語っている。

 

絶対者(たとえ人格神でなくても)を媒介として人間の尊厳を自覚させたことが人間の歴史において宗教のもつ最大の意義だ。[v]

 

なぜそこまで丸山が「普遍性」に拘るのかといえば、先にみたように、それは、ある「現実」に対抗しようとすれば、「現実」を越えた価値にコミットしなければそれは不可能だ、という丸山の経験的確信ゆえである。政治嫌いな政治思想史家丸山眞男は、現実に依拠した政治は、現実によっては批判できないと考える。事実によって事実は否定できない。「自由」を実現するためには、現実を越えたある価値に依拠し、事実を否定する主体性を成立たらしめるよりほかに術はない。これが「戦後民主主義の虚構に賭ける」と啖呵を切った男の考えである。そのためには、日本の特殊主義を打破し、真に普遍的な価値の勝利を宣言せねばならぬ。では、その可能性は日本思想史のなかにあったのか。丸山は「可能性」はあったと考える。

まず丸山が注目するのは、仏教である。「『原型』的世界像を徹底的に突破してまったく新しい精神的次元を古代日本人に開示したのは、世界宗教としての仏教であった」[vi]と丸山は言う。そして、この仏教の持つ意義を政治思想のなかで示したのが「十七条憲法」であった。[vii]丸山にとって、十七条憲法は「『仏教』への帰依がabsoluteでuniversalな価値への帰依として自覚されている点」[viii]において、仏教という「世界宗教の受容がはらんでいた思想的可能性を、少くも統治倫理の側面において明確に提示した最初の傑作」[ix]であった。丸山が評価したのは、たとえ古代仏教が鎮護国家という性格を帯びていても、日本社会に普遍的価値を介して聖俗観念が導入されたことそのものが持つ政治思想史的意味である。これは、『研究』において示された公私観念の萌芽を全時代的に拡大したものといってよい。その意味で、『研究』で示された図式は丸山思想史の原型であり、「開国」や「普遍者=宗教的規範」という視座を以って、これが歴史化(ストーリー化)されたものが丸山思想史の全貌であった。ただし、そうした意味において、太子の思想は古代国家の例外現象に過ぎなかった。[x]丸山が太子に託した夢が敗れたあと、次なる可能性を示すのは、「鎌倉仏教」であった。丸山に言わせると、以降の歴史は〈鎌倉仏教〉という大事件に到るまでのプレリュードに過ぎない。[xi](芸術に自身の確信を託そうとした加藤が密教を評価したのに対し、丸山は、例えば空海などについては、呪術的でかつ鎮護国家の代弁者であると手厳しい)かくして、日本思想の歴史に大事件が起こる。鎌倉仏教の登場に丸山がみたのは「普遍的な絶対者に自己をコミットした思想家」たちの姿だった。[xii]その後、丸山は親鸞道元日蓮と考察していくが、これを詳細に検討する紙幅は無い。[xiii]ここで確認すべきは、こうした可能性も悉く潰えてしまったという事実である。その後の日本思想における仏教の歴史は「屈折と妥協」の歴史であった。[xiv]

仏教という絶対者の可能性が消滅したということは、それから江戸、明治と時代を下ることが、形勢いよいよ我に利なしという事態の推移を意味する[xv]わけであるから、もはや、ほぼ日本の思想の中に丸山の考える自由を実現する可能性は無くなったといえる。[xvi]

六五年の講義で注目される「武士のエートス」は、普遍意識への忠誠の共鳴盤としての〈可能性〉でしかなくそこには限界があった。丸山が評価したのは、世俗化した仏教が、武士のエートス(「命惜しむな名こそ惜しめ」という名誉観)を洗練し、批判的主体の契機たり得たという点であるが、室町時代においては、「時と状況の重視は、戦闘者として当然であり、それ自体武士のエートスに内在したものだが、その契機が規範意識を欠いた形で赤裸々に現れたのが室町武将たちの行動格式であった」とし、これまた加藤とはその時代的評価を逆とする。その一方で、「自己規律を伴う一種の英雄的個人主義の噴出」した時代として戦国時代を評価するなど、武士のエートスの規範化(=忠誠心と批判的主体の逆説的接続)の可能性は、幕藩体制の成立によってエートスが秩序へと回収された長い江戸時代を挟んだ、戦国や幕末など時代の転換期に見出されるものの、その可能性も明治の〈国体〉概念の成立において決定的な断絶を迎える。[xvii]伝統的な身分的忠誠は天皇制的な忠誠へと変貌した。そして、天の意識の希薄化と権威への消極的恭順、武士階級自身の消滅によって、生き生きとした人格的忠誠感情は急速に失われ、非人格化された天皇の地位が神聖化されるに至った。[xviii]また、六六年の講義では「キリスト教」が注目される。丸山がそこに見ようとしたのは、「日本人がまったく異質的なカルチャアに突如として直面したときの反応を示す歴史的実験」[xix]としてのキリシタン時代であった。丸山はこの時代を、「開国」という視点から思想史を描いたときの間奏曲として位置づけた。[xx]そして、日本にとって異質なカルチャーである「キリスト教」への反応を通して丸山が見たものは、日本人の宗教的「寛容」の正体であった。丸山は「世界のいかなる国民も日本国民のように、新しい教義をよろこんで受容する国民はなかった。と同時に、これほどまでに頑強な伝統を持続的に固守する国民はなかった」といわれた日本における「キリシタン流入と伝播のスピードの早さ、鎖国体制による絶滅の早さの両面」的な様子[xxi]を通じて、日本人の寛容と不寛容について言及している。[xxii]確かに、日本人は「寛容」である。しかし、日本の場合、そこにあるのは同質性を前提とした集団的功利主義という特徴(=原型)であり、それゆえ、「寛容」の伝統ゆえの不寛容という現象がコインの裏表をひっくり返すように起こる。(つまり「ムラ社会」=「開国―異質なもの同士の接触やその思想化―」という経験の乏しい社会)そして、「精神の自由の究極的根拠」[xxiii]を根本的に否定した「キリシタン禁制」は、「権力と宗教一般の関係に根本的といえるほど大きな変化」[xxiv]をもたらすことになった。[xxv]

最後に残されたのは、「儒教」だが、そもそも総じて、丸山の儒教に対する評価は必ずしも高くはない。[xxvi]それでも、六七年の講義においては、〈江戸〉が普遍者をめぐる一連のストーリーのなかに位置づけられたことによって、儒教に対する評価が多少変化し、それが『日本政治思想史研究』との差を生み出している。どういうことか。つまり、『日本政治思想史研究』においては、儒教を徹底的にネガティヴに捉えており、むしろその解体のなかに近代意識の萌芽が見出された。国学への逆説的な評価もそこに起因する。しかし、普遍者の命題が意識されると、一応、儒教にも内在的普遍者(天という規範意識)という性格があるため、むしろ、江戸時代において武士のエートスと並んで最後の可能性である儒教(内在的普遍者)の否定は普遍者の挫折を決定づけることになる。すると、先に与えられていた国学の逆説的な評価はむしろネガティヴなものへと置き換わる。そこに、両者の違いがある。[xxvii]

以上、『講義録』を参考に丸山思想史の内容を駆け足で追ってきた。このとき、丸山の思索の行きついた先は明白であろう。もはや残された道は一つしかない。徹底的に「特殊主義」(日本的なもの)をみつめる認識作業、これである。自由の実現のため、特殊主義を打破する普遍者の可能性を探していたつもりが、気づくと、皮肉にもむしろ、特殊主義という問題の究極的原因の解明の必要性を決定づける結果となっている。(神々の微笑)これが古層論への道程であった[xxviii]

しかし、よくよく考えてみれば、近代日本の末路という結果論からその思索を始めた丸山が、いくら過去に遡って「可能性」を探したところで、行き着く先は、立論時点に決まっている。別に驚くことでも、今更、落ち込むことでもなかろう。では、その思索は全くの徒労であったのか。丸山が、古層論文の末尾を次のように結んでいることに注目したい。

 

眼を「西欧的」世界に転ずると、「神は死んだ」とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の連続」は、その側面においても、現代日本世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。[xxix](傍線引用者)

 

もちろん、最後の「世界の最先進国」というのは、丸山お得意のアイロニーである。(この言説を額面どおり受け取った森有正に対して丸山は弁明を迫られた)ただ、このことは既に、一九六〇年において語られている。「ヨーロッパの旅路の果てみたいな地点に日本はいわばはじめから立っているという点では、その意味では一番の先進国ですね」。[xxx]丸山は、思索のなかでそれを再認識したわけである。問題は、その意味は何かということだ。

ここでは、こうした思索を通じて、丸山の〈近代〉が弁証法的に描出されているということに注目したい。つまり、西欧的な価値の浸透を近代化のバロメーターと考えていた[xxxi]丸山が、近代化の非一義性という認識の下で、普遍者の命題を、日本の伝統の中に探す試みをしたということ、それ自体に意味がある。つまりそれが挫折し、再び立論時点に戻った丸山が、理念としての西欧的価値を「コレしかない」と再認識したとき、一度否定の契機を含んだ近代は、より究極的な形でその理念が強調されるに至る。もはやそれは実体としての西欧ではありえず、むしろ、その理念の難しさの前に、西欧も日本も横一列に並んでいる。このとき丸山のいう原型とは、経験値の差でしかない。こうした思考論理が、「永久革命」という言説を支えている。(先に述べた、加藤とは対極的に、デモクラシー論の王道に丸山がコミットしているというのは、この意味においてである)

近代を前にした難しさとは、もはや近代人そのものの難しさにほかならない。立論時点で遠く隔たっていた近代をめぐる西欧と日本の距離の差はもはや無いに等しい。西欧に成立した近代モデルを理想とし、日本における近代化の問題に向き合い続けた丸山とその読者はいま、まさに近代が抱え込んだその「問題」の前に立っているのである。それは、近代人が等しく共有する問題、ハーバーマスがいうところの「社会心理学の対象となった社会(公論)のなかで個人は如何に生きるのか」という問題にほかならない。[xxxii]では、自由の可能性は潰えたのか。そこで丸山が見出したのは第三世界の姿であった。[xxxiii]

 

丸山は晩年、次のように述べている。

 

私は二十一世紀が、西欧の伝統のなかで何が歴史的制約を負ったものであり、何がそれをこえた普遍性をもつものか、だんだんと―とくに第三世界によって認識されてゆく時代である、と思っております。[xxxiv]

 

果たして二一世紀の世界は一体どこに向かうことになるのだろうか。我々はそれぞれ、その世界の目撃者たる運命を背負っている。

 

最後に、これまでの思索を振り返ってみよう。

 

当初、丸山は第三節でみたように、前近代世界の崩壊のなかに近代意識の萌芽をみつけようとした。徂徠や宣長に後期スコラ哲学的な役割が求められた。神が超越化すれば、それだけ人間が認識し行動する自由が広がる。そこに丸山は自由な近代意識の広がりを見た。しかし、丸山は彼の生きた時代の中で、認識と行動をめぐる問いを突きつけられた。そしてそれは、神なき時代にヘーゲル的な自由をむしろ国家との対峙において実現しようとした丸山眞男の憂鬱そのものであった。国家を神殿とすることも、また、革命の夢に憂鬱さを晴らすこともできなかった。思えば、ヘーゲルの描いた歴史には自由を実現せんとこれを担保する神がいた。その神がいなくなれば近代人の憂鬱はいよいよ深刻である。丸山はその思索の果てに自由の黄昏迫る近代人の姿をみた。自由を希求する主体性は認識と行動の不連続性の溝に沈んでいく。この「ジレンマ」を「永久革命」と呼んで、「大丈夫だ、勇気を出せ」と鼓舞し続けた知識人こそ、「反逆の思想家」丸山眞男その人であった。

 

おわりに

 

戦後のデモクラシー思想を考えるとき、丸山の発想そのものが何か特別なものだったというわけでは決してない。丸山の師である南原繫が「人間革命」という言葉で表現したように、制度改革に止まらず、民主主義を真に担い得る主体を創出しなければならない、という発想は当時の知識人が共有した問題意識であり、そうした中から「戦後啓蒙」と呼ばれる思想が登場した。こうした戦後のデモクラシーを担う主体をめぐる問題について、これを誰よりも徹底的に突き詰めて思索したのが丸山眞男である。そしてその際、いみじくも苅部直が指摘[xxxv]したように、丸山自身が解ききっていない問題が、どうすれば「私」というものを尊重しながらデモクラシーを支える「公共的なもの」が立ち上がるのかという問題であった。[xxxvi]

ここで重要なのは、丸山が直面したこの難題が、丸山個人の思想が直面した論理的問題ではなく、デモクラシーを語ろうとするときに誰もが直面する普遍的な問いであるという点であろう。デモクラシーという言葉がプラトン以来、二千年間に渡ってネガティヴな言葉であり続けたという事実は、この問題の本質をよく物語っている。[xxxvii]こうしたデモクラシーという思想が原理的に持っている問題が、戦後日本という特殊具体的な時空間のなかで露呈しながらも、それを承知の上でなお、たじろぐことなく自らの信念の下に、それぞれの学問的営みのなかでこれをみつめ、それぞれの思想を築いていった点にこそ、「戦後啓蒙」と呼ばれる思想の歴史的意味がある。

 

 

[i] 「歴史意識と文化のパターン」一九七二年一一月『座談』七、二五〇‐二五一頁 

[ii] 『ノート』には、「明治以後の政治思想史の標題」だけ書き付けてある。

一.「国家」の発見 (体制の構想・乱世的革命・西欧政治思想と制度の移植)。

二.政体をめぐる闘争とその結末―天皇制的正統の確立。

三.「個人」の遁走 ―知識人の自意識。

四.大衆の早期的登場 ―車夫馬丁から労働大衆へ。

五.明治の終焉 ・・・・・・(漱石と「こゝろ」・鴎外・元老の後退・泰平と閉塞)。

六.戦間期のラプソディ (「近代思想」・「人格主義」・反英雄・民本主義、国家と社会)。

七.ヴ・ナロードから理論闘争まで。

八.転向 (九に先行することに注意せよ)。

九.新体制と共栄圏。

十.開国とデモクラシイ。

 

日本の原型(土着、特殊主義)を打ち破る普遍者の可能性を探った丸山にとっては、ここで言われる二の「天皇制的正統の確立」を以て完全にその可能性は絶たれた。これは忠誠と反逆(一九六〇)に描かれている通りである。すると、書かれなかった時代は、丸山にとってはほぼ同時代史にあたる。丸山はかつて「〝自分史〟を書きたい」と漏らしたことがあるという。(中野雄『丸山眞男 音楽の対話』文春新書、一九九九年、三七頁)しかし、「自分史」も「同時代史」もついに書かれることはなかった。

 

[iii] こうした「原型」の性格については、一九六七年の講義で、倫理意識、歴史意識、政治意識の三つに分けて考察されている。歴史意識については一九七二年の古層論文(『集』十)、政治意識については、論文ではないが「政の構造」(『集』一二)があるので、ここでは倫理意識だけ触れておく。簡単にいうとそれは、キヨキココロという絶対的基準が共同体的功利主義に制約されてしまい、共同体規範から、特定の共同体や関係をこえた普遍的な倫理規範(超越的な唯一神の命令とか、超越的な天道とか、そういったもの)への昇華がなされないということ。そしてこの制約は、仏教や儒教を摂取するときの変容の条件としても機能し、上記の倫理意識の「原型」を考えると共同体に対する純粋な献身が一番評価が高くなる。(『講義録』七、六六頁) 

要するに、日本には「キヨキココロ」という純粋さを尊ぶ意識が強い一方、共同体志向が強いため、この純粋さのベクトルが、超越的な正義や倫理への志向にはなかなかならず、「共同体」にひきづられる傾向が生じやすいということである。すると、「共同体のために、ひたすら純粋な気持ちで奉公する」というのが日本の原型に照らすと最高価値になる。だから、青年がお国のために命を賭けて云々という、特攻隊などの映画は倫理意識の観点からいうとウケがいい。また同時にこれは、「彼は、一生懸命やったじゃないか」という純粋さや懸命さが評価されることになるから、本来は結果論で評価されるべき政治行動などへの評価もこれに引きづられて「無責任」さを帯びる。例えば、A旧戦犯などへの評価。また、これら三つの意識の説明については、『話』二、二二二‐二三一頁も参照のこと。

[iv] 『講義録』四、七七頁。

[v] 『講義録 』別冊一、七五頁。

[vi] 『講義録』四、一五四頁。

 

[vii] 「ここではじめて、日本の国家は、したがってその統治者は絶対者にたいして、相対的なるものとして、普遍者にたいして特殊的・個別的なるものとして明確に自己を限定し、そうした自己限定のうえに立ってあらためて、そうした絶対的普遍者から、統治権と統治機能の義認を仰ぐことを学んだのである。」(『講義録』四、一五〇頁)

[viii] 『講義録』四、一五七頁。

[ix] 『講義録』四、一五四頁。

[x] 太子が示した可能性は以下の三点である。(『講義』四、一六三頁)

  • 地上の権威が普遍的真理・規範に従属すべきであるという意識。
  • 自然的・直接的人間関係と公的な組織とを区別する意識。
  • 制作の決定および施行過程における普遍的な正義の理念の強調。

[xi]

「日本における仏教が担った精神革命的意味―当面のテーマに即していえば、世間的なるものと超世間的なるもの、王法と仏法の二元的緊張のさまざまの形での自覚―は、いわゆる鎌倉仏教においてはじめて開花したのであるが、そこにいたるにはやはり、奈良・平安仏教時代の長いプレリュードがあった。」(『講義録』一七二頁)

 

[xii]

親鸞道元日蓮などに代表される鎌倉新仏教の思想的著作は、いずれも単なる経論のスコラ的註釈ではなく、時代の深刻な苦悩を直視する認識を、さらに自己の内面の奥底からの体験によって深化させたところに生れた魂の叫びであった。そこに提示された人間存在の本質についての思想は、日本思想史の上で他に類比を見ないほど独創的なものであっただけでなく、そこに流れる体験の深さ、情操の豊かさ、論理の透徹さは彼らをして優に世界の第一級の思想家に伍せしめるに足りる。むしろそれがいずれも十三世紀初頭の産物であったことは驚異というに近い。」(『講義録』四、二三一頁)

 

[xiii] 丸山がここで考察していたのは、「人間にたいするどのような新しい観方と、社会にたいするどのような行動態度が打ち出されたか〈および宗教意識のパターンがどのような政治意識のパターンへ移行していったか」〉(『講義』四、二三二頁)という問題であった。母が敬虔な真宗信者であり、その影響で丸山も中学までは、朝、食事の前に仏壇に手を合わせていたというから(「信者でもないのに念仏を唱えるのはおかしい」と思い上級生の頃には辞めたそうだが〈『書簡』三、一八頁〉)、親鸞へのシンパシーはわかるが、日蓮への評価は意外な感じがする。丸山は次のように述べている。

 

日蓮の『立正安国論』は、鎮護国家論の否定の否定だと僕は言うんです。一〇年間、日蓮比叡山で修行して、それから山を降りてきて説きだすわけですけれども、結局、あのように弾圧される。法華経を護持しない国家は滅びると言うんですからね、これが以前の鎮護国家論と同じかというと、そうじゃない。体制宗教じゃないんです。むしろ、親鸞なんかよりももっと強く王法に立ち向かっていくという態度になるわけですね。だから、鎮護国家否定の否定、そこでの肯定と考えたんですけれども。(『自由』四七‐四八頁)

 しかし、やはり、丸山の性格には合わなかったようで、「日蓮はファナティックでね、ぼくはかなわんのだ。」(『自由』五三頁)と本音を漏らしている。

 

[xiv] 「つまり自我人格が〝世間〟や〝既成事実〟と内面的な緊張関係を保つことによって、不断に前者を体系的・合理的にreconstruct[再構築・改造]してゆくような精神的エネルギーを再生するほどには、日本の宗教改革はラヂカルに遂行されなかったといっていい」(『講義録』四、二七一頁)その後の仏教の末路は以下のとおり。

  • 術的傾向の再浸透(回帰)。
  • 神仏習合といった教義上の集合傾向。
  • 教団組織のparticularisticな性格の濃化。
  • 王法(俗権)との再癒着。
  • 聖価値の審美的価値への埋没。

[xv]

「こうして社会の価値体系の変動から見れば、江戸時代の開幕は、秩序価値の(真理価値と正義価値に対する)決定的優位によって秩序づけられる。秩序価値の優位→世間内の具体的共同体の倫理が最高価値になる。超越的普遍者(人格的創造神、彼岸的救済者、永劫不滅なる理、イデア)が見失われ、内在的普遍者(〝人類〟の理念、自由・平等・博愛の普遍的道徳、やや不徹底だが、自然法[天道]と同化した普遍の五倫五常の道)が、世間的秩序との緊張感系[ママ‐引用者]を失って、内在化する。→超越性から内在性へ、さらに普遍性から特殊性へという、精神的志向と強調点の移動。彼岸的・特殊主義的価値の強調。「正義よおこなわれよ、たとえ世界滅ぶとも」(Fiat iustitia,pereat mundus―Kant.普遍的正義の支配なき社会は存在根拠がない)とまさに対極的に、秩序維持天下泰平それ自体が至高の価値となる。(『講義録』四、三一二‐三一三頁、傍線引用者)

[xvi] なぜ仏教は原型から飛躍を維持できなかったのだろうか。それには二つの理由があるという。

「日本仏教がなにゆえに『原型』からの質的飛躍を歴史的に持続させるだけの力をもちえず、こうした屈折と妥協の跡を濃くとどめねばならなかったか。そこには、仏教そのものの持つ一般的性格の面からと、日本的な特殊性という面からと、の二つの側面からの考察が必要であろう」(『講義』四、二七八‐二七九頁)と言う丸山は、その訳を「普遍宗教が直面する一般的ジレンマ」の問題と前述したような日本の特殊主義(原型)に求めている。一般的ジレンマとは、次のようなものである。

 

いかなる絶対者を追及する普遍宗教も、人間の世間的な営為と交錯することによって、世間的な価値との通路の断絶か、さもなくば世俗への限界のない妥協かという二律背反に直面してきた(政治的に見れば、聖なる権威と俗権との関係づけの問題)。けれども仏教は右のような本来的性格に規定されて〈上に述べた根本教理からして、とくにこの二者択一性がつよい。すなわち〉、純粋化すれば世間的なるものへの浸透力を失い(これと断絶し)、さもなければ世間的価値と権威との境界を無限に曖昧にし、いずれにしても伝統的生活態度を変革させてゆく力には乏しいことは争えない。(『講義録』四、二八〇‐二八一頁、傍線引用者)

「そもそも絶対者への信仰は、現世的権威への通常の血縁・地縁的なつながりによる自然的な愛着感情とか、共同体・社会集団への自然的な所属意識をいったん遮断し、ご破算にして、いかなる地上的な規定性をも脱したただひとりの人間として、絶対者と向き合うところから始めて出発する」(『講義録』四、二八一頁)

しかし、日本の仏教の場合、それに輪をかけて、強力な「原型」の磁力がそれを困難にする。そこに仏教という絶対者が日本において敗れ去る所以があった。

 

[xvii]

特殊的な規定をもった人間でなく、およそ人間の人間としての尊厳に基づく自由と平等の思想および友愛と連帯の思想は、一切の経験的・感覚的存在を超えてこれを規律する絶対的・超越的普遍者へのコミットメントなしには、生れえなかった。経験的には人間は皆不平等であり、社会関係の相互作用のchain[連鎖]のなかにあるという意味で自由でない。〈それを突破するには、〉「神は人間を平等に作った」「人に従わんよりは神に従え」〈と説く、神=絶対者へのコミットメントが必要であり、そうしてはじめて水平的平等が生れる〉。武士のエートスのなかには、こういう超越的な神とか、普遍的原理への忠誠の共鳴盤たりうる契機はあっても〈たとえば『葉隠』のparticularisticな忠誠のあり方から、超越的モメントが逆説的に出てくる契機。しかも本来的にそれは特殊的人間関係の上に成り立つエートスであり、普遍的人倫のエートスではなかったから〉、特殊的人間関係自体のなかから絶対者は出てきようがない。にもかかわらず〈それは、明治中期以後に顕著になる〉軍隊の絶対服従、臣民的随順、忠君愛国の家族国家観と結びついたconformityとは非連続である。」(『講義録』五、二五四‐二五五頁、傍線引用者)

 

「明治中期以後の国民教育の枢軸となった。〝忠君愛国〟という観念は、「封建的」範疇でもなければ近代的範疇でもない。忠君は封建的・人格的忠誠の天皇への延長というより、むしろ、その水増しであり、愛国は、近代的な市民によって支えられたパトリオティズム愛国心]からは遠く、対内的には臣民的conformityによる権威への恭順であり、対外的には自我と国家との直接的・情動的な同一化を意味した。忠君が[非人格的な]愛国と結合したことによって、忠君からは、生き生きとした人格的契機が喪失し、「愛国」は〈元来なかった言葉で、明治二十年ごろまでは「自主愛国」「自由愛国」ともリンクして、近代市民によって担われる愛国という観念であったのが〉、〝自主自由〟とのかつての結びつきに代わって、「忠君」と結びついたことによって、下からの自発性と自律性の契機(民主的契機)を脱落させた。〈〝武士のエートス〟は「愛国」とリンクすることによって、その「忠君」から生き生きとした人格的契機を失い、〝市民のエートス〟は「忠君」と結びつくことによって、市民的自発性を脱落させて、ともに姿を消していったといってもよい。〉」(『講義録』五、二五五‐二五六頁、傍線引用者)

 

[xviii] こうした過程については、「忠誠と反逆」一九六〇年(『集』八)を参照。

[xix] 『講義録』六、五三頁。

[xx] 『講義録』別冊二。

[xxi] 『講義録』六、二一頁。

[xxii]

「集団的な和の維持のための「抱擁主義」であって、ヴォルテールの「私は君の意見に反対である。しかし君がその意見を主張する自由は死を賭して守る」に見られるような、自分の確信の故に、他人の確信を尊重するという寛容ではない。思想的排他性が少い。その反面は「雑信」の伝統への反逆にたいする不寛容となる。「寛容」の伝統のゆえの不寛容。文化的同質性に基づく集団的凝集性が高いから、一旦、集団的同質性がゆるがされるという猜疑が高まると、それだけ異質的な分子の排除は熱狂的となる。」(『講義録』一一八頁)

[xxiii] 『講義録』六、一二八頁。

[xxiv] 『講義録』六、一一八頁。

[xxv]

「むしろわれわれは、観点をたんに「外教」としてのキリスト教への個々の支配者の政策ということにしぼらずに、室町末期から戦国を経て、江戸時代にいたる国内の政治的変動のなかから、近世的支配者体制が創出される過程のなかで、宗教勢力一般が俗権と対決しつつ、後者に完全に従属するに至る大きな歴史的出来事の一環として、このキリシタン禁制の問題をとらえる必要があろう。そうすると、信長のキリシタン援助から、秀吉・家康さらに江戸幕府によるその全面的禁圧へというまさに正反対の政策の背後に、実は一本の赤い糸のように貫徹している歴史的な傾向性と、その思想的意味が浮かび上がってくる。」(『講義録』六、一一九‐一二〇頁、傍線引用者)

ことは宗教だけの問題ではない。少くも歴史的には、良心の自由〈、学問の自由、思想の自由〉の観念は信仰の自由から発したし、いかなる権力も浸すべからざる領域としての自由権の保証のうえに、国家と社会との二元的区別も、自発的結社の発想も根づく。政治的価値と全く異なった次元、異なった価値基準に立つ自発的集団の原型は信仰共同体である。学問や芸術を目的とする結社や集団が、国家とか政党のような政治集団と相似型をなしやすく、また容易に政治権力(反体制的政治勢力もふくむ)に従属するのは、政治的価値をこえた価値へのコミットメントが弱いからである。ここでは権力獲得をめぐる闘争、または経済的利害に基づく対立は起こりえても、被世辞的。内面的価値に依拠し、その内面性をまもるために政治権力に抵抗する伝統は定着しにくい。行動の次元でいえば、非政治的目的から発する政治行動という発想である。これが政党を除く、一切の自発的結社の自律性が保証される社会的基盤である。それがないと組織と行動様式がすべて政治集団の相似形となり、そういうところではまた、最大の政治集団としての国家がリヴァイアサンとして、社会を併呑する傾向性が高い。一切の宗教と宗教教団が地上の権威に従属させられ、超越的絶対者へのコミットメントに基づく共同体の形成が禁圧されたうえに、鎖国によって「閉じた社会」が人為的に二世紀にわたって維持されたことは、その後の日本の思想文化のあり方に、見える形だけでなく、さまざまな見えない形態において、ほとんど決定的といっていいほど重大な刻印を押したのである。」(『講義録』六、一二七‐一二八頁、傍線引用者)

 

[xxvi]そもそも、儒教は、「天」「天道」「天命」の観念のような普遍主義的一面も持つが、その倫理は著しくparticularisticな側面で制限され、普遍的人類の発想=個体としての人間という発想は極めて乏しい。(『講義録』四、一五三頁)だから、丸山は仏教やキリスト教を「超越的絶対者」と表現する一方で、儒教を「内在的普遍者」と呼んでいる。

 

儒教的な規範意識には致命的な欠陥がある。一つには、それがどこまでも君子と庶民との断絶を前提にしているので、大衆的な契機がないことです。(中略)もう一つは、儒教規範意識というものは、歴史意識以前のものなので、歴史的なものに媒介されないという点です。だから、それは非歴史的な尚古主義や、単純な勧善懲悪観に陥ってしまって、歴史的個体に浸透して行ってこれを内面から動かす力にならない。」(「被占領心理」一九五〇年八月『座談』二、二四頁)

 

「日本の儒教は近代化を促進したのか、それとも妨害したのか、という問題があります。(中略)先取りして言いますと、「思想的近代化」、近代化の意味を思想的近代化という意味にとるならば、つまり自由とか民主とか人権とか、あるいは法の優位、ルール・オブ・ロー(rule of law)、法の支配、そういう思想的近代化の意味にとるならば、日本の儒教はほとんどその反対の役割をしました。(中略)思想的近代化に限りますと、プラスの役割はしなかった、というのが私の見解です。その一つの理由は日本の儒教が国体論と結びついたからです。しかし、かといって国体論と結びつかなかったら儒教思想儒教道徳そのものが思想的近代化に役立ったかというと、それにも私は否定的です。」(「儒教・近代化・民主主義」一九八八年十月『話』四、二一五頁)

 

[xxvii] 丸山自身、『研究』との違いについて、「本居宣長の思想の内部構造や構成契機の相互連関については、かつての所説を修正する必要を認めない」としつつ、「ただその江戸時代における思想史的位置づけについては、若干の修正を要する」と指摘し、「儒教的世界像の解体-近代意識の成熟という路線のなかで位置づけようとしているために、やや一方的になった(国学のある一面のみが強調されすぎた)」と述べている。(『講義録』七、二八〇頁)これを受けて、『講義録』では、「特殊江戸時代的な条件の下における「原型」のふきあげ(噴出)と近代意識の成長とのからみあい」としての国学の思想運動(『講義録』七、二八一頁)という位置づけのもとで論じられるに至る。よってそのときの国学運動の性格は「儒教思想中に成長した風土的・歴史的相対主義の思考を儒教的世界像全体に適用させ、そこから一切の普遍主義的要素を剥ぎ取ったのが、江戸後期に興った国学運動」(『講義録』七、二七七頁)ということになる。

 

[xxviii] しかし、これは丸山自身が散々言っているように、「宿命論」ではなく、「自己認識」である。まず、自己を認識すること。しかも、決して非合理的なものを合理化して考えるのではなく、あくまでも非合理的なものを非合理的なものとして認識し、その上で無意識のコントロールに務める。要するに「認識からすべてが始まる」。それが丸山の考えであり、そうした考えを丸山は「ヘーゲル的な考え」と表現している。

 

僕の考え方がヘーゲルの考え方から基本的に影響を受けているのは、ヘーゲルは認識と実践とをなんとか架橋しようとしたわけです。ヘーゲルの立場からいうと、トータルに現実を認識すれば、自分が現実から隔離されるわけです。自分が現実から隔離されると、アルキメデスのいうテコの規準じゃないけれど、地球の外に立てば、地球を動かせると言ったでしょ。あれと同じなんだ。つまり、トータルに現実を認識できるということは、現実を変革できる条件ができるということなんです。そういうヘーゲルの読み方に非常に僕は影響を受けた。なんとかして、すくなくとも過去の日本をトータルに認識できないか。そうすれば、現代の日本を変革できるという・・・・・・。僕はどちらかというと、デカダンスのほうが好きなんだけれど、しいて(笑)、弁明するならば、ヘーゲルなんです。(『話』二、二三四頁)

皆さんが僕の文章を読んでいて、いろいろな問題を持つのはいいんだけれども、そのなかでたった一つでも、「あ、これは、今の問題だな」と思ったら、僕の意図は達せられるんです。昔のことじゃないんだなと。そうすると、それが、持続する契機になるわけです。自分で意識しないけれど、「あ、そうか。俺もそうだった」ということが一つでもあれば、僕の目的は達せられる。無自覚なものを自覚化させるということが、一つあるわけです、モティーフのなかに。(中略)昔のことは昔のことじゃない、済んだことじゃない。逆に、昔のことを済んだこととするのが、日本人の盲点です。過去を過去のこと、過去との対話がないということ。過去が自分のなかに住んでいるという意識が希薄なこと。俺は現代に住んでいるんだ、江戸時代とは無関係だと。そうではありませんよ、江戸時代どころか、『古事記』の時代、あなたのなかに『古事記』が住んでいますよという、ちょっと意地の悪い意図が[僕のなかに]あるわけです。一つでもそういうものを感じたのなら、僕としては成功なんです。       (『話』二、三二八‐三二九頁)

 

[xxix] 「歴史意識の「古層」」一九七二年『集』十、六四頁。

[xxx]丸山眞男氏との一時間」一九六〇年(『座談』四、五一頁)

この座談で面白いのは、村松剛と丸山の討論である。面白いというのは、「今ヨーロッパ文化が神様がなくなって困ってる時代に来て、われわれが神をどっかで回復し観念の上で神を、あるいは永遠なるものを回復するということが具体的に出来るでしょうか。」(同、五一頁)という村松の質問に対する丸山の答えが、この発言の意味をうまく説明しているからである。引用しておこう。

キリスト教に改宗しろとか、ヨーロッパの発展の時間的順序を追えということじゃないんです。」(同、五一頁)「日本民族のエネルギーでヨーロッパの過去からの全体像をつかまえて、ちょうどゲルマン族古代に対したように自由に我がものにして行けということなんです。日本の伝統にしても同じそういう自由な態度で操作すればよい。もたれかかっちゃいけないということです。」(同、五一頁)「神はないという伝統に居直っていい気になったら――なんだ、ヨーロッパが今ごろ到達したものを俺は最初から持っているということに甘えちゃったら―おしまいだというんです。郷土性とか民族性とかいうものは、否応なしにわれわれをいわば背後から規定しているもので、誰もそれから事実上自由でない。しかし民族とか伝統は創造の目標じゃないんですね。目標になったら、いわゆる郷土芸術みたいなものしか出てこない。」(同、五一‐五二頁)「卑下したってはじまらないんだけれども、同時にそこに居直ちゃったら何も出てこない(中略)理性的に認識することに耐えられない弱さがわれわれの間にないか。パっと勘で分かっちゃったり、またそれを感傷的に美化したり、あるいはけなしてみたり、気分的な評価のほうが認識より先に来ちゃう」(同、五二頁)「自己内対話というものが出来てない。自分の中にはアジア的なものもあれば、原始神道的なものもあれば、ヨーロッパ的なものもあるが、それが併存してる状況じゃないですか。それが混ざり合えば触発されて、もっと創造的なイマジネーションが出てくる。」(同、五四頁)

[xxxi] 例えば、「麻生義輝「近世日本哲学史」を読む」一九四二年(『集』二)では「私をしていわしむれば、精神的分野に於けるヨーロッパ的なるものの浸潤の程度こそ日本の近代化の全現象を測定するバロメーターである」(一八二頁)と述べ、「近代的思惟」一九四六年(『集』三)でも「私はこれまでも私の学問的関心の最も切実な対象であったところの、日本に於ける近代的思惟の成熟過程の究明に愈々腰をすえて取り組んでいきたいと考える」(三頁)と述べていることに注目。

 

[xxxii] ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』(未来社、一九七三年初版)

[xxxiii] 丸山は国連で傍聴したアルジェリア戦争をめぐる演説が印象的だったという。 

僕が国連の傍聴席で聴いた時に、パキスタンの代表がアルジェリア戦争を支持する演説をやりました。フランス代表が退席し、イギリス、アメリカは棄権です。そうしたらパキスタン代表が「反仏的とは何ごとか。われわれは自由・平等・博愛という理念をフランス革命から教わった」と。つまり西欧から教わった武器で西欧と闘っているんです。それが第三世界なんですね。(『話』四、一二九頁)

[xxxiv] (『書簡』四、二八七頁)また、丸山は「天安門事件」について次のように述べている。

 天安門のデモを毎日TVで見ておりました。(中略)デモ旗の中に「天賦人権」の文字を見たとき、私はわが目をこすりました。日本の自由民権運動は、日本ではなくて、中国で身を結んだのです。くりかえしますが、この果実はけっして現在の事態によってつぶされるものではありません。(『書簡』四、一八一‐一八二頁)

 まるで理性の狡智を思わせる。

 

[xxxv] 苅部直は『日本政治思想史研究』について次のように指摘している。

 助手論文は公私の領域の分離を構図として描き、全体を管制する政治権力のもとで、「私的」な活動がさまざまに展開するという「寛容」の体制を、「近代的なもの」と呼んだ。しかしそれは、「政治的なもの」の担い手が、その支配下に生きる個人のありのままの欲望や心情の発露を許すというだけで、場合によっては統治者の恣意による専制とも両立してしまうだろう。(中略)したたかに監視の目を逃れて欲求を満たそうとする庶民は、同時に憲兵に密告して隣人を売る人々でもあった。「主体」どうしの道徳上の結びつきが失われ、個人が放埒な自我のまま、ばらばらに放り出された地平に、強大な政治権力がおおいかぶさっていたのである。これに対して、個人の自由の確保と、政治権力に対する批判とを、倫理としてしっかり基礎づけるには、ありのままの自我の「私的」な内面と、権力が規制する「公的」空間との間に、たがいの自由と権利を維持すべく、「主体」どうしが結びあう道徳秩序を、考えなくてはならない。(中略)「内奥の心情」に動かされる生身の個人は、自由と権利の価値を内面化した作為の「主体」へと、どうやって陶冶されるのか。そうした諸問題も、空白のまま残されている。

 

私的なものを根拠としながら、そこから公共的なものをどのように立ち上げるかというのは、丸山の思想においても中心テーマであった。本稿では、こうした問題について、丸山の「主体性」という概念の検討を通じて考えた。そしてそれは、丸山の理想とする人間像としてアプリオリに 措定されていたといえる。問題は、大衆社会などにあって、その理想と現実をどのように考えるかであろう。そこに丸山眞男の主体性のアポリアが存在する。

 

[xxxvi] その点、デモクラシーに関する政治学の古典であるトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』における主題の一つが、デモクラシーの下で私的な生活領域にのみ強い関心を抱く「個人」を、公共精神を持った「市民」へと転化させるための観念(イデア)としての「共通善(common good)」とは何か、という問題であったことは感慨深い。こうした観点からの思想史研究としては、例えば、猪木武徳『自由の条件-スミス・トクヴィル福沢諭吉の思想的系譜』(ミネルヴァ書房、2016)など。

[xxxvii] ちなみに、政治思想史において長く軽蔑的な用法として使用されてきた「デモクラシー」という言葉に肯定的意味を与えた最初の人物はロベスピエールらしい。(ロバート・二ーリー・ベラー編『宗教とグローバル市民社会岩波書店、2014)

 

戦後啓蒙と丸山眞男(5)

前述したように、丸山の研究生活は徳川時代の研究から始まった。そしてここまでは、その思索のなかで丸山がどのように近代を見つけようと試みたのかを確認した。そしてこれからみていく戦後の思索の特徴は、その〈江戸〉が丸山思想史のストーリーのなかに位置づけられるようになったことにある。こうしたストーリー構成は、今までに示した丸山の問題意識の具体化にほかならなかった。そして、丸山の戦後の思索は「近代化の非一義性」(開国という問題意識)と「普遍者」の命題(宗教的倫理への注目)の交錯点において展開する。これを例えるならば、丸山思想史という舞台において、「近代化の非一義性」は演出家であり、「普遍者」は主役である。ここでは、丸山の問題意識がどのように具体化されるのかという点を、この「主役」がどのように活躍するのかという観点から考察したいと思う。それは丸山思想史の成立であり、そして、その舞台には「原型」(民主主義を真に支える倫理的主体を悉く飲み込んでいく日本的なもの)という魔物が潜んでいた。主役がこの魔物と如何に戦うか。これがこれから覗く物語の筋書きである。

日本の思想とは何か

戦後の丸山の思索は「近代日本の末路」の意味づけ(解釈)から始まった。[i]そこに「無責任の体系」という明治以来の近代化に内在する問題を読み取りつつ[ii]、なぜかくも堕落したのか、と問いながら[iii]丸山は思索を進めていく。しかし、明治以来の近代化に内在していた問題と明治維新の評価[iv]とはどのような関係なのだろうか。それは丸山の〈明治〉への評価のあり方に関わってくる問題であるが、戦後の思索のなかで、この〈明治〉も、そして戦前の研究対象であった〈江戸〉も丸山思想史という舞台のストーリーのなかに位置づけられることになるのだから、ここでは焦らずに、丸山のかかる明治評価への疑問も、その物語を通して考えることにしたい。まず問うべきは、そうした物語が如何に生まれるか、そしてそれが物語の性格をどのように規定するのかという問題である。そこでまずは、「日本の思想」(一九五七)[v]に注目することから始めたい。

終戦から十年余りの歳月を経て[vi]書かれたこの論文は、それまでの丸山の問題意識の整理であり、またそれと同時に六〇年代以降の思索への橋渡しとなる作品である。[vii]簡単にその内容を示せば、この論文では大きく分けて三つのことが論じられている。それは①日本には西欧のキリスト教に相当するような宗教的規範意識(普遍者の内面化)がないこと。[viii]②上記のような日本において、その代わりに国体(似非普遍者=特殊日本的なものとしての天皇制)が創設されたこと。[ix]③上記の①、②を踏まえたうえで、そういう日本における思想状況にはどのような特徴があるかという話[x]、この三点である。

このように「日本の思想」(一九五七)は、問題の整理とその思索の方向性を定めたという点では確かに一つの画期であるが、仮に丸山の思想を前期と後期に分けるとすれば、この論文はその橋渡しに過ぎない。その点、戦後の丸山の思索を決定づけたのは「開国」という問題意識に端を発する「近代化」への問いであった。[xi]どういうことか。

戦後の丸山の思索の特徴は、「近代化の非一義性」(思想史における「開国」の問題)という認識の下で「普遍者」の命題(規範意識足り得る宗教倫理の有無)を考えることにある。この二つの命題の交錯点において丸山の思想は展開し、その具体的な時期は六〇年代であるということは、すでに述べた。「普遍者」の命題については前に触れたので、ここで問題となるのは「近代化の非一義性」という視座についてであろう。この「近代化の非一義性」という考え方については、箱根会議を中心に六〇年代の近代化論を取り上げるときに改めて述べるが、ここで丸山の思想におけるその意味を簡潔に述べると、丸山の思想における「近代化の非一義性」とは、「開国」というイメージに発する丸山の問題意識が「文化接触」への問いとして深化した結果生まれた従来とは異なる丸山の歴史観のことにほかならない。

要するに、戦前の「近代」探しとは、そのアプローチの方法が根本的に異なるのである。戦前のアプローチは、丸山の言葉でいうと「タテ」の見方であり、西欧における前近代世界の〈崩壊〉→近代世界の〈成立〉という図式をそのまま日本にあてはめようとする試みであった。しかし、先に示したように、こうした「近代」探しは、西欧において〈崩壊〉→〈成立〉というベクトルを媒介する〈神〉(=公概念に向き合う私概念を根底から担保する宗教的倫理の存在)という問題を、具体的に日本においてどのように考えるのかという点で、そもそも論理的に破綻していた。そしてこの破綻は、〈崩壊〉と〈成立〉を同一視しつつ徳川時代という前近代世界を考えていたことによって隠蔽されていたわけである。

これに対して、敗戦直後の一連のファシズム論などの結果論を経て、「日本の思想」(一九五七)では、〈普遍者〉(=私概念を根底から担保しうる規範意識)なき日本の近代化の方法論が語られるに至る。そこに「開国」という視座が加わることは従来の内発的な近代意識の勃興というタテの見方から「文化接触」というヨコの見方が提示されたことを意味する。すると、「普遍者なき日本」という命題が論理の破綻ではなく、新たな問題提起として浮上することになる。そして、ここにいよいよ丸山思想史という舞台に欠かせない「近代化」論という名の演出家が登場する。これが「近代化の非一義性」という命題の正体である。

「普遍者(公に対峙する私概念〈=デモクラシーを支える主体性〉を担保する宗教的倫理)は外からやってくる。日本(加藤のいう土着世界)はこれに如何に対応するのか」。この問題意識によって丸山思想史という舞台の幕が上がる。それは、近代化の非一義性という認識(「開国」という思想的視座=演出家)の下で、この舞台の主役たる「普遍者」がどのような活躍をみせるのかという、日本思想に丸山の理想の実現の可能性を探す試みであった。[xii]

箱根会議

もう少し考えてみたいことがある。ここで注目したいのは演出家についてである。我々はこの演出家についてあらかじめ多少の知識を得ることで、よりこの舞台の特徴を理解できると思う。その演出家の名を近代化論という。

日本において近代化論が脚光を浴びたのは、一九六〇年代のことだった。その呼び水となったのは一九六〇年に行われた箱根会議である。[xiii]ここでは、まずこの箱根会議について取り上げてみたい。丸山も、この国際会議の出席者の一人である。その会議の様子を覗きつつ、六〇年代の近代化論のなかで丸山を考えることによって、丸山の近代化論の特徴が浮かび上がってくるのではないか、これがこの会議を覗く意図である。[xiv]

当時の新聞をみると、毎日新聞朝日新聞などの学芸欄にこの会議の名前をみつけることができる。日本や欧米の研究者によって行われた「日本の近代化」をめぐる国際会議について、その会議から一週間余り経った日の記事は、出席者である遠山茂樹ロナルド・ドーアエドウィン・ライシャワーへの取材を通じて、その会議の様子を伝えている。[xv] 

これらをみると、どうやらこの会議においては「近代化」について議論をするとき、その解釈やアプローチをめぐって、特に日本と欧米の研究者の間に溝があったらしいことが窺える。会議の内容に入る前に、こうした近代化論をめぐる図式を少し整理しておくと、箱根会議及びその後の近代化論をめぐっては、大きく分けて、アメリカを中心とする欧米の日本研究者の「近代化」論[xvi]と、これに反発するマルクス主義[xvii]、さらにそれぞれの立場(問題意識)から肯定的・否定的な態度をとる非マルクス主義者といった図式を確認することができる。[xviii]

では実際には、箱根会議においてどのような議論がなされたのか。以下、上記のような六〇年代の近代化論をめぐる図式を念頭に置きつつ、会議の議事録を通してその様子を覗ってみたい。[xix]

まず会議は、その冒頭、ホールが提出した近代化に関する九つの基準に関しての議論から始まった。[xx]これについて、丸山は「規準があまりにsociological。もっと個人のvalue systemを考えるべき」だと主張している。[xxi]その後、議論が大きく動いたのは、「近代化の型の範疇」についてのLevyの提案においてであった。Levyは自身の考えるカテゴリーを示した上で、あらゆる近代化の事例はその四つのカテゴリーに当てはまると指摘する。[xxii] 

そして、午後の討論も終盤に差し掛かった頃、丸山は「近代の自己意識化の過程」という問題を提起している。それは「近代をなぜ問題にするか」という問いであった。[xxiii]丸山の主張を簡潔にまとめると、それは大凡次のような趣旨である。「近代化はSelf-realizationへの傾向とbureaucratizationへの傾向と、この両者のアンチノミーとして進行する。日本では後者が先行し、前者はアンバランスな発展を示してきた。こうしたアンチノミーをくぐって、それを意識したドイツや日本で近代が問題になることは意味がある」。要するに、丸山の関心は「近代がそれ自身問題とされるような場所」[xxiv]を捉えることにあった。[xxv]丸山がなぜここまで個人(近代人の自己意識)の問題に拘るのかという問題は、先に丸山の問題意識をみてきた我々にはさして疑問ではない。 

ここでは、近代化論をめぐる図式のなかで、丸山がどのような位置にいるのかという点を確認した。その後も、「近代化」をめぐって様々な議論が続いていくが、会議の詳細はここでの課題ではない。丸山の発言に注目して、この会議から窺えるのは、大凡以下のようなことである。丸山は、この会議において、近代化の非一義性という観点からマルクス主義を批判(単線的な発展段階論を否定)する欧米の学者に組みしながらも、「個人の価値体系」への解釈をめぐっては欧米の学者とその意見を異にし、むしろマルクス主義者の方に組みしている。つまり、欧米の学者が非一義性というとき、それは個人の問題をより大きな観点、つまりは経済や政治といったものに解消してしまい、丸山の考える「非一義性」とはその性格を異にしている。ここから窺える丸山の近代化論への関心とは、マルクス主義の公式にはこだわらず、しかし個人の価値体系に注目し、丸山の理想とする自由を実現する方法論(デモクラシーを支え得る人間創造の方途)を検討することにあるといえるだろう。

ロバート・ニーリー・ベラーと丸山眞男

この問題について、もう少し別の観点からこの問題について考えてみたい。次に取り上げるのは近代化について宗教の果たす役割に注目をするロバート・ニーリー・ベラーである。[xxvi]紙幅の都合上、ベラーについて詳細に検討することはできないが、ここではベラーが「宗教」に期待する役割と丸山とのそれが真逆であることを確認したい。そして、それを受けて、ベラーとは違う、丸山が宗教に期待するその役割とは何かという問題の答えとその意味を、次節において、丸山の思想史のなかにさがしていきたいと思う。

丸山はベラーの著書『徳川時代の宗教』[xxvii]への書評のなかで同書を「相変わらず輩出するアメリカの日本研究のなかで私の食欲と『闘志』をかき立てた久しぶりの労作」[xxviii]と評している。問題は、丸山の闘志に火をつけたものは何かということだ。簡単にベラーの議論をみてみよう。

ベラーにとって「近代化」とは「産業化」と同義語である。[xxix]ここにはパーソンズ理論[xxx]を念頭に「日本の宗教における合理化傾向が日本の経済的あるいは政治的合理化にどのように貢献したのか」[xxxi]と問うベラーの「政治の合理化なくして経済の合理化なし、経済の合理化なくして近代化なし」という論理(=経済成長に必要なものとは何か、という視点からの典型的な近代化論)が反映されているといえよう。ベラーにいわせると、こうした点に関して、日本は非常に都合の良い価値体系を有している。例えば、統合価値が重視される中国に対し、日本では政治的あるいは目標達成価値が重視されるとベラーは指摘する。ベラーに言わせると、こうした「日本の強固な政治体系と支配的な政治価値は、明らかに、産業社会の勃興に適していた」。[xxxii]そしてベラーは、こうした価値を支えたものこそ日本の宗教であったという。[xxxiii]

こうしたベラーの主張が丸山の闘志に火を付けた。[xxxiv]「特殊主義」(公に対する規範的な主体形成を妨げるもの=私概念の公概念への吸収)に日本の近代化の問題を見出している丸山に対して、ベラーは日本の特殊主義が逆説的に擬似普遍的機能を果たし(政治目標への国民的動員の容易さ)日本の近代化(この場合は産業化)の成功を支えた、というのだから、丸山が怒るのも無理はない。ここには、「近代化」をめぐって、ベラーと丸山の間にも前述した近代化論をめぐる図式が反映されていることが窺える[xxxv]が、ここで注目したいのは、宗教に期待される役割の相違についてである。ベラーは、上記のように日本の宗教が特殊主義を強めつつ、産業化に不可欠な政治的経済的合理化過程に重要な役割(私と公の媒介)を果たしたと指摘しているわけだが、そのうえで丸山に対して次のように問いかける。

私の疑問とはこうだ。丸山は、ヨーロッパであれ日本であれ、近代初期の原初的な意識から倫理的な自由へ移行する刺激的な時期に重点を置くことによって、前近代の伝統の源泉を軽視していないか。たとえば、近代よりはるか以前に世俗の肯定を離れて普遍主義と超越性に向かった紀元前の宗教と哲学を見落としていないか。おそらくは、そうした源泉と近代初期のイニシアティヴを組み合わせて用いることによって初めて、先進世界がとらわれている歪んだ近代性に対処する手がかりが得られるのではないだろうか。[xxxvi]

恐らくベラーは丸山の『講義録』を読んでいないのだろう。丸山も丸山なりの視点で、前近代の伝統や宗教に注目している。確かに、先に見たように、戦前や戦後初期の丸山は、ベラーのいうように伝統や宗教の役割に盲目だったかもしれない。しかし、一九六四年において丸山は、次のように述べている。

問題は、ヨーロッパと接触する以前の日本の思想に普遍的な価値がどれだけあり、ヨーロッパの中にどれだけあるかということで、どこで生まれたかは問題ではないのです。一度それを洗ってみる必要があります[xxxvii](傍線引用者)

丸山は、一九六四年以降、講義の中で、「仏教」、「キリスト教」、「武士のエートス」、「儒教」と、「可能性としての思想」という観点から、伝統や宗教に注目していく。ただ、丸山の場合、そこに期待されたのは、むしろベラーとは逆に特殊主義を打ち破る可能性であり、丸山が探していたのは、そうした普遍性に媒介された自由の実現の可能性であった。(そもそも、ベラーが問題視したのは、個人主義=エゴイズムの弊害であり、丸山が重視したのは規範意識を媒介とした個人主義の成立であったのだが)このベラーの問いかけに対して、丸山の代わりに答えようというのが次節に与えられた課題である。ここでようやく、丸山思想史の舞台の幕をあげることができる。そこに現れるのは、丸山の描く自由をめぐる物語である。

 

[i]超国家主義の論理と心理」(一九四六)、「日本ファシズムの思想と運動」(一九四七)、「軍国支配者の精神形態」(一九四九)など。

[ii] 「私は、日本帝国の崩壊ということも、昭和となって急に横合から軍部という乱暴者が出てきてせっかくの先代の苦心の経営を台なしにしてしまったという風に理解せずに、これをどこまでも明治時代に内在していた契機の顕在化として把えなければならぬと考える者です。」(『座談』二、二四〇頁)

 こうした視点が「オールドリベラリスト」と「戦前派」の差になっていることに注目したい。例えば、丸山の次のような発言。

 「現代の明治的な人間といわれている人は、日本の最近のウルトラ・ナショナリズムが明治以後の国家ないし社会体制の必然的な発展として出てきたものだということを、どうしても承認しません。津田左右吉先生なんかがいい例ですね。かつては日本はもっと近代化されておったが、横合いから不意に乱暴な軍部や右翼が出て来たものだからこういうことになってしまったんだ。以前は、日本にも自由があったし批判的精神もあったということを強調しておりますね。なぜ明治のインテリがこういう感じを持ったかという点が面白いのです。たしかに知識人の住んでいた世界は観念的にはかなり近代的だったのですが、そうした観念の世界は一般国民の世界を規定している「思想」からは遠くかけへだたっていて、国民生活そのものの近代化の程度との間に非常な不均衡があった。ところが知識社会に住んで、その社会の空気を知っておった人には、どうしても最近の神がかり的ファシズムの出現が突発現象としてしか受け取れない。(中略)実はむしろ逆にそういう人の住んでおった知識社会が特別の社会なので、一般の国民層は全くそれと隔絶された環境と社会意識の中におった。(中略)ぼくは明治的な知識人というような人は、重臣層的な意識と共通したものをもっていると思う。つまりリベラルだがデモクラティックでない。そういう重臣リベラリズムは国民的な基礎がなかったので無力だったのじゃないかと思います。」(『座談』一、二六六‐二六七頁)

 丸山は、青年文化会議の宣言にみられるような「オールドリベラリストとの訣別」という表現は「我々は兵隊にとられた」という(丸山を含めた)被害者意識の現れだと言

う。

「青年文化会議の創立宣言は川島武宜さんが書いた。『戦争とファシズムを阻止しえざりしオールド・リベラリストと訣別』という勇ましい言葉があります。それに我妻栄さんが激怒したのです。今だから言うけれど、川島さんが起草者だったというのはぜったい秘密でした。我妻先生の直系でしょう。あれは、ある意味では非常に不毛なのだけれど、戦後世代論の最初の提起なのです。我々は兵隊にとられたという、被害者意識です。(中略)一兵卒として召集された上限は、おそらく大岡昇平でしょう。あれより上になったら、もう安全です。少なくとも赤紙をもらうことはない。そういう被害者意識があるから、ついそれが『戦争とファシズムを阻止しえざりしオールド・リベラリスト』となる。そこでオールド・リベラリストという言葉を使っているのが面白いのです。もはや戦前のリベラリズムではだめだという共通認識があるのです。」(『回顧』下、二六‐二七頁)

 その後、丸山が「戦前派」の代表格として「戦中派」からの批判の対象となることを考えると、世代論の皮肉を感じるが、ここでは、こうした世代論が「天皇制」への評価を規定していることに注目したい。注一三で示したように「超国家主義の論理と心理」(一九四六)以降「天皇制」と訣別した丸山は、その後、「普遍者の命題」の具体化にともなって天皇制を「O正統面したL正統=似非普遍者」と規定するに至る。

 

[iii] 例えば、「陸羯南」(一九四七年、『集』三)、「明治国家の思想」(一九四九年、『集』四)「近代日本思想史における国家理性の問題」(一九四九年、『集』四)。戦後の明治論は戦前の「国民主義の『前期的』形成」(一九四三年、『集』二)の続きだという。

 

国民主義の形成」という論文を書こうとした本来の意図は、こういうことでした―つまり福沢は有名な「日本には政治ありてネーションなし」と言い、また国体のことを〝ナショナリティ〟と言っている。そのときのネーションとかナショナリティというものが、羯南の『日本』における主張や、雪嶺などの国粋主義にもどこかでつながっている。ところが、だんだんたどって明治三十年代になりますと、だいいち、「国民論派」―羯南はこれにナショナリズムというルビをつけていますが―という言葉自身があまり使われなくなって、同じ日本主義でも帝国とか日本国家という言葉がさかんに言われるようになってくる。そこで、『国家学会雑誌』に書こうとしたのは、国民主義から国家主義へ、という論旨だったわけです。どこでどう変貌したのか。結局、福沢から出発して羯南をとり上げ、それが樗牛の日本主義、さらに井上哲次郎穂積八束のドイツ的国家主義、官僚的国家主義に変貌していった、その変貌過程を実は書こうとして材料を集めたわけです。ところが、これは『日本政治思想史研究』の「あとがき」にも書きましたけれど、徳川時代のほうから始めたものですから、福沢にも到らないで「前期的国民主義」という仮の名前をつけ尊王攘夷論の変貌を書いたところで、召集令状が来てしまって中絶したわけです。ですから、戦後の『中央公論』の陸羯南」は、実はその続きなんです。戦後まもなく、歴研の講演会でやった「明治国家の思想」というのも、大体同じような関心です。もちろん、当時の、日本のナショナリズムや明治時代に対するあまりに一括的に否定的な風潮、ちょうど戦時期の風潮を裏返しにしたような風潮に対して、そうばっかりも言えないと反発する単純な動機もありましたけれど・・・・・・。(『座談』七、二〇九‐二一〇頁、傍線引用者) 

大凡、丸山の明治評価は二〇年代を下ると悪くなることに注目。また丸山は、国家理性論文(未完)が、『忠誠と反逆』(筑摩書房、一九九二)に収録される際に書かれた「追記」(一九九二、『集』一五)において、同論文のモチーフとなったマイネッケ(「近代史における国家理性の理念」)を一九三〇年代後半から四〇年代にかけて熟読し、マイネッケが「国家理性」が現在陥っている危機と堕落について語っている箇所にとりわけ明治の前半の国権論と三〇~四〇年代の皇国日本とが重なり感銘を受けたと回想している。(『集』一五、一七九‐一八二頁参照) 

 

[iv]

「私も初めはもっと王政復古史観ですから、維新について偏見を持っていまして、[しかし]だんだん何となく、それは別にどの思想書というのではなくて、明治新聞雑誌文庫をやたらに[見ていて]、明治の初期の雰囲気が、驚くべく、少なくとも私の生きている時代とは違う。じつに生き生きとしているし、多様だし、それから考え方が自由だし。そうすると、やっぱり、いつから、こんなになっちゃったのかと。こんなになった、と言っても、それは、明治新聞雑誌文庫に入りだした頃は、よほど悪くなった頃なんです。私が、こんなになった、と言うのは、一九三一年頃からのことを意味するわけです。だから、まだ左翼が盛んだった頃を意味するわけですけれども、それを含めても、こうして、こうして、こうなった、ということに対する純粋な観察の興味と、それから、どうして、かくも堕落したのかという価値判断と重なるんですね。重ならざるを得ない。」(『話』三、二一〇‐二一一頁、傍線引用者)

 「維新革命にはいろいろな解釈があります。極端に言えば、講座派のように反革命だという解釈さえあります。絶対主義の確立だから反革命だと。僕は[その説を]取りません。あれはやはりナショナリズムの革命」(『話』四、三〇五頁)

「世界史ではじめての実験なんですね。だいたい、近代化というのは、西欧化と結びついていたように、アジア人にはほんらいできない、と思われていた。組織を作るとか、時間の感覚、計画性、合理主義、東洋人はほんらいそういうものに向かないのだ、ノンビリしていて、なまけもので、そういう理念だったわけでしょう。それを、ヨーロッパ型の近代国家を自力で作るという、非常に大きな実験をはじめて日本がやった。その創業者の努力、苦心、これは大変なものだったと思う。」(『座談』四、二〇〇頁)

幕藩体制を打倒した維新というのはやはり日本の歴史のなかでは、われわれの民族がともかく自力でやった最大の革命だと思っています。それは完全な革命のイメージをえがき、それからの距離をいえば、まずい点はたくさんあるし、到達した結果は天皇制国家ということに終わってしまった。しかし、そんなことをいえばフランス革命からだってナポレオンが皇帝になったし、ロシア革命からだってスターリニズムが出てきた。結果論から判断すれば・・・・・・。結果論から判断しないで、維新の原点に立ってみれば、維新というのはわれわれは誇っていい一つの変革なのです。(中略)いろんな点からいって、明治後半期はむしろ大正の初めと一続きの時代とみたほうがいいのじゃないかとも考えられる。そうすると明治とは何ぞや、ということになる。同じ明治といっても明治二十年代の前と後ではいろんな点で非常に違います。ですから私は原点に帰るという意味では、明治全体じゃなくて明治維新の再評価に賛成です。もちろん明治維新の中のすべてという意味じゃない。けれども、その中にわれわれが誇り、また継承していくべきものがあると思います。」(『座談』七、三〇三‐三〇四、傍線引用者)

 

[v] 『集』七

[vi] このとき、丸山は脳裏を去来する思いを「精神的なスランプ」と表現して次のように述べている。

 ほんとに、この一、二年というもの、精神的にスランプを感じるんです。だから、なぜスランプになったかということを考えてみる以外にないんですがね。やっぱりぼくが、大学を出てから今までやってきた仕事をささえると言うか、その前提になっていたものがあるんで。それが一つは天皇制の問題だし、一つはマルクス主義です。つまりぼくは、日本のナショナリズムとか、超国家主義とかいうことばかり、まるでものにつかれたみたいに書いてきたのは、学生のころからいろんな見聞と体験を通じて、日本の「国体」というものは一体何だろう。ファウストじゃないけれど、この巨大なものの奥の奥をきわめたいという気持がいつも根底にあった。日本人のものの考え方にこれほど大きな呪縛力をもったものが、たんなる物理的暴力とはどうしても思えなかったんですね。そいつがしょっちゅう頭について離れなかった。それから、もう一つはマルクス主義です。(中略)つまり大げさだけど、ぼくの精神史は、方法的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だったわけで、それが学問をやって行く内面的なエネルギーになっていたように思うんです。ところが、現在実感としてこの二つが何か風化しちゃって、以前ほど手ごたえがなくなったんだ。もちろん、もはや相手にとって不足だといったごうまんな意味でいうのじゃなくって、少くとも両方とも昔ほど堅固な実体性をもってぼくに迫ってこなくなった。そうしてみると、何ていうか、必死になって対決していた当の相手が―対決っていうのは敵対というよりももっと内面的な意味でいうのだけれど―対決していた当の相手が少くもぼくの視野の中でフニャフニャになったために、こっちも何かガッカリして気がぬけちゃった。それが学問的ファイトの減退の大きな原因になっているような感じがします。自分のことはなかなか自分で分らないが、どうも考えてみると、そのへんにスランプのもとがあるように思うんです。(「戦争と同時代」一九五八年十一月、『座談』二、二三四‐二三五頁)

また、この時期の丸山については石田雄「『正統と異端』はなぜ未完に終わったのか」『丸山眞男との対話』(みすず書房、二〇〇五年)も参照のこと。石田は、このスランプを大衆社会の問題として前々から丸山は感じていたといい、「私の推測では、丸山がこの実感を直接に研究の中で表現するのではなく、逆に『正統と異端』という枠組を設定することによって、敢えて『フニャフニャ』になった対決相手に型を与えようと試みたのではなかろうかとも思われる。あるいは、もっと広くみて六〇年代のはじめから明らかになりはじめる比較の視点の導入という方法論的転換全体が、右に丸山が自認していた『精神的スランプ』克服の企図を意味するのかもしれない」(同書、五六頁)と述べている。

この精神的スランプという表現をどのように解するかは、丸山眞男論にとって決して小さな問題ではないが、筆者は敢えて、この丸山のアンニュイな表現を、丸山眞男の思索の転換期の表現として捉えたい。現に、戦前から戦後まで続いたマルクス主義天皇制への対決に一つ区切りをつけた丸山の思索は、石田のいうように六〇年代以降、戦前からその視野を広げ、その方法論を展開(転換)させることになる。むしろ、天皇制やマルクス主義固執していた時よりも、その呪縛が解けたことで、ある種のフレキシブルさが生まれ、ある意味では身軽になったとはいえないか。

 

 

[vii] 論文の中身を詳細に検討することはしないが、「要約」としてはこれもさしあたり都築勉「『日本の思想』を読む」(『丸山眞男への道案内』吉田書店、二〇一三年)が簡便。また、「日本の思想」を取り上げたものとしては、宮村治雄『丸山眞男『日本の思想』精読』(岩波現代文庫、二〇〇一年)、仲正昌樹『《日本の思想》講義』(作品社、二〇一二年)がある。

ここでは本稿の趣旨を鑑みて、単行本の「あとがき」(一九六一)の一部だけ引用しておきたい。

 したがってここには、よかれ悪しかれ、私が大学卒業以来当面したさまざまの学問的課題と、それを追求する過程で不可避的に刻みつけられた私の思想的道程とが流れ込んでおり、それと同時に、これ以後の関心方向の新たな起点ともなった。もっとも表面的な事柄を例にとれば、戦後私は種々の事情から、対象的には日本政治思想史の、いや政治思想史の範囲をふみこえて政治学上の諸問題、とくに現状分析の領域にまで手をひろげて来たけれども、「日本の思想」の前後からようやく「戦線」を整理して、その後の論稿はおおむね旧著『日本政治思想史研究』や福沢研究の系列に属する。(『集』九、一一二頁、傍線引用者)

超国家主義の論理と心理」以来、日本ファシズムや日本ナショナリズムに関する諸論文、さらには日本の政治的状況についてのエッセイなどを通じて、私の分析は、批判の側からも支持の観点からも、大体において日本の精神構造なり日本人の行動様式の欠陥や病理の診断として一般に受け取られて来た。それは私にいわせれば、ある面では当っているし、ある面では当っていない。(中略)ある意味では当っているというのは、右のような論稿がいずれも戦争体験をくぐり抜けた一人の日本人としての自己批判―あまりにすりきれた言葉であるけれども、これよりほか表現の仕方がない―を根本の動機としてあり、しかも三〇年代から四〇年代において何人の目にもあらわになった病理現象を、たんなる一時的な逸脱ないしは例外事態として過去に葬り去ろうとする動向にたいする強い抵抗感の下に執筆されたために、そうした病理現象の構造的要因を思想史的観点からつきとめることにおのずからアクセントがおかれたからである。そうしてこのような動機と関心は「日本の思想」にも引きつがれ、本書のⅡ、Ⅲ、Ⅳ、にも共通に流れる一つの主潮になっている。(同、一一三‐一一四頁、傍線引用者)

私自身としてはこうして現在からして日本の思想的過去の構造化を試みたことで、はじめて従来より「身軽」になり、これまでいわば背中にズルズルとひきずっていた「伝統」を前に引き据えて、将来に向かっての可能性をそのなかから「自由」に探って行ける地点に立ったように思われた。(同、一一四‐一一五頁、傍線引用者) 

 

[viii] この命題は、六〇年代以降の思索で具体的に検討されていくことになるが、この時点では「私達が思想というもののこれまでのありかた、批判様式、あるいはうけとりかたを検討して、もしそのなかに思想が蓄積され構造化されることを妨げて来た諸契機があるとするならば、そういう契機を片端から問題にしてゆくことを通じて、必ずしも究極の原因まで遡らなくても、すこしでも現在の地点から進む途がひらけるのではなかろうか」(『集』七、一九四‐一九五頁)という考えから、この論文では主に近代日本の思想について考察されている。言うまでもなくこの「究極の原因」まで遡って思考された結果が古層論にほかならない。

『日本の思想』では、近代日本の思想というものが、直接のテーマですから、古代の天皇制じゃなくて近代天皇制の思想的な構造というのが直接のテーマですから、そこでは、「原型」とか「古層」とか、そういうところまでいっていない。また、そういうところまで考えてもいなかった。しかし、問題は、そこからずっと続いてるんですね。(『話』二、三二七‐三二八頁)

例えば、安易な模倣と批判的言説創出のアイロニーについて述べるところ(「ある永遠なもの―その本質が歴史的内在的であれ、超越的であれ―の光にてらして物事を評価する思考法の弱い地盤に、歴史的進化という観念が導入されると、思考的抵抗が少なく、その浸潤がおどろくほど早いために、かえって進化の意味内容が空虚になり俗流化する」前掲、二〇八‐二〇九頁)のくだりは、「歴史意識の古層」(一九七二)において、日本の原なるイメージたる「なる」(=「おのづからなりゆくいきほひ」というオプティミズム)が「進歩」ではなく「進化」と相性が良いことが指摘されていることを想起させる。

 

[ix] この命題については、その結果論として「超国家主義の論理と心理」(一九四六)においてすでに語られているので、読み方によっては同論文の「解説」とも読める。例えば、明治憲法体制について述べるくだり(「『輔弼』とはつまるところ、統治の唯一の正統性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。政治構造の内部において主体的決断の登場が極力回避される」云々、前掲二二一‐二二二頁)は、「論理と心理」でいう「無窮性」の言説であると同時に、「政事の構造」(『集』一二)でいわれる、政治意識の執拗低音につながっていくように思える。

 

[x] 具体的には「理論信仰」と「実感信仰」という話―この二つの定義については『座談』四、四八頁を参照―だが、それはまた丸山が理想とする社会の成立を阻むものの正体でもあった。少し内容をみてみよう。

丸山は「家族国家」観の問題が、「『限界』の意識を知らぬ制度的物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ『自然状態』(実感)への密着」(『集』七、二三三頁)という日本の思想の問題に帰結することを述べた後、「『いえ』的同化と『官僚的機構化』という日本の『近代』を推進した二つの巨大な力に排撃されながら自我のリアリティ  をつかもうとする懸命な模索から出発」した日本の近代文学の特徴を文学的実感の問題として解説し(同、二三四‐二三五頁)、近代日本にはじめて輸入された理論体系というマルクス主義の思想的意義についてひとしきり論じたあと(二三五‐二三七頁)、「私たちの伝統的宗教がいずれも、新たな時代に流入したイデオロギーに思想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果たしえず、そのために新思想はつぎつぎと無秩序に埋積され、近代日本人の精神的雑居性がいよいよ甚だしくなった。日本の近代天皇制はまさに権力の核心を同時に精神的『機軸』としてこの事態に対処しようとしたが、国体が雑居性の『伝統』自体を自らの実体としたために、それは私たちの思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ、否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけ強力に働き、人格的主体―自由な認識主体の意味でも、倫理的な責任主体の意味でも、また秩序形成の主体の意味でも―の確立にとって決定的な桎梏となる運命をはじめから内包していた」(同、二四二頁)と述べて、再び「日本人の精神状況に本来内在していた雑居的無秩序性」を指摘し論を総括し、その克服の必要性を主張して論を結んでいる。(同、二四三‐二四四頁)

 

[xi] 丸山自身は次のように述べている。

 もし私の戦前の研究と戦後の研究とをいちばん大きく区別するメルクマールがあるとしたら、文化接触による文化変容という視点を投入しなければならないと私が思い出したことです。それで異質的な文化接触による文化変容という、その視角で書いた最初の思想史の論文が「開国」なんです。ですから、それが外国に二年間滞在して帰ってきたときに、決定的に「原型」という発想になるんですけどね。私がコメントしたいのは、その文化接触という考え方自身が、普遍史的な発展段階論の否定を意味しているということなんです。したがって、『日本政治思想史研究』はまだ非常に大きく普遍史的な発展段階論を想定しているんです。つまりボルケナウ的な「封建的世界像から近代的世界像へ」という普遍史的な研究です。ところが、文化接触というのは、歴史を縦の発展とすれば、いわば横のぶつかり合いなんです。いわば怒涛のように横から異質的な文化がやってくる。開国がそうでしょ。つまり、異質的な文化がぶつかりあったときにどういうものが生まれるのかという問題は、縦の歴史的発展段階という考え方の中にはないわけです。ある時代からどうやって次の時代が生まれてくるか、奴隷制からどうやって封建制が生まれてくるか、ということですから、まったく異質な文化圏がぶつかりあうという文化接触の問題は、普遍的な発展段階論からは生まれない。(中略)じつは「開国」を書いた当時はあまり意識していなかったんです。「原型」とか「古層」とかいうことを考えるときに文化接触の問題を意識したんです。つまり、大陸からの文化が日本に入ってきてどういう変容を受けるか、という問題です。そこでbasso ostinato[執拗低音]という結論がでてきたんです。でも遡ると「開国」からです。(『話』三、二八〇‐二八二頁)

 

「開国」(一九五九年、『集』八)のなかで丸山は「開国」を次のように定義している。

 開国とはある象徴的な事態の表現としても、また一定の歴史的現実を指示する言葉としても理解される。象徴的にいえばそれは「閉じた社会」から「開かれた社会」への相対的な推移を意味するし、歴史的現実としてはいうまでもなく、十九世紀中葉以後において、極東地域の諸民族、とくに日本と中国と李氏朝鮮とが「国際社会」に多少とも強制的に編入される一連の過程にほかならない。(『集』八、四五‐四六頁)

 

つまり、「開国」には「精神的な問題」と「物理的な問題」という二つの意味がある。丸山に言わせると、日本はその「開国」を三度経験しているという。それは①室町末期から戦国時代。②幕末維新期。③敗戦後、の三回であるが、論文では第二期が主題とされるものの、第三期にいる我々は「歴史的な開国をただ一定の歴史的現実に定着させずに、そこから現在的な問題と意味とを自由に汲みとることが必要」(『集』八、四七頁)だと丸山は言う。

ここで注目したいのは、まず、「近代化」という問題にひきつけて考えたとき、内発的な近代化を経験した西欧とウェスタインパクトによって否応無しに開国させられたアジアとでは、やはりその性格を異にするということ。ここではそういう意味(=物理的な問題)で近代化を非一義的に捉えることができることを確認したい。結局のところ、アジアにとって近代化とは開国からはじまり産業化に至るまでの「課題」として存在し、日本はその意味での「近代化」には成功したと言える。

ここで問題になるのは、精神的な意味についてである。丸山にいわせると、この意味での「開国」は「自由」の問題と関係しているという。

 閉じた社会が開いた社会になり、日本があらゆる面で世界につながったとき、そのときはじめて自由というものが大幅に問題になる。これは、ヨーロッパだって、お互いに横の交通が非常に盛んであるということで、昔から自由が発達してきたので、俗に島国島国といわれているけれども、それは、想像する以上に大きな意味を持っていたんじゃないか。その島国が打破されかかった最初は室町から戦国時代ですね。つまり、スペイン人、ポルトガル人が来て、キリシタンが伝わってきた前後の時期をみますと、日本は非常に自由で、活発な空気があった。(中略)民衆のエネルギーがみなぎっていたわけですね。これは、やはり開国というものと関係があり、そしてこれが、その後どうなったかというと、鎖国にしちゃったわけです。(中略)そして鎖国があったために、そういう封建体制が、三百年近くの長きにわたって続いたわけだが、ところが第二の開国ということは、ペリー来航とともに、はじまったわけだ。それを契機にして、とざされた社会の固定性が非常に動揺して、結局明治維新になって、明治以後、一時は百家争鳴で非常に自由であったわけで、日本が世界の国際社会の中に初めて引き入れられて、いろんな面で強烈な刺激をうけ、非常に溌剌とした空気がみなぎった時代だと思います。これも非常に、大ざっぱに言ってしまうと、第二の開国の衝撃も、結局、支配層に都合よく処理されてしまった。(中略)つまり、万邦無比の国体というものを持ってきて、国体を強化するものは取入れるが、それに反するものは異端としてしめ出す。(中略)ところが、その第二のやり方がとうとう破綻したのが、今度の戦争で、今度は本当に開国になった。これまで「摂取」という形で使いわけができたのは、やはり日本が地理的に島国で、民衆相互の自主的な横の交流ができにくかったという事情が大きい。だから、日本が初めてここで文字通り、世界のまっただ中に引き入れられて、今後のコミュニケーションの発達とともに、テクノロジカルな鎖国はもとより、イデオロギー的な鎖国ということも出来なくなった。つまり、世界のあらゆる大きな運動というものと、日本の歩みを揃えて進んでいかなければならなくなってきた。(『座談』三、二七九‐二八〇頁、傍線引用者)

 

ここには「自由の実現」という丸山が理想とする世界が表現されているともいえるが、丸山は「『開国』という問題を鎖国から開国へ、という日本の遭遇した歴史的経験と、それからclosed societyからopen societyへという超歴史的な―というか、何度でもくりかえされる普遍的な問題という二重性においてとらえよう」(『集』一二、一二〇頁)としていた。「そこには戦争中の思想的な鎖国が解かれた直後の状況と、たまたま戦争中に読んでいた維新の精神状況とがダブって私の目に映った、という学問以前の、あるいは学問を越えた生活経験が背景にあった」(同、一二〇‐一二一頁)という。そして「そのことが同時に思想史、具体的には日本思想史の方法論についてのこれまでの考え方を大きく変えないではおかなかった」。(同、一二一頁)どういうことか。丸山の説明を引用しよう。

 私はいろいろな点で、当時のマルクス主義者の「反動的」とか「進歩的」とかいう思想の規定の仕方に疑問をもちました。それは『日本政治思想史』を辛抱してじっくり読んで下されば、よくお分かりになると思います。けれども、それにもかかわらず、卵のなかにひよこが育って、殻をやぶってとびだすというような形で思想や世界像の内在的な歴史的変化に着目するという点では、たとい、どんなに公式的なワリ切りに反対して、微妙な、地下で進行している思想的変遷に目を向けるといっても基本的に歴史的発展―つまり縦の線―の見方の枠内にあります。どうもそれだけでは幕末維新の思想的景観を、さらに、今度の戦争以後の思想的文化的景観をとらえ切れないのではないか、いわば横からのいわば大波とか洪水の衝撃―そのインパクトというものに大きな思想的意味を与えて初めて「開国」というものが思想史的な対象として問題になってくるのではないか。といっても歴史的な縦の線を辿る方法が無意味というのではむろんありません。ただそれだけでは十分でなく、「横から」の急激な文化接触という観点を加えることがどうしても必要と考えるようになったのである。(『集』一二、一二三頁)

 

ここで語られているのは、『日本政治思想史研究』とは違った歴史の見方である。敗戦時の日本に明治初期のイメージを重ね合わせたことが「開国」という問題を考えるきっかけとなり、この開国の問題の意味が「文化接触」の問題として問われたことが、丸山に戦前とは違った新しい歴史の見方を与えた。ここでは、開国→文化接触という問題意識の具体化が丸山に従来とは違う歴史の見方が芽生えさせたこと。それに伴って「近代化」の捉え方に変化が生じたことを確認したい。

 ちがったパターンの近代化がありうる。典型的、つまりThe「近代化」があるのではなく、複数「近代化」がある。日本の近代化のパターンと中国の「近代化」のパターンは同じでないし、また同じである必要もない。日本の「近代化」とヨーロッパの「近代化」はまたちがうように。そういう考えは戦後強くなった考えで、「日本政治思想史研究」を書いた当時には、The「近代化」を基準にしてどこまで近代化しているかを考えていました。しかし「近代化」の内容については、すくなくともその当時のマルクス主義者の考えていた「近代化」の発展段階のとり方には不満でした。しかし、The「近代化」があると考えていた。複数の「近代化」があり、その比較が問題なのだという考えは当時はなかったわけです。(「普遍の意識欠く日本の思想」一九六四年、『集』一六、五四頁、傍線引用者)

 

こうした「近代化の非一義性」という命題のなかで思考される「文化接触」の問題こそ、「外から来る普遍者とそれに対応する原型」という丸山思想史のモチーフにほかならない。これに関して言えば、問題意識が「開国」から「文化接触」へと深化したことに、丸山の初めての海外生活という体験が関係していることは興味深い。

 一九六三年に長い外国生活から帰ってきて、講義を再開した時に講義を全部書き改めて、日本思想の原型という言葉を使ったんですね。(中略)「日本思想の原型」という名前で講義を、六三年から。その頃から少しずつ考え方が変わったわけです。つまり、『日本政治思想史研究』とは非常に違った点ですけれども、僕の考え方が変わった点です。(『話』二、二〇九頁)

丸山は海外ではアジアがひとくくりで捉えられていることが印象的だったという。「開国」という問題は、アジア全体の問題だが、そのなかで日本はどのように位置づけられるのか。海外生活を通じてこうした視点を与えられたことが、その後の丸山の思索にとって大きなヒントになったのではないだろうか。

 

[xii] 可能性としての思想史というモチーフに関しては、「思想史の考え方について」一九六一年(『集』九)を参照。

「過去の伝統的な思想の発掘を問題にする場合に、我々はその思想の到達した結果というものよりも、むしろその初発点、孕まれて来る時点におけるアンビヴァレントなもの、つまりどっちにいくかわからない可能性、そういったものにいつも注目することが必要であります。」(同、七六頁)

ネガ像からポジ像を読み取るというこうした発想は、「忠誠と反逆」(一九六〇年、『集』八)によく現われている。

 

[xiii] 箱根会議とは、アジア学会(Association for Asian Studies)に属する近代日本研究会議(Conference on Modern Japan)が一九六〇年の夏(八月三〇日‐九月一日)に箱根で行った会議の名称である。米国で五カ年セミナーの計画がなされたときに、たまたま、研究者の多くが日本に居合わせることがわかったため、初回のセミナーがバミューダで開かれるのに先立って、急遽「予備会議」という形で開かれたというのがその経緯らしい。この五カ年セミナーとは、元々、一九五八年の秋に、ミシガン大学で行われたとある会議の中で、日本に関する多数の本格的な研究成果を、もっと組織的に糾合しようという話になり、その結果、「近代日本研究会議」(The Conference on Modern Japan)が発足したことに始まる。こうして、フォード財団の資金援助の下、日本の近代的発展について、五つの側面から考察すべく、五回の年次セミナーの開催が決定した。(箱根会議については、ジョン・W・ホール、細谷千博訳「日本の近代化にかんする概念の変遷」マリウス・B・ジャンセン編『日本における近代化の問題』 岩波書店 一九六八年を参照のこと)

このように、「箱根会議」はそうした五カ年セミナーの第一回目が一九六二年一月に開かれるのを前に行われた予備会議であるが、この会議では、概念としての近代化の定義について討議された後、今後五年に渡って開かれるセミナーの議題の紹介とこれに関する討議などが行われた

 

[xiv] 丸山眞男論において、箱根会議を取り上げたものとしては、垣内健「丸山眞男の『近代化』観の変容について―箱根会議を中心に―」(『比較社会文化研究』第二十五号、九州大学大学院比較社会文化学府、二〇〇九年)がある。

 

[xv] 毎日新聞は一九六〇年九月八日、十日と二回に分けて「国際会議のむずかしさ―『日本の近代化‐その問題点と方法』の会議から―」と題して、遠山とドーアに依頼した執筆記事を掲載している。遠山茂樹「現実と伝統は違うも学者の協力は可能」(『毎日新聞』一九六〇年九月八日付)、ロナルド・P・ドーア「問題意識の相違―世界的な検知と民族的な見地と―」(『毎日新聞』一九六〇年九月十日付)。また、朝日新聞に投稿しているのはライシャワーである。エドウィン・ライシャワー「東西『考え方』の交換―〝ハコネ会議〟に参加して」(『朝日新聞』一九六〇年九月一一日付)

 

[xvi] 大雑把に言えば、近代化=産業化ないし経済成長という観点からこれを考える立場である。例えば、箱根会議には出席していないが、ロストウがその典型である。(Walt Whitman Rostow, The Stages of Economic Growth: A Non-Communist Manifesto, Cambridge University Press, 1960:木村健康・久保まち子・村上泰亮訳『経済成長の諸段階――一つの非共産主義宣言』ダイヤモンド社、一九六一 年)また、出席者でいうと、ロストウのような経済の観点に政治の観点を合わせた独自の図式を用いて近代化について考えたライシャワーエドウィン・O・ライシャワー「近代史の新しい見方」一九六二年初出、『日本近代の新しい見方』講談社現代新書一九六五年、所収を参照)や、近代化論は発展途上国がその産業化に際して直面するであろう困難への解決法を示すことにその意味があるとするドーア(R・P・ドーア「日本近代化論の再検討」『潮』一九六六年十月号、参照)など。総じてその特徴としては、近代化を考える際に、イデオロギーといったものを考えず、例えば「経済成長」のような、なるべく明確にこれを定義することが可能な指標を求める傾向がある。

結果的に、イデオロギーを考慮しないということは、例えば、マルクス主義封建社会ブルジョワ社会というコースのように、必ずしも近代化というものを、ある決まった目標に向かう一つのコースを示すものとは捉えないということでもある。これに対して、マルクス主義は自身の(あるべき)モデルが否定されたことに対して、また丸山のようなノンマルキストは、近代化の非一義性という観点は共有しつつも、やはり民主主義に向かうか否かというような個人の価値体系を重要なメルクマールとして考えたいという個人的な問題意識から、それぞれこれに反発する。(ちなみに、そうした問題意識にたって、箱根会議の後に丸山が執筆したのが、近代化に対する個人のリアクションの問題について考察した「個人析出のさまざまなパターン―近代日本をケースとして」『集』九、である)

 

[xvii] マルキストは、欧米の学者のいう「近代化」論は中ソ論争というタイミングにつけこんだマルクス主義の「抹殺」の目論見であり、アメリカ帝国主義後進国戦略構想の「理論」的裏付けにほかならず、その理論も近代化の非一義性などと謳いながら、結局それはただのブルジョア民主主義の発想に過ぎないと猛反発している。例えば、矢留一太郎「いわゆる「近代化」理論の根本的(基本的)批判」上中下(『アカハタ』一九六三年一二月一一日付~一三日付)、井上清「「近代化」への一つのアプローチ」(『思想』一九六三年一一月号)、和田春樹「現代的『近代化』論の思想と論理」(『歴史学研究』一九六六年一一月号)、金原左門『「日本近代化」論の歴史像』(中央大学出版部、一九六八年初版。一九七一年に増補版)などを参照。

 

[xviii] 丸山は次のように述べている。

 主として[全米アジア学会所属の]アメリカの学者ですけれど、イギリスの学者や日本の学者も入って近代日本研究会議が[一九六二年一月にバーミューダ島で]催されました。その予備会議が[一九六〇年八月に]箱根であったんです。その時、遠山茂樹君のようなマルクス主義者も出ました。[私は]ペーパーも出しました。それが近代化論のおそらく最初だと思うんですね。その時、日本側の学者と英米学者との間で近代化の概念について、いろいろ食い違った点がありました。非常に大きく食い違った点を列挙しますと、第一は、マルクス主義の場合、あるいはマルクス主義に近い人の場合、「近代化」イコール「封建制から資本制への移行」である。これが近代化であって、これ以上に近代化の意味を使うのは間違いである。だから近代化というのは資本主義化と同じこと、封建制から資本制への移行が近代化なんだと。アメリカの学者もイギリスの学者もそうは考えない、もっと広い概念だと。つまり近代化をもっぱら歴史的カテゴリー、歴史的な段階として理解するか、それとも歴史的な段階ではなくてもう少し広い概念として理解するか、その食い違いが一つ第二の食い違いは、イデオロギーとか価値判断、是非善悪の価値判断というものを近代化の定義の中に入れるかイデオロギー(Ideologie)、価値判断(Werturteilung)あるいはエートス(Ethos)と言ってもいいんです。そういう倫理的な判断ですね。そういうものを近代化の定義の中に入れるか、あるいは入れないで、つまりノン・イデオロギー的に定義するか、これが第二の問題です。(中略)私自身はマルクス主義者とは意見を異にした。つまり「封建制から資本制への移行」だけを「近代化」とするのは近代化という概念を狭く解しすぎるんじゃないか、と。その意味では英米学者と一致しました。しかし違ってくるのは、エートスとかイデオロギーとか価値判断を近代化の中に入れるかどうか。私はこれを入れないと近代化を論ずる意味がないのではないか、と主張した。そしてそれはノン・イデオロギー近代化を定義する立場の英米学者のマジョリティの見解と非常に違いました。具体的に言えば、民主化とか自由の拡大とか個人の主体性の重視とか、そういうことを近代化の要素として入れるか入れないのか、私は入れないと近代化を論ずる意味自身がないのではないかと思う。同時に日本の場合にはそれを入れないと、近代という言葉を歴史の文献を見る場合に理解できない。(『話』四、二二五‐二二七頁、傍線引用者)

ただ、その議論の違いは別として、ノン・イデオロギー、近代化の中にイデオロギーを入れないで定義すべきだという人の立場、その近代化論というのは、私は日本では非常に誤解されたと思うんですね。日本では、近代化論というのは西欧の近代化を絶対として、それを尺度としてほかの国の近代化を測る議論だと言われているわけです。西欧的な価値体系をいちばんいいものとして、これと違っているのは遅れた近代化とか言って、やっつけるというか批判する。そういうのが近代化論だというのが、日本での一般的な受け取り方です。しかしそれは私の実際の体験からいうと非常に違うんです。これは英米学者とも意見が違いました。英米学者のためにあえて擁護するならば、そうじゃないんです。逆です、むしろ。近代化の道が多様だということを彼らは言いたかった。(中略)西欧のデモクラシーを通過しない近代化もあり得るのではないか、というのがヨーロッパ、アメリカ系の学者の主張した近代化です。それは必ずしも日本では正しく理解されていないと思うんですね。複数の近代化を主張したのが、ノン・イデオロギーの近代化の立場だということです。(『話』四、二二八‐二二九頁)

近代化の諸段階についてのいろいろな仮説のなかにも、ロストウのように経済成長を中心にしているのもあれば、政治的近代化とは何かを問題にしているのもあれば、宗教意識を指標しているのもあり、またそういう各領域間における「近代化」のズレとか落差に着目しているのもある。ロストウの場合は、経済発展を中心としていることと、彼自身あきらかに唯物史観の発展段階説に対抗する意識を持っていることのために、さっきのロストウ理論即近代化論、近代化論即アンチマルクス理論というような一般化したイメージを日本で生んでいると思うんです。私などはロストウ史観は唯物史観と同じ次元で比較するような「大理論」とは思っていませんから、逆にそれなりにおもしろい着眼もあるなという感じです。(中略)私は何か近代化の「一般理論」のようなものがすでにあるとは思いませんが、同時に、ロシア革命も中国革命も、また発展地域におこっている変化も、近代化のさまざまなヴァリエーションとして比較してみることが可能であり、また今後の見透しをつけるうえに有効だという考えです(中略)結局「近代化」を従来のように、封建制から資本制への移行にだけ限定しないで、もっと広くさまざまの側面から比較するという点で、ロストウ理論もひとつの問題提起として受けとめられると思います。(『座談』六、二八六‐二八七頁、傍線引用者)

ただ、アメリカの学者の「近代化」論の問題意識についていえば、むろんひとつには、発展地域がコミュニズムでない方向に「近代化」する可能性の探求ということはありますよ。だけどすべての学者がそうだとはいえない。少なくもそれだけとみるのは学問的にフェアといえないと思うんです。というのは、そこにはアメリカの正統的イデオロギーにたいする自己批判の側面もあるんです。つまり、中国・ソ連あるいは旧植民地の「社会主義的」方向もひろく「近代化」の文脈に入れて比較しようという関心は、自由世界対全体主義というイデオロギー的割り切りにたいして、いやあれはあれでやはり「近代化」なんだという一歩突きはなした認識は、自由とか平等とか民主主義とかファシズムとかいった「主義」を一切合切「近代化」の範疇から排除して、その意味で「没価値的」に近代化を定義する傾向を伴ったんです。(中略)ですから、私たちが戦後に日本社会の民主化をいった場合の「近代化」―つまりエトス的側面を不可欠の契機とした「近代化」概念とはどうしても喰いちがいが出てくるし、現に箱根会議でも喰いちがった。ただこういう「没価値的」近代化概念に立つ学者とは意見はちがっても対話ができるし、いろいろ学ぶところもあります。それを一方が自由世界対全体主義といい、他方が帝国主義社会主義といってるだけでは、対話ができません。その意味では私はある種のマルクス主義者のように、近代化論のミソもクソも一緒にしてイデオロギー的役割の観点だけから批判するのには与しないんです。もっとも箱根会議に出ていた学者の一人だったライシャワーがその後大使になって、大使として―つまりアメリカ政府の代弁者として―いっているのか、それとも一学者としていっているのか、役割があいまいなままで、日本近代化論をブッたり、左翼学者を批判したりするのはちょっと困る(笑)、あれで近代化論は大分損をした(笑)。(『座談』六、二八九‐二九〇頁、傍線引用者)

引用が長くなったが、当時の近代化論の図式と丸山の考え方がよく現れているので敢えて引用した。また、丸山以外のノン・マルキストについては例えば、川島武宜「近代日本の社会科学的研究―一九六〇年箱根会議の感想―」(『思想』一九六一年四月号)、同「『近代化』の意味」(『思想』一九六三年一一月号)を参照。

 

[xix]金井圓編『箱根会議議事録』(米国アジア学会近代日本研究会準備委員会、一九六一年、以下、引用に際しては『議事録』と記す)を参照。もっともここでは、その要点にのみに絞り、且つ丸山の発言に注目しながらごく簡単にその議論を追うにとどめる。要するに、ここでは、丸山が大凡どのような発言をしているかが確認できれば良い。その中で、箱根会議が、前述した近代化論をめぐる図式のなかにあることを押さえつつ、丸山の発言からその関心を拾いながら丸山の近代化論に迫りたい、というのが本節の趣旨である。

 

[xx] その九つの基準とは以下の通り。

  • 比較的高度の都市化。
  • 読み書きの能力が広くゆきわたっていること。
  • 比較的高い個人当り所得。
  • 広くゆきわたった地理的社会的移動性。
  • 経済内における相対的に高度の商品化傾向と工業化。
  • ひろくゆきわたり各階層に滲透しているマス・メディア網。
  • 社会の成員が広く近代的な社会過程に参加し関わりあうこと。
  • 相対的に高度に組織化された政府の官僚主義的形態があり、これに社会の成員が広く関わり合っていること。
  • 科学的知識の発展を基礎として、個人がその環境にたいして益々合理的かつ非宗教的に思考しようとすること。

 また、これについては、J・W・ホール、金井円・森岡清美訳「日本の近代化―概念構成の諸問題―」(『思想』一九六一年一月号)も参照のこと。

 

[xxi]

丸山「ここであげたcriteriaがinterrelatedであることを前提としての議論ですが、僕の考えではそれらがあまりにもsociologicalであるように思われます。たとえば⑨に書いてある、個人が環境に対して合理的orientationをもつというのは、つまるところ意識の問題、attitudeの問題ではないかと思います。このlevelであるならば、もっと個人のvalue systemなどといった問題がでてこなくてはいけないのではないでしょうか」

 

議長「それはpaperの後でintellectual modernizationとして挙げてありますけれど、この一般的基準のところではあまりはっきり出ていませんね」

 

丸山「⑨のところでethos的なのがひとつだけとりあげてあるに過ぎないこと自体、これらのcriteriaを恣意的、at randomなものに思わせるのです」

 

そして、こうした丸山の主張に高坂が賛同する。

 

高坂「Ideologicalな面が問題にされて良い。人間の問題、近代人が問題になる。」

 

さらに、Liftonが高坂を支持する。

 

Lifton「近代化された社会の個人の意識の問題について高坂の考えを社会心理学者として支持」

 

(以上、『議事録』七‐八頁)

 

取り敢えず、ここでは丸山が近代化を考える際に「エトス」のような個人の価値体系を重視していること。これに高坂正顕のような哲学者や、欧米の社会心理学者が賛同していることを確認したい。

 

[xxii] Levyの提案するカテゴリーは次のようなもの。(『議事録』一八頁)

 

     1 Indigenous       A   Old and Traditional

                             B   Yong and Empty

 

            

     2  Underdeveloped      A    O&T

                B  Y&E

 

 1と2は、近代化に関して内発的な発展を示した国々と、キャッチアップを余儀なくされた国々という違いである。この場合、日本は、Later comerの外発型でOld and Traditionalなので、2-Aということになる。その後、植民地化の経験の有無についてカテゴリーをどうするのかという意見が出て、例えば、2-Aの中にColony、Non-colonyを設ける案が示される。また、加藤周一が「oldは封建制を意味するのか」という問いかけると、「それも重要な要素」だと議長が引き継ぎ、1と2との区別の重要な点(議長)へと討論が展開していく。(『議事録』一九‐二〇頁)

 

[xxiii]  

丸山「学問の歴史からもそうですが、西欧をとって見ても近代を問題にしたのはドイツであったと思います。ドイツの歴史意識の勃興と関係があるのです。TroeltschやMax WeberのWesen des modernen Geistes[近代精神の本質:引用者]という考えが出た時期に始めて近代は問題となり、包括的に近代を捉えようとする空気が出てきます。すると、近代の自己意識化はⅠのgroupに少ないという結果になると思うのです。IのgroupにはいるAnglo-Saxonの間では一九三〇年以後になって始めてmaking of modern mind とかmodern spiritについての本が出るのです。一九三〇年以後と、こんどの戦後に於いて、この地域では近代の自己意識が出てくるわけです。抽象的な言い方で恐縮ですが(中略)、自己意識的なself-realizationへの傾向と、そしてbureaucratizationへの傾向と、この両者のantinomyとして近代は進行するのであり、それが主体としては矛盾でないのです。(中略)Institutionはそれ自身mechanizeされるのであり、国家をmechanismとして把握し、それを創り出し、変えて行く人間の自己意識があり、この2つのprocessがidealtypischには併行してくるのが近代です。ところが日本に於いては、bureaucratizationの方が先でSelf-realizationの方がunbalanceな発展を示したのです。(中略)Rommanticな解決法はbureaucracyからの逃避として自我の膨張をさせようとする一方、かのMarxismはこのdualismを克服しようとしてbureaucracyの方を推し進める方向をとるのです。Max Weberが何故あんなにrationalizationとbureaucratizationとを問題にしたかというと、それは彼の人格と関係していますが、destinyとしてrommanticに逃れることはできない。しかしbureaucracyを推し進めてもいけない。人間を受動化せず、不可避的なものから逃れず、不断にfree decisionを下していく人間のimageが彼のprotestantische Ethikの本の中に生きている。そこには彼の人間像があるのです。そこで川島氏や遠山氏の、日本では何故近代化が求められるかという問題と共に、さらに近代のもつこのantinomyをどう意識したかについてお考えをも伺いたいのです。日本が今modern societyを持っているのに対して、Turkeyや中国はそれをもっていないのです。近代のantinomyをくぐって来てそれを意識したドイツや日本で近代が問題になるのは意味のあることで、だから実践的関心がそこにはあり、単なるanalyticな、scientificな興味にとどまらないのです」(『議事録』二〇‐二二頁、傍線引用者)

 

[xxiv] 『議事録』二二頁

[xxv] ここでは、「認識と行動の不連続性」をめぐる丸山の思想のモチーフが「近代人」の問題に引付けて語られていることに注目したい。神なき時代にエトスなき個人は如何に生きるかという、ウェーバー的な憂鬱さを背負うような議論でもあるといえよう。こうした問題に丸山はどのように答えようとするのか。それが問題である。

また、こうした丸山の発言がLevyによって、「Self-realizationといったKant的な意味での発言もあったが、いろいろなcaseが出てくれば来るほどエモションで意味のないこと」(『議事録』二三頁)と一蹴されていることは、前述した近代化論をめぐる図式を端的に示しているといえよう。

 

[xxvi] ロバート・N・ベラー「意味の問題と近代化」(『みすず』一九六六年一二月号)を参照のこと。このペーパーは、アメリ社会学学会における報告の翻訳である。この報告でベラーは、「新しいメンタリティーは新しい科学や技術よりも重要である」というイギリスの哲学者ホワイトヘッドの言葉を引用しつつ、「精神的現象」という観点から近代化を考察しようとする。その内容を簡単に要約すると、大凡次のような話である。

 

ある社会がある段階からある段階に移行するときに、うまく宗教が機能すれば、社会はその大きな変化に対して混乱をせずに、うまくその同一性を保ったまま、変化に応じて、その社会構造の再組織化を達成することができる。要するに、近代化のように大きく社会が変化するときに、その社会にいる人間の精神がこれに対応するためには宗教の果たす役割が重要になるというわけだが、これをベラーは「社会心理的革命」と表現している。 

しかし、この「社会心理的革命」は、実際のところ、これを達成することは非常に難しい。それは新しい変化に対応できるメンタリティを確立することの難しさであるが、これをうまくやり遂げたのがウェーバーも注目しているプロテスタント宗教改革であった。このようなところでは、ベラーが近代化の第一イデオロギーと呼ぶ自由主義が定着する。しかし、初期の近代社会心理革命が不発に終わったり、宗教が、例えば宗教戦争だったり、体制にとって不都合だったりして、うまく機能を果たせなかったところでは、この近代化の第一イデオロギーは拒絶されて、ベラーのいう近代化の第二イデオロギーであるところの、ロマンティックナショナリズムや急進的社会主義が生じる。これらは、社会分化や個人主義的傾向を極力排し、緊密に統合された社会を希求する点に特徴がある。

第一イデオロギーアングロサクソンやフランス系の民族、第二イデオロギーは、ドイツや日本を念頭に語られているが、ここで注目すべきは、これらのイデオロギーに関してなんら価値判断が下されているわけではないということである。要するに、第一イデオロギーが拒絶されたところでは、第二イデオロギーを以て近代化するという、近代化の方法論が提示されているに過ぎない。前述した近代化論の図式がここにも反映されているといえよう。

そして、後述するように、ベラーはこうした観点から、『徳川時代の宗教』において、欧米とは違った方法で「近代化」に成功した日本の秘密を、特殊主義が普遍主義として機能するという日本社会の特異性に見出し、こうした日本に於ける価値体系こそ日本の経済成長を可能にした要因であるとこれを評価する。その点、ベラーのいう近代化の第二イデオロギーの末路を告発している丸山が理想とするのは、ベラーの表現するところの近代化の第一イデオロギーであるため、ベラーの「近代化の非一義性」に関して丸山は、「それこそが、問題なのだ」と反発するわけである。

 

[xxvii] 原書のTokugawa Religion: the Values of Pre-industrial Japan が出たのが一九五七年。その後、一九八五年に副題をThe cultural roots of modern Japanとしてペーパバック版が出る。邦訳は未来社から一九六二年に、堀一郎・池田昭訳『日本近代化と宗教倫理――日本近世宗教論』が出て、一九九六年に、ペーパバック版のまえがきを付与した全訳が岩波文庫からでているが、絶版。本稿では、岩波文庫版の池田昭訳『徳川時代の宗教』(一九九六年)から引用する。

 一応その内容を簡単に紹介しておこう。モチーフとしては、宗教が近代産業社会の発展に対して果たす重要な役割にパーソンズのカテゴリー観点から注目した作品であり、ベラーは本書において「日本の宗教における合理化傾向が日本の経済的あるいは政治的合理化にどのように貢献したか」(四六頁)という関心のもと、徳川社会を考察している。

その内容を大雑把に示すと、日本の場合、「政治価値」が優位性をもつ。政治的合理化が産業社会の勃興に意味を持つと考えるベラーにいわせると「日本は、この政治的合理化の過程の特異な、またいきいきとした例証を示しており、このことを理解してはじめて日本における特異な経済の発展が理解できる」(四一頁)という。こうした問題意識のもとで「聖なるものと、聖なるものに対する人間の義務の捉え方が経済的合理化に都合のよい諸価値や動機づけにどのように影響するか、またその媒介課程である政治的合理化の重要な役割が経済的合理化にどのように影響するか」(四六頁)を検証するのが本書である。

 第一章で上記のような主題が提示された後、第二章では、「徳川社会とはどんな社会か」という命題がパーソンズのカテゴリーに則して考察される。そこで見出される徳川社会の特徴は、①非人格的なものへの「忠誠」②遂行価値の重視であり、前者は、「一般化された特殊主義が権力の合理化と拡大という意味において普遍主義に相当する機能をもつこと」にその特徴があり、後者に関しては、遂行価値の重視にかかわらず、「政治価値の優位性はかわらず中心価値体系が深刻に分裂することがない」ところが特徴的だとベラーはいう。このように徳川社会においては、統合価値は目標達成価値に従属し、学問・宗教が手段として存在している。

第三章では、「日本における宗教生活」について論じられる。ここでは、徳川時代においては、宗教行為は中心価値を強化し、遂行と特殊主義の価値を強め、動機体系から制度体系にパターンを順応させるように促すことが指摘される。

第四章では「徳川期の日本における宗教と政治体系」について論じられるが、要するに政治的合理化の話である。ここで注目されているのが、忠の宗教である。武士道の倫理規範が商人階級にも拡大したことが指摘され、「積極的倫理行為者」という点で両者は一致しているという。こうした政治的合理化は経済的合理化に弾みをつけたとベラーは主張する。

第五章は第四章を引き継ぐ形で、「徳川期の日本における宗教と経済体系」について論じられる。要するに、ここで語られているのは経済的合理化の話である。ここではベラーによって「目標に対する没我的服従」の態度が指摘されている。

第六章で論じられるのは「宗教と倫理運動について」であるが、ここでは、これまでの分析を踏まえたうえで、具体的に石田梅岩を中心に心学についての考察がなされる。ベラーにいわせると、梅岩の「武士だけが臣ではなく、農民は田舎の臣だし、商人や尺人は都市の臣。それぞれがそれぞれの役割を果たしている」云々というのは、目的達成価値が支配的である日本に特有な社会観念であるという。

そして、第七章では「宗教と近代日本の勃興の関係」について「まとめ」がなされている。

 

[xxviii] 「ベラー「徳川時代の宗教」について」一九五八年(『集』七)

[xxix]

「近代化とは、教育や医学などはもちろんのこと、政治の近代化の概念を含んでいるとはいえ、経済的要因に非常に強く依存するものであるから、それはほぼ「産業化」と同義語である。この点から、近代化への動機づけは第一に経済的でなければならない、という結論を引き出すことは、論理の貧困というべきである。実際、日本における近代化への多くの動機づけは、経済的であるより政治的であり、権力の増大と関連していて、富の増大がたんなる手段にしかすぎなかったことは明らかであろう。」(ベラー一九九六、三五一‐三五二頁)

[xxx] パーソンズについては、高城和義『パーソンズの理論体系』(日本評論社、一九八六年)がよくまとまっていて参考になる。また、パーソンズとベラーについては、山本智宏「ロバート・ベラーのパーソンズ論―パーソンズ理論の受容と革新」(『社会学研究』七九号、二〇〇六年)を参照のこと。 

[xxxi] ベラー一九九六、四六頁。

[xxxii] 同前、三六三頁。

[xxxiii]

「西欧では、普遍主義は、多くの脈絡において戦士の忠誠倫理を変化させ、あるいは取りかえた。たとえば、古い特殊主義的忠誠は、新たな非個人的な国家主義イデオロギーと置きかえられ、これは、一層普遍主義的な忠誠を強調することになった。日本では、これと反対に、特殊主義は、批判されずに残存した。日本のナショナリズムは、永遠に支配する、全日本の家族をその分家とする本家として天皇家を中心としたために、とくに特殊主義的なものにとどまった。西欧では、種々の不安定な結合にかかわらず、キリスト教に固有の普遍主義は、究極的には、核家族の外で、特殊主義的忠誠の多くの関係を弱めるものとして作用した。日本では、国家神道は、ほとんど特殊主義的忠誠の現われにしかすぎず、儒教は、それをよわめるどころかむしろ一層再強化するものとして作用した。仏教は、滅私と禁欲主義の思想によって武士の忠誠倫理に対して、最大の影響を与え、これらの思想が特殊主義的忠誠を解体するよりはむしろ強めた。」(同前、三四五‐三四六頁)

「武士階級の倫理は、儒教と仏教の影響のもとに十分一般化し、民衆全体の倫理となることができた。皇統と国家宗教の継続は、およそ「原初的」な特殊主義を象徴するのに役立った。軍事的成果やその主君の命令の実行などを高く評価することによって、武士階級を超えて、あらゆる領域における遂行は高く評価されられうようになり、一般化した。」(同前、三四八頁)

 宗教が日本の場合、特殊主義的忠誠を強め、それが普遍主義と同じような機能を果たしたとこれを評価するベラーの宗教理解は、仏教に超越的絶対者、儒教に内在的普遍者の可能性を求める丸山と真逆である。

 

[xxxiv] 丸山の不満を書評から引用しておこう。

そもそも著者が触れているような地方的神性や民間信仰の統合過程が、我が国の場合けっして「呪術から解放」の一方コースではなく、仏教のような「普遍主義的」な救済宗教さえ、日本化される過程において広汎に呪術的要素と妥協しなければならなかったのはなぜか。(中略)むしろ著者の方法と問題意識からしても、国家神道や民衆宗教の呪術性にもかかわらず、ではないし、まさにトップ・レベルと社会的底辺での呪術性がいかに日本的な合理化=近代化を内面的に特質づけ、推し進めているかという秘密こそが、解明の核心でなければならない。(『集』七、二八五頁、傍線引用者)

 手段目標への熱狂的献身と機械的連帯性」はたしかに日本の「富国強兵」の内面的推進力であったが、それは同時に派閥性・割拠性・情実性の醗酵源ともなって、終始ナショナリズム自身にはねかえって来たのであって、これまた決して権力の一般化と合理化という一方交通の過程ではなかったはずである。著者は維新と引続く工業化における政治的動機の主導性を強調し、「政治的資本主義」というウェーバーの範疇まで用いながら、なぜか同じことの楯の反面としての「実業」の寄生的性格―それが経済的合理化を強靭に阻んだ面の意味を追求しようとしない。(中略)たんに一方における伝統主義にもかかわらず、他方における合理化というように分離すべきではなく、むしろその両者の構造連関の歴史的過程が著者の問題を処理する上にも究明のかなめだと思われるのである。(『集』七、二八六‐二八七頁、傍線引用者)

著者は総じて「近代化」のパターンの世界史的な多元性を強調するというきわめて正しい観点に立ち、その日本的特殊性を主として近代化の担い手と、近代化を推進するイデオロギーあるいは心理的動機づけの面で認めながら、結果としての「合理化」とか「商業化」自体の内面構造にこうした特性がいかに刻印されたかの面を看過したために、あたかも結果の普遍性を当然の前提として、もっぱら原因の特殊性に着目するという一面性に陥ってしまった。それでは日本の近代の「躍進」と「蹉跌」を統一的に理解する途は閉ざされてしまうのである。(『集』七、二八八頁、傍線引用者)

 つまり、丸山とベラーでは根本的に問題意識が異なる。社畜となる代わりにお金を稼ぐか、お金を犠牲にして自由を手に入れるか、といっては例えが極端で適さないだろうが、要するにここで問題となるのは、根本的に「問題意識」が違うのでそこから演繹される「宗教」に期待される役割も異なるということである。つまり、丸山は主体性という問題意識から普遍者としての宗教を思考し、ベラーは経済という指標に関し特殊主義でも近代化に寄与したという点を逆説的に指摘している。

 

[xxxv] もっとも、ベラーも後(一九八五年のペーパーバック版のまえがき)に「私の見落としたのは、富と権力の限りない蓄積からは良い社会が招来しないどころか、むしろ発展し得るどの社会にも必要な諸条件が否定されがちなことである」(ベラー一九九六、二六頁)と述べているように、歳月を経て丸山的な問題に近づいたという。

年月を経て、近代という研究課題を倫理的な個人主義とありうべき民主主義という観点からとらえるという意味で、私はますます丸山に近づいていった。倫理的に表現された近代のいずれの次元も米国や日本では確固とした形で制度化されていないため、丸山に適応されるかぎりにおいて「近代主義」は時代遅れの流行として軽んじられるものというより、未完の研究課題である。(ロバート・N・ベラー「学者丸山眞男と友人丸山眞男」『丸山眞男の世界』みすず書房、一九九七年、四九頁)

ベラーが丸山に近づいたというのは、具体的にどういう意味かという点は、ベラー論として検討されるべきものだが、後述するように、普遍者を介した自由の実現という丸山の理想は、普遍者の不在と消滅という事実によって、明らかに挫折している。丸山がベラーを批判することは、丸山の問題関心を考えたとき、至極当然のことだが、同時に、いくら「未完のプロジェクト」と言っても、丸山の挫折を打開する可能性は全くないのだろうか。こうした点も含めて、ベラーと丸山の議論を止揚するようなアプローチを、その有無から検討する必要があるのではないか、と筆者は考えてしまう。また、ベラーと丸山については、山本智宏「ロバート・ベラーの日本近代化論―丸山眞男による批判を中心に―」(『社会学研究』第七六号、東北社会学研究会、二〇〇四年一一月)、同「現代社会における『伝統』の問題に関する一考察―ロバート・ベラーと丸山眞男との果たされざる対話」(『政治思想研究会』第六号、風行社、二〇〇六年)がある。

 

[xxxvi] 前掲、『丸山眞男の世界』五一頁。

[xxxvii] 「普遍者意識欠く日本の思想」一九六四年(『集』一六、五八頁)

戦後啓蒙と丸山眞男(4)

一九三五年夏。丸山は友人と二人で宮城県刈田郡越河村(現在の白石市越河村)の定光寺にいた。大学二年の夏である。緑会懸賞論文を書くため、寺に籠って勉強しようというのだった。勉強する丸山を寺に残して一人遊びに出かける友人は猪野謙二である。このとき丸山が一生懸命に読んでいたのは、主にデモクラシーに関する本、ジェームズ・ブライスやハロルド・ラスキだった。[i]結局、この年の懸賞論文は書けずじまいで、翌年の懸賞に応募することになった。このときの出題者は南原繁。出されたテーマは「政治学に於ける国家の問題」だった。丸山は「政治学に於ける国家の概念」[ii]と題した論文を提出する。「あの論文が問題なく法学部をパスするようだったら、法学部に残ってもいい」。[iii]そう豪語した論文が南原の目に留まる。[iv]これが丸山が南原に師事して研究生活を歩みだすきっかけだった。丸山は当時をこう振り返っている。

 

これはまさに若気の至りの論文でありまして、自由主義的国家観からファシズム国家観への歴史的発展とその社会的背景ということを偉そうに論じたものですが、その結びの中で私は「今や全体主義国家の観念は世界を風靡している」云々と書きました。それは私の実感でありました。昭和十一年という時期はすでに法学部の一学生にそういう実感を与えても不思議ではない時代だったと思います。(中略)この稚拙な論文で、無論、力点はファシズム・ナチズムの国家論の批判に置いたのですが、それと並んで審査教授の南原先生の哲学的な立場である―と私自身では思っていた―新カント派の方法論に対して生意気にも批判を試みたのであります。文字通りの引用は恥ずかしいからやめますが、要するに、当為と存在、理想と現実とを峻別する「カント的、とくに新カント的」な二元論は、現実の理想性を強調するところの保守的な支配層と、理想の現実性を根拠づけようとする無産層―という妙な言葉を使って居りますが、これはまあプロレタリアートとか労働者階級とかいうべきところ、そういう言葉遣いは、一寸警戒して避けたわけであります―のイデオロギーとの間にはさみ打ちにあって「無力」である、という趣旨の勇ましい批判が含まれておりました。[v]

 

恥ずかしがっている丸山には悪いが、末尾だけ引用しておこう。丸山はその論文の末尾を次のように結んでいる。

 

我々の求めるものは個人か国家かのEntweder‐Oderの上に立つ個人主義的国家観でもなければ、個人が等族のなかに埋没してしまう中世的団体主義でもなく、況や両者の奇怪な折衷たるファシズム国家観ではありえない。個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもそうした関係は市民社会の制約を受けている国家構造からは到底生じえないのである。そこに弁証法的な全体主義を今日の全体主義から区別する必要が生じてくる。[vi](傍線引用者)

 

この「弁証法全体主義」という言葉の解釈をめぐっては様々な解釈がある[vii]が、ここでは「近代批判」という文脈のなかで、南原の哲学的立場(と丸山が考えていたもの)を批判していること。[viii]しかし、徐々にそうした立場を丸山が見直していったという点を確認したい。

 

常識として、わたしたちはすでに三〇年代において、とくにアメリカの恐慌以後は、いわゆる、ブルジョア民主主義というものに対する批判とか懐疑とか、そっちのほうをさんざん注ぎこまれていたわけだから、わたしたちの精神史から言えば、なだれを打った転向の時代に、かえって、ブルジョア民主主義とか自由主義とかいうものを見直した、というか再認識したといったほうが正しいんです。(中略)つまりマルクス主義にはコミットしなかったけれど、やっぱりムード的左翼だったから、河合栄治郎さんなんかの自由主義万々歳に対してはあまっちょろいなあ、と思っていた。ところが大学に入ると、なだれを打った左翼の転向時代で、しかもきのうまで勇ましい、ラディカルなことを言ってたやつが、たちまちわたしなんかをとび越して右がかったことを言い出し、やがて御稜威とか聖戦とかを口ばしるようになる。(中略)とにかく平素口で言っている思想だけではわからないものだという感じを痛切に味わった。それでもまだ大学時代には、リベラル・デモクラシーとか新カント派的な二元論なんかは、市民社会を絶対化しているのでダメだというような論文を、南原繁先生に出しているくらいです。だから、むしろ初めから惚れていたというより、だんだん見直してきたんです。[ix]

 

後年、近代の定義を「ルネッサンス・リフォメーション以後のヨーロッパに発生したブルジョワ文化の最良の遺産」 と述べている丸山だが、一般的な風潮としてブルジョワ民主主義への批判や懐疑が強かった一九三〇年代には、丸山自身これに批判的であり自由主義ブルジョワ民主主義を「無力」と一蹴していた。[x]問題はどのような形で見直されていったのかである。これが即ち戦後の思索の伏線になる。「ぼくが自分の経験を通して学んだのは、経験的な科学を超えた、なにものかへのコミットメントがないと、時代に対する抵抗もできないし、たんなる経験的学問では自分を支える精神的支柱にもならないのではないかということです」[xi]と語る丸山がみた風景とは何か。[xii]

 

時代批判の厳しさというか、時代の潮流に対して少しも動かされない、その確固としたもの。如是閑を含めた人たちとはぜんぜん違うのです。[xiii]宗教があるかどうかは別として、南原先生のそれはむしろ実在的なものだから、学者というより、人間としてしっかりしていて、右顧左眄しない。世を挙げて翼賛時代でしょう。だから、そのこと自身、大変なんですね。ぼくらが信じていた人は、どっちかというと左翼に多かったけれど、ぜんぶ転向でしょ。いまから思うと転向とは言いえない三木清とか、そういう人にしても、東亜共同体なんて書きだすものだから、「なーんだ」と思いました。なんて頼りないものだという思い。ぼくはかつて、存在と当為を峻別するなんてと、容易に新カント派を批判していたし、南原先生の立場を批判していたのだけれど、いずくんぞ知らん、存在と当為を結びつけるヘーゲルなんかをやっているのは、京都学派を含めて、ぜんぶ時代に流されてしまった。ぼくが学問的には批判の対象とし、資質的にも馴染めなかった、カントばかりやっている人のほうが、ちゃんとしていた。(中略)南原先生がドイツについて言っていました。「君、見たまえ。頑張っているのは、みんなカント派だ。ヘーゲルをやっているやつは、みんなナチにいかれてしまったんだ」と。ぼくがヘーゲルばかりやっているものだから。[xiv]

 

「現実と日々接触していると、毎日の現実を問われますからね。そうすると、すべて周りの状況が非なる時に、いや、これが正しいんだと、これが真理なんだ、これが正義なんだと思ったって、よほどじゃないと言い切れません」[xv]と当時を振り返る丸山は、あるとき岡義武に「丸山君、われわれの方がどうかしているんじゃないか」と言われ、衝撃をうけたという。[xvi]時代は大きく動いていた。一九四一年一二月八日。「君、えらいことになったね」。川島武宜が研究室に飛び込んできた。[xvii]南原の部屋に行くと「このまま枢軸がかったら世界の文化はお終いです」といわれハッと我に返った。[xviii]こうした戦前期に丸山がみた風景はその後の丸山の思索に決定的な影響を与えることになる。

そして、一九四四年六月、サイパン島陥落。「日本はもうお手上げで、これで戦争は決まった」などと荻窪の新居(妻ゆか里の疎開した親戚の留守宅)の応接間で鶴見和子と談笑していると、新婚三ヶ月の新妻が一枚の紙を持ってきて丸山に手渡した。召集令状だった。[xix]「遺書」として書いた「国民主義理論の形成」(後に「国民主義の『前期的』形成」と改題)を新宿駅まで見送りに来た辻清明に手渡し、出兵[xx]した丸山は、平壌に召集され、その後、再び広島宇品に召集。そこで終戦を迎えた。

 

さきのような南原先生の「警告」がいかに「実践的」に思い当ったにしても、そうした「非歴史的」もしくは「超歴史的」な立場が態度決定のうえで実証した強味を、思想史をふくむ歴史的アプローチのなかに学問的にリンクさせるすべをついに見い出せないまま、私は一九四四年に、応召によって研究生活から引き離されることになりました。[xxi]

 

戦前の丸山はまだ自分がみた風景をどのように思索すべきかわからなかった。それでは、丸山は一体これを問う術を戦後のどのタイミングで見出したのだろうか。戦後の丸山がこのような「告白」をしていることに注目したい。

 

最後に個人的な「告白」をしますと、私はこの著者のてびきによってはじめて学問することの何たるかを学ぶことができたのですが、著者自身の哲学的立場と信仰には今日に至ってもなおついて行けずにさまよい歩いている不肖の弟子です。[xxii](傍線引用者)

 

この「告白」は一九五九年のものである。「主体性というのは超越的絶対者、普遍者にコミットしなければ実現できない」という丸山思想史を貫く「認識と行動の不連続性」の問題が「具体的に思考されるのは六〇年代(厳密に言えば、50年代の終わりからこうした問題について触れてはいるが、それが全面的に展開されるのは欧米からの帰国後)のことである。[xxiii]六〇年代の思索を窺うまえに、我々はもう少し戦前の伏線をみていかなければならない。それは、丸山が近代をどのように語り始めるのか、という問題である。徂徠論文[xxiv]と作為論文[xxv]の二つ(後に『日本政治思想史研究』に収録)だけ簡単に見ておこう。ここでは、丸山が「近代」をどのように語り始めるかという点、その語りを戦後の思索の伏線として捉えるという観点から、要点だけを拾っていきたい。[xxvi]

近代の見つけ方

 徂徠論文の趣旨について、丸山は次のように述べている。

 

今の考え方とは違いますけど、そのときの考え方に立つなら、江戸時代における正統的な世界観であった朱子学が、どのように変容し、解体して、それに対する否定者によって取って代わられるようになったのかと。また、儒教内部の変容を、国学がどういうように受け継いだかを取り扱って、江戸時代における政治思想史のダイナミズムを書こうとした。[xxvii](傍線引用者)

 

丸山は近代の「超克」が声高に叫ばれるなかで、徳川社会における近代的要素の成熟に注目することによって、これに対抗しようとしたという。[xxviii]それは具体的には「朱子学的な世界観」の「解体」に見出された。[xxix]ではそれはどのように解体されていくのか。この問題に対して、徂徠に「政治の発見」者として東洋のマキャベリの称号を与える丸山[xxx]は、そうした儒教の政治化がその「根拠」への問いを惹起し、それを担保するため彼岸性を帯びた絶対的人格が要請されたと述べる。そして丸山はこれが引き金となって徂徠学において学問における公・私の分岐が実現されたと指摘する。要するに、もともとの朱子学は、聖人の道に誰でも至れるというオプティミズムと、それゆえに規範をとやかく言うリゴリズムとの共存であったが、徂徠において先王の道が彼岸的に超越化されたために、「政治の発見」という徂徠学の特徴は公的な方向へ、一方でそれ以外のものはリゴリズムからの解放とともに歴史意識が興隆し学問的に広がりを見せたということであり、その私的な側面の継承者が宣長国学であるということだが、モチーフがわからないと理解しづらい。[xxxi]

すなわちそこにあるのは、「人間の認識能力に広汎な制限を附与し、従来理性的認識の対象たりし多くの事項を信仰の領域に割譲することによって、一方に於て宗教改革を準備すると共に、他方に於て自然科学の勃興への路を開いた」「後期スコラ哲学の果たした役割」を「徂徠学や宣長学に於ける『非合理主義』」に見出すという着想である。[xxxii]そして、このような体系によって生まれた種々の学問的関心とその発展という「文化価値の自律性」こそ丸山がみていた「分裂せる意識」としての近代意識の特徴であった。丸山はそこに、封建社会に対抗する主体形成の逆説的な出現を捉えようとする。

このように徂徠論文で語られているのは、徂徠・宣長に与えられたスコラ哲学的役割とその帰結としての公私の分岐にみられる近代意識の萌芽であるが、もはやこうした視座が、作為論文の結末を規定してしまっている。このことは作為論文における「無からの作為」という命題に注目してみると、わかりやすい。[xxxiii]さらに言えば、この当時の丸山本人は知る由もないが、後でみるその後の本店の思索の結末もこれを規定している。どういうことか。それは例えば、作為論文における「神と世界との関係」をめぐる三段論法を一瞥すれば事足りる。

丸山は作為論文において「近代国家論の重要な概念はすべて神学的概念の俗化したものである」というシュミットの命題を掲げ、中世的世界の崩壊をうけた後の君主の性格のモデルを与えたのは「神と世界との関係」であるとし、スコラ哲学からデカルトに至る哲学史を語り始めるが、結局それは徂徠論文においてすでに語られていることであり、また、そのなかで導かれるのは次の方程式である。

 

デカルトの神」=「絶対君主の理念型」・・・①[xxxiv]

「徂徠における聖人」=「絶対君主」・・・②[xxxv]

 

すると、理屈の上では、①、②の式より、

 

デカルトの神」=「徂徠における聖人」・・・③[xxxvi]となる。

 

この時点で、日本においてキリスト教に代わる絶対者の存在が具体的(現実的)にありうるかと問えば、それまでの話になるが、むしろこの意識(可能性)としての絶対者が消滅する過程が六〇年代の『講義』において丸山本人によって語られているのである。[xxxvii]

西欧政治思想史と日本政治思想史をパラレルなものとして考えた場合、確かに「公私の分離」という点では同じだが、西欧では公と私が双生児として生まれ、宗教的倫理がこれを担保しているのに対し、日本の場合、公の突出と私の自閉性という問題がどうしても拭い切れない。このように宗教的倫理が持つ主体形成原理をはっきりと自覚しないまま行われた思索による「近代」探しは、結局のところ挫折している。しかし、この挫折は丸山の思想の展開を考えたとき、それは単なる破綻ではなく、思索の深化の伏線にほかならなかった。(続く)

 

 註

[i] 『回顧』上、一五五~一五六頁。大学二年のときの出題者は蝋山政道。出題は「デモクラシーの危機を論ず」。このときの勉強が後に役に立ったと後年語っている。

「そのころ、二年と三年のときに、一生懸命勉強して緑会の懸賞論文を出そうとしたことは、ぼくにとって非常によかった。国家論と政治学は、ほとんどこの機会に読みました。英語またはドイツ語、および日本語も含めて。その後、日本政治思想史をやっていたから、漢文の勉強のほうが忙しくて、なかなか政治学の勉強ができないのです。だから、学生のときにそういう勉強をやっておいたのは、非常によかった。」(『回顧』上、一五八頁)

 

 

[ii] 『集』一(通称、「緑会論文」)

[iii] 『回顧』上、一五七頁

 

[iv] 成績は「第二席A(第一席該当なし)」南原の評価:「・・・かゝる考え方に根拠して一箇 の体系としての政治学が如何に立てられるか、又筆者が要請する如き新な国家概念が歴史的社会的地盤との関係に於て如何に在るのか、に就いて重要なる問題が存するであらう。然し、それとして一つの纏つた論作であり、基礎的文献をよく咀嚼し、刻念なる研究と相俟つて、就中ファシズム国家のイデオロギーの分析に於て徹つたものがあり、叙述又内容に富み、蓋し今回提出せられた論文中優れた一篇たるを失はぬ」(『集』一、三二頁、傍線引用者)

 

[v] 「南原先生を師として」一九七五『集』十、一七五‐一七六頁

[vi] 『集』一、三一頁

[vii] まず丸山自身は、以下のように述べている。

 

あの論文はつまらんものですけれど、最後の結論のところでね、ぼくは「今の全体主義はダメだ」と書いた。それは本当の全体主義ではない、「弁証法全体主義」でなきゃあいかん、と書いているわけです。あのころぼくは非常にマルクス主義に近づいていました。マルクス主義ではなかったけれども(体系としてのマルクス主義の哲学にはいろいろ疑問をもっていましたから)。だけど、「弁証法全体主義」といったとき、かなりマルクス主義的なものを予想していたのは事実です。それはファッショの側がさかんに「全体主義」を高唱したので、こっちも勢い全体主義というコトバを用いて、今のファシズムには矛盾の論理がないからあの全体主義はニセモノだ、といおうとしたのです。そのときに、南原先生が、「筆者のいう弁証法全体主義の社会的基礎は何なんだ」と、問うているわけですね(笑)。これは、まいったね、ぼくは。もうあの時代には、その基礎はプロレタリアートだとは、ハッキリ言えないわけです。(『座談』九、二〇〇頁、傍線引用者)

 

こうした丸山の証言を踏まえて、松沢弘陽は「社会主義」と解す。

マルクス主義をくぐった丸山が「弁証法的な全体主義」によって意味したのは、「世界を風靡している・・・・・・」「今日の全体主義」に替わるべき社会主義だった。

(松沢弘陽「丸山眞男における近・現代批判と伝統の問題」『思想史家丸山眞男ぺりかん社、二〇〇二年、二七四頁)

都築勉はそこにヘーゲルをみる。

若き日の丸山は、この論文で「あらゆる社会的拘束から脱却した自由平等な個人」を単位とする個人主義的な、また合理主義的な、そうした意味での「市民的国家観」の歴史的限界を説いている。そして、「弁証法的な全体主義」というのは社会主義を暗示すると思われるが、この「弁証法」は個人と国家の関係においてこそ働くと思われるから、結局、丸山の求めたものは両者の間のいわば自由と結合の弁証法的過程であったと考えることができる。ここに浮びあがるのは、マルクスよりもむしろヘーゲルの姿ではあるまいか。一九四六年に書かれたある文章の中で、丸山はヘーゲルについて、「その行きついた所はプロシア的な立憲君主制の讃美ではあったが、ヘーゲルが最も反動化した時代に於ても、〝主体性の原理〟すなはち個人の主体的自由は決して見失はれてゐない」と述べているが、そこでヘーゲルの課題としていわれている「近代国家に於ける自由の基礎づけ」こそは、研究者生活に入ったときの丸山自身の「所与」の問題関心であったと考えられる。(都築勉『戦後日本の知識人―丸山眞男の時代』世織書房、一九九五年、四六頁)

 

異色なのは今井弘道の『丸山眞男研究序説―「弁証法的な全体主義」から「八・一五革命説」へ』(風行社、二〇〇四年)における解釈で、今井は同書の中で丸山のいう「弁証法的な全体主義」は「田辺哲学」であるという。少し今井の解釈をみてみよう。

今井は、戦間期法哲学的/政治哲学的思想世界は、「法哲学的カント主義」と「法哲学ヘーゲル主義」との正面衝突の時代であり、両陣営は、文字通りの意味で「神々の闘争」を闘っていた(同書、一三三頁)という。(ここでは、「法哲学的カント主義」は「個人的人格価値を最高の価値と見る」立場。「法哲学ヘーゲル主義」は「政治的=集団的価値を個人人格価値とは独立の意味をもった、場合によっては個人人格的価値を越えた価値をもつ立場」と説明されている。同一三三頁)

 今井によると、丸山は、前者の立場であった南原に対し、後者の「法哲学ヘーゲル主義」の立場から緑会論文を執筆したという。(同一三四頁)そして、こうした立場から表明された「弁証法的な全体主義」は、単に「法哲学的カント主義」に対置された平板で没「弁証法」的な、ファシズム的国家観でもなく、個人の実践的主体性の強調を介した点で「機械論的な唯物論の方向に理解されたマルクス主義にはみられないダイナミックな革新性」があると今井はいう。(同一三七‐一三八頁)

 そして、今井は自身の田辺哲学理解を踏まえて、こうした「丸山の『弁証法的な全体主義』というモティーフは、ヘーゲル法哲学に依拠しつつマルクスを克服していった田辺哲学を踏襲するところに成立したものであった」(同一四三頁)と結論づけている。

また、今井が若い丸山を新ヘーゲル学派とみなすことを「馬鹿げた間違い」と一蹴する田口富久治は、丸山のいう「弁証法的な全体主義」を「人権と市民権の保証を獲得した自主独立の諸個人たる同市民が自発的に形成(作為)する脱資本主義的国民国家、「市民社会」の止揚の上に立つルソー的な自由な市民の自由な政治共同体」(前者強調田口、後者引用者)と解す。(田口富久治「丸山眞男 プロス・アンド・コンス」『政策科学』七巻一号〈通巻一四号〉立命館大学政策科学会、一九九九年十月、三頁)(なお、「弁証法的な全体主義」の解釈をめぐる田口の今井批判については、田口富久治『丸山眞男マルクスのはざまで』日本経済評論社、二〇〇五年、一七四‐一九四頁を参照のこと)

***

丸山の「弁証法的な全体主義」をめぐるこうした解釈については、私自身の勉強不足もあり、なんとも言えないが(学生時代の論文で丸山本人が言うようにそこまで考えていないというのが本当のとことだろうが)、本稿は丸山の思想が六〇年代において結実するという視点に立っているため、戦前期はその伏線において捉えるにとどめ、あえてここでは強いて単語の解釈に固執することはしない。

 

[viii]私は先生の哲学に対する(少なくも自分のつもりでは)真向からの反対者として、批判者として弟子入りした、ということであります。『自分のつもりで』といいましたのは、何といっても私は非常に未熟で理解が足りなかったのですが、先生の哲学は当時、少なからぬ有力な法学部教授の立場でもあった新カント派の、マールブルグ派の方法論とも、同じではなく、むしろ原カント、カントそのものの先生なりの理解に立ち、それを先生独自の哲学で修正或いは発展させたものであります。けれども、そういうことなどは到底私の理解の外にあり、先生の立場も十把一からげにして、こういう自由主義的思惟方法は時代の危機に対して無力である、ときめつけたわけであります。」(『集』十、一七六‐一七七頁、傍線引用者)

 

[ix] 『座談』七、一〇九‐一一〇頁

[x] もっとも、緑会論文における丸山の意図は学問上の「人民戦線」を構築することだったらしい。

けれど僕の意図は、こんなことを言うと笑われるかもしれないけれど、いかに僕がある意味で傲慢であったか・・・・・・。国家論の「人民戦線」をつくること。(笑)そういう当時のマルキシストでないリベラル左派というか、アンチ・ファシストのある空気を非常によく出していると思うのです。マルキストを含めて、学問上の「人民戦線」をつくろうという・・・・・・。これは戦後捨てましたけど。いろいろな経験を経て捨てました。(『話』二、四五二‐四五三頁)

 

[xi] 『回顧』上、二〇二頁

[xii]  決定的な体験として、丸山は度々、一高時代の留置場経験を挙げている。唯物論研究会の講演を長谷川如是閑の名前に誘われて偶々聞きに行って特高に捕まった話である。本富士警察署の留置場では戸谷敏之と一緒だった。「話がとだえたとき、ついポロポロッと涙を流してしまった。房と房の間でサインを交換してて、向うから『丸山、元気か』というサインが来る。こちらから『元気だ』ってまたサインを返してるわけですけどね、実は元気じゃないんだな。これで俺の一生はめちゃめちゃだと思った。この高校時代の二つの事件が、ぼくの内部にある実に大きな挫折なんだな。『俺はだらしない人間だ。いざとなると、平常、読書力などを誇っていたのが、ちっとも自分の支えになっていない』という挫折感を十代で経験したんです。」(『座談』七、五九頁、傍線引用者)取り調べでは「心の日記」と題した手帖に書き付けた丸山の言葉をいちいち引き合いに出されて論詰され殴られた。「取り調べの最中に、あまりすごいんで、特高の前でも泣き伏してしまった」(『回顧』上、五一頁)という。

傍線の「二つの事件」と言ったもう一つの事件は、唯物論研究会の講演で捕まる前の同じ年、二年生の丸山が一高の寮委員(庶務衛生委員)だったときに起こったボート部と寮の委員との衝突事件のことである。これも度々言及される有名な事件だが、この事件の委員会でついにノーと言えなかったことが深い心の傷になったと丸山は当時を振り返っている。「俺はなんてだらしのない人間なんだということ、いざというときノーと言えない人間だということ・・・・・・ですね。」(『座談』七、五九頁)丸山は当時を振り返って言う。

 

そうしたら、府立一中を四年終了でぼくより一年上になっているボート部員が、寮の委員長を殴ってしまった。そこで緊急委員会が開かれた。委員会は、自分が関係している事件なので退席し、副委員長が議長になって議事が進行する。副委員長が熱弁をふるったのです。「暴力をもって寮の自治を犯したのだ」、極刑に値すると。論理は全くその通りなんです。非はボート部にあることは明らかです。ただ、極刑といっても、退寮処分にすると学校も退学になってしまう。それで、何回か委員会をやったけれども、結局委員会で極刑論が通ってしまったわけです。これは、ぼくの非常に大きな挫折なんだけれど、副委員長の熱弁に圧倒されてしまったのです。(中略)これは、ぼくにとって非常に大きな傷になった。ちょっと極刑はひどいじゃないかと思いながら、副委員長のまくし立てるのに押されて、ノーと言わなかった。後でいろいろ聞いてみると、寮の委員や総代会の議長になって、そういう意味で精神的に傷を受けたのが多いのです。ティーンエージャーの子どもにとって、セリフガバメントというのは、あまりに重い課題なんです。(『回顧』上、六二‐六三頁)

 

そんな丸山は、一中の頃の自分がいちばん許せないという。「一中の会には、ずっと出なかった。一中そのものも嫌いだし、一中にいる自分が嫌いという感じ。」(『回顧』上、四八頁)こうした一中の頃の自己嫌悪は、唯物論研究会で捕まった事件をきっかけに自己を省みた結果であった。「自己分析というか自己批判の結果、自分のだらしなさというか、自分の弱さというか・・・・・・。それは、正直のところ、中学の時はあまり感じていなかった。後から顧みて『さぞ、いやな子に映ったろうな』ということで、その当時ではないのです。」(『回顧』上、五三頁)「生意気な口をきいていた自分がこういう目にあったときに、日頃の読書とか知性とか、そういうものが何も自分を支えない。だから、一中時代の生意気な自分という自己嫌悪の感情は、そのときのだらしなさから逆に遡ったのかもしれない。」(『回顧』上、五一頁)という丸山の中学時代になにがあったのか。

 中学校で習志野に軍事訓練に行ったときです。宿舎で何かいたずらの騒ぎをおこして先生から集合を命ぜられたことがありました。そのとき、先生は「首謀者は前に出ろ」といいました。私はまぎれもなく首謀者―すくなくともその一人でしたが、先生の形相がこわくて出そびれてしまいました。そのかわりほかの生徒が先生に主犯と目せられ、実は大した役割をしていなかったのに、可哀そうに大目玉を喰ったのです。すくなくとも十何人かの級友はこの光景を目撃しています。どんなに彼等の目に私はずるがしこい卑怯者と映ったことでしょう。私はいまでも中学のクラス会にあまり出たくないのは、このときだけでなく、中学生時代の自分自身について後々までむかつきたくなるほど嫌悪感をもよおす思い出があるからです。(「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」『君たちはどう生きるか岩波文庫、一九八二年初版、三二一頁)

 完全にコペル君である。しかし、このような思い出話が、たんにコペル君の成長物語に終わらなかったのは、こうした自己体験が時代状況への認識とシンクロし、「戦争とその余波の狂瀾怒涛の時代にその全青春期を生きた一日本人の知的発展の記録」(『集』一二、四九頁)のモチーフとしてその仕事を規定したからである。こうした自己体験と時代状況への認識のシンクロのなかでオットー・ヴェルスの演説なども読まれていることに注目したい。

 このウェルズの演説を大学時代に知ったとき、あの日本のなだれをうった転向の過程で痛いほどの実感で受けとめました。(中略)ウェルズも社民なりのマルクス主義者で、エンゲルスが『反デューリング論』の中で、自由・平等の永遠普遍という理念がいかにブルジョワ的な歴史的成約を持っているかを論じているのを知らないはずはない。しかもここで彼はいかなる歴史的現実も永遠不滅の理念を破壊しえない、という信仰告白をしている。この瞬間での自由と社会主義への帰依は、歴史的現実へのもたれかかりからは絶対に出てこないし、学問的結論でもない。ギリギリのところでは「原理」というのはそういうものでしょう。(中略)あの状況の中でウェルズを支えたものは何か―それが私の脳裏にきざみつけられたんです。(中略)ただ、言葉ではいえないけれど、私は体験を通じて、やはり何かそういう「道理」の究極的な優越を信じてきましたね。一九三〇年代の終わりから四〇年代にかけて、私の学生時代にもインテリは観念のお化けで、現実を知らない、たんなる口舌の徒だ、といった形で、当時の自由主義知識人への批判がさかんでしたよ。私だって理性を信じっぱなしでなくて、いろいろ動揺しました。おれは十八世紀の啓蒙時代に生まれるべき人間じゃなかったか、どうも生まれるのが遅すぎたんじゃないかなどと・・・・・・。だけど体験を通じて、「道理」は通る、歴史の無理は結局通らない、なまじ「情報」なんかよりは、その感覚で判断しよう、というはなはだ非合理的な確信を強めましたね。(『座談』五、三一六‐三一七頁、傍線引用者)

 

[xiii] 丸山の考える「如是閑と南原の違い」については、『座談』九、一九九頁を参照。ここでは如是閑を「認識者、スペンサー的な進化論」、南原を「反進化論」と捉えて「結局ね、『価値判断』というものを自分の哲学のなかにどう位置づけるかということについていえば、如是閑の哲学のなかからは結局それは出てこなかったんじゃないか」(同、一九九頁)と言っていることに注目したい。そういう面で、丸山は南原の明確な価値判断と反進化論的態度に「震撼された」という。

 

[xiv] 『回顧』下、七〇‐七一頁

[xv] 『話』三、二〇八頁。とくに丸山が考えさせられたのはマルクス主義者の転向だという。

転向する人は、マルクス主義の中にあるMaterie[物質]、現実、歴史的現実、それから歴史的発展、歴史的必然性、そちらの方を重視した人は、必ずと言っていいほど転向しました。というのは、世界を見回してみても「現実」はまったくそれと反対の方向に行っているわけです。翻然として全体主義に行っているわけですね。これが「現実」じゃないか。だから、「自由主義から全体主義へ」というのは歴史的必然ではないか、という・・・・・・。その面で[マルクス主義を]受け入れている人は、大体まぁ、転向という言葉を使うかどうかは別として、考え方が変わりました。そうじゃなくて、マルクス主義を、ある意味で「規範」として、つまり「現実」と離れて、にもかかわらず真理は真理なんだという、規範として受け取った人は、非転向です。(『話』三、二〇七‐二〇八頁)

 

 

 新カント派についていえば、大学の学生時代はマルクス主義の影響を受けて、新カント派のいう文化の自律性ということには非常に懐疑的だった。だが学問なり文化の自律性ということをかたくなに主張する立場の強さというものをナチ・ドイツの下の学界や日本の実例で見、学問の自律性を否定し、学問が生活によって制約されるという考え方や党派性の主張がそのままファシズムを合理化する論拠になっていく例をたくさん見たときに、ぼくは随分考えさせられました。弁証法とか、観照よりも行動をといったスローガンが、ヴェクトルの方向だけかえて同じ人間を動かしている。同じラジカルといっても、行動様式のラジカリズムは思想の問題とは一応別に考えなければならないとか、そういう問題をいやおうなくつきつけられたんです。(『座談』四、一〇四頁)

 

[xvi] 『話』三、二〇八頁

[xvii] 『集』一五、二五三頁

[xviii] 『集』十、一九四頁

[xix] 『集』一五、一六三頁

[xx] 「本論の前奏にすぎない徳川時代の部分を書いている最中に、一九四四年七月はじめ、突如私に召集令状が舞いこみ、初年兵教育を受けるために、私ははるばる挑戦の平壌につれてゆかれた。この論文の叙述が幕末までで中絶しているのは、そのためである。召集令状を受けてから新宿駅を出発するまでに、まだ一週間の余裕があったので、私は、家を出る直前までこの原稿のまとめに集中していた。私がペンを走らせている室の窓の外には、私の『出征』を見送るために、日の丸の旗を手に続々集って来る隣人たちに、私の亡母と、結婚して僅か三ヶ月の妻とが、赤飯をつくってもてなしていた。その光景は、いまでも昨日のことのように脳裏に浮かんでくる。もしこの論文の調子にいくらかパセティックなところがあるとするならば、それはこうした緊迫した状況の下で書かれたこととおそらく無関係ではなかろう。一九四四年七月という時期に応召することは、生きてふたたび学究生活に戻れるという期待を私にほとんど断念させるに充分な条件であった。私はこの論文を『遺書』のつもりであとに残して行った。」(「『日本政治思想史研究』英語版への著者序文」一九八三年、『集』一二、九六頁)

 

[xxi] 『集』十、三四一頁

[xxii]南原繁フィヒテの政治哲学」を読んで」一九五九『集』八、一一〇頁

 

[xxiii] 「大は世界の動向から、小は周辺の具体的人間関係までをふくめて、もし経験的現実として目に映る世界がすべてになってしまって、それをこえた目に見えない権威―神であっても理性であっても「主義」であってもいい、とにかく見えざる権威によって自分がしばられているという感覚がなくなったら、結局は見える権威に―これまた政治権力であろうと、世論であろうと、評判であろうと―ひきずられるというのが、私の非合理的な確信なんです。」(『座談』五、三一五頁)という主体性をめぐる非合理的な確信が丸山の思想のモチーフである。こうした不合理的な確信は註六三のような体験のなかで育まれ、その後の思索のなかで普遍者の命題として問われることになる。

普遍者をめぐる命題は、学術的には、近代社会の〈成立〉をめぐって現われるが、(註二四)より具体的な形で思考されるのは六〇年代であり、『日本政治思想史研究』の場合は、後述するように前近代社会の〈崩壊〉に視座があるので具体的に問題関心にあがることはないが、「普遍者無き日本の近代化」をめぐる問題は「超国家主義の論理と心理」(一九四六)や「日本の思想」(一九五七)でも現れてはいる。要するに、前者では「普遍者無き日本の近代化」の末路が語られ、後者では方法論が語られている。そして、普遍者の可能性を日本の思想に探す作業が六〇年代の『講義』(四‐七冊)にほかならない。そして、この問題は、日本の近代化をめぐる問題でもあり、丸山自身の問題でもあった。それは、中学、高校、そして軍隊時代の自分のなさけなさ、醜さへの嫌悪、コンプレックスである。また、こうした体験から丸山政治学の方向性を規定する丸山眞男の政治観も生まれる。

 

[xxiv]「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」一九四〇『集』一

[xxv] 「近世日本政治思想史における『自然』と『作為』」一九四一『集』二

[xxvi] 『日本政治思想史研究』を取り上げた研究は枚挙に遑がないが、「要約」としては、さしあたり、その要点をうまく捉えたものとして都築勉「『日本政治思想史研究』を読む」『丸山眞男への道案内』(吉田書店、二〇一三年)が簡便である。又、歴史学からの「批判」については前述したように、本稿の趣旨からあえて取り上げることはしないが、一応、丸山学説を正面から取り上げたものとして、平石直昭「戦中・戦後徂徠論批判」『社会科学研究』(三九巻一号、一九八七年)だけ挙げておく。

 

[xxvii] 『自由』三九‐四〇頁

[xxviii] 「『日本政治思想史研究』あとがき」一九五二年(『集』五、二九〇頁)、「『日本政治思想史研究』英語版への著者序文」一九八三年(『集』一二、九四‐九五頁)

[xxix] 丸山がみた徳川社会とは、安定と停滞が取り違えられ、自然と規範が連続し、人間の自己意識が欠如した世界であった。

 

徳川時代の思想史なんかを勉強していて私が非常に感じたことは、ああいう封建社会の色々な学問、ないしイデオロギーというものに根本的に共通した特徴というものが感じられる。そのなかの、少なくとも一つとして、私はそこにおいて人間の自己意識ということが欠如しているということを感じたのです。これはどういうことかというと、人間が環境との乖離を感じていない、つまり自分の環境のなかにとけ込んでいるということなんですね。環境のなかにとけ込んでいるということは、自分の環境というものと自分がひとつづきになっている。つまり環境が客体として理解されているのではなくて、むしろ自分の身体の延長というか、そこに空間的な連続性がある訳です。そこで、そういう雰囲気のもとにおいては、人間の社会的な環境、人間をとり巻く社会的環境というものが結局自然的な環境、自然界というものに連続している。いいかえれば、社会秩序と自然秩序が同じものとして把握されている。(『座談』一、二七頁)

 

こうした意識は、当時支配的だった朱子学的思惟に求められ、丸山はその解体のなかに近代意識の成長を求めた。丸山は、こうしたモチーフを通じて「広くは日本社会の、狭くは日本思想の近代化の型、それが一方西欧に対し、他方アジア諸国に対してもつ特質を究明しようとした」(『集』五、二八七頁)という。

この点、問われるべきは冒頭にヘーゲル(シナ停滞論)が引用された理由だろう。これについては、まず当時「何故中国は近代化に失敗し、日本は成功したのか」という問題を考えていた丸山は、「中国の停滞性に対する日本の相対的進歩性という見地」について①「一面では正当さを含みながらも、他面では事態の不当な単純化に導く危険性」があると自己批判していること。(同、二八九頁)(丸山は一九八五年の段階でも「停滞と言うと価値判断が入るから、問題なんだけれども、やっぱり再生されて、毛沢東まで続いていると思いますね。」〈『話』二、三六四頁〉と述べている。)そして、一九五二年の「あとがき」の段階では、②「カッコ付の近代を経験した日本と、それが成功しなかった中国とにおいて、大衆的地盤での近代化という点では、今日まさに逆の対比が生れつつある」(『集』五、二八九‐二九〇頁)という認識を示していること、の二点を確認したい。

 

ヘーゲルの引用については、丸山は次のように述べている。

  

書き出しでヘーゲルの停滞論から始めたというのは、後の日本の思想史が、封建制の賛美ばかりに見えるけれども、よく見るとその中に見えない過程で自己否定の契機が育っているということを書きたかったということが一つ。もう一つは、つまりこれは明治以後の日本の儒学者に対する私の非常なアンティパシィ(antipathy)というのかな、反情があるんです。それは、さっき言った儒教なんです。日中を儒教でくくるんですよ。それで東洋精神というのは儒教精神。日中は兄弟であるというのは儒教精神で同じだという、そういうのが非常に強かった。反動的な時代だったですから、同時に東亜共同体論にもなるわけです。それで日本の間違いは明治維新の時にヨーロッパ文化を取り入れたことだ、これが日本浪漫派の人たちの主たる主張です。日本の今日の根本的誤りは西洋のものを取り入れたことにあるということ。儒教信仰とか皇道信仰とか、もういろいろな本がたくさん―僕もたくさん持っていますけれど、お目にかけます―出て、それに対する〔私の〕非常な反感があった。したがってその当時の日本主義に対する反情が強かったあまり、今から思えば儒教に対して否定が強すぎた。儒教の中に自己否定的な契機がどうやって起こってくるのかということばかりに興味を持って、一つはマルクス主義の思想的な影響がありました。それで同時に東亜共同体論に対する批判があったわけです。それはちょっと説明するのが困難なぐらいです。つまり、同文同種というイデオロギーぐらい日中友好を妨げ、日本の侵略を合理化した観念はないんですよ。(『話』四、二六六‐二六七頁)

 

そして右の二点については丸山の中国観を考える必要があるだろう。丸山の中国観(ひいてはアジア観)については、「竹内好丸山眞男」という命題も含めて、様々な観点から今後考察されるべきだと思うが、ここでは本稿の趣旨を鑑みて、丸山の中国革命(一九四九年)への評価についてのみ触れておきたい。中国革命については、丸山が「modernization=westernizationという定式をはじめて完全にぶちこわしたのが、中国革命だ」(一九五五年の日記、『ノート』四二頁)と言っている点に注目したい。四九年の革命について丸山は竹内好とよく議論をしたという。

 

竹内好さんとよく議論しましたが、彼はマルクス・レーニン主義というのは道具で、民族独立が主だとしょっちゅう言っていました。僕は、いやいや、マルクス・レーニン主義にコミットしたことは画期的だと。僕は精神の面から言いますからね。中華帝国思想はマルクス・レーニン主義で打破された。マルクス・レーニン主義というのはあらゆる国家の上にある思想ですから。中華帝国思想が、世界的な普通的な思想にコミットしたのは初めてだと。それまでは天子が治めているのですから、自分が文化の中心でしょ。まるで富士山の上に自分がいるようなもので、あとは夷狄が周りにいるというのが、中国の世界像だった。この世界像が打破されるということは、やはりマルクス主義にコミットしなければできなかった。普遍的なイデオロギーにコミットしなければできなかったと言って、随分議論しました。(『話』四、三〇七‐三〇八頁)

 ここではマルクス・レーニン主義にコミットして中華帝国思想が打破されたことが評価されていることに注目したい。そして丸山が「キリスト教とかコミュニズムの場合は、なんといってもまず、一定の世界観があって、教会や党はその世界観に奉仕し、それを実現するための組織です。ところが、いわゆる大日本帝国の国体思想というのは、それをどう解釈するにせよ、はじめにロゴスありきではなくて、逆にはじめに一定の組織権力があって、その弁護論なんですね。」(『座談』六、四六‐四七頁)と言っていることを考えれば、傍線②の意味は自ずと明らかになる。こうした「普遍者の命題」が「近代化の非一義性」という命題の下、日本思想史において具体的に問われるのが後述する六〇年代の本店の思索にほかならない。

 

[xxx]  徂徠に注目した理由として、『回顧』で次のように回想していることにも注目。

 

ある意味では、ぼくに対する過大評価と悪口とが同時にくっついた批判の一つなのですが、政治を重くみて、政治的思惟の優位ということから、徂徠学を高く買った。そして政治思想というものを日本で、それ自身、独自に存在するものとして認めた、と。それは褒め言葉だけでなく、同時に江戸時代の思想史を歪曲したという批判にもなるのです。ぼくにとっては、非常に簡単なんですね。大学にいる人ならよくわかるんだけれど、ぼくが初めて東洋政治思想史を受け持って、非常に困った。東洋だけど、日本の政治思想ということにして江戸時代をやるとするでしょう。いろいろ読んでみるのだけれど、政治思想といえば君臣関係だけ。考え方として思想史にならない。君臣の義ということで何ら変化はないのです。国学にしたって、やはり君臣が対象ですね。でも何とかして東洋政治思想史の講座を担当して助手論文は書かねければならない。そうすると、徂徠学なんですね。修身斉家‐個人道徳の政治の手段化。これを中心におけば政治思想史になるわけです。徂徠の政治思想が立派だとかいうことではない。矢部貞治さんが、「政治の優位」という論文を戦時中に書きました。法に対して政治が優先するというナチの根本思想ですね。ぼくは、そういう考え方に反感をもっていました。だから、「政治的思惟の優位」ということを必要以上に強調したのは、明らかに助手論文執筆中の意識なんです。単に道徳論や倫理学説だけではなくて、日本にもこういう政治論があるぞ、と。その論文に、徂徠学における「政治の発見」といっていいだろうと書いたのですが、ぼくが徂徠学の中に発見して喜んだようなものです。ぼくにとっては大発見なのです。(『回顧』下、二一八‐二一九頁)

 

[xxxi]  丸山が津田左右吉宛の書簡(一九四〇年六月二一日)に「西洋の社会科学を専攻した者の眼に徳川時代の思想がいかに映じたかといふ点で、多少とも先生の御関心を惹くことが出来ましたら幸甚の至りです。」と書送っていることに注目。(『書簡』一、三頁)丸山は後年、そのモチーフを次のように述べている。

 

『プロ倫』は早く訳されたものですから、熟読しましたし、正直言って下敷きに使いました、『日本政治思想史研究』の。それからボルケナウですけれども。中世の超自然と自然が連続している段階から、超自然がますます超越的になってくる。だから「神の超越性」がますます強調されていく。そこでカルヴァニズムが出てくる。すると逆に、近代的な実証科学という、「この世」的なものがますます「この世」的になってくる。つまり、超自然との自然の連続性が断たれていく過程。これは面白いと思ったのですね。それで、今はちょっと自己批判をしていますけれど、この図式を使えると思ったわけです、〔荻生〕徂徠に。朱子学における「超自然」。超自然と言うとおかしいですけれど、形而上学と経験的なアプローチとの連続を、〔徂徠は〕徹底的に絶った。社会の経験的な考察というのは、大体古学のほうから出ているのです。その代表として、いわば政治を絶対化するわけです。デカルトやなんか、みんなそうなのですね、読んでみると。デカルトはもちろん徂徠と同じというのではないけれど、例えばデカルトの中に「神がもし欲したならば、二等辺三角形の内角の和は五角形にできただろう」と。(笑)つまり、「神は万能だ」という前提をとるとそうなる。そこで、神を徹底的に超越化すると、逆に彼岸的なものは、徹底的に実証的につかまえるという方向がでてくる。スコラ学というものが、そこで解体してくるわけです。その後、近代科学の成立がある。その過程において神が逆に利用されてくる。つまりスコラ学よりももっと絶対化、超越的なものになってくるという、僕は、それを政治の絶対化とパラレルに見ようとした。そこに無理もあるますけど、それが一つの動機なのです。だから、その過程で『プロ倫』は役立ちました。(『話』二、四一五‐四一六頁)

 

また、丸山は徂徠論文に関してボルケナウ『封建的世界像から市民的世界像へ』に学んだ点として「聖トマスにおける自然法の渾然とした体系が解体してゆく具体的過程の分析に大きく学んだ」と述べている。(「思想史の方法を模索して」『集』十巻、三二八頁)

 

頭にあったのは、スコラ自然学です。スコラ自然法と、儒教自然法とがパラレルになるのです。その解体過程を、ボルケナウなんかの影響で問題にしている。その場合の自然法は、むしろネガティヴな要素です。解体していく要素です。だから自然法から実定法へという過程。実定法というのは、だれか人間がつくったものだということでしょう。自然法は人間がつくったものではない。規範というものが自然に存在するのだという考え方から、人間がつくったのだという考え方へ転回する、これが近代なのだという。それを下敷きにして見ると、朱子学自然法の解体という考え方が出てくる。ですから、ネガティヴな考えで、のちに関心となった自然権とは全く結びつかない。(『回顧』上、二五九‐二六〇頁)

 

このようにボルケナウのモチーフが徳川時代に投影され、自然と規範の連続性が解体していく様子が描かれる徂徠論文だが、後述するように、それが前近代世界の〈崩壊〉に視座がある限り、そこには「キリスト教」に代わるものが日本にはないという事実の深刻さは表現されていない。しかし、作為論文の結論は、もはや初めからこの問題

によって規定されていたのである。ちなみに、ウェーバーの『プロ倫』は和辻哲郎の「現代日本と町人根性」(『和辻哲郎全集』四巻に収録)への反駁に役立ち―江戸町人の歴史的位置づけに関しては丸山は後年もこれに自信を持っていた(『書簡』三、二三三頁)―マンハイムに関しては、「なぜ丸山はマルクス主義者にならなかったのか」という命題について「マルクス主義イデオロギー論の問題性」について語る際、ボルケナウがマルクス主義的認識論に依拠していることの逆説的な「悲劇」(『集』十、三二九頁)が指摘され、この「悲劇」こそマンハイムの思想史的方法を感受する契機となったという。

[xxxii] 『集』一、三〇一頁

[xxxiii] 田中久文は「西田哲学の問題意識を一部受け継ぎながらも、それを戦後において新たな形で克服していこうとした思想家として丸山眞男を取り上げてみたい」と述べ、丸山の「無」からの作為」は三木清の哲学を徹底化させたものだとし、その後、その考えがニヒリズムを抱え込むことに気づき、その立場を変え、普遍者の再評価に至るとしているが(田中久文「西田幾多郎から丸山眞男へ」『日本の哲学』第十号、昭和堂、二〇〇九)、筆者は、丸山が『日本政治思想史研究』の「あとがき」で「正統的なイデオロギーの解体過程を裏返せばそのまま近代的なイデオロギーの成熟になるという機械的な偏向に陥ってしまった」「封建的イデオロギーを内部から解体させる思想的契機を以て直ちに近代意識の表徴とは看做し難い。それはむしろ本来の近代意識の成熟を準備する前提条件とでもいうべきものである。」(『集』五、二九〇頁)と自己反省しているように、結局のところ、無からの作為という命題は、戦前の思索は前近代世界の〈崩壊〉に視座があるため、そこから演繹される「崩壊」と「成立」の位相の違いから必然的に「普遍者」が宙に浮いたこと(普遍者を媒介にした「成立」という問題まで思考を徹底化されなかったこと)からくる結果論的な帰結であると捉えたい。

 

[xxxiv]デカルトの神に比すべき地位に立ち、自己の背後に、自己が服従し実現すべきいかなる規範的理念をも蔵せざる絶対的主体として一切の規範秩序を自由意識よりして制定し、法・不法を区別する政治的決断を自己の手に独占する政治的支配者とはまぎれもなく、近世初期の絶対君主の理念型ではないか」(『集』二、四七頁)

 

[xxxv]「絶対君主」=「自己の背後になんらの規範的拘束を持たずして逆に一切の規範に対する主体的作為者の立場に立った最初の歴史的人格」(『集』二、四三頁)このとき、「自然的秩序思想の転換に際して、彼方に於て神の営んだ役割こそ、此処徂徠学に於ける聖人の役割にほかならぬ」(『集』二、四七頁)であることに注目。

 

[xxxvi] 「秩序に内在し、秩序を前提にしていた人間に逆に秩序に対する主体性を与えるためには、まずあらゆる被人格的なイデーの優位を排除し、一切の価値判断から自由な人格、彼の現実性そのものが窮極の根拠でありそれ以上の価値的遡及を許さざる如き人格、を思惟の出発点に置かなければならぬ。このいわば最初の人格が絶対化されることは、作為的秩序思想の確立に於ける殆ど不可避的な迂路である。とくに朱子学が自然的秩序思想として徹底していただけにイデーのペルゾーンに対する優位性は強靭であり、従ってそれだけ又、之を顛倒さすべき人格は絶対化される必然性をもっていた。この点、クリスト教的創造神の観念が有機的思惟乃至自然的秩序思想の徹底化を制約していたヨーロッパに於ける場合に比して、徂徠の果すべき思想史的使命は遥かに困難であったという事が出来る。かくしてはじめて、徂徠が聖人観念からあらゆるイデア性を払拭して之を現実化したこと、聖人の道を「理」を以て推す事を以て聖人の冒涜として激しく拒否したこと、先験的な正邪の存在を否定し、「先王の道に循ふ、之を正と謂ひ、先王の道に循はざる、之を邪と謂ふ」(弁明、上)という、ホッブスのAutoritas,non veritas,facit legem[真理に非ずして権威が法を作る]を思わしめる如き命題を立てたこと、―こうした論理的工作のもつ客観的意義が生々しい価値を帯びて再認識されるのである。」(『集』二、四七‐四八頁)

 もっとも、後年丸山自身、「『自然と作為』にホッブスを用いたのも、今になって見れば強引すぎ、ホッブスにも徂徠にも気の毒をした」(『書簡』三、一三〇頁、一九八三年一月三一日付)と述べている。

 

[xxxvii] もっとも、この作為論文の最後で丸山は「危機の時代」における徂徠以降の「作為」の可能性をいくつか挙げながらも(安藤昌益、本多利明、佐藤信淵、海保青陵) 「徂徠学の制度建立の要請は夫々これらの思想家に受継がれて、著しくその内容を豊にし、そこに近代的なるものも混入した。その限りでそれは作為の立場の具体的発展ではあった。だが同時に此等を通じて、作為の立場そのものの理論的展開は殆ど全く見られなかった。徂徠学的『作為』の理論的制約―作為する主体が聖人或は徳川将軍という如き特定の人格に限定されていること―はまた彼等のものでもあった。いな、この制約は徂徠学以後我々が辿って来た「作為」の立場のすべてに執拗に附纏っていた。云い換えれば、そこには『人作説』(=社会契約説)への進展の契機が全く欠如していたのである。」(『集』二、一〇七頁)とちゃんとそのオチに言及している。

 

戦後啓蒙と丸山眞男(3)

丸山眞男の死去[i]がはじめて新聞各紙に報道されたのは、一九九六年八月一九日の朝刊だった。紙面には、戦後の平和運動、あるいは六〇年安保闘争の理論的指導者としての丸山眞男の姿が踊っている。[ii]総じて新聞記事を読む限り、丸山眞男が「政治思想史研究」に従事する学者というよりも、「戦後民主主義の旗手」といったイメージでとらえられていることがわかる。[iii]これが丸山本人の言うところの、いわゆる「夜店」の主人としての姿[iv]であるが、その一方で、丸山の没後、その著作や日記や書簡、対談記録といった資料の刊行が相次いだこと[v]で、思想史の分野における丸山眞男に関する本格的な研究――すなわち、丸山を「本店」の文脈の中で位置づけようとする機運が高まった。[vi]こうした認識の差は、現在の丸山研究の潮流と一般的な丸山理解の相違という特徴にとどまらず、「本店」と「夜店」をどう位置づけるかという丸山論における一つの論点につながっていく。この問題を考える際に手がかりとなるのが、「主体性」という概念である。この概念は、丸山の思想を考える際の鍵概念であり、また戦後直後には大きな論争にまで発展したことでよく知られている。(主体性論争)[vii]ここではまず、そもそも「主体性」とはどのような概念で、それがどのような思想的意味を持つのか[viii]という点、「主体性」をめぐる戦後の論争を簡単に整理することからはじめよう。

    梅本克己の問い

主体性論争とは、敗戦直後の昭和20年代前半(1946~49年頃)にかけて、人文学や社会科学さらには自然科学や技術論、労働運動といった広範な領域において「主体性」という言葉を用いて行われた論争のことである。この論争の震源となったのは文学の領域で、具体的には、1946年に創刊された文芸雑誌『近代文学』の同人によって提出された「エゴイズム」の問題であった。こうした問題は、「個人の解放」が社会的に関心を集めた時代における文学による問題提起に他ならない。こうして個人の「実感」というものを重視した文学的主体は、「本来、ヒューマニズムとは相容れず、また人間の卑小さをしめす以上のものではないと思われたエゴイズムが、戦時体制下にあってはむしろ人間性を防衛する有力で効果的な障壁でありうる」[ix]ことを発見した荒正人が「エゴイズムの否定の否定を通じた高次のヒューマニズム」を主張[x]したように、「エゴイズム」を肯定する方向をとったことで、それが結果的にエゴを抑圧し得る組織や運動への批判的傾向を強め、これに反発した中野重治といった党員作家との間―より具体的には、1946年に中野や宮本百合子らによって創刊された文芸雑誌『新日本文学』と『近代文学』との論争に、両同人以外の文学者を巻き込む形―で論争へと発展した。(政治と文学論争)

 この論争において「エゴイズム」の問題を、文学的主体性のように、レトリックのなかに解消させるのではなく、これをむしろマルクス主義において、弾圧の渦中にあって「エゴイズム」を越えてその思想を支えたものと、その論理とは如何なるものであるかという、より実存的な価値の問題として捉えなおそうとしたのが梅本克己である。突き詰めるとそれは、「人間、いかに生きるか」という問題、すなわち「人間がそこで死んでいい理由」への問いであった。[xi]梅本が指摘したのは、マルクス主義における「人間解放の物質的条件を洞察する科学的真理」と「解放される人間の実存的支柱」との間に存在する「空隙」の問題である。[xii]どういうことか。哲学の領域において展開された梅本の議論は、きわめて抽象的で、京都学派の哲学やマルクスへの理解がないとわかりづらいが、戦後しばらくして梅本自身が当時の論考を振り返った文章に、その主張がわかりやすく要約されているので引用してみよう。梅本は次のように言う。

 

歴史の中での個人の存在と人間の歴史とはどのような関係にあるのか。この関係を、たれのものでもない一般的思惟の天上から眺めれば、個人は立派に全体の一契機として位置づけられている。ヘーゲルのいうように、まさに全体の必然的契機として位置づけられている。だが「位置づける」とはどういうことなのか。だれが、どこで、何を位置づけるのか。それは神を拒否して人間が歴史の前に立ったときに、必然的に解答を迫られる設問である。現実の歴史の中では、各個人はその有限の生存の中に、自分の全体を生きねばならないからだ。だからここでの設問は端的につぎのような形をとってくる。そもそも人間は、自ら体験しえぬ未来のために、どのような理由で死ぬことができるのか。未だない存在で、現にある存在をみたすとはどういうことか。しかも人間だけがこのような矛盾を生きるのであり、またそのことによって人間なのである。この矛盾の解決をもとめるところにひらかれる個人主体の領域に、史的唯物論は足をふみ入れたことがあるだろうか。(中略)このような発想のうしろにあるものはきわめて実存主義的なものである。しかしこの設問は、単にキルケゴールからの思いつきからマルクス主義にケチをつけるためにもち出されたものではない。そこには、あの戦争の中で、いま自分がここで死んでゆくのはいったいどういう意味をもつかという問いにたえずせまられ、しかも一方ではついにファシズムに対して一矢をも報いることの出来なかった一つの思想の敗北がふかく刻印されていたここにひらかれる課題が革命の問題と結びつくとき、問題の意識はただちに革命の過程と個人との関係に結びついた。革命の過程にもっとも大きな犠牲をはらったものが、かならずしもその成果の享受者となるとはかぎらない。この両者が合致するのはむしろきわめて稀れなことであり、時には人民の敵として最大の汚名の中にその生涯をとじることもある。そのときかれが自分のうちに定立する歴史の全体、そこに自分を一つの契機として位置づける全体とは何か。(中略)ヘーゲルに対するキルケゴールの関係はまさに反撃であったが、今日の実存主義マルクス主義に対する関係はその余白への寄生である。(中略)ただ唯物論における主体性の問題は、歴史の中でも自然の中でも、つねに自己自身を一つの過渡としてつかむところから出発した。そして物質的自然はつねに人間よりもふかいというのがその基本的前提である。(中略)人間はつねに過渡なのであり、人間の認識は、その「総和」においてつねに「残余」を残す。(中略)組織そのものが一つの過渡であり、その中にはつねに対立と闘争を含むものであること、この過程を認識過程として定位させてこそ組織もその本来の任務を果たしうるものであろう。と同時に、人間性の全体的解放をめざしてたたかうために創り出された組織そのものが、そこでいわれる「人間性」とは何かということの検討を忘れるならば、組織はもはや前衛としての資格を失う[xiii]

 

 こうした梅本の主張は、松村一人といった「個と全の関係をプロレタリアートの階級的利害によってむすびつけようと」する、いわゆる正統派マルクス主義による修正主義批判を招くことになる[xiv]が、主体性論争の詳細な検討はここでの課題ではない。ここで重要なのは、こうした梅本の主体性に関する問いが、丸山眞男の主体性論や内田義彦の市民社会論にも共通しているという点である。梅本が問うたのは、唯物論における人間の実存の問題――すなわち、プロレタリアートによる革命の論理的必然は、果たしてそこに命を賭ける人間存在の必然足り得るのか、という問いであった。梅本はそこにマルクス主義の「空隙」をみた。そしてこの問題は、そのまま「認識」と「行動」の不連続性(決断の論理)の問題として、丸山の主体性論につながっており[xv]、また、マルクス主義における人間存在の問題は、丸山と同じく戦後啓蒙を担った代表的な知識人の一人である内田義彦をして独自の市民社会論の創造に導くだろう。ここで取り上げるのは、丸山の「主体性」である。戦後初期において、丸山が「主体性」に関して語ったものに「唯物論と主体性」という座談会が存在する。そこに丸山のモチーフがよくあらわれているので、これを足掛かりとして、丸山の主体概念について考察したい。[xvi]

   せめて人間らしく

 雑誌『世界』1948年2月号に掲載された「唯物論と主体性」[xvii]は、当時『世界』の編集長だった吉野源三郎の呼びかけで集まった――古材由重、松村一人といった「正統派」(教義派)マルクス主義者や、清水幾多郎(社会学者)、宮城音弥(心理学者)、林健太郎歴史学者)、真下真一(哲学者)、そして丸山眞男政治学者)など――さまざまな分野の知識人によって、行われた座談会である。その概要を簡単に述べると、座談は、まず、チトー率いるユーゴスラビア(当時)の代表が、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と謳ったユネスコ憲章に対して、これを「唯物論を排斥する言動である」などと反発したことが取り上げられる。そして、ここにみられる唯心論と唯物論の対立に関し、吉野が「唯物論歴史観に対して人間の主観的・心理的契機の重要性さを強調している点は、わが国で最近しきりに論じられている主体性の問題やその強調と、何か相通ずるものをもっているのではないか」と出席者に水を向け、これに対する出席者の反応が、「主体性」という概念への可否の議論へと発展していく、というのが座談の一連の流れである。

 具体的にそれは、唯物論における「主体性」をめぐって、これに真っ向から反対する教条派(古材や松村)と、「主体性」という概念の必要性と重要性を主張する真下や丸山との対立に、あらゆる事象は科学的に説明されるべきだといい実存哲学を否定する科学主義(宮城音弥)や、価値相対主義を掲げる歴史学者林健太郎)を巻き込んだ論争へと発展するのだが、座談の詳細はここでの検討課題ではない。ここでは、この座談において示された「主体性」という概念に対する丸山の考えを確認すれば事足りる。この座談において、丸山が強く主張したのは、①マルクス主義はそれ自体、一つの「価値」や「理想」にコミットしており、往々にしてマルクス主義はその自覚に欠けているということ(党派性の指摘)。②そうしたある「価値」へのコミットメントを自覚した上で、その「価値」が持つ意味、すなわち「人間の動物的生存を確保するだけではなく、それだけにとどまらない人間的生活――内部的な、究極においては精神的なもの、単なる動物的生存や生理的生存から区別された人間らしさ」[xviii]とは何か、考えるべきだ[xix]、という二点に尽きる。そして丸山は自身が考える「人間らしさ」を「われわれが実践するときに必然的に予想せざるを得ないエトス」[xx]と呼んでいる。

 ここから確認できるのは「主体性」という概念に関して、丸山はこうした「エートス」(内面化された規範意識[xxi]の存在にあくまで拘っているという事実である。本稿において重要なのは、こうした「エートス」へのこだわりの意味であろう。ここでは、こうした丸山の「人間らしさ」に関する拘りが、丸山の言説に繰り返し現れていることに注目したい。例えば、丸山はドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に感銘を受けたという。[xxii]

 

つまり、人間として生まれて人間の人間たるゆえんを認める以外に生き方がありますか、ということなんですね。さっき言ったように、動物は生きがいなんて考えないじゃないですか。生きがいなんて考えなきゃ、楽だっていえば楽ですよ。だけど、人間である以上、考えざるを得ない、それもまあ、あなたに言わせると、遺伝子かもしれない。だから、何千年来、何のために人は生きるかってことになる。『人はパンのみにて生きるものにあらず』って言ったのはキリストですよ。動物はそんなこと言いませんよドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で、大審問官とイエスの問答があるでしょ。あそこがいちばん素晴らしいところなんだけれど。[大審問官がイエスに向かって言うには]お前は人間を買いかぶり過ぎている。人はパンのみにて生きるものにあらずなんて言ったって、人間なんてものは、もし自由と安定を選択すれば―そういう言葉は使わないけれど、僕なりに言えば、これは価値の序列の問題なんだけれど―人間の九〇パーセントは自由よりは安定のほうを欲するんだと。そして自由は人に預ける―要するに安定を自分に与えてくれる、つまり、パンをくれる人には独裁者にも喜んでついていくのが人間という動物なんだと。お前は人間を買いかぶり過ぎている、人はパンのみにて生きるものにあらずってのは―「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」と言って、死という、人間にとっていちばん大事な生命価値さえ捨てても、自由を追求するのは、買いかぶりだと。こう大審問官は言うわけです。あそこがいちばん面白いところです。自由ってのは、ものすごい代償を払って自由を獲得してきた歴史なんです。人間というのは、そういう動物なんです。自由なんていらない、もう俺の安定さえ、今日の生活さえ保証してくれればと言うんなら、これはもう、偉い人が出てきて、その偉い人がパンをくれれば、それでいいということです。それでは満足しないわけですね。それで、自由獲得の歴史ってのは血にまみれているわけです。あそこのドストエフスキーは、直接的にはキリスト教の擁護論です。その意味では、キリスト教という制約はあります。僕はクリスチャンじゃないけれども、面白く感じたのはその解釈ですね。つまり、キリストはどうして十字架にかかったのか。彼は人間を救うんだから、十字架から下りて悪い奴をみんな剣で退治しちゃったほうがいいんじゃないか。そうじゃなくて、どうして黙って十字架にかかったのか。人間が自由意思で、つまり、善と悪とを選択する人間が自由意思でキリストを選ばなければ、それは信仰したことにならない、と。自分は黙って十字架について、人間のほうから自由意思でキリストを選択させる。それで、黙って十字架についた。だから、そこが「右手にコーラン、左手に剣」というのとの違いになるわけですね。正義を実現することだけが問題なら、左手に剣を持ち右手に真理を持って、真理を普及したほうがいいわけです。僕は、イスラム教からコミュニズムまで全部そういう考え方に立っていると思うんです。キリスト教は違うんですねキリスト教は自由意思をもって選択しなければ、意味がない。善の強制は善じゃないという立場です。そこで、キリストは黙って十字架にかかった。僕はそれをドストエフスキーから教わったな。自由、人間の自由とは何か。コミュニズムとかは、多かれ少なかれ、善の強制あるいは真理の強制という考えに立っている[xxiii]

 

こうした丸山の人間観は、丸山の思想を深いところで規定している。そして、それが丸山のデモクラシー論への賛否につながっていく。民主主義を支えるのは、個人主義の伝統であり、その背景にキリスト教のような宗教的倫理を想定し、それを以って西欧社会における民主主義成立の根拠とする考え方を、デモクラシー論の王道だとすれば、非キリスト教社会において民主主義はどのように成立し得るのか。こうした問題を、加藤周一は、自己の「確信」を芸術に托して語ろうとしたのに対し、丸山眞男は、「自由のために命懸けで闘う」ような、自身が理想とする人間像―すなわち、デモクラシーを真に担い得る主体(ェートス)とその根拠を、日本の歴史の中に探ろうとした。ここからは、こうした丸山の具体的な思索を見ていきたい。その思索はそのまま、「丸山思想史」という独自の歴史観の成立過程そのものである。

 

[i] 丸山が息を引き取ったのは、一九九六年八月一五日、午後七時五分。都内の病院(東京女子医大)において。享年八二歳。癌だった。九三年の暮れに肝臓がんが見つかって以来その病状の経過を「病状報告」と題し、近しい友人に送っている。(書簡集にはその報告が掲載されていないため病状の進行についてはよく分からないが、一九五四年に肺葉切除手術をうけた後遺症である呼吸不全に長く苦しんでいた丸山にとって、全身麻酔はリスクが大きすぎると主治医は判断し、手術は行われなかったようである。〈『書簡』五、二二二頁〉)しかし「年中行事」(『書簡』四、六五頁)のように入退院を繰り返し、既に亡くなる五年前には「地獄の一丁目の辺りまで行って生還」(『書簡』四、二六三)していた丸山はその死を前に動揺をみせる様子はない。「医者からがんときかされても、それほどshockを感じなかった」(『書簡』五、二二三頁)そうで、ごく親しい友人宛の手紙に業平の辞世を「残念ながら業平ほどのプレイボーイの生涯ではなかった」と書き添えて送り(『書簡』五、一四二頁)、「人は何のために生きるか、一度会いたい、という人のために生きる」と格言を残している。(『書簡』五、二二八頁)その死去について、八月一五日というのは出来すぎているとして、死亡日偽造説を唱える者もあるが(松本健一丸山眞男 八・一五革命伝説』河出書房新社、二〇〇三年)果たして真相はどうだろうか。丸山にとって八月一五日は母の命日でもあった。丸山が「超国家主義の論理と心理」(一九四六)の末尾に、日本軍国主義に終止符が打たれた八月十五日の意味を噛み締めるように記してからちょうど半世紀の歳月が流れていた。

[ii] その内容に目を通すと、比較的、朝日が大きく取り上げその記事も多く、その論調も好意的であるのに対し、産経は「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。(中略)過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」(『産経新聞』一九九六年八月一九日付朝刊二一面)と丸山を全否定する中村勝範氏の記事でその紙面を飾るなど、その対比は面白い。社説をみると、「私たちは、戦後精神の柱を相次いで失った。その死は、いま一度、戦後とは何かへの問いを促しているようだ」(『朝日新聞』一九九六年八月一九日付朝刊五面)とする朝日。「丸山氏が遺した軌跡をたどることは、そのまま戦後知識人の功罪を問うことにもなるだろう。」と述べ、「サンフランシスコ講和条約締結の際、丸山氏らが多数講和ではなく、全面講和を主張したことは果たして現実的で正しかったのか。改めて問い直すことも日本の戦後を考えるうえで重要だろう。」と結ぶ読売の社説(『読売新聞』一九九六年八月二〇日朝刊三面)のコントラストはさもありなんといったところ。丸山への評価が、そのまま「戦後認識」のあり方につながっている。ちなみに、丸山がとっていた新聞は『朝日』と『毎日』である。(『書簡』五、七五頁)

[iii] 例えば、六〇年安保に触れた朝日新聞の「活動は『大学』という枠にとどまることなく、特に六〇年安保の強行採決後は大規模な反対行動の理論的支柱となった。六〇年五月二十四日、東京・神田で開かれた学者文化集会での丸山氏の『選択のとき』と題するアピールは、その後の抗議運動へ圧倒的な影響を与えた。が、安保は自然成立、日本が高度成長に入るにつれ、丸山氏の名は、時代の表面から消えていく。」(『朝日新聞』一九九六年八月一九日付朝刊三一面)という記事からもそれは伺える。

こうしたイメージを丸山自身、快く思っていなかったことは明らかで、例えば、一九七一年暮れに高木博義(丸山の教え子で「六○年の会」の発起人。毎年秋になると丸山の好物だった富有柿を贈っていた)に送った手紙には「もし貴君さえも『六〇年安保のオピニオン・リーダー(ゾっとするようないやな言葉です!)が大学問題から七〇年安保にかけて〝沈黙〟し、あるいはさせられた』というような、マス・コミの流通イメージに左右されているとするならば、残念です」(『書簡』一、二四六頁)と書いている。

 また、「丸山は本当に戦後民主主義の旗手だったのか」という疑問を投げかけ、どのようにしてそうしたイメージがつくられたのかと問題を提起する小熊英二は、確かに丸山は敗戦直後の時事論文で注目を集めたが、それは一部の元学徒兵など若い読者層が中心であり、人々が丸山の時事論文をまとめて読んだのは『現代政治の思想と行動』(未来社)の初版が上下巻として出た一九五七年においてであること。その後の六四年に刊行された増補版が大学生の必読図書にされていったことを指摘し、丸山の敗戦直後の論考に衝撃をうけた当時二〇代前半だった若者は六〇年代にはマスコミのなかである程度の影響力を持つポジションについており、彼らが丸山を担いで戦後民主主義のチャンピオン丸山眞男というイメージを作り上げたと分析している。(小熊英二丸山眞男の神話と実像」『KAWADE道の手帖 丸山眞男』河出書房新書、二〇〇六年)

 

[iv] 「本店」「夜店」という区分けは、「原型・古層・執拗低音―日本思想史方法論についての私の歩み」(一九八四年)における「日本政治思想史というものが私の本来の場で、他は極端にいえば夜店を出したようなものです。」(『集』十二、一一〇頁)において示された。(その他、「本店と夜店と―丸山眞男氏に聞く」一九九五年〈『座談』九〉も参照のこと)夜店を扱った丸山論は、水谷三公丸山眞男―ある時代の肖像』(ちくま新書 二〇〇四年)、植村和秀『丸山眞男平泉澄』(柏書房 二〇〇四年)、渡辺純『現代日本政治思想史と丸山眞男』(勁草書房 二〇一〇年)などがあげられる。また、田口富久治は『戦後日本政治学史』(東京大学出版、二〇〇一年)のなかで第三章「戦後政治学丸山眞男・辻清明」を設け戦後政治学のなかに丸山を位置づけようとしており、また川原彰の『市民社会政治学』(三嶺書房 二〇〇一年)は「丸山先生がやり残した課題を現代の観点から論じた政治学のモノグラフ」を書こうと試みている。

 

[v] 丸山の死去を前後して出た著作は以下のとおり。 

 

これに丸山眞男加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波書店 一九九八年)を加えたものが丸山眞男を考えるための基本資料となる。なお、現在、丸山関係の資料は全て東京女子大学に寄贈され、著作権も同大学が保有している。一般に刊行されていないノートなども同大学の丸山文庫で閲覧が可能である。(詳細は、同大学のHPを参照のことhttp://www.twcu.ac.jp/facilities/maruyama/index.html)なお、近年立命館大学に開設した加藤周一文庫は、東京女子大学の丸山文庫を参考に作られている。

 

[vi]一九九九年度の日本思想史学会大会では、シンポジウム「丸山思想史学の地平」 が開かれ、はじめて大々的に丸山の「本店」が論じられたことはその傾向を最も具体的に示している。このシンポジウムの成果は、その後、『思想史家 丸山眞男論』(ぺりかん社、二〇〇二年)としてまとめられたが、その「まえがき」(大隅和雄)には、その経緯が次のように記されている。

日本思想史の研究に、指導的な役割を果たし続けた丸山眞男氏は、一九九六年八月に八二年の生涯を閉じたが、その前年から『丸山眞男集』の刊行が始まり、ついで『丸山眞男座談』『丸山眞男講義録』の編集刊行が始まって、一九九九年には、丸山氏の思想と学問を窺うための基本資料が揃い始めていた。(中略)そうした中で、丸山氏が、自身の仕事の「本店」と述べた日本政治思想史の分野については、本格的な論議はまだ起こっていなかった。丸山氏の日本思想史についての構想の全容を、捉えることが難しかったからである。従って、思想史の構想を窺うことのできる『講義録』が刊行され始めた時点で、丸山思想史学の地平を問うことは、時宜に適った企画であり、日本思想史学会が取り上げなければならないテーマであるという点で、委員会の意見は一致した。

 

その後の丸山論をみても、板垣哲夫『丸山真男の思想史学』(吉川弘文館 二〇〇三年)、池田元『丸山思想史学の位相』(論創社 二〇〇四年)、田中久文『丸山眞男を読みなおす』  (講談社選書メチエ 二〇〇九年)、遠山敦『再発見日本の哲学 丸山眞男―理念への信』(講談社 二〇一〇年)、安丸良夫・喜安朗編『戦後知の可能性 歴史・宗教・民衆』(山川出版社 二〇一〇年)など、丸山思想史をその主軸においたものが多い。

 

[vii] 主体性論争については、『近代日本思想論争』(青木書店、1963)318-345頁。『戦後日本の思想対立』(芳賀書店、1967年)の第一章「主体性論争の系譜」。菅孝行「主体性論争と戦後マルクス主義」(『戦後日本 占領と改革 第3巻 戦後思想と社会意識』岩波書店、1995)。

 

[viii] 「主体性」という言葉が、明治時代に「Subjekt」や「Subject」の翻訳語として日本に輸入されてから、時代によってその意味が書き換えられながら、現代においてエリクソンアイデンティティに取って代わられ、「主体性」という言葉そのものが遂に死語(意味の消失)となるまでの、その概念の歴史を、西周から高野悦子に至る近代日本思想史を通じて描いたものに、小林敏明『〈主体〉のゆくえ―日本近代思想史の一視角』(講談社メチエ、2010)がある。

 

[ix] 『戦後日本の思想対立』(芳賀書店、1967年)29頁。

[x] 「青春のヒューマニズムの否定者としてのエゴイズムを、ただの耳触りより客間談義としてではなく、茶の間に、台所に、書斎に、寝間に、すなわち、家常茶飯のなかに、ひとつひとつ丹念につまみあげてゆかねばならない。これは精神が異常に強靭でなければできない仕事だ。そして、エゴイズムというものが、じつは社会的矛盾の人間心理への反映形態であるというような、手をよござぬ綺麗事の算術的思索ではなく、その背後にひろがる巨大な深遠の口について、さらにその深淵を透して感知される際限ない虚無の世界にまで、いわば、宇宙論的極限にまで、肉体の思惟をどんらんに追究、拡大してみようではないか。(中略)もし、しんの希望が、敗戦日本という砂漠のなかから、不死鳥のごとく羽搏き生れるとするならば、その死灰となるものは、第一の青春に夢みたヒューマニズムを悉皆否定し、焼き尽くしたものにほかならない。似而非ヒューマニストの、スコラ的弁証法などというごまかしの形式を通らず、もっと直線的に電気のように肉体に伝わってくるものとしての、否定を通じての肯定、虚無の極北に立つ万有、エゴイズムを拡充した高次のヒューマニズム―これこそわたくしたちが、第一の青春という浪費のなかから購うことのできた唯一の財貨ではないのか。(中略)わたくしはなにも、一切の人間を凡庸化し、散文化する自然主義的人間観をよしとしているのではない。いや、それとは逆に、一切の人間に英雄を発掘しようとしているのである。すべての人間にヒューマニズムを見出そうとしているのである。――というだけではかならずしも正確ではない。あらゆる人間に、エゴイズムを、そして、それを通してのみ、ヒューマニズムを見ようとするのである、高次のヒューマニズムを。偉大なもののなかに卑小をみとめる。その卑小のなかに、または、その卑小なものがつきまとっているという点において、偉大なるものは一層真底から偉大なのだ。(荒正人「第二の青春」1946年『荒正人著作集』第一巻、29-33頁」

 

[xi] 梅本克己「主体性と階級性」1948年初出(同著『唯物論と主体性』現代思潮社、1974年、96頁)

[xii] 梅本克己「唯物論と人間」1947年初出、『唯物論と主体性』20頁。

[xiii] 梅本克己「唯物論における主体性の問題」『思想』1964年3月号、49-55頁。

[xiv] 松村一人「哲学における修正主義」(『世界』1948年7月号)における松村による梅村批判。詳細は『戦後日本の思想対立』328-331頁を参照。

 

[xv] 梅本自身、「丸山眞男への手紙」という文章で次のように述べている。「戦後マルクス主 義哲学の領域で『主体性論』というのがありました。私もそれに関係しましたが、私たちがそこで問題にしたことの一つも、認識と決断の論理―無限の認識過程における決断の論理でした。(中略)私はこの文章(丸山の「現代における態度決定」のこと:引用者注)をよみながら、学生時代以来の愛読の書であるマックスウェーバーの『職業としての政治』の最後の一節を思い起こしました。(中略)私はマックスウェーバーとは、いろいろな点で異なる立場にあります。しかしこのことばを吐いたウェーバーには心打たれます。同時にあなたの文章にも感動しました。私はこのことばによってあなたと共通の立場に立ちます」(『唯物論と主体性』313頁)

 

[xvi] 「主体性」という観点から丸山眞男を考えたものは、例えば笹倉秀夫『丸山真男論ノート』(みすず書房 一九八八年。なお後に大幅に加筆され『丸山眞男の思想世界』〈みすず書房、二〇〇三年〉となる。同書の第二部がほぼそれにあたる)、宇野重規丸山眞男における三つの主体像」(小林正弥編『公共哲学叢書 丸山真男論』東京大学出版、二〇〇三年所収)、田中久文『丸山眞男を読み直す』(講談社選書メチエ、二〇〇九年)がある。

笹倉の研究は、一言で言えば、徹底的に「丸山らしさ」というものを考えた研究である。その論は多岐にわたるが、笹倉がいう「丸山らしさ」とは、その思惟構造としての「主体性」に求めることができ、特に氏が強調するのは「アンチノミーの自覚」 という命題である。「アンチノミーの自覚」というのは『現代政治の思想と行動』の「追記」(一九五七年)に登場する表現であり、笹倉は丸山の「主体性」の本質を「アンチノミーの自覚」に見出し、そうした丸山の思考を「主体的緊張の弁証法」と表現する。言わば、それは「運動としての思考」であり、「福沢諭吉の哲学」(一九四七)において表現されたような「思惟様式」のことにほかならない。

宇野重規は、丸山眞男の「主体性」について三種類の例をあげて、こうした主体性理解をさらに展開している。宇野のいう三つの主体とは、国家と個人の関係をめぐって問われる①国民主体、前述の「福沢諭吉の哲学」にみられる惑溺しない自己をめぐって問われる②自己相対化主体、自発的集団と結びつく主体としての③結社形成的主体であるが、総じてこれらの「主体性」理解には「普遍者の問題」(宗教的契機)が表現されていない。

その点、田中久文は、「戦後の丸山は、主体性というものが、じつは主体性を超えた超越的なもの・普遍的なものとの関わりによってしか成り立たないことに気づき、その方向で思索を深めることになった」(田中二〇〇九、二五六頁)と述べているように、主体性を普遍者の命題に引きつけて考察している。こうした視座は、「主に丸山が『本店』とした、日本政治思想史に関する業績において説かれた主体性の思想を、時代を追いながら解明し、その思想的可能性について考えようとする」(前掲、一四頁)立場から導かれたものであるが、それ故にまた、それが夜店をどのように規定するのかが明らかではない。

このように、主体性の問題にひきつけて丸山の思想を考えるとき、内面的主体と政治的主体の関係をどのように説明するかが課題となる。本稿では、こうした問題に実は丸山自身も答えてはおらず(そもそも〈答え〉などないのだが)、それが公共性をめぐるジレンマともいえる問題――個人では限界があるため公共性を演繹せざるを得ないが、公共性は避難場所ではなく超越的絶対者ないし普遍者にコミットした主体性の発揮によって実現されねばならないこと。さらに日本には超越的絶対者や普遍者がいないという問題――として、依然今日的な課題として残っていると考える。(それはつまり、内面的主体〈=アンチノミーの自覚といった思惟様式〉は政治的主体〈=ある決断を伴った行動〉の十分条件に過ぎず、これを政治的主体に収束させるのは究極的には「賭け」であり続けることから必然的に演繹される問題である)

 

こうした「問題」をめぐる表現としては、丸山が福沢諭吉内村鑑三を語る以下の文章を参照。

 

周囲の情勢がどうあろうと、世界がどう変ろうと、自分は自分の正しいと信ずる思想をつらぬいて行く。この節操と気概がまた日本人には非常に欠けています。荒野に叫ぶ預言者というのは日本の歴史に非常に少い。内村はその貴重な一人です。しかし、現実の政治は「可能性の技術」ですから、彼の叫んでいるような原則が具体的にどういう風に実現されればいいかという問題は、内村には欠けている。歴史的な思考法も欠けている。福沢にはプラグマティックな考え方と歴史意識があるけれども、岩をも通すといった内村のような強さと徹底性はない。この二つの要素が結びつけば大したものですが・・・・・・。(『座談』二、三一六頁)

また、認識と行動の間に「賭け」があること(認識と行動の不連続性)の表現としては、例えば次の言葉に注目。(梅本克己の主体性との相関性!)

認識することによって失敗や挫折からも学んで行くというところに、人間の、したがって歴史の進歩もあるわけでしょう。にもかかわらず、一つ一つのプロセスではどんな人間でも失敗や挫折をする。それは認識が完全認識でないからではなくて、そもそも認識というものが、過去から現在への認識であるのに対して、行動にはいつも知られざる未来に向かって飛び込むという賭けの要素がつきまとうからだ。どんなに精密な理論でも、行動する立場に立った瞬間に次の状況というものをすみずみまで規定することはできない。最後のところは自分の決断の問題になる。それを賭けといえば非合理的にきこえるし、自由な選択といえば合理的にきこえるけれど同じことだ。いくら進歩を信じたって、そこからは具体的な選択は出てこない。自分で現実から選びとらなければならない。進歩勢力といっても、そのなかの何を選びとり、何を選びとらないかという問題に不断に直面する。(『座談』四、二五八頁、強調丸山)

 こうした「認識と行動の不連続性」は丸山の思想を貫く一つの命題だが、これが「学問論」という形を取れば「ヘーゲル的な考え方」(「日本思想史における『古層』の問題」一九七九、『集』一一)という自己認識(=古層論)に繋がっていく。

 

学問ってのは、あぁ、面白いなってんで、それでお前、どうするんだ、そんなことを言っては野暮なんだ。面白いなこれは、という知的好奇心、純粋な知的好奇心。これが見るということ。それが学問の一つの立場なんです。われわれは日々行動している、日々人間関係の中にいるわけで、そこでモラルが生まれるし、政治も生まれる。見てばかりいる人間ってないわけです。現実にはありえない。そこで、見るという立場と、行動するという立場とがどう関係するのかをめぐって、哲学がアリストテレス以来争ってきて、今も解決がつかないんです。なんで丸山眞男に解決がつけられますか。ただ、僕の考え方を言うと、良かれ悪しかれヘーゲルが影響してきています。(『話』二、二三二‐二三三頁)

 

[xvii]丸山眞男座談』①に所収。

[xviii]丸山眞男座談』①、120頁。 

[xix] 「意識が高いとか低いとか、歴史的使命とか、目的設定とか、この目的のために闘うとか、すべてこういうことか、社会主義社会に対する価値意識を前提としています。それは単なる現在社会の経験的認識―存在と意識との正確な対応―ということではない。とすれば、それはどこから来るのか。そういう価値意識は、たしかに人間的実践をを基盤としてある。人間という存在に担われている。しかし、それは人間的実践を人間的実践たらしめているもの、それの前提であって、その逆ではないでしょう。」『丸山眞座談』①、122頁。

 

[xx]丸山眞男座談』①、122頁。

[xxi]エートス」の定義については、丸山の自筆ノートに次のようにある。「行動様式を内面的に規制して、ある方向性を与えるところの〝気質〟。ⅰ 社会性をもつこと。極度に個人的な気質はエートスではない。ⅱ 必ずしも理性的なものでないが、全く無意識的なTrieb{衝動}でもなく、その中間地帯にある。〈一方の端に倫理思想的モラルをおき、他端に感情、情操等のエモーショナルなものをおくとすれば、その中間に位する〉」。(『丸山眞男講義録別冊』①、136頁。)

 

 丸山のいう「エートス」とは〈近代〉社会をつくりあげるエネルギーのことである。

 

 近代主義とか言いますけど、近代精神というものを、近代社会をいわばたえず再生産して行く主体として理解するか、それとも出来上がちゃって近代社会のなかにあぐらをかく精神を意味するかでちがってくるんですね。もちろん、その場合、近代が生み出されるプロセスによって、近代のなかでの精神も違ってきますが、それにしても近代社会の中で生まれてくる精神は必ずしもいただけないと思うんですよ。近代的合理主義というけれども、近代社会をつくって行く、あるいは近代化を押しすすめて行くエトスというか、エネルギーというか、そういうものはむしろある意味では非合理的なものだと思うんです。(『座談』四、三八頁、強調丸山)

 

そして、そのエトスとは「個人のさとりで確立するんじゃなくって、歴史的にも集団や結社を通じて確立してゆく」(『座談』四、三九頁)ものである。これが非政治的な公共圏(自主的結社)にほかならない。

 

[xxii] その他にも、丸山は、ナチスの全権委任法に対するオットー・ウェルズの反対演説を聞いたときの強い感動や、ハンスケルゼンの「プラトンの正義論」でみせた信仰告白への感慨を語っている。

 

「このウェルズの演説を大学時代に知ったとき、あの日本のなだれをうった転向の過程で痛いほどの実感で受けとめました。(中略)ウェルズも社民なりのマルクス主義者で、エンゲルスが『反デューリング論』の中で、自由・平等の永遠普遍という理念がいかにブルジョワ的な歴史的成約を持っているかを論じているのを知らないはずはない。しかもここで彼はいかなる歴史的現実も永遠不滅の理念を破壊しえない、という信仰告白をしている。この瞬間での自由と社会主義への帰依は、歴史的現実へのもたれかかりからは絶対に出てこないし、学問的結論でもない。ギリギリのところでは「原理」というのはそういうものでしょう。(中略)あの状況の中でウェルズを支えたものは何か―それが私の脳裏にきざみつけられたんです。(中略)ただ、言葉ではいえないけれど、私は体験を通じて、やはり何かそういう「道理」の究極的な優越を信じてきましたね。一九三〇年代の終わりから四〇年代にかけて、私の学生時代にもインテリは観念のお化けで、現実を知らない、たんなる口舌の徒だ、といった形で、当時の自由主義知識人への批判がさかんでしたよ。私だって理性を信じっぱなしでなくて、いろいろ動揺しました。おれは十八世紀の啓蒙時代に生まれるべき人間じゃなかったか、どうも生まれるのが遅すぎたんじゃないかなどと・・・・・・。だけど体験を通じて、「道理」は通る、歴史の無理は結局通らない、なまじ「情報」なんかよりは、その感覚で判断しよう、というはなはだ非合理的な確信を強めましたね。」(『座談』五、三一六‐三一七頁、傍線引用者)

 

「Platonic Justiceは助手の時に読みました。感動して全部ノートに写しました。(中略)これはプラトンは正義がイデーとして客観的に実在すると言おうとしたけれど成り立たない、ということを論証した論文なんです。客観的正義というのはないという結論なんです。それで、一番最後が面白いんです。客観的正義はない、その意味ではイリュージョンillusionだと。だけれど歴史においてはイリュージョンはリアリティよりしばしば強い。たとえないにしても、正義を求める道が血と涙に塗られた道であろうとも、人類はその道を歩み続けるであろう、と言ってるんです。(中略)だけどケルゼンが自分の矛盾というものを自覚していて、『俺の立場というのは結局承認されないんだ』ということを、彼自身が認めている。しかし『絶対的正義』の中にはやっぱりナチズムが入っているわけですよ。だからいわば自己敗北というのかな、selfdefeatingな結語なんです。しかし僕は非常に感動しました、そこまで正直に自分の立場を無力だと言ったこと」(『丸山眞男話文集』続①、227頁)

[xxiii] 「歴史意識・政治意識・倫理意識」1983年11月『話』2、280-282頁。

 

丸山眞男と戦後啓蒙(2)

前回に続いて丸山の思想史的位置づけを簡単にまとめてみる。

 

戦後日本の思想には大きく分けて二つのトレンドが存在した。言うまでもなく、それは①「マルクス主義唯物史観)」と②「近代化論」である。この二大潮流に対し、問題意識の共有という意味において、対話可能な形で存在しつつも、独自の主張を展開したのが③「戦後啓蒙」と呼ばれる思想であった。今その内容を簡単に整理すれば、①が目指したのは「政治革命(体制変革)」であり、②は「経済革命(経済成長と産業化)」を重視するのに対して、③は政治や経済に関して、その問題の重要性は認めつつも、何よりもまず「人間革命(人間精神そのものの変革)」の必要性を訴えた。[i]具体的には①と③はA「主体性論争」、②と③はB「近代化論争」を通じて議論が交わされ、Aにおいては「歴史」と「人間」の関係が、Bにおいては「豊かさ」と「価値」の関係がそれぞれ主題となった。このとき、③を代表してAとBの両方の議論に強くコミットしたのが丸山眞男である。その意味において、③が①と②との関係によって定義され得るとすれば、丸山眞男によって③は代表されるし、また丸山の思想それ自体も、AとBとの関係によって定義され得るだろう。これが丸山を論じる思想史的意味である。

さらに90年代以降には、①と②に代わって、④ポストモダンと呼ばれる思想(国民国家批判や総力戦体制論)が新たなトレンドとして登場し、これに対して③は市民社会論や公共性論といった形をとりながら―近年のソーシャルキャピタルに関する議論もこの流れを汲む―④の潮流と一線を画し、そうした③と④の関係は、90年代以降の丸山眞男批判として現れた。[ii]③と④の対立が丸山眞男論として現れるとき、その中身は、丸山眞男の思想における〈近代〉という概念をどのように捉えるか、という丸山眞男論の核心に関わってくる。そしてその問いに答えるためには、詰まるところ丸山眞男の思想とは何か、という地点にまで踏み込まざるを得ない。結論から言えば、丸山眞男における〈近代〉概念とその思想とは、ヘーゲル的な自由をむしろ国家との対峙において実現すること、これであった。[iii]そして、具体的にそれは「非政治的な公共圏」の実現という形をとることになる。その意味で、丸山が評価する「自主的結社」とは、丸山の理想とした社会にあるべき一つの姿であった。[iv] 

こうした理想の上に立って丸山は、それを実現し得る主体の形成、すなわち「民主主義を支えるエートス」について徹底的に思索した。そして丸山は、こうした個々人の「主体性」の確立と、その社会的表現である公共圏の形成のためには、その思想的基盤として、現実を超越した価値へのコミットメント(神を戴く民主主義)が不可欠だと考えた。丸山の宗教に対する評価も斯く如き文脈で理解されるべき[v]だが、丸山は一連の日本政治思想史研究の中で、日本における超越者・普遍者の意識の希薄さを明らかにしてしまい、むしろその実現の難しさを再認識してしまった。[vi]その場合、丸山の考えていたことは一貫して、国家に対置された個人の問題であり、評価したのはそこに出現する緊張感であった。よって、この緊張感を革命に解消しようというマルクス主義とも、イデオロギー批判によって観念上の解消を志向する国民国家批判とも、「反逆の思想家」である丸山とは相容れないことは言うまでもない。[vii]

ここに現われる「丸山眞男の思想」とは「戦争とその余波の狂瀾怒涛の時代にその全青春期を生きた一日本人の知的発展の記録」[viii]である。

 

[i] ③の系譜が、戦後を通じてある一定の影響力を持ちつつも、①と③のようには大きな力を持たなかったのはなぜか。その理由は、こうした主張に対する共感を組織化できなかったこと。(①は言うまでもないが、②は自民党のいわゆる「保守本流」と呼ばれる立場と親和的である)そして、そうした共感も戦争体験の風化や大衆社会の成立とともに薄れていったこと、この二つに求められよう。その点、③の系譜において、唯一その組織化に成功したのは創価学会(SGI)だろう。両親が草創期のメンバーであり、自身も会員である山口那津男の回想は、大衆レベルでの「戦後啓蒙」の一面をよく伝えている。

  

「母親が一番先でして、一九五七年(昭和三二年)に創価学会に入会しました。(中略)私が四歳のときだったでしょうか。自発的に学会活動をし始めたのは、高校生のときからです。当時は仲間と一緒に日蓮大聖人の『立正安国論』を勉強していました。(中略)近所に住んでいる創価学会高等部の先輩が訪ねてきて『山口君も会合に出てみないか』と言うのです。誘われるまま高等部の会合に出てみると、そこに集まっているメンバーは学校もバラバラ、所属しているクラブ活動もみんなバラバラです。そういう高校生が一堂に会しているところがおもしろいと思いました。(中略)高校生のときにさまざまな年代の方と一緒に任用試験(仏法について学ぶ創価学会の初級教学試験)を受け、とてもびっくりしたものです。漢字がほとんど読めず、仏法用語の意味なんて全然わからない人が何人かいたのです。でも教える側は『それでいいんだ。みんなで任用試験を受けよう』と励まします。『自分が知らないことを一つでもわかったら、それだけですごいことじゃないか。合格、不合格は関係ない。みんなで一緒に任用試験に参加しよう。昨日よりも今日、一つでも勉強になったという実感を得られれば、それで合格と一緒なんだ』と言って、漢字の読めない人を励ましながら、一緒に一つひとつ勉強していく。(中略)学歴や地位を笠に着て威張っているような人間は、公明党ではまったく通用しません。公明党の支持者の皆さんは、そのあたりには特に敏感なんですよ。私も高校生、大学生のころにはよく『学生は役に立たねえな』と大人から叱られました。『地に足をつけて汗水を流して、庶民とともに生きる。庶民とともに息遣いをする。これが人間なんだ。頭でっかちで理屈ばかりで、上ばかり見ている学生は信仰も長持ちしねえぞ』。こうやって創価学会の先輩からも厳しく鍛えられたものです。私が暮らしていた地域には、さまざまな職業に従事する大人たちがいました。なかには背中に入れ墨が入っている怖いおじさんもいました。そういう赤裸々な生き様を隠そうとしない人の言葉には重みがあるわけです。教科書で学んだ学生の浅い知識なんて通用しません。(中略)在日韓国・朝鮮人も含め、創価学会には実にさまざまな人がいます。そういう人たちが一堂に集まって座談会を開き、『今日は一つためになったな』『今日はこういうことを決意して明日からがんばろう』と語り合う。創価学会とは本当にすごい場だと思いました」(佐藤優山口那津男『いま、公明党が考えていること』(潮新書、2016年)43-48頁。

 

    ただし、日本においては創価学会に関する研究は、もっぱらジャーナリズムのなかで語られることが多く、学術的な研究はあまり存在しないため、その研究はむしろ海外のものに拠っている。例えば、古典的なものとしては、James W. White, Sokagakkai and Mass Society, Stanford Univ Pr,1970(邦訳は『創価学会レポート』雄渾社 、1971)また、海外の組織に関する研究としては、Bryan Wilson and Karel Dobbelaere, A Time to Chant: The Soka Gakkai Buddhists in Britain, Clarendon Press,1994(邦訳は『タイム トゥ チャント――イギリス創価学会社会学的考察』(紀伊國屋書店, 1997年)やPhillip Hammond and David Machacek, Soka Gakkai in America: Accommodation and Conversion, Oxford Univ Pr,1999(邦訳は『アメリカの創価学会―適応と転換をめぐる社会学的考察』紀伊國屋書店 2000年)など。

 

[ii]現代思想』一九九四年一月号では「丸山眞男」の特集が組まれ、姜尚中酒井直樹、中野敏男といったメンバーらが丸山を論じている。(その他、酒井直樹編『ナショナリティ脱構築』柏書房、一九九六年、『丸山真男を読む』状況出版、一九九七年なども参照)こうした丸山批判に対する反駁としては、たとえば間宮陽介「ポストモダン派の丸山批判」(『丸山眞男手帖』五号一九九八年四月)や田口富久治「丸山眞男 プロス・アンド・コンス」(『政策科学』七巻一号、立命館大学政策科学会、一九九九年十月)などがある。総じて、国民国家批判の延長線上に語られる「丸山論」は、間宮が指摘しているように、批判者が丸山の問題意識を真正面から捉えようという意識に希薄であるため、丸山論として議論がうまく噛み合っていない感がある。『現代思想』の特集の経緯について、丸山が言うには「丸山特集をするから、編集者と対談してくれ、と言って来たので、とんでもない、特集は編集者の自由だから仕方ないが、自分の『特集』で本人がノコノコ出て行ってしゃべる、などというのは私の趣味にもっとも反する、といって断り、その代り三、四年前に喋った旧稿[政事の構造:引用者]の転載だけは承諾した、というイキサツ」らしい。(『丸山眞男書簡集』五、一五四頁)丸山は「『現代思想』という雑誌には、私はこれまで関係がなく、むしろその常連の寄稿者には、アンチ丸山の人が少なくないので、『特集』を出したこと自体が不思議です。日本人からの寄稿には、丸山批判のToneが強いのもそれと関係があるかもしれません。(私自身はまったく気にしていませんが・・・・・・。)」(『書簡』五、二二一‐二二二頁)といいつつも、間宮のフォロー(「丸山眞男論」一九九五年、『同時代論―市場主義とナショナリズムを超えて』岩波書店、一九九八年所収)に関して、「間宮君が、それまで未知であったにもかかわらず、当方が恐縮するほど好意ある丸山論を書いてくれて、世の中捨てる神あれば拾う神ありだな、と思っております。」(『書簡』五、二三三‐二三四頁)と心情を吐露している。総じて日本においてはチープな丸山批判に終始した感が否めないものの、世界に目を転ずると、レヴィ=ストロースからは丸山に宛てて「お前の言ってることが、まさに近代の弊害である」と苦情の手紙が届いたらしく、また来日したミシェルフーコーとは赤坂のプリンスホテルで直接対談もしており興味深い。ただ、残念ながらフーコーとの対談の記録(テープ)に関しては丸山文庫にも残っていないようである。(松沢弘陽氏の御教示に拠る)

 

[iii] ここで「へーゲル的」というのは丸山のへーゲル観という意味においてである。丸山は次のように述べている。「私がヘーゲル体系の真髄とみたものは、国家を最高道徳の具現として讃美した点ではなくて『歴史は自由の意識に向っての進歩である』という彼の考え方であった。」(『集』一二、四八頁)(なお、丸山のヘーゲル観に関しては、池田元「丸山眞男ヘーゲル観と思想史学」『日本市民思想と国家論』論創社一九八三年初出、『丸山思想史学の位相』論創社、二〇〇四年を参照のこと。)また、学生時代の授業ノートである『南原教授政治学史Ⅲ 近世2』(東京女子大学丸山眞男文庫所蔵資料)四七~五五頁にヘーゲルに関する記述があり、当時の南原の授業を通して丸山のヘーゲル理解を窺うことができる。(なお、丸山の近代観をヘーゲルに求めるものとしては、杉山光信「丸山真男と近代的意識」『戦後啓蒙と社会科学の思想』新曜社、一九八二年がある)

 

また「自由」という概念については、丸山がローザルクセンブルクを評価している点も、注目される。

「ローザの有名な自由についての言葉で―『自由というのはいつでも、他人と考えを異にする自由である』、ぼくは好きなんだよね、これが(笑)。この伝統のあるなし、そこの違いなんです。民衆の解放とかいうよりね。つまり、自由とは、あなたと考えを異にする伝統なんです」(『自由について』一四一頁)

 そしてまた、その「自由」という概念は「抵抗」の精神と切り離せない。

 自由というものは、いつの時代でも抵抗の精神によって担保されている。「抵抗の精神」というのは、体制を革命するとかしないとかいうことと独立した次元の問題です。けれども、権力にたいする抵抗、また、およそ権力が立ち入ってよい事柄と立ち入るべからざる事柄との弁別の意識を欠落してしまったら、自由主義者のミニマムを欠くことになる。(中略)日本では体制自由主義者になることも、コミュニズムの同伴自由主義者になることも、やさしいのですよ。だから私は、リベラルの旗をあくまでおろさない。(『丸山眞男座談』六、一六一‐一六二頁)

さらに、この命題は、「なぜ丸山はマルクス主義に傾倒しながらも、マルクス主義者にはならなかったのか」という問いにもつながる。

丸山とマルクス主義の関係については、丸山の思想遍歴について考える必要性があるだろう。それについては、例えば、「思想史の方法を模索して」(一九七八、『丸山眞男集』一二)丸山眞男『自由について』(七九~一〇七頁)、『丸山眞男回顧談』上の九章(「歴史主義と相対主義の問題」)などが参考になる。例えば『回顧談』からは、丸山において「歴史主義的思考」と「超歴史主義的思考」という問題が、五〇年代初頭において「全体的真理」と「部分的真理」という問題に置き換えられ思考されていたことがわかる。この問題は、「ぼくの精神史は、方法的にはマルクス主義との格闘の歴史だし、対象的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だった」(対談「戦争と同時代」『座談』第二巻所収)という丸山のその「マルクス主義との格闘」の内容そのものであり、大変興味深い。丸山はそれを「哲学的相対主義」をめぐっての「全体的真理」と「部分的真理」という命題と表現し、「党派性」の問題を認識論的観点から問題にしていたという。(=ある党派的立場に立てば全体的真理を認識できるのか?というルカーチ的な問題)また『自由について』では、丸山は「なぜマルクス主義にならなかったのか」という鶴見俊輔の問いに「マルクス主義を勉強すると、マルクス主義についての疑問が出てくる」(『自由』九四頁)「社会科学的には、事実、非常にマルクス主義に近づいたなあ。(中略)だけど、哲学的に納得がいかない」(『自由』九七頁)「学生のとき読んだ官許マルクス主義というのはお粗末でした。だからソ連に対する失望と、それからやっぱり、これはとても官許マルクス主義にはついて行けないという気持ちはあったな。ただし、社会科学としては、やっぱりなんといってもマルクス主義は大したもんだということでしたねえ」(『自由』九八‐九九頁)「(ケルゼンとマルクスを引き合いに出して:引用者)その混同ですね。ザインとゾルレンの混同。存在と当為という、当時その言葉でよく言ったんですけど、『何である』ということと、『何をすべきである』ということを絶えず混同していると。それを峻別しようという立場でしょ。なまじっかその洗礼を受けちゃうと、マルクス主義側の論理の目の粗さばっかり、ぼくには目に映るわけです。そうすると、やはり、とてもこれはついていけない、ということでしょうね、まあ、なぜマルクス主義者にならなかったかということを、強いて説明すれば」(『自由』一〇一頁)と答えている。

そんな丸山の読書遍歴は新カント派→マルクスヘーゲルマンハイムといった具合で、右のような丸山の問題関心を考えたとき、やはりマンハイムについて考える必要がある。(マンハイムと丸山の思惟構造については、加藤節「南原繁丸山眞男―交錯と分岐―」『思想』一九九八年六月、安丸良夫「丸山思想史学と思惟様式論」大隅和雄、平石直昭編『思想史家 丸山眞男論』ぺりかん社、二〇〇二年などが参考になる)

こうした問題は、丸山の思惟構造を考える上でも興味深いテーマであるが、ここでは、丸山が「革命」ではなく「反逆」にその評価の重点を置いていたことを指摘しておくにとどめたい。

 

[iv]例えば、次のような明六社への評価。

 

明六社の思想は十年代以後の自由民権論に比べて、政治的急進性において劣っていたものを、啓蒙主義本来の課題の方法的自覚において補っていたといっても必ずしも言い過ぎではない。明六社のような非政治的な目的をもった自主的結社が、まさにその立地から政治を含めた時代の重要な課題に対して、不断に批判して行く伝統が根付くところに、はじめて政治主義か文化主義かといった二者択一の思考習慣が打破され、非政治的領域から発する政治的発言という近代市民の日常的なモラルが育って行くことが期待される。(「開国」一九五九『丸山眞男集』八、八三頁)

 

また、「政治と異なった次元に立って組織化される自主的結社の伝統」の重要性について、

政治団体が自主的集団を代表するところでは、国家と独立した社会の十分な発達は期待できない。むしろ本来的に闘争集団であり権威性と凝集性を欠くことのできない政治団体にたいして、開いた社会への垂範的な役割を託すということ自体に内在的な無理があるというべきであろう。政治と異なった次元(宗教・学問・芸術・教育等々)に立って組織化される自主的結社の伝統が定着しないところでは、一切の社会的結社は構造の上でも機能の上でも、政治団体をモデルとしてそれに無限に近づこうとする傾向があるし、政党は政党で、もともと最大最強の政治団体として政府の小型版にすぎない。それだけにここでは一切の社会集団がレヴァイアサンとしての国家に併呑され吸収されやすいような磁場が形成されることとなる。(同、『丸山眞男集』八、八四頁)

 という。しかし、そうした非政治的公共性である自主的結社は明治二十年以降なくなってしまうという。

問題は政治団体以外に思想的意味を持った自発的結社が同様に活発にできたかというと、二十年以後にはどうもそういう伝統がない。つまり、自発的結社として活発に動くものは政治団体になってしまうわけですね。(『丸山眞男座談』三、三四頁)

 では、現代はというと、丸山は『政治の世界』(一九五二年)では圧力団体に期待を寄せていた。しかし結局、この期待も後に撤回されてしまう。

「『政治の世界』で、ぼくは、結局、デモクラシーを支えるのは自主的結社であって、したがって労働組合がしっかりしなきゃいけないと、自発的結社のモデルとして労働組合を考えていた。(中略)政党じゃない結社の政治的活動によってデモクラシーがはじめて支えられるというのが、ぼくの一貫した信念なんです。その時に、このモデルを労働組合に求めたわけです。完全に間違いです、これは。この本のいちばん終わりに書いた予測は、完全に外れました。(中略)ぼくはね、非政治的自主性が重大だという観点を抱いたとき、組合官僚化と、ある意味での労働貴族化というものが、これほどになるとは夢にも思わなかった。」(『自由について』七一頁)

 

[v] 丸山の宗教観については、丸山と親交のあったアメリカの宗教社会学者であるロバート・ニーリー・ベラーとの比較するとわかりやすいので、そのうち時間があれば書くことにする。

 

[vi] 普遍者という命題を具体的に思考するようになった六〇年代において、丸山は東大法学部の講義の中で近代化には普遍者を介在した近代化とそうではない近代化の二つのパターンがあり、日本は後者だという。

 

地上の一切の権威をこえた見えざる普遍者―それがいかなる名で呼ばれようとも―へのcommitmentという伝統を背景として進行する〈コミットメントを通じての弁証法的発展としての〉近代化と、然らざる、単純な世俗化(脱宗教化)を意味する近代化〈絶対者との単純な背反関係における近代化〉とでは、まさに、同じ近代化でも、その内容と形態に著しいちがいが存在するのである。(『丸山眞男講義録』七、一四六‐一四七頁)

 

このとき具体的にイメージされているのは、ルネッサンス宗教改革を通じて、キリスト教の神を媒介に個人が成立し、他方、中世的世界から脱して国家理性が成立するという西欧における近代世界の崩壊‐成立のイメージである。(例えば、「十九世紀以降欧州社会思想史 庶民大学講義要旨」一九四六年二‐四月『丸山眞男話文集』一、「権力と道徳」一九五〇年『丸山眞男集』四を参照)また別のところで、丸山が「近代の定義」を「ルネッサンス、リフォメーション以後のヨーロッパに発生したブルジョワ文化の最良の遺産」と述べていることは注目される。(『丸山眞男話文集』四、二五七頁)

 

[vii] これは決して権力を無前提に肯定しているわけではない。ここで重要なのは「反逆」という概念である。国家のなかで個人が居直るのでもなく、革命に解消してしまうのでもない、「永久革命としての民主主義」とはそうした不断の緊張感のことにほかならない。これは丸山の政治観も考慮する必要があるだろう。丸山は自身の政治観を次のように語っている。

政治ってのは、最終的には暴力を使うんだから、ぼくに言わせれば、ないに越したことはないんです。その意味では、教育がなくなる世界って、考えられない。政治のほうは、なくなるように持っていくべきなんです。だけど、残念ながら、なかなかなくならない。ぼくの定義する政治は。だから、教育や経済と並ぶ価値を、ぼくは政治に置きたくないわけ。人間活動には、もっといろんな文化価値がありますよね。これは、南原先生とは根本的に違う。南原先生は、政治も文化価値だって言うんですね。それでぼくは大論争したの。「新カント派、西南ドイツ学派には、そういう考えがあります」って、先生は言うの。ぼくに言わせれば、西南ドイツ学派なんかの考えでは、政治に文化価値なんてないんです。この文化価値が、本来人間にとって価値あるものであって、その中に教育も入るんです。南原先生は、「政は正なり」っていう『論語』の言葉で、政治的価値っていうのは一つの文化価値だと言うんです。ぼくは、基本的にそれは違うんだと。政治は、それ自身の固有の価値というのを持たない。ぼくは、やっぱり、アナキズムが理想であって、だけどそれが実現できないから、しょうがなくて、政治というものがあると思う。経済とか教育とか芸術とか、そういうものはしょうがないからあるんじゃなくて、やっぱり将来永久にあるし、あるべきものなんです。政治はだんだん減らしていくべきものだけど、残念ながらなくならない。(『自由について』一七二‐一七三頁)

これをみると、丸山にとって政治は「必要悪」であることがわかる。ドイツ国家学の影響の強かった学生時代からだんだんと行動科学へシフトしていくのが丸山政治学の大きなベクトルであった。(例えば、「政治学の研究案内」『座談』四巻などを参照)

国籍を「奉還する」届けを出して、処罰されましたけど、そんな人は今はいないんじゃないですか。われわれはやはり国家にすがって生きている面がある。その現実を無視してはいけない。しかし国家がもはやメンバーの忠誠を独占できないし、メンバーの活動を国家だけが制限することはできない。ということは逆に言うと、国家が国家としてやって良いこととやって悪いがある。やって悪いことがあるということを徹底して教えなきゃいけない、教育で。(「戦争観の変化と東アジアの近代化」1988年6月『丸山眞男話文集』四、一一六頁)

と丸山が言うとき、それはいかにも丸山らしい批判の仕方だが、丸山は国民国家を讃えているわけではない。むしろ、丸山の問題意識は国家に対する個人の主体性の問題であり、それは終始一貫していた。それは「忠誠と反逆」(一九六〇)にも現れているモチーフであり、一九八九年の手紙に「今でも自信がある」と書いた(『書簡』四、二〇七頁)この論文について、丸山は「大杉(栄)までは反逆なんだけど、それからあとマルクス主義が入ってくると、反逆の論理が革命の論理に吸収されて、反逆や抵抗の独自の次元が見失われちゃった。ぼくはそれを福沢から教わったわけ。革命に解消しちゃったらいけないと」と語っている。(『自由について』一三八頁)

 

[viii]丸山眞男集』一二、四九頁

 

丸山眞男と戦後啓蒙(1)

大学に通っていた頃、丸山眞男の本をよく読んでいた。友人から、「丸山眞男という名前はよく聞くが、読んだことがないから、簡単に説明してくれ」と言われて閉口したことがある。取り敢えず、自分なりに丸山について考えたことをまとめてみる。

まず、そもそも自分がどういう興味で丸山を読んでいたかという話。思想というのはそれぞれの興味によって切り口が異なるので、芥川龍之介の『藪の中』よろしく、私が読んだ丸山眞男という観点から整理したい。

 

①戦後啓蒙と人間革命

丸山の思想をジャンルとして一括りにしてしまえば、それは「戦後啓蒙」と呼ばれるもので、丸山は同思想を代表する知識人の一人である。では、そもそも「戦後啓蒙」とはどのような思想なのか、というのが問題になるわけだが、これがなかなか難しい。

「戦後啓蒙」という言葉を、思想史の用語として定着させたのは杉山光信(『戦後啓蒙と社会科学の思想』新曜社、1983)だが、杉山もその定義については明確なかたちで述べていない。「啓蒙思想」とはそもそも何か、という哲学史上の議論はさておき、日本において「啓蒙思想」といえば、明治の啓蒙思想と戦後の啓蒙思想の二つだろう。

言うまでもなく、前者は福沢諭吉なんかに代表されるもので、後者は丸山に代表されるものだ。明治の啓蒙と戦後の啓蒙。この二つの共通点や違いは何か、というと趣味の世界をやや超えそうな気がするが、どちらも「新しい国家建設という時代的課題に関しての知識人の言説」という点では共通している。その点、一時期流行った国民国家批判の延長に語られた丸山批判は、当たり前というか、あまり意味があるとは思えないというのが正直なところ。

丸山の思想に対する批判は、その他にも民衆史観やマルクス主義の立場からのものなど色々あるが、批判をしている当事者が意識していたかどうかはともかく、思想的に最も鋭利に対立していたのはマルクス主義だと思う。

昔、学生時代に参加したとある読書会の帰り道。自転車を押しながら「丸山って、講座派の影響を受けているのに、どうしてマルクス主義者にはならなかったんですかね?」「丸山とマルクス主義の関係って、思想的にはつまるところ、どうなんでしょう?」という趣旨の疑問を投げかけられて、これまた閉口したことがあったが、今思えば、それは丸山の思想に対する本質的な問いだと思う。

この問いの答えを自分なりに言語化し得たのは、『人間革命と人間の条件』という本の解説で竹本忠雄が「人間を変えずしてなにを変ええようか?これは永遠なる宗教的命題であり、マルクス主義のアンチテーゼである」と書いていたのを読んだことが大きい。

閑話休題。本筋に戻って「戦後啓蒙」という用語の意味を整理すると、そもそもこの思想を担った戦後知識人の多くは、同時に「近代主義者」と呼ばれる人々でもあった。元々、「近代主義」という言葉そのものは戦後になってマルクス主義者ではない進歩的知識人に対して日本共産党が批判的に用いた呼称だが、思想史の文脈で捉えると、「近代主義」と呼ばれる思想は、二〇世紀前半の日本における、いわゆる〈モダン〉と呼ばれる現象に関する言説と深く関わっている。

それはすなわち、都市の思想としての〈個〉の解放を謳ったモダン文化としての言説が、マルクス主義を介する形で社会認識として現れ、都市的風俗を表現するものとしての「近代」が、社会科学の対象として捉えなおされた後(日本資本主義論争)、こうした視座を共有しつつも、戦争と敗戦を経験した戦後日本において、再び〈個〉をめぐる問題として現れたことを意味する。こうして登場した「近代主義」は、「近代」を単なる都市的風俗、あるいは生産様式や社会構造としてではなく、「近代的人間」という言葉に象徴されるように、人間が体現すべき一つの目的価値として捉え直した。 

ここで重要なのは、日本における「近代」という言葉の意味の推移ではなく、「近代主義」が「近代」に読み込もうとしたものが「精神的な個の確立」という戦後知識人の多くが共有した理念であり、そしてそれが、デモクラシーに関する彼らの原理的理解として存在し、「戦後啓蒙」と呼ばれる思想を支えているという点である。すなわち、「戦後啓蒙」が語るデモクラシー論は、「近代」というものを、ひとつの目的価値として捉えた上で、デモクラシーというものを考える際には、その近代的価値を実現する人間のあり方について思考し、社会変革と同時に人間変革を伴わなければならない、という認識をその起点とする。

こうした発想こそ「啓蒙」と呼称される所以であろうが、例えば、一九四七年の秋に行われた東大の卒業式で「我々は、『人間革命』をしなければならない」と強く主張したのは丸山の師で当時東大総長だった南原繁であった。

 

人間そのものの革命「人間革命」を成し遂げねばならぬ。われわれは単に政治的或は社会的生活に於てのみでなく、人間存在の内容そのもの、内的思惟の革命をなす必要に迫られている。これは道徳的宗教的な「精神革命」、また「文化革命」であり、これなくしては民主的政治革命も社会的経済革命も空虚であり、ついに失敗に終わるであろう。(南原繁『人間革命』東京大学新聞社出版部、1948 年59‐60頁)

 

ただし、日高六郎によると、こうした「〈個〉の精神的確立」という、当時多くの知識人が共有したデモクラシーに関する原理的理解は、戦後思想を特徴付けるテーマであったにも関わらず、思想としては理論的に突き詰められることは無かったとされる。 

 

しかし現実には、敗戦直後の一時期、日本の民衆は〈理論〉的にではなく〈実践〉的に、自らの個を古い社会的束縛から解放したのだった闇市は売り手でもあり、買い手でもある民衆の生活をささえた。そこでは国の法規は全く問題にならなかった。各個人がすなわち法であった。闇市は闇にではなく、青空に向かってひらかれていた。そこには弱肉強食もあり、暴力もあったにちがいない。しかしまた民衆のなかで同意された契約もあった。民衆は自分以外に頼るものがどこにもないことを実感した。大都市では、浮浪児たち、浮浪青年たちが、いたるところの地下道、焼けビル、防空壕、広場で寝起きしていた。彼らは家族共同体からいやおうなく現実的に「解放」されていた。(日高六郎「戦後思想の出発」『戦後日本思想大系』第一巻、筑摩書房1968年35頁) 

 

「〈個〉の精神的確立」という問題が、思想として深められることは無かったという日高は、「戦後の思想」を「『滅私奉公』から『滅公奉私』へ」というベクトルで説明する。( 日高六郎『戦後思想を考える』岩波新書、1980)恐らく、この日高の観察は、実態としての戦後日本社会を的確に捉えているし、とりわけ五〇年代以降の「大衆社会」的状況に対する戦後知識人の憂慮をよく示している。「戦後民主主義」という言葉は、このような中で誕生した。

ただし、こうした問題が、戦後の思想史において深められなかったのかといえば、必ずしもそうではなく、むしろ、「戦後啓蒙」という思想は、こうした問題を様々な角度から思索しこれを思想化した。その具体例が、戦後知識人の言説であって、丸山はその代表例の一つ。

 

1948年の批判キャンペーン(『前衛』三〇号、一九四八年)において日本共産党がそう名づけたのは、次のような人物。大塚久雄丸山眞男川島武宣、清水幾多郎 らの社会科学者たち、思想の科学研究会のグループ、『近代文学』の同人たちなど。 とりわけ丸山に対しては、その晩年に『赤旗』や『前衛』などで十数回にわたって丸 山批判キャンペーンを展開するなどして執拗に攻撃した。 

 寺出道雄は、「モダニズム」というカタカナ語を漢字語にすれば「近代主義」になり、「近代主義」という漢字語をカタカナ語に直せば「モダニズム」になるというように、本来は同じ内容を表現するべき言葉が、日本の現実のなかでは全く異なるというこの奇妙な現象について、山田盛太郎の議論を通じて、講座派マルクス主義が「モダニティ」の転換に関する旋回基軸の役割を果たしたことを指摘している。 (寺出道雄『山田盛太郎―マルクス主義者の知られざる世界』日本経済評論社、    2008)

近代主義」の特徴については、日高六郎「戦後の『近代主義』」(『現代日本思想大系34 近代主義筑摩書房、1964)に詳しい。

その点、示唆的なのは、杉山光信の修士論文が山田盛太郎、大塚久雄、内田義彦の三人を扱ったものであり、その研究の出発点が、講座派マルクス主義をくぐり抜けながら、どのように戦後の市民社会思想が生まれたのかという視点であったこと(その成果として、杉山光信「『経済学の生誕』の成立-内田義彦の「市民社会」をめぐって」『思想』1971年11月号)である。また、同様の視角で戦後思想を扱ったものとしては、小野寺研太『戦後日本の社会思想史』(以文社、2015)。

 

 

植木雅俊『思想としての法華経』

 

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「作家になるにはどうしたらいいか」という質問に恩田陸が「一冊の本を書けばいい」と答えていた。その答えは簡潔で、恐らく「正解」だろうが、必ずしも質問者の問いの答えにはなってはいない。誰しもが「何かを表現したい」という欲求を持ち、また「その個人でなければ表現できない何か」を持っているとして、問題は、それを表現する「言葉」を持つか否かである。そのことの「深刻さ」は、「作家に成りたくてなったのではなく、成らざるを得なかったのだ」という三島由紀夫の表現によく現れていると思う。

最近、植木雅俊の『思想としての法華経』(岩波書店2012)の序章「『法華経』との出会い」を読んだ。なぜ「序章」なのかといえば、単純に時間がなかった(この場合、物理的な時間もさることながら読書の優先順位の問題でもある)からだが、大体、「なぜ、この人はこういうことを考えようと思ったのか」というのが、とどのつまりその思想のすべてだったりするのだから、さしあたり。(そのうち『ほんとうの法華経』と一緒に読むことにする)。植木雅俊といえば、「元々は物理学を勉強していたのに、どういうわけか中村元の弟子になって法華経を勉強し始めた変な人」と定義できるわけで、その理由だけでも面白かった。

 植木さんが仏教を勉強することになったきっかけは、二つの「だから何なのだ」という問いに答えるためだったという。一回目は1970年に九州大学理学部に進学したときのこと。物理を勉強することになったのだが、当時はまだ学生運動の機運が大学に残っていたらしく、時折、運動家に議論を吹っかけられたという。ろくに答えられず、何とか言葉を搾り出すも「だから何なんだ?」と一蹴され、「何を考えてんだ」「何も考えてないんじゃないか」と詰め寄られる有様だった。そんな折、澤瀉久敬の『「自分で考える」ということ』に出会う。本の中で、澤瀉が「自分で考える」ことを身をもって実践した人物として名前を挙げたのが、デカルト釈尊だった。そこで手当たり次第に仏教書を読み漁り始めたという。二回目は、自己の「虚栄心」に対する問いだったらしい。筆者自身の言葉を引用すると、当時の筆者は「孤独と虚しさに耐えられず、同情と慰めを求めて毎晩のように友人・先輩の下宿を訪ねては、『私はこんなことで悩んでいる』『あんなことで悩んでいる』などと、愚痴を言って回っていた。そして、なぐさめられたり、同情されたりすると、さも『俺は人生の苦悩と闘っているんだ』と錯覚していた」p11という。イヤな性格である。「同じ人のところへ行かないのがミソだった。それは、手の内がわかってしまうのが怖かったからだ。(中略)繰り返していると、どういう話をどういうふうに話せば、相手が反応してシンミリとなって同情してくれるのか、計算できるようになってくる。計算どおりにことが運ぶと、心の中で拍手している自分があった」p11-12。最悪である。「ある日、大学の先輩を訪ねて、いつもと同じように愚痴を繰り返していた。ただ、そこまでと違ったのは、いつもならここで反応を示して、シンミリとなるはずだというところで、全く反応を示してくれないことだった。(おかしいな、おかしいな。こんなはずではないんだが……)と思っているうちに、愚痴のネタも尽きた。先輩はおもむろに、『植木くん、そんなことを百万遍繰り返して、何が変わるんだい?』と、私の一番痛いところを突いてきた」p12。痛快である。こうして、他人に同情してもらうことで自己の虚栄心を満たそうとするその卑しい性根を見透かされた筆者は、先輩に「君は君自身でしかないんだよ」と諭されて、『法華経』の「衣裏珠の譬え」と「長者窮子の譬え」を聞かされたという。その後、筆者は「言葉」と「自己」と「他者」という自身の問題関心について、原始仏典や日蓮の思想を根拠に考えていく。

とりわけ関心があったのは「言葉」に関する問題だったという。筆者は、天台智顗の『法華玄義』の序文にある一節「声もて仏事を為す。之を称して経と為す」と日蓮の『木絵二像開眼之事』の一節「人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあら はる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華 の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり」を引用し、次のように続けている。

「人が声を出すのに、二種類あるというのだ。一方は、自己の心に思っていることを何とか伝えたいとして発される声、もう一つは、自分自身は何も知らないのに、知っているかのように『人をたぶらかす』ための声だというのだ。これは、表現すべき何ものも持たないのに、言葉などの表現手段を弄している場合のことにも当てはまるであろう。このように分類しておいて、仏の発する声も、それを記録した文字としての経典も、それらは皆、仏にとって何とか衆生に分かってもらいたいという『自身の思い』が表現されたものであり、『仏の御意なり』と結論されている。ここに、『自身の思い』や『意』に対する『言葉』や『文字』の本質的な役割が垣間見えるような気がする。『自身の思い』や『意』があってはじめて、『言葉』や『文字』は意味を持つということだ。」p26-27

その後、中村元との出会いとその思い出が続くわけだが、「だから何だ」という問いに発する「言葉」に対する関心は個人的にも考えさせられる。筆者の場合はこの問題を、釈尊入滅から五世紀以上経過して成立した『法華経』の研究を通じて、「釈尊の覚り」から「言葉への結晶」という観点から考えようとしている。「言葉が先にあったのではなく、『ある思い』のほうが先にあった。ところが、千年、二千年と時間が経過して、『ある思い』を抱いていた人は亡くなり、それを受け継いでいた人もどんどん少なくなり、ついにはその『ある思い』は見失われてしまい、言葉だけが残った。私たちが、仏教を学ぶ時には、『ある思い』のほうは見失われて、残された言葉を憶えたり、解釈したりすることになってしまう。ここに本末転倒が起こる。私は、そのことに気づいた時、一つひとつの仏教用語は、何らかの必然があって、やむにやまれぬ思いを込めて使われるようになったはずだと考えた」p28と言う筆者の問題意識が『法華経』の翻訳作業や『思想としての法華経』本書のタイトルに反映されているわけだ。

本書の続きとその周辺領域に関しては追々勉強するとして、 「だから何なんだ」という問い(この場合、学生時代の筆者のようなナルシズムに染まったセンチメンタリズムへの問いではなく、目的論の問題だが)と「言葉」(その思考・表現方法)については個人的にもう少し考える必要がある。